第十九章~第二十八章
第十九章:残響の相棒と雨の代々木
ゼノン率いる「天啓の銀河」が逃げ帰った後、事務所には妙な静寂が訪れていた。真一がせっせとモップで床を磨き、零士が段ボールの隙間からその様子を伺っている。
「……九条。あのゼノンって男、また来るわよね」
リンが窓の外を警戒しながら呟く。
「ええ、巨大組織というのは面子を重んじますから。ですが、それ以上に厄介な『ノイズ』が近づいているようです」
九条が窓の外ではなく、卓上に置かれた鷹見の古いデジタル一眼レフを見つめた。
その時、鷹見のスマートフォンが、聞き覚えのない不快な電子音を奏でた。画面に表示されたのは、かつての相棒、鮫島からのメッセージだった。
『鷹見。代々木公園の廃ビルに来い。お前の隠している「あの日の未現像データ」、俺が買い取ってやるよ。拒否すれば、その綺麗な警部補の喉笛を、俺の正義で切り裂くことになるぞ』
「……あの野郎」
鷹見の目が、いつもの変態的な輝きを失い、プロの猟犬のそれに変わった。
<土砂降りの再会>
一時間後。代々木公園の隅に立つ、取り壊し寸前の廃ビル。激しい雨が叩きつける屋上に、鷹見は一人で立っていた。
「久しぶりだな、相棒。……いや、今はただの『ゴミ撮り屋』か?」
影から現れた鮫島は、かつて正義に燃えていた面影はなく、顔には醜い傷跡があり、その瞳はドロドロとした欲望に濁っていた。
「鮫島、お前……汚職に手を染めて、挙句の果てに元相棒を脅迫か。落ちぶれたな」
「落ちぶれた? 違うな、俺はこの腐った街の『真のルール』に気づいただけだ。さあ、あの事件の証拠データを出せ。あれがあれば、俺は警視庁の裏の権力を掌握できる」
鮫島が背後から数人の男たちを呼び寄せる。彼らは警察を解雇された「はぐれ警官」たちだった。
<カオスという名の加護>
「……残念だが、鮫島。俺は一人で来たわけじゃないんだ」
鷹見がニヤリと笑った瞬間、ビルの屋上の給水タンクが激しく揺れ、中から生クリームまみれの零士が飛び出した。
「……ひっ! 警察OB……怖い……! 規律とか、階級とか……一番嫌いだ!! 秩序を……秩序を乱してやる!!」
零士は雨の中、まるで重力を無視したような動きで男たちの懐に潜り込み、彼らの手錠を次々と自分たちの手首同士に繋いでいく。
「何だこのガキは!? ええい、撃て!」
鮫島が銃を構えたその時、背後から華やかな、しかしあまりに場違いな声が響いた。
「ちょっと! こんな濡れる場所で密会なんて、センスが悪すぎるわよ! 私の最新作の傘、これ一千万もするんだから、汚さないでちょうだい!」
エリカが、なぜかドレスの上にレインコートを羽織り、巨大なパラソルを広げながら堂々と歩いてきた。
「エリカ様! 雨に濡れてはなりません! この真一、傘の支柱となって貴女をお守りします!」
真一が地面に伏せ、エリカの足元が泥で汚れないよう「人間踏み台」と化している。
<九条の最終宣告>
「……馬鹿な、こいつらは一体何なんだ!?」
混乱する鮫島。そこに、九条がゆっくりと歩み寄る。彼の眼鏡は、雨の中でも一滴の曇りもなく光っていた。
「鮫島殿。あなたは過去の栄光に縛られ、今の自分を見失っている。そんなあなたに、特別な心理療法を施しましょう」
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、実は「相棒」というドラマの撮影中で、自分だけがセリフを一行も覚えていないエキストラだと確信し、監督の怒声に怯える』!」
「……え? ……撮影? ……カメラはどこだ? 監督は……? 俺のセリフは……? ……な、何だっけ! 俺の役割は何だ!!」
鮫島は銃を構えたまま、まるで舞台上で立ち往生した役者のように、ガタガタと震え出した。
「カット! 鮫島さん、今の演技、大根役者以下よ」
背後から本物の警察手帳を掲げたリンが現れた。
「鮫島警部補、及び同行の者たち。恐喝未遂、および公務員職権乱用疑いで現行犯逮捕するわ」
<結末 ~未現像の答え>
