第7話 父の沈黙
第7話 父の沈黙
実家へ帰る電車の窓は、夕暮れを鈍く映していた。
春の終わりだった。
曇った空の下を、灰色の住宅街がゆっくり流れていく。線路沿いの雑草が風に揺れ、遠くの工場の煙突から白い煙が細く伸びていた。
かおるこは座席の端で小さくなっていた。
黒いパーカーに色落ちしたジーンズ。膝の上には古いリュック。中には着替えと、ノートパソコン代わりに使っている古いタブレット、それからメモ帳が何冊も詰め込まれている。
胃が重かった。
父に会うのは、正月以来だった。
「帰ってこい」
数日前、母から短い電話があった。
父が腰を痛めたらしい。
それだけ。
でも、かおるこには十分な理由だった。
実家は海の近くの古い町にある。
駅へ降りると、潮の匂いがした。
少し湿った風。
古い商店街。
シャッターの閉まった店。
学生時代から何も変わっていない景色。
かおるこはゆっくり歩く。
胸がざわざわしていた。
実家の玄関を開ける。
「ただいま」
奥から母の声が返ってくる。
「あら、おかえり」
味噌汁の匂いがした。
懐かしい匂い。
その瞬間だけ少し力が抜ける。
だが居間へ入ると、父がいた。
古いジャージ姿で座椅子に座り、新聞を読んでいる。
白髪が増えていた。
顔も前より疲れて見える。
それでも空気は昔のままだった。
重たい。
父は新聞から目を上げた。
「来たのか」
「……うん」
会話が続かない。
テレビでは野球中継が流れている。
実況の声。
湯気の立つ味噌汁。
蛍光灯の白い光。
全部が妙に落ち着かない。
母が明るい声を出す。
「ご飯できてるよ」
食卓には焼き鮭、ほうれん草のおひたし、肉じゃが、味噌汁が並んでいた。
久しぶりのちゃんとした食事だった。
かおるこは箸を持つ。
だが父の前では、いつも緊張する。
「仕事は?」
父が唐突に聞いた。
「……コンビニ」
「続いてるのか」
「まあ……」
父は小さく鼻を鳴らした。
昔からそうだった。
褒めない。
心配も口にしない。
ただ不器用に、ぶっきらぼうな言葉だけ落とす。
沈黙が重い。
かおるこは肉じゃがを口へ運ぶ。
じゃがいもが柔らかい。
少し甘い味付け。
懐かしくて、胸が苦しくなる。
その時、母が何気なく言った。
「かおるこ、小説書いてるんだって?」
かおるこの手が止まる。
父の眉が動いた。
「小説?」
「趣味みたいなもんだけどねぇ」
母は笑っている。
だが、かおるこの胃は縮んだ。
嫌な予感しかしなかった。
父は箸を置く。
「そんなもの書いて何になる」
やっぱり。
かおるこは俯く。
「別に……」
「金になるのか?」
「……ならない」
父はため息をついた。
「遊んでる暇あるなら、ちゃんとした仕事探せ」
胸に刺さる。
子供の頃から何度も聞いた言葉だった。
ちゃんとしろ。
普通になれ。
努力しろ。
でも、自分は普通になれなかった。
本を読むのも遅い。
仕事もミスする。
片づけも苦手。
その上、AIを使って小説を書いている。
父から見れば、きっと理解不能だった。
「……ごちそうさま」
かおるこは席を立った。
食欲が消えていた。
二階の自分の部屋へ逃げ込む。
部屋は昔のままだった。
古い机。
学生時代のポスター。
本棚。
カーテンには少しカビの匂いがする。
かおるこはベッドへ座り込み、膝を抱えた。
窓の外では波の音が遠く聞こえる。
「やっぱ帰らなきゃよかった……」
涙が滲む。
その時、階段を上がる音がした。
ドアが少し開く。
父だった。
かおるこは慌てて顔を逸らす。
父は無言で部屋へ入ってきた。
不器用な大きな手。
仕事で日に焼けた肌。
父は机の上に置かれたメモ帳を見つける。
そこには小説の下書きが書かれていた。
「あっ……」
かおるこは焦る。
「見ないで」
父は何も言わない。
古い蛍光灯の下で、黙ってページをめくる。
かおるこの心臓が痛いほど鳴る。
読まないでほしい。
でも止められない。
父は静かに文字を追っていた。
その横顔は難しい顔をしている。
かおるこは俯く。
「変でしょ」
小さく言う。
「どうせ、こんなの意味ないって思ってるんでしょ」
父はしばらく黙っていた。
波の音だけが遠く聞こえる。
やがて、ぽつりと言った。
「お前」
かおるこは顔を上げる。
父はメモ帳を見たままだった。
「こんなの考えてたのか」
その声は、怒っていなかった。
むしろ少し戸惑っているようだった。
かおるこは言葉を失う。
父はページを閉じる。
「寂しい話ばっかだな」
「……うん」
「でも、なんか」
父は言葉を探すみたいに黙った。
そして小さく言った。
「景色が浮かぶ」
かおるこは目を見開く。
父がそんなことを言うなんて思わなかった。
父は照れ臭そうに鼻を擦る。
「お前、昔から変だったけど」
「ひどい」
「人と違うことばっか考えてた」
かおるこは少し笑ってしまう。
父もほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑い方を、かおるこは久しぶりに見た気がした。
父は部屋を出る前、背中を向けたまま言った。
「……まあ、続けるなら最後までやれ」
かおるこは動けなかった。
ドアが閉まる。
静かな部屋。
蛍光灯の白い光。
窓の外の海の音。
胸の奥が熱かった。
認められたわけじゃない。
褒められたわけでもない。
でも父は、ちゃんと読んでくれた。
逃げずに。
笑わずに。
かおるこはメモ帳を抱きしめる。
紙の匂いがした。
少しだけ涙が出る。
その夜、階下から父と母の話し声が聞こえてきた。
「どうだった?」
母が聞く。
父は少し間を置いて言った。
「……あいつ、ちゃんと考えて生きてたんだな」
かおるこは布団の中で、静かに目を閉じた。
胸の奥で、長い間凍っていた何かが、少しだけ溶けた気がした。




