書き換え(30枚)
お年玉を貰った。毎年、名古屋から来る叔母さんが一番多い。その、叔母さんに貰った分を合わせて、三万円になった。
俺はほくそ笑んだ。小学校六年生で三万円というのは、かなりの大金だ。
テレビの正月の特別番組も一通り見てしまって、後は冬休みが明けるまで、数日という頃、ちょうど、兄貴がラジオを掛けていて、そのラジオから、映画音楽が聞こえてきた。俺は、その音楽を何気に兄貴の真似をしながら聴いていて、冬休みの宿題をやっていた。兄貴は、半田ごてと半田を持ちながら、電気工作をしている。
兄貴を、俺はいつも尊敬していた。というのも、そういう電気工作の世界は数字がたくさん出てきて、そして、それを計算して、一つ一つ理論的に進んでいく世界だと子供心ながら、思っていたからだ。
俺は勉強が不得意で、特に、算数なんて、本当にめんどくさくて、何で、こんなものをやらなければならないのかと、常日頃、思っていたから、そういうのを、何も苦にせず、やってのける兄貴が、とても偉大に見えたのである。電気を扱うだなんて、まるで猛獣使いのように俺には思えたのだ。そんな、兄貴がぼそりと言った。
「お昼、喰ったら、藤枝へ行こう」
藤枝へは、たまに兄貴と行っていた。そこには、当時、昭和五十年代には、まだ珍しかった、パソコンショップが一件だけあったのである。俺は、いつも自転車でついていっていた。もちろん、先程も言ったように、俺は電気関係は苦手だから、ついていっても、画面が綺麗だとか、このゲームは面白そうだとか、そういう事しか解らなくて、高校生なのに、マシン語だとか、アゼンブラだとか、数字ばかりの世界を理解していた兄貴と、店に行くだけという、そういう事だけ格好を合わせていたのである。その日も、多分、ああ、あそこのパソコンショップに行くのだな。と思い
「うん、行くか」
と返事をした。兄貴は、すると、自分の部屋、部屋といっても、居間とガラス障子一枚で仕切られただけの、四畳もない部屋だが、そこからパソコン雑誌を取り出して
「この、ゲームと、このジョイスティックを買おう」
と俺に見せるのである。ゲームが三千円、ジョイスティックが八千円、しめて一万一千円である。
兄貴の言わんとするところはわかっていた。お年玉を出せという訳である。二人で折半すると一人、五千五百円。まだ、余裕があった。俺は、そのゲームがどんなゲームなのかわからずに、兄貴が勧めるゲームなのだから、きっと面白いものだろうと思って、俺は、素直にその提案に従うのだった。
母親の作った目玉焼きと、黒はんぺんの焼き物と御飯三杯を食べて、俺たちは、家の土間から、それぞれの自転車を担ぎ出した。藤枝までは、およそ、一時間半。途中、歩道のない、長い、全長一キロメートルはある橋を渡らなければならなかったが、そこさえ過ぎれば、後は平坦な道である。家の前の舗装のされていないガタガタ道まで、引いてきた自転車にまたがり、ちょっと、気合いを入れて、いざ出発である。
なぜなのか、わからないが、子供のころの正月というものは、今よりもっと正月らしかった。別段、門松があるとか、着物の人がいっぱいいるとか、そういう事ではなかった。そういうものは、当時も、家の近所では、全く見かけなかった。
けれど、何やら雰囲気が、正月ぽかったのである。それは、多分、子供だからだと思う。 つまり、大人の事情――仕事に対する責任とか、子供に対する責任とか、そういうものに全く、関係のない所で生きている、そういう人間だったから、正月が正月っぽく、のんびりとした雰囲気を味わうことが出来たのではないかと思う。多分そうだ。
俺たちは、ぽかぽかとした初春の陽気に包まれながら、お尻のポケットにある、いつもより何倍も持っている大金を落とさないように気をつけて、自転車を漕ぐ。