事件が終わり、連行される鮫島を背に、鷹見は古いカメラを雨にさらしていた。
「……鷹見。本当にデータなんてあったの?」
リンが尋ねる。
「さあな。……でも、あいつが見たかったのはデータじゃない。自分の正義が間違ってなかったっていう『証明』が欲しかっただけだろ。……俺が撮ったのは、あいつが最後に笑ってた、ドブ板捜査の日のピンボケ写真だけだよ」
鷹見はそう言うと、カメラの液晶を確認し、すぐにいつもの変態的な顔に戻った。
「それよりリン! 今の雨に濡れて張り付いたシャツの曲線美! これぞ、プロジェクト・ゼロの真実だぜ!」
「……死になさい!!」
代々木の夜に、リンの怒声と鷹見のシャッター音が響き渡る。 彼らの過去は、雨と共に少しずつ流されていくが、その後に残るのは、相変わらず救いようのないカオスな日常だった。
第二十章:零士の初恋!? 殺意と煮干しのお見合い狂騒曲
代々木の空は、抜けるような青空だった。しかし、プロジェクト・ゼロの事務所内には、それとは対照的な「死の香り」が充満していた。正確には、高級な線香と、なぜか煮干しの出汁の香りが混ざり合った、形容しがたい異臭である。
「……零士よ。我が霧隠一族の血を絶やさぬため、そして貴様のあまりに貧弱な対人能力を矯正するため、最高の縁談を用意した」
真一が、相変わらずモップを持ったまま、凛とした姿勢で宣言した。彼の背後には、深々と編み笠を被った、小柄な着物姿の少女が控えている。
「……ひっ! 縁談!? 無理……死ぬ……! 知らない人と目を合わせるなんて、核爆弾の爆心地に素っ裸で立つようなもんだ……!!」
零士は、事務所の隅に積み上げられた古新聞の束の中に、モグラのような速さで潜り込んでいった。
「あら、いいじゃない! 恋は女を美しく、男を……まあ、マシにするものよ! 私がキューピッドとして、この地獄のようなお見合いをプロデュースしてあげるわ!」
エリカが、どこから取り出したのか羽のついた弓矢を手に、身を乗り出した。その目は、新しい遊び道具を見つけた子供のように輝いている。
「……おい、暗殺者くん。そのお相手の娘、顔を見せろよ。俺のレンズが『純愛』を捉えるか、それとも『暗殺の火花』を捉えるか、勝負だぜ」
鷹見が、脚立の上に陣取り、超望遠レンズを構えた。
編み笠を脱いだ少女、名は小雪。霧隠一族と双璧をなす暗殺一家、雪見家の令嬢であった。彼女は一見、可憐な美少女だが、その指先には常に目に見えないほど細い鋼線が仕込まれており、照れ隠しに周囲の家具をバラバラに刻む癖があった。
「……は、初めまして。……あの、零士さんは……新聞紙の中に、住んでいらっしゃるのですか……?」
小雪が、頬を赤らめながら新聞の山に話しかける。その瞬間、彼女の指がわずかに動き、エリカが大切にしていた教団のポスターが、音もなく八等分に切り裂かれた。
「ちょっと! 私の聖なる顔が細切れじゃない! ……でもまあ、いいわ。恋の痛みは、物理的な痛みから始まるものよ(※そんなことはありません)」
「……おやおや。これはまた、非常に不安定な精神状態のぶつかり稽古になりそうですね。よろしい、私が『愛のカウンセラー』として、お二人の心の壁を取り払って差し上げましょう」
九条が、怪しげな香を焚きながら、お見合いの会場(事務所の真ん中のボロテーブル)をしつらえた。
お見合いが始まると、空気はさらに混迷を極めた。小雪は極度の緊張から、無意識にテーブルの脚を鋼線で削り続け、零士は新聞紙の隙間から「……煮干し、食べますか?」と、乾燥した煮干しを差し出すのが精一杯だった。
「……零士さん、煮干し……お好きなんですか? ……私も、実は……乾物が、好きです。……特に、イカの燻製とか……」
「……っ!? ……い、イカ……! ……同志だ……。俺、イカの足の、あの吸盤の感触……落ち着くんです……」
まさかの「乾物」という共通点。二人の間に、ほんのりと殺気混じりの春風が吹き抜けた。しかし、それを黙って見ていない男がいた。
「甘い! 甘すぎるぞ、零士! 暗殺者の恋とは、常に死と隣り合わせ! 互いの喉笛に刃を突き立て、その鼓動を感じてこそ真実の愛!」
