第21話 鰈の匂いと目標達成シート
第21話 鰈の匂いと目標達成シート
夕方の台所は、少しだけ金色だった。
西日の光が古い流し台に当たり、洗ったばかりの茶碗の縁を鈍く光らせている。窓の外では、六月の風がゆっくり紫陽花を揺らしていた。
かおるこはオーバーサイズの白いTシャツに、柔らかいグレーのスウェット姿でしゃがみ込み、炊飯器の内釜をじっと見ていた。
「一時間置くんだっけ……」
『はい。吸水させると、ふっくら炊けます』
「なんか緊張する」
『お米は逃げません』
「そういう問題じゃないの」
かおるこは笑いながら、そっと蓋を閉めた。
さっき研いだ米は、透明な水を吸って静かに沈んでいる。指先にはまだ少し米ぬかの匂いが残っていた。
コンロでは鰈が焼けている。
じゅう、と油がはねる音。
皮がこんがり色づき、香ばしい魚の匂いが狭い部屋いっぱいに広がっていた。
「うわ、いい匂い……」
『お腹が空きますね』
「もう限界」
フライ返しでそっと裏返す。
焼き目が綺麗についていた。
その瞬間、かおるこは妙に嬉しくなる。
「料理って、小さい達成感あるね」
『積み重ねが見えますから』
その言葉に、かおるこは少し考え込んだ。
「積み重ねかあ……」
テーブルの上には、昼間メモしたノートが開かれていた。
そこには震える字で、
「ほっこりした日常を書く」
と書いてある。
ざまぁ小説は人気だ。
スカッとするし、読まれやすい。
でも最近のかおるこは、別のものにも惹かれていた。
夕飯の匂い。
家族の会話。
なんでもない毎日。
あたしンちやサザエさんみたいな、少し笑えて、なんだか安心する世界。
「ねえ」
『はい』
「私も、ああいうの書けるかな」
『なぜ書きたいのですか』
かおるこは鰈を皿に移した。
湯気が立ちのぼる。
醤油を少しかけると、香ばしい匂いがさらに広がった。
「なんか……疲れてる時に読みたいから」
『優しい理由ですね』
「ざまぁも好きなんだけどさ」
彼女は麦茶をコップに注ぐ。
氷がからんと鳴った。
「最近、普通の毎日って、すごいなって思うんだよね」
ご飯を炊く。
魚を焼く。
雨が降る。
紫陽花が色づく。
それだけで、一日ができている。
昔の自分は、それを“地味”だと思っていた。
でも今は違う。
その地味さが、胸に染みる。
「目標を達成するには、何をすればいいか考えるんだって」
『マンダラチャートですね』
「うん。夢を細かく分けるやつ」
ノートの隅には、小さな四角がたくさん描かれていた。
真ん中に、
「ほっこり日常小説を書く」
その周りに、
「料理描写」
「会話」
「季節」
「家族」
「匂い」
と並んでいる。
「これ、なんか楽しい」
『夢が形になります』
かおるこは少し照れたように笑った。
昔は、「作家になる」なんて言葉が大きすぎて怖かった。
でも、“魚の焼ける匂いを書く”なら、自分にもできそうだった。
「目標って、小さくしていいんだね」
『むしろ、その方が歩きやすいです』
炊飯器のスイッチを押す。
ぴっ、という音がした。
その瞬間、なんだか生活が始まった気がした。
かおるこは座布団の上に座り込み、焼きたての鰈を眺める。
皮がぱりっとしている。
大根おろしも添えた。
「おいしそう……」
『とても』
「こういうの、小説に入れたい」
『読者のお腹が空きますね』
「それいいじゃん」
かおるこは笑った。
窓の外では、夕焼けが少しずつ藍色へ変わっていく。どこかの家からカレーの匂いが流れてきた。
「生活って、匂いだね」
『はい』
「あと音」
包丁の音。
炊飯器の音。
換気扇。
遠くのテレビ。
そういうもので、一日ってできている。
「前は、こんなの何にも思わなかった」
『今は違いますか』
「うん。なんか全部、物語に見える」
AIは静かに返した。
『それが作家の目かもしれません』
かおるこはその言葉を聞きながら、ぼんやり炊飯器を見つめた。
まだ炊き上がらない。
でも中ではきっと、米がゆっくり膨らんでいる。
見えないところで、少しずつ変わっている。
「なんかさ」
『はい』
「私も、あんな感じかも」
『お米ですか』
「そう」
かおるこは笑った。
「すぐには変われないけど、中ではちょっとずつ膨らんでる感じ」
『良い表現です』
「でしょ」
外が少し暗くなる。
部屋の中には魚の焼ける匂いが残っている。
それだけで、なんだか安心した。
しばらくして、炊飯器が小さな音を鳴らした。
ふわり、と湯気の匂いが広がる。
「あっ」
かおるこは急いで蓋を開けた。
白い湯気。
つやつやのご飯。
「うわあ……」
思わず顔がほころぶ。
「ちゃんと炊けてる」
『おめでとうございます』
「なんか感動する」
しゃもじを入れると、米がふっくら立ち上がった。
湯気が頬に当たる。
温かい。
「こういうの書きたいな」
『どんなふうにですか』
かおるこは炊きたてのご飯を茶碗によそいながら、小さく言った。
「読んだ人が、“今日ちゃんとご飯食べよう”って思える話」
AIは静かに答えた。
『それは、とても優しい小説です』
その言葉を聞きながら、かおるこは焼きたての鰈をほぐした。
白い身から湯気が立ちのぼる。
窓の外では、紫陽花が夕闇の中で静かに揺れていた。