そろそろ大幡だった。大幡は、大井川に面していて、ここまで来ると、あの、危険な歩道のない車道だけの狭い橋のことが思い浮かんだ。けれど、その狭い橋を渡る危険度よりも、ゲームを買う楽しみのほうが、数倍、心の中で膨らんでいた。俺たちは、えっちらほっちらと土手を上る坂道を自転車で漕いだ。
自転車に乗っている間、二人は無言だった。別段、仲違いしている訳でもなく、無言のままでも阿吽の呼吸でお互いの意思疎通を図れていた。そんな、仲間は今はいないが……。
そして、いよいよ、例の橋に辿り着いた。車が道幅のほとんどを走っている。俺たちは一列に並んで、その全長一キロはある橋を、緊張しながら渡った。
親父が車を持っていたなら、親父に乗せてもらっていったかもしれない。けれど、我が家は当時でも珍しく、車がなかった。親父は大工で、仕事は原付のバイクで行っていた。俺は、サッカー少年団に入っていたのだが、このサッカー少年団は、日曜の度に試合があって、その都度、少年達の親が車を出していた。ある日、その親の中の一人が家へやってきた。
「今度、車を出して貰いたいんですが」
入り口の土間で、その人がそう言った。俺は、茶の間に隠れて、母親が応対するのを聞いていた。
「すみません。うち、車がないんです」
母親がそういうと、その人は
「ああ、そうですか。それでは」
と帰って行った。
これが、俺にはショックだった。
友達の誰の家もが、車を出しているのに、俺だけが、何だかみじめな気がして、それが、原因でサッカー少年団を辞めてしまった。他人に車を出して貰うのが子供心に申し訳なかったというのもあった。そして、後日、父親に
「何で、お前、サッカーやめただ?」
と聞かれたとき、バカだった俺は
「家に車がないからだよ」
と有り体に答えてしまった。
家に車がないのは、家が子供が四人もいる大所帯で、生活がそんなに、豊かではなかったからだったのだが、そんなことは子供の俺には、全く見当がつかないことで、本当にバカな俺はそんな父親の苦労もつゆ知らず、有り体に答えてしまったのだ。
今から考えると、何とも苦々しい、嫌な思い出だが、当時の俺も俺なりに必死だったのを覚えている。
兄貴は、遅れそうな俺を気遣いながら後ろを振り向き、スピードを緩めて、橋を渡っていった。
俺は、財布にある、全財産三万円の熱を尻ポケットに感じながら、車に気をつけて、兄貴を追いかけていった。
長い、長い橋をようやっとの事で渡り追えて、二人は坂道を下った。下る途中、風を感じると背中に汗をかいているのに気が付いた。兄貴も多分、汗をかいていたことだろう。俺たちは、そうして、藤枝市の隣町の大井川町に辿り着いた。ここから、藤枝市のパソコンショップまで約、三十分である。車なら、十分ぐらいなのだろう。
去年は、お年玉は、その、パソコンに消えた。八九八〇〇円で売りに出したパソコンを兄貴が三万円、俺が三万円、あとの二万九千八百円は、渋々と親父が出して、購入したのである。お年玉は全て消えてしまった。けれど、まだ、当時はパソコンのある家ばかりではなかったから、少しは、時代の最先端の気分を味わえた。今のように液晶モニターにつなぐのではなくて、家庭用テレビにつないで動かすタイプのそのパソコンは、まぶしいくらいの緑色の画面を、おんぼろの我が家にもたらした。また、動かし方も、今のようにマウス一つではなくて、CLOAD とか RUNなどのコマンドで動かしていたので、俺も、ほんの少しだけ、横文字を覚えた。
兄貴はその後、ベーシックなるものを勉強して、パソコンの画面に文字を打ち込んで、プログラムを動かしたりしていたが、俺はもっぱら遊ぶ専門でゲームばかりやっていた。だから、今でも、パソコン歴は長いのだが、未だに内部事情はわからない大人になってしまった。
兄貴は本当に電気、電子が好きだった。高校も工業高校へ進んで、そっちの道を選んだ。なぜに、同じ兄弟でも、こんなに落差があるのか、本当に、なぜなのか、俺はそっち方面に全く興味を示さなかった。というのも、面倒くさいものは苦手だったのである。楽して得したいという気質は、子供の時分からだった。