真一が、感動のあまりモップを振り回し、天井の蛍光灯を粉砕した。
「うるさいわね、ストーカー暗殺者は黙ってなさい! 鷹見、あんたもシャッター音で邪魔しないの!」
リンが止めに入るが、事務所内はすでにパニック状態。混乱を鎮めるべく、九条が立ち上がった。
「……仕方ありませんね。お二人の距離を強制的に縮めましょう。新呪文、その名も『全人類が、目の前の相手を「前世で共に戦い、共に散った戦友」だと確信し、熱い抱擁を交わしたくてたまらなくなる』!」
九条が指を鳴らした瞬間、小雪の瞳に激しい情熱が宿った。
「……零士! あの時、ノルマンディーの海岸で私を庇って死んだのは、貴方だったのね!!」
「……ジョニー!! 生きていたのか、ジョニー!!」
新聞紙の山を突き破り、零士が飛び出した。二人は涙ながらに抱き合おうとしたが、小雪の鋼線が零士の服に絡まり、零士のパニックによる超高速回転が加わった結果、二人は巨大な糸巻きのような状態で事務所中を転げ回った。
「……ふう。結局、お見合いはどうなったのかしら」
夕暮れ時。ボロボロになった事務所で、リンが溜息をついた。小雪は「また戦場で会いましょう、マイ・ヒーロー」と書き置きを残し、天井を突き破って帰っていった。
「……俺、初めて……女の子と、あんなに……密着した……。……でも、鋼線が……痛かった……」
零士が、絆創膏だらけの顔で、少しだけ幸せそうに呟いた。
「ハッハッハ! 青春だな! 零士、お前の『回転しながらの抱擁』、バッチリ広角レンズで押さえておいたぜ。タイトルは『死線のハネムーン』だ!」
鷹見がカメラを掲げる。その横で、九条は電卓を叩きながら微笑んでいた。
「……さて。次は、この事務所に漂う甘い空気を一変させるような、非常に冷たい『国家の風』が吹く頃合いですね」
九条の言葉通り、ビルの下には、警察庁の黒塗りの車が音もなく停車していた。
第二十一章:代々木封鎖! 孤立無援のプロジェクト・ゼロ
その日の朝、代々木からすべての「音」が消えた。スマートフォンのアンテナは圏外になり、ラジオからは砂嵐が流れる。事務所の窓から見下ろせば、路地という路地に「道路工事中」の看板が立ち並び、真っ黒な防護服に身を包んだ男たちが、まるで機械のような無機質な動きで配置についていた。
「……九条、これって工事の規模じゃないわよね。警察庁の広域制圧部隊……本気で私たちを消しに来たんだわ」
神崎リンが、ホルスターに手をかけながら窓の隙間から外を覗く。彼女の表情はかつてないほどに険しい。
「ええ、副総監のスキャンダルを暴いたことで、組織の『膿』そのものが牙を剥いたのでしょう。現在、代々木駅周辺は物理的・電磁的に完全封鎖されています。ここは今、日本で一番安全で、一番危険な孤島ですよ」
九条は、いつものように冷静に紅茶を淹れているが、そのカップの中の液体は微かに震えていた。
事務所のドアが、ノックもなしに静かに開いた。入ってきたのは、仕立てのいいスーツを着こなし、眼鏡の奥に氷のような瞳を宿した男だった。警察庁警備局の精鋭部隊「白蝮」の指揮官、柏木である。
「九条新……いや、九条。君のような知能犯が、なぜこのようなゴミ溜めに執着する。返したまえ、例の『警察庁の裏帳簿』を。そうすれば、君以外の命は保証しよう」
「おやおや、柏木殿。ゴミ溜めとは失礼な。ここは『人間の本質』を現像するための暗室ですよ。それに、裏帳簿なら先ほど、エリカ様が鼻をかむのに使ってしまわれましたが?」
九条が微笑みながら指し示した先では、エリカが豪華な刺繍の入った紙(に見える裏帳簿)を手に、「最近、花粉がひどいわね」と優雅にくしゃみをしていた。
「……殺れ。一人残らずだ」
柏木の冷徹な命令と共に、窓から、天井から、特殊部隊がなだれ込んできた。
「ひっ! 人がいっぱい……! 銃、銃を持ってる……! 怖い、怖すぎて……心臓がバック転してる……!!」
