第10話 かおるこの物語
第10話 かおるこの物語
冬の朝だった。
窓の外には薄い青空が広がり、古いアパートの屋根には白く霜が残っている。遠くで電車が走る音が聞こえ、冷たい空気が換気口の隙間から静かに入り込んでいた。
かおるこは毛布に包まりながら、ぼんやり天井を見つめていた。
時計は朝七時半。
今日はコンビニの夜勤が休みだった。
部屋は相変わらず少し散らかっている。
脱ぎっぱなしのパーカー。積み上がった本。床に転がるメモ帳。閉まりきらない引き出し。
昔なら、その光景を見るだけで自分を責めていた。
「なんで普通にできないんだろう」
そう考えて、朝から苦しくなっていた。
でも今日は少し違った。
かおるこは布団から出る。
冷たい床に足をつけると、「ひゃっ」と小さく声が漏れた。
灰色のスウェットを引っ張りながら、キッチンへ向かう。
狭い台所。
少し錆びたシンク。
古い電子レンジ。
生活感だらけの場所。
だけど、嫌いではなかった。
食パンをトースターへ入れる。
ガチャン。
小さな音。
しばらくすると、パンの焼ける香りが部屋へ広がっていく。
バターを冷蔵庫から取り出す。
少し硬い。
かおるこはコーヒー用のお湯を沸かしながら、窓の外を見る。
冬の朝は静かだった。
誰かの洗濯物が揺れている。
自転車を押す学生。
白い息。
小さな日常。
その景色を見ながら、かおるこはふと思った。
「ちゃんと生きてるなぁ……」
少し前まで、自分は壊れている人間だと思っていた。
文字は上手く読めない。
仕事ではミスをする。
片づけも苦手。
人と同じようにできない。
でも今は、少しだけ違う。
完全に好きになれたわけじゃない。
それでも、自分を前ほど嫌いではなかった。
トースターが跳ねる。
焼けたパンの香り。
かおるこは皿へ乗せ、バターを塗る。じゅわっと溶けていく黄色をぼんやり眺める。
その時、机の上の古いパソコンが目に入った。
サポートも切れた古い機械。
昔はAIを動かしていた。
今は別のソフトを入れて、文章だけを書いている。
透明パネルの奥で、ファンが静かに回っていた。
かおるこはトーストを齧りながら椅子へ座る。
カリッという音。
少し焦げた味。
温かい。
パソコンを起動する。
低い駆動音。
青白い光。
モニターには、小説投稿サイトの通知が並んでいた。
大人気というほどではない。
ランキング上位でもない。
コメントも毎日大量に来るわけじゃない。
それでも、少しずつ読者は増えていた。
『新作待ってます』
『あなたの文章を読むと安心します』
『自分も生きづらいので救われます』
かおるこは、その文字を静かに見つめる。
昔なら、怖くて読めなかった。
否定される気がして。
でも今は、少しだけ受け取れる。
「……ありがたいな」
ぽつりと呟く。
部屋は静かだった。
窓から差し込む冬の朝日が、散らかった机を照らしている。
メモ帳。
空のマグカップ。
書きかけの小説。
全部、自分の時間だった。
かおるこは投稿サイトを閉じ、新規ファイルを開く。
真っ白な画面。
点滅するカーソル。
昔は、その白さが怖かった。
何も書けない気がして。
でも今は違う。
完璧じゃなくていい。
途中で止まってもいい。
ぐちゃぐちゃでもいい。
それでも、自分は書いてきた。
コンビニ帰りの夜も。
泣きながらの朝も。
AIと話していた時間も。
全部、自分の物語になっていた。
かおるこは指をキーボードへ置く。
キーの文字は擦れて消えかけている。
何年も使った跡。
その感触が少し好きだった。
「さて……」
小さく呟く。
窓の外では、冬の風が電線を揺らしている。
かおるこは少し考える。
海の話にしようか。
雪の話にしようか。
コンビニの夜を書くのもいい。
孤独な人を書くのも好きだった。
苦しい人。
眠れない人。
普通になれなかった人。
でも、それでも生きている人。
そういう人を書くと、胸が静かになる。
かおるこは笑った。
ほんの少しだけ。
「次は、どんな話を書こうかな」
その声は、昔より柔らかかった。
カーソルが静かに点滅している。
かおるこは最初の一文を打ち込む。
『冬の海は、少しだけ優しかった』
カタカタという音が、小さな部屋へ響く。
外は寒い。
未来も相変わらず不安だ。
仕事も完璧にはできない。
部屋もたぶん、また散らかる。
それでも。
かおるこは、自分の言葉と生きていこうと思った。
冬の朝。
焼いたトーストの香りが残る部屋で、彼女は静かに物語を書き始める。
まるで、自分自身を少しずつ抱きしめ直すみたいに。