そのオレンジとブラウンのキーボードのパソコンは、家のテレビの下の台の中にいつもあった。
兄貴より、早く帰ってくる時は、俺はそれをテレビの台の中から取りだして、ラジカセにつなぎ、テープを読み込ませてゲームを楽しんだ。そのゲームの大半は、兄貴がせっせと文字を打ち込んだものだったが。
大井川町は面積からすると、かなり広い町なのだが、自転車で通る分にはそんなに広く感じなかった。というのも、平坦な田園地帯が広がっていたので、そう感じたのだ。
兄貴についていった俺は、はやる気持ちを抑えながら、必死でペダルを漕いだ。
途中、自動販売機が見えてきたのでコーラを買った。一息つくと、何か時間がもったいないような気がする。なので、俺と兄貴はコーラの缶を片手に持ちながら、自転車を漕いだ。
もう一つ上の兄貴と姉貴は、両方とも東京で暮らしていた。なので、たまに、たまにというか、本当にめったに行かないのだが、ハチキュッパのパソコンを買う前に、東京の姉貴の所へ寄った。姉貴は、デパートで働いていて、是非、一度、遊びにくるようにと言っていたので、お袋と俺とパソコンの兄貴と上京したのだ。上京すると、デパートの周りは人でごった返していた。俺たちは姉貴が仕事を終わるのを待ってデパートの前にいた。東京の匂いはどうも俺には合わなかった。だから、姉貴が来るまでどうも落ち着かなかった。
姉貴は少し、いい加減な所があった。わざわざ、呼んだくせに、いざ、再会すると、何だかめんどくさいような顔をした。そして、俺たちは姉貴のアパートへと行った。姉貴のアパートは二階建ての古ぼけたものだった。いざ、入ると、姉貴の友人がそこにいた。姉貴の友人は慌てて出て行った。けれど、御飯は全て食べてしまっていた。お米がないと姉貴は言った。当時は、コンビニもない時代だった。なので、俺たちは腹を空かせながらそこで、仕方なく寝た。
翌朝起きると、日曜日なので姉貴は動物園に連れて行くといった。俺たちは、喜んで着いていった。しかし、ここでも姉貴はいい加減な部分をさらけ出した。電車で移動の途中
「あんたたちだけで行けば?」
と言いだしたのである。呆気に取られた俺たちは、電車に取りのこされた。姉貴はどこかへ一人で行ってしまったのである。始めての上京でどうしようか迷ったが、そのまま秋葉原へ行くことにした。秋葉原は当時は、家電のメッカで何でも欲しいものが揃っていた。そこで、俺たちは何も喰っていないことを思い出した。そして、いろいろ探してみたがどうも、探すのがへただったのか、食べ物屋になかなか、ありつけなかった。ようやくのことでありついたのはお好み焼き屋だった。そこでお好み焼きを食べた。東京のお好み焼きは腹が減っていたためか、すごくうまかった。 そして、電気街に出て、パソコンを物色することにした。兄貴は目を爛々とさせていた。そして、お目当てのパソコンの前に立っていた。しかし、それは十四万円するものだった。お袋は
「いいよ。買うさ」
と言った。しかし、兄貴は買わなかった。今考えてみると、兄貴は、家の家計の事情のバランスを微妙に考えていたのだと思う。それで、手をだせなかったのだ。俺はのんきなもので、もったいないな、などと思っていた。
自転車の二人連れはようやく、藤枝市に入った。藤枝に入ると、少し、建物が増えてきた。俺と兄貴は飲み終えたコーラの缶を前カゴに入れて走った。そして、お目当てのパソコンショップに着いた。
パソコンショップは、普通の電気屋を専門店に改装したという感じの店だった。しかし、普通の電気店よりは、客は多かった。その頃からパソコンの熱はじわじわと温度を上げていたのである。