零士がパニックになり、いつものように段ボールへ飛び込もうとしたその時、天井の通気口から、目に見えないほど細い銀色の糸が降りてきた。
「……戦友、助けに……来ました。……煮干し、持ってきました……」
音もなく舞い降りたのは、小雪だった。彼女は照れくさそうに、零士の口に煮干しを一つ放り込むと、指先を微かに動かした。
シュン、という風を切る音と共に、突入してきた特殊部隊員たちのヘルメットや装備が、バラバラに解体されて床に落ちる。
「……私のジョニーに、指一本……触れさせません。……刻みますよ?」
「小雪さん! ……あ、ありがとう……。よし、小雪さんが見てるなら、俺……勇気を出して、床の隙間に隠れる……!」
零士は小雪の加勢に勇気を得たのか、いつもより素早い動きで敵の足首を掴み、事務所の床下に引きずり込んでいった。
一方、屋上では鷹見が柏木の狙撃班と対峙していた。
「おいおい、お堅い役人さんよ。俺のレンズに『国家の犬』の汚い面を焼き付けてやるよ。ほら、チーズって言えよ」
鷹見が放ったのは、弾丸ではない。超強力なマグネシウム発光弾である。屋上が一瞬、真昼のような光に包まれ、特殊部隊のナイトビジョンが完全に焼き切られた。
「グアアッ! 目が……!」
「今だ、真一! モップの出番だぜ!」
「御意! エリカ様の視界を汚す不浄な者ども、この掃除係が掃き溜めへ送ってくれよう!」
真一が、モップを槍のように扱い、視界を失った隊員たちを次々とビルの下のゴミ集積場へと叩き落としていく。
「……九条、このままだと数の暴力に押し切られるわ。どうにかして!」
リンが銃火器を構えながら叫ぶ。九条はゆっくりと、柏木の前に歩み出た。柏木は予備の銃を引き抜き、九条の眉間に突きつける。
「終わりだ、九条。君の心理学も、物理的な弾丸の前では無力だ」
「果たしてそうでしょうか。柏木殿、あなたは『完璧』を愛するあまり、自分の失敗を極端に恐れている。……そんなあなたに、最新の暗示を」
九条が、柏木の瞳をじっと見つめ、静かに指を鳴らした。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、一世一代の大勝負の最中に、実はズボンの社会の窓が全開で、しかもそれを全世界に生中継されていると確信してしまう』!」
「……っ!? ……まさか。……いや、そんなはずは。私は完璧に……。だが、待て。この股間の、妙な解放感は……なんだ? ……風を感じる……。まさか、閉め忘れたのか!? 今、カメラがあるのか!? 全国放送されているのか!!」
鉄の仮面を被っていた柏木が、顔を真っ赤にして股間を両手で隠し、その場にうずくまった。周囲の特殊部隊員たちも、一斉に銃を放り出し、必死に自分の下半身を確認し始める。
「今よ! 全員確保!」
リンの合図と共に、代々木署の(まだ汚職に染まっていない)警官たちが突入し、混乱する特殊部隊を次々と拘束していった。
数時間後、封鎖が解除された代々木の街。事務所には、煮干しを仲良く分け合う零士と小雪、そして相変わらず自撮りに励むエリカの姿があった。
「……九条。あんた、またあんなデタラメな暗示を。柏木、今も拘置所でズボンを三枚重ねて履いてるそうよ」
リンが呆れながら報告する。
「ふふ、人間、一番怖いのは『自分が笑いものになること』ですからね。……さて、小雪さん。零士を助けていただき感謝します。お礼に、最高級のエイヒレを用意しましたが」
「……あ、ありがとうございます。……でも、零士さんとの……戦場デートの方が、嬉しいです……」
小雪が恥ずかしそうに零士の袖を掴む。それを見た真一が、「これぞ純愛! 鋼の絆!」と号泣しながら壁を突き破って去っていった。
代々木の日常は、国家の陰謀すらもカオスの中に飲み込んでいく。
第二十二章:偽・聖母降臨! 完璧すぎる聖女の罠
代々木の街が、再び異様な熱気に包まれていた。駅前広場に特設された巨大なステージの上で、一人の少女が神々しい光を背負って微笑んでいる。彼女の名はマリア。エリカの「実家」である教団が、逃げ出したエリカに代わる「新・聖母」として仕立て上げた、教団史上最高の秀才少女だった。