店内にずらりと並ぶパソコンは、どれも、家にあるパソコンよりも、高いものだった。値段は二十万とか三十万とかした。とても、手が出せる代物ではなかった。けれど、それらを垂涎の眼差しで見ていたかというと、そうでもなかった。我が家のパソコンも中々売れていたので、新しいソフトとか頻繁に出ていたから、そうは思わなかったのだ。店員さんは無理からにセールスするわけでもなく、ただ、レジの前に座っていた。
俺と兄貴は、お目当てのゲームとジョイスティックを探した。それは、すぐに見つかった。そして、俺は財布から一万円を出して購入に協力した。
買った後、しばらく、店内で、いろいろなパソコンをいじりながら遊んでいたが、それも飽きてきたので、帰ることにした。
兄貴はゲームとジョイスティックの箱をカバンに入れて走り出した。俺もそれに続いて、家路へと向かった。
藤枝市を出る頃になると、空はもう、暮れかかるような感じに染まっていた。俺は、多分、これで、遊ぶ頃は夜になってしまうな、などと思っていた――
――あの頃の兄はもういない。
十年前に事故で亡くなってしまった。
俺は、いつも、兄を追いかけていた。
何をするにせよ、兄がいて、それから、決まる事だった。
いやな事も、楽しいこともすべて、一緒だった。それも、亡くなってしまってからでは、もう、何も一緒にすることができなくなってしまった。
この小説は、俺の思い出を俺がまともでいるために書き換えたものである。つまり全部ウソだ。
本物の思い出はとうの昔に忘れた。それでいいのである。そんなもの持っていても何の足しにもならない。
思い出を書き換えるだけでつらさから逃れられるなら安いものである。
時々、兄は夢に出てくるが、喋ることはない――
。
夜になって、俺と兄貴は、ゲームをロードしてジョイスティックを楽しんだ。単純な戦闘ゲームだったが、兄と遊ぶことは、何よりも面白くて笑える事だった。
お袋も、親父もゲームばかりしている俺たちには無頓着だった。宿題をやれとか早く寝ろなどと言うことはほとんどなかった。多分それは、時代の最先端であるパソコンで遊ばせているという事が親の誇りをくすぐっていたのだろうと、今になっては思う。
自家用車もないような家だったが、パソコンはある。みんなのもっていないものをもっている。それは、豊かでない家にとって、ささやかな光だった。
お年玉は二月も末になると、ほとんど残っていなかった。
結局、兄の提案で、拡張メモリを買ったり、他のゲームソフトを買ったり、プリンタを買ったりしたからだった。
それでも、俺はプログラミングなど覚えることをしなかった。今考えると、大変もったいない話で、パソコンも使う人によっては、玉にも石にもなるもんだと思う。
久々に倉庫の中から、当時のパソコンを取り出してきた。
合皮のカバーを掛けられたパソコンはあの頃のまんま、残っていた。
俺は、いてもたってもいられなくなりテレビにそのパソコンを繋ごうとした。
けれど、当時のテレビは、むき出しの銅線を繋いでいたもので、入力端子が違っていた。俺は、慌てて電気屋に行き、接続コードを求めた。
帰ってきて、パソコンとテレビをつないで、パソコンの電源を入れると、パソコンは動いた。
懐かしい緑色の画面が出てきた。
すべてが、蘇ってくれるような気がした。早速、一緒に倉庫に保管してあった、当時のプログラムテープをカセットレコーダから取り入れてみた。
ひねくれた、蝉の鳴き声のような音がスピーカから聞こえてきたかと思うと、ロードは成功した。
俺は小躍りした。
RUNと入力して、プログラムを起動させた。すると、単調な電子音楽が鳴り出してゲームが始まった。
当時のゲームとしては、最先端の3Dゲームだ。心に任せて遊びに更けた。あまりの楽しさに口が弛んだ。そして、一つのゲームが終わり、次のカセットを入れようとしたとき、ふと、そのカセットケースの表の文字に目が行った。
『昭和五十八年十月二十日』
なんだろうと思い、レコーダーに掛けてみると、そこからは、兄貴の声が出てきた。