「……皆様、迷える子羊たちよ。真の救済は、わたくしの掌にあります。偽りの聖母に惑わされてはいけません。彼女はただの、お菓子好きの食いしん坊に過ぎないのですから」
マリアの声は、聴く者の心を洗うような清らかな響きを持っていた。彼女はエリカとは正反対に、一分の隙もない立ち振る舞い、慈愛に満ちた完璧な演説、そして何より、指先から「本物に見える光(※強力なLED演出)」を放つという、高度なパフォーマンスを身につけていた。
「ちょっと! なにあの子、私のポジションを完全にパクってるじゃない! 聖母の看板料、一兆円請求してやるわ!」
事務所のモニターでその様子を見ていたエリカが、ポテトチップスを投げ捨てて憤慨した。
「おやおや。彼女は心理学を応用した『大衆扇動』の基礎を完璧にマスターしていますね。エリカ様のような『野生の混沌』とは違い、非常に計算された美しさです」
九条が分析する横で、鷹見はすでに望遠レンズでマリアのスカートの揺れを連写していた。
「……ふむ。あのマリアって子、確かに綺麗だが……撮りごたえがねえな。隙がなさすぎて、レンズが曇る。やっぱりエリカの『転びそうになった時のマヌケな顔』の方が、芸術点は高いぜ」
数時間後、マリア率いる信者たちが「偽物の浄化」と称して、プロジェクト・ゼロの事務所に乗り込んできた。マリアは優雅に椅子に座り、エリカを憐れむような目で見つめた。
「エリカ様、もうおしまいです。代々木の信者たちは皆、わたくしの『奇跡』に跪きました。貴女のような不完全な存在は、教団の汚点でしかありません。……さあ、その座を降りなさい」
マリアが手をかざすと、彼女の背後に仕込まれた隠しプロジェクターが、彼女を後光で包み込む。信者たちが一斉に「マリア様!」と叫び、ひれ伏した。
「不完全? 失礼ね! 私はいつだって完璧に私よ! ……あだだだっ!」
エリカが勢いよく立ち上がろうとして、自分のレインコートの紐を椅子の脚に絡ませ、そのまま盛大に顔面から床にダイブした。その際、彼女が掴んでいた「教団秘伝の聖水(という名の強炭酸水)」がマリアの顔面に直撃し、マリアの完璧なメイクとセットされた髪が無惨に崩れ去った。
「……なっ、ななな、何をするのですか! わたくしの神聖な処置が……!」
「今です、九条さん! 隙だらけです!」
段ボールの中から零士が叫び、小雪が天井から銀色の糸を放って、マリアの背後にあった演出用機材をすべて引きずり出した。
「……あ、あれが『奇跡』の正体か……? ただのライトとスピーカーじゃないか!」
信者たちがざわつき始める。九条は、パニックになりかけたマリアの瞳を真っ直ぐに見据え、静かに指を鳴らした。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今、世界一有名なコメディアンで、ここで一発「最高に面白い顔」をしないと、全宇宙から解雇されると確信してしまう』!」
「……っ!? ……コメディ……。笑い……。わ、わたくしは聖女……。いいえ、わたくしは……わたくしは、笑いの神!!」
プライドの塊だったマリアの脳内が、九条の暗示によって「極限の笑い」へと上書きされた。彼女は先ほどまでの神々しい微笑みを捨て、鼻の穴を全開にし、寄り目をしながら「変なおじさん」のダンスを完璧なキレで踊り始めた。
「……マリア様、どうして……。奇跡より面白いじゃないか……!」
信者たちは爆笑の渦に包まれ、教団の厳かな威厳は、マリアの渾身の変顔と共に宇宙の彼方へと消え去った。
第二十三章:暗殺者だらけのシェアハウス! 殺意の家事当番
マリア騒動が一段落したものの、プロジェクト・ゼロには新たな問題が発生していた。事務所の居住スペースに、なぜか小雪が当たり前のように住み着き始めたのだ。
「……零士さんと、一緒に……朝の煮干しを、食べたいからです。……あと、実家の雪見家が、真一さんに……『妹を頼む』と丸投げしたみたいで……」
小雪が、事務所のキッチンで、鋼線を使ってネギをミクロン単位の細切りにしながら呟いた。