『桃の木から、北へ三歩、三時の方向へ十歩、六時の方向へ四歩』
すぐさま、それは何かの隠し場所だと思った。しかし、当時は、このカセットテープの存在を俺は知らなかった。何故、今頃になって現れたのか……。俺は慌てて家から飛び出て、桃の木の根元まで行った。そして、子供の歩幅で、三歩、三時の方向へ十歩、六時の方向へ四歩、歩いてみた。
そこは、お袋がマツバギクを植えていて、容易に掘り起こせる状態ではなかった。なので、お袋に事情を話し、マツバギクを少し避けさせてもらうことにした。
何が出てくるのか、わくわくしながら、掘り進めると、土の中から、海苔の缶が出てきた。すぐさま、開けようとしたが、錆び付いていてなかなか、開かなかったので、パイプレンチを持ってきて、こじ開けた。すると、中からは、ビニール袋に包まれた紙切れと、一つの熊のキーホルダーが出てきた。慌てて、紙切れを開いてみるとそこには
『誕生日おめでとう』
とだけ書かれてあった。
これは、兄から、俺に対するプレゼントだった。なぜ、当時は渡さなかったのだろうか。それが、疑問だったが、だんだんと、じんわり胸が熱くなって、目には涙が滲んできた。
そして、死してもなお、俺を応援してくれているような気がして、実は、俺自身死のうと思っていた事も、すっかり払拭されてしまった。
何故、死のうと思ったかというと、それはすっかり兄に従順だった俺が、何やら、心の奥底で、兄の真似をすることが真っ当な人生ではないかと感じていたのである。それは、客観的に見れば、ずいぶんと間違った考え方ではあった。けれど、その、さざ波は、じわじわと心の裏側を満たしていった。
もちろん、そういう自分の気持ちに気づいて、これではいかんと思った事は何度もあった。けれど、まるで、催眠術にかけられたように、兄の残した、死という結果を真似ることが正しい事のように、どこからか、刷り込まれたようになっていたのである。
俺は、その熊のキーホルダーを握りしめてドライブに出た。
行き先は、兄の事故現場だった。
普段は、近づくことのなかったその場所に久々に辿り着いた。車の中から見るその場所は何か汚れた場所のように思えた。兄が汚れているという訳ではない。忌々しい場所という意味である。俺は、そこで、熊のキーホルダーを鳴らしてみた。
すると、何か、兄を供養しているような気分になってきた。
色々な思い出は、そのままにしておくわけにはいかない。
兄と遊びたくなっても、全然かまわないことなのだ。その時、そう思った。
ただ、死だけは、追いかけては、ならない事だと悟った。死だけは……。
家に帰り、兄の遺影に向かって、語りかけた。
「おい、たまには、遊んでくれよ」
すると、熊のキーホルダーがぽとりと手から落ちた。
「あっちの世界は、楽しいかい? こっちは、つまんない事だらけで、やんなっちゃうよ」
拾いながら、そう語りかけると兄の遺影は真面目な顔をして、こっちを睨んでいるように見えた。
「なんか、欲しいものはないかい? 何でも買ってくるぜ」
そういっても、兄は睨めているようにしか見えなかった。
兄離れが必要だと思った。いつまでも、兄貴、兄貴と思っていたのでは、先の人生が思いやられる。死んだ人間に思いを寄せても、あまり、良いことはないのだ。
俺はキーホルダーを仏壇の下の棚にしまった。そして、線香をあげて、手を合わせ拝んだ。
古いパソコンもまた、倉庫に戻した。
もし、巨万の富があって、そして、死んだ人を生き返らせることができるのなら、俺はどうするだろうか。やはり、兄を生き返らせるだろうか。
多分、すぐにでも生き返らせるだろう。しかし、そんな金もないし、現代科学では死者を蘇らせることは出来はしない。
兄に追従することをやめた俺は、これから、誰に追従すればいいのだろうか? いや、追従する人なんて必要なのだろうか? では、なぜ、兄ならば、追従してしまったのか?