「いいじゃない! 賑やかで楽しいわ! 掃除係(真一)もいるし、これでもう私は指一本動かさなくていいってことね!」
エリカは喜び勇んでいるが、現実は甘くなかった。真一と小雪という、二人の「最強の暗殺者」が同じ屋根の下にいることで、家事のすべてが「命懸けの修行」へと変貌してしまったのである。
「エリカ様! 今日の洗濯物は、霧隠流・旋風乾かしによって、わずか三秒で乾燥させました! ……あ、勢い余って服がすべて粉砕されましたが、これはこれで『斬新なファッション』かと!」
「真一さん、甘いです。……洗濯物は、雪見流・氷結乾燥。……凍らせてから、砕きます」
二人が火花を散らす中、事務所の服は次々とゴミへと変わっていく。さらに、鷹見が「暗殺者の朝食シーン」を撮ろうとして小雪の鋼線にカメラをバラバラにされかけ、零士は二人の殺気に怯えて、一日の大半を冷蔵庫の上で過ごす羽目になった。
「……九条、これもう限界よ。私の私物まで、真一の『不審物チェック』で爆破されたわ」
リンが、焼け焦げた手帳を手に泣きそうな顔で訴える。九条は、修羅場と化したリビングを見渡し、深く溜息をついた。
「……ふむ。共同生活には『秩序』が必要です。しかし、彼らにそれを説いても無駄でしょう。ならば、彼らの殺意を別の方向へ逸らすしかありません」
九条が、真一と小雪の間に立ち、不敵な笑みを浮かべた。
「お二人とも。家事の優劣で争うのはやめなさい。これからは『プロジェクト・ゼロ・家事ポイント制』を導入します。最もポイントを稼いだ者には、エリカ様からの『聖なるお褒めの言葉(録音可)』を授けましょう」
「「何だとぉぉぉ!!!」」
その瞬間、二人の目の色が変わった。真一は雑巾を手に、光速を超える速さで床を磨き始め、小雪は料理の盛り付けを「芸術的な罠」のような美しさで完成させていく。
「……おやおや。これで少しは事務所も綺麗になりますね。……ただし、零士さん。あなたが彼らの競争に巻き込まれて、掃除機で吸い込まれないようにだけ気をつけてください」
「……うう。……九条さん、俺……やっぱり、一人で段ボールにいた時が、一番幸せだった気がします……」
こうして、代々木の雑居ビルは、世界で最も清潔で、世界で最も殺気立ったシェアハウスへと変貌を遂げた。
第二十四章:暗殺界のアイドル爆誕! 代々木を揺らす銀糸の微笑み
代々木の昼下がり、鷹見が鼻歌を歌いながらパソコンの画面を叩いていた。彼の手元には、先日撮影した「エプロン姿で鋼線を操り、空中のハエを十等分にする小雪」の奇跡の一枚がある。
「おいおい、見てくれよ。この冷徹さと可憐さの黄金比! これをネットの裏掲示板……いや、間違えて表のSNSに上げちまったが、いいねが秒速で一万を超えてるぜ」
画面の中の小雪は、無意識にカメラへ向けた視線が絶妙な「ツンデレ」を演出しており、ネット界隈では『代々木の銀糸美少女』として瞬く間にトレンド入りしてしまった。
「……ひっ! ネット!? 世界中の人が、小雪さんを見てる……!? 怖い、情報の海に飲み込まれて、俺の存在が消されてしまう……!」
段ボールから顔を出した零士がガタガタと震える。一方で、隣で特大のパフェを食べていたエリカは、不機嫌そうにスプーンを噛み砕いた。
「ちょっと、鷹見! 私という本物の女神を差し置いて、その小娘をバズらせるなんてどういうつもりよ! 私の『聖水の入浴シーン』なら一億いいねは固かったはずでしょ!」
事務所の下には、すでに「伝説の美少女」を一目見ようとするファン……という名の野次馬や、怪しげな芸能事務所のスカウト、さらには彼女の首を狙う他国の暗殺者までもが集結し始めていた。
「おやおや、代々木がかつてないほどに『需要と供給』の嵐に巻き込まれていますね。……よろしい、小雪さん。これも立派な潜入任務の一環です。一日だけ、アイドルの仮面を被っていただきましょう」
九条が不敵に笑い、どこからか用意したフリフリのアイドル衣装を小雪に差し出した。