そこには、とてつもない信頼関係が横たわっていたような気がする。信頼がなければ、付き従うことなどしないはずだ。
死んでからもなお、従おうとするその絶大なる力は、信頼関係だったのだ。
兄が死ぬ、前の日、俺は東京の親戚の建具屋で働いていた。そこで、建具の配達をして生活をしていたのである。
子供の頃の感覚と違って、大人になってからの東京は快適そのものだった。欲しいものは何でもある。見たいものも、食べたいものも溢れていて何も不足するものはなかった。建具の配達と言っても、軽トラで運ぶ仕事だった。朝早く、叔父さんに指示をもらって、地図を書いて貰って建具の職人さんのいる新築現場まで、軽トラを走らせた。それが、俺の日常だった。
その日は秋晴れの心地よい日だった。俺は叔父さんの好きなロックのテープを軽トラでかけながら配達を終えて帰宅していた。
死ぬ直前の日には、何の前触れもなかった。 全くもって長閑な一日だった。
銭湯へ行き、帰りがけにコンビニでビールを買って、テレビを見ていた。その頃、兄は事故に遭っていたのである。
俺が東京にさえ来ていなければ、運命はかわっていたかもしれない。そんなことを何遍思ったかしれない。
思ったところで運命は変わりはしない。ただ追従するだけだ。
すべてが予定調和、偶然などなく必然だとすれば、何のために俺はこの世の中に生まれてきて、何のために死んでいくのだろう。
だから、思い出を変えられないなんてウソだ。いや、ウソというか、変え方を知らないだけである。
この運命の一部の記憶を書き換えた所で、誰にも迷惑はかからない。 ましてや、そんな場面を誰かと話し合うことなんて一生ないだろうから、苦に思っているだけで損なのだ。
あまりに辛い部分はうっちゃってしまえばいい。
良い思い出だけで生きていても見た目は変わらないのだ。
遺影もどうも、辛いなら隠してしまえばいい。このまま、年を取って兄貴ばかり若いままでいたら、多分切なくなるだろう。そういう時は隠してしまえばいい。
良い思い出。良い思い出だけを追いかけていきたい。
あれは、兄貴が奨学金を貰って浜松の短大にいる頃だった。あまりに寂しくなった俺は兄貴のアパートを訪ねた。
兄貴のアパートはおんぼろで、足の踏み場もないほど教科書や、電子部品で溢れていた。 そこには、兄貴の持っていったハチキュッパのパソコンもあった。
「新しいゲームがあるなら、やらせてくれよ」 俺はそう頼んだ。すると兄貴は無言で新シリーズのゲームをロードしてくれた。
それは、惑星間の重力の間を抜けて打ち合う戦闘ゲームで、このパソコンもずいぶん進化したものだと驚嘆した。
兄貴の部屋にあるコタツはゴミ捨て場から拾ってきたものだと言っていた。そのコタツの布団から妙にカビ臭い匂いが立ちこめていたのを今でも覚えている。
傍らにある、何だかわからない電子部品を指して
「これ、何?」
と聞いたら、兄貴は説明してくれたが、何を言っているのかさっぱしわからなかった。 その後、二人は、その戦闘ゲームでしばらく遊んで、昼どきになったので食事に出かけた。近くの小料理屋だった。ずいぶんと良いところを知っているなと思った。
後からお袋から聞いた話だが、お袋は仕送りは一切していなかったそうである。していなかったというか、生活が一杯一杯でできなかったそうだ。ということは、兄貴は奨学金だけもらってアルバイトでアパート暮らしをしていたことになる。つまり、授業料だけはタダだったが、生活は自分の力でしていたということだ。よくあんな田舎町でアルバイトだけで生活ができたもんだと 今から思うと感心してしまうが、その時、兄貴は飯まで奢ってくれたのだ。今でも忘れない。マグロのみりん焼きにキュウリの酢の物だった。俺は腹が減っていておかわりをしたかったが、なぜか我慢してしまった。
直感的に兄貴に負担を掛けてはまずいとおもったのだろう。あとから、おかわりをしたかったと言うと
「なんだ、頼めばよかったじゃないか」
と兄貴は頼もしいことを言った。
そして、二人はアパートに戻りまた、ゲームに耽った。俺にとっては、とても楽しい一日だった。
なんてね。他にもある。
家には田んぼがあって、その田んぼの中でバイクを乗り回した。俺が小学生の頃の事である。もちろん、免許はない。免許がなくても公道でなければ乗ってよかったのだ。俺と兄貴は親父の原付を担ぎ出してぶんぶんと乗り回した。何となく後ろめたいような気分もあったが、それより、楽しいという気持ちのほうが大きかった。それに、少し悪くなったようで、また、大人になったようで、何ともイイ気分だった。親父は何にも怒らなかった。
また、その田んぼでは、兄弟全員で缶蹴りをやった。一番小さい俺はすぐつかまってしまい、いつも、助けを求めていたが、兄貴はなかなか助けにきてはくれなかった。まだ、パソコンを買う前の話である。
とかね。まだ他にもある。
親父と兄貴とで親戚と小国神社へ行った時のことだった、人混みに興奮した俺は、みんなの先頭を切って勝手に歩き、兄貴は……
(了)