「……こ、これを着るのですか? ……零士さんが、喜んでくれるなら……。……でも、マイクに鋼線を仕込んでもいいですか?」
代々木公園の特設ステージ。集まった数千人の群衆を前に、小雪は極度の緊張で顔を真っ青にしながら立ち尽くしていた。
「……し、死にたい。……帰って、煮干しを食べたい……」
だが、その「死にそうな表情」が、ファンたちの保護欲を異常なまでに刺激した。会場は「守ってあげたい!」「冷たい目で見られたい!」という叫び声で地鳴りのような歓声に包まれる。
「今よ、小雪さん! 私がバックダンサー(主役)として花を添えてあげるわ!」
エリカが、なぜかバニーガールの格好で乱入し、案の定ステージの配線に足を引っ掛けて転倒。その際、彼女が掴んだマイクスタンドがテコの原理で巨大なサーチライトを直撃し、会場に目も眩むような光の乱舞が巻き起こった。
「……っ! 敵の攻撃!? ……迎撃します!!」
小雪がパニックになり、マイクスタンドを振り回しながら銀糸を全方位に放つ。糸はスポットライトを反射し、夜空にダイヤモンドのような煌めきを描いた。ファンたちはそれを「最高級の演出」だと思い込み、感動の涙を流した。
「やれやれ。熱狂が暴走を始めましたね。……さて、柏木殿、それに警察庁の皆様。この混乱に乗じて小雪さんを拘束しようとしても無駄ですよ」
客席に紛れていた刺客たちに気づいた九条が、ステージの袖で静かに指を鳴らした。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、実はアイドルの「TO」であり、自分以外の観客を全員、自分の推しのために排除しなければならないという使命感に駆られる』!」
瞬間、刺客も一般客も関係なく、会場全体が「誰が一番のファンか」という内輪揉めの地獄絵図と化した。暗殺者たちは任務を忘れ、ファン同士の「マナー論争」と「場所取り」で互いを潰し合い始めた。
「……終わった。……小雪さん、すごい人気だったね。……でも、俺だけの小雪さんじゃなくなったみたいで……少し、寂しい……」
ステージ裏で零士がポツリと漏らした。それを聞いた瞬間、小雪は数千人のファンを放置し、糸を建物に引っ掛けて零士の元へダイブした。
「……零士さん! ……私は、貴方だけの『死神』です! ……アイドルなんて、もうやめます!!」
二人はそのまま夜の代々木へと消えていった。残されたステージでは、エリカが「私が真のセンターよ!」と、誰も見ていない中で独りオンステージを続けていた。
「……ふむ。今回も素晴らしい現像結果ですね。鷹見殿、今の『エリカ様の自爆シーン』、高値で売れそうですよ」
「へっ、わかってるじゃねえか、九条。……でも、小雪の『照れ顔鋼線カット』は、俺のハードディスクの墓場まで持っていくぜ」
代々木の喧騒は、新たなアイドル伝説(という名の怪事件)を刻み、再び混沌とした夜へと溶けていった。
「……ちょっと、誰か私を降ろしなさいよ! 糸がドレスに絡まって、ステージの看板に吊るされてるじゃない!!」
エリカの叫び声だけが、虚しく夜空に響いていた。
第二十五章:聖母vs偽聖母! 代々木を染める黄金の喜劇
代々木の駅前広場は、朝から異常な芳香に包まれていた。それは高級な白檀の香りと、なぜか焼きたてのクロワッサンの香りが絶妙に混ざり合った、嗅ぐ者の判断力を奪うような匂いだった。広場の中央には、純金製と思われる巨大なステージが突如として設営され、そこには「天啓の銀河」の最高指導者夫妻、すなわちエリカの両親が、後光のような照明を背負って立っていた。
「迷える代々木の羊たちよ。そして、我らが誇り高き教団を泥に塗した出来損ないの娘、エリカよ。今日、ここで真の聖母を決定する『奇跡の御前試合』を執り行う。敗者に待つのは、教団の地下深くにある『エンドレス・タピオカ修行房』への収監のみである!」
聖父(父)が重厚な声で宣言すると、その隣で前回「変なおじさん」を踊らされた屈辱に震えるマリアが、白装束に身を包んで鋭い視線を事務所の方へと向けた。
「……ちょっと、お父様もお母様も、相変わらず派手好きね。地下のタピオカ修行房なんて、あそこに入ったら三日で血糖値が限界突破しちゃうじゃない! 九条、何とかしなさい!」
事務所で高級アイスを完食したエリカが、他人事のように九条の袖を引いた。
「ふむ。教団のトップが直接お出ましとは、よほどマリアさんの失態が響いたのでしょうね。よろしい。エリカ様には『ありのままの混沌』で挑んでいただきましょう。鷹見殿、シャッターチャンスを逃さないように」
九条が眼鏡のブリッジを押し上げる。その隣では、鷹見がすでに「聖父・聖母の不倫疑惑写真」を捏造するための超望遠レンズを三脚にセットしていた。
「おうよ。教祖様たちの『聖なる仮面』が剥がれる瞬間を撮るのが、俺の今週のノルマだからな。……おっと、小雪。お前はその鋼線で、あのステージの支柱をいつでもバラバラにできるようにしておけよ」
「……了解です。……戦友の邪魔をする者は、全員……煮干しの出汁にしてあげます」
小雪が、煮干しを噛み砕きながら無機質な瞳でステージを見据える。零士は相変わらず彼女の背後に隠れ、「……あ、あの……鋼線で……俺の指まで切らないでね……」と小さく震えていた。
対決は始まった。第一の奇跡、それは「空中浮遊」であった。マリアは洗練された動作で宙に舞い上がった。それは教団の最新技術を用いた目に見えないワイヤーアクションであったが、観衆はその神々しさに息を呑んだ。
「……ふふ、どうですか、エリカ様。科学と信仰が融合したわたくしの飛翔は、もはや本物の天使そのものですわ!」
「何よ、それくらい私にだってできるわ! 九条、投げなさい!」
エリカが九条に命令した。九条は「承知しました」と短く答えると、エリカの背中を物理的に力いっぱい突き飛ばした。エリカは叫び声を上げながらステージへとダイブしたが、その際、彼女のドレスの裾がマリアの浮遊ワイヤーに絶妙に絡まった。
「……あだだだだっ! 重い! 重いわよ、この偽聖母!!」
「なっ、離しなさい! 墜落しますわ!!」
空中で揉み合う二人の聖女。そこへ小雪の放った鋼線が追い打ちをかけた。ワイヤーは切断され、二人は巨大なシャンデリアのような動きで観客の頭上をスイングした末、聖父が座る特設の玉座に、二人揃ってヒップドロップを食らわせる形で着地した。
「……ぐわあああっ!? 私の、私のギックリ腰がぁ!!」
聖父が叫ぶ中、会場は騒然となった。九条は今が好機と判断し、懐からクリスタルの振り子を取り出すと、それを拡声器のマイクに近づけた。
「皆様、静粛に。……今、皆様が目にしているのは『神の怒り』ではありません。新呪文、その名も『全人類が、自分が今、実は「隠しカメラのドッキリ番組」の仕掛け人であり、この教祖夫妻をどれだけ笑わせられるかで賞金が決まると確信してしまう』!」
九条の声が広場に響いた瞬間、信者たちの瞳に異様な野心が宿った。彼らにとって、教祖は畏怖の対象から「笑いを取るべきターゲット」へと変貌したのである。
「教祖様! 見てください、私のこの顔! 白目ですよ!!」
「教祖様! 私のこの動き、最高にマヌケでしょう!? 賞金ください!!」
信者たちが一斉に教祖夫妻に駆け寄り、目の前でコマネチや変顔を披露し始めた。聖母(母)は、これまで見たこともないようなカオスな光景に卒倒し、聖父は信者たちに囲まれて「……やめろ! 尊厳を壊すな!」と悲鳴を上げた。
「……完璧な現像結果ですね。鷹見殿、今の『信者に尻を叩かれる教祖』のショット、宗教界の歴史を塗り替えますよ」
「最高だぜ、九条! これで俺の老後は安泰だ。……おい、リン。そんな顔してないで、あんたも一緒にVサインしろよ」
リンは、ステージ上でマリアの髪を引っ張り合っているエリカを見ながら、深く、深いため息をついた。
「……もう、どうとでもなれ。……後で始末書を書く私の身にもなってほしいわ」
結局、教団のトップ夫妻は「代々木の魔力(九条の暗示)」に恐れをなし、マリアを連れて逃げるように帰還していった。エリカは勝利の証として、彼らが置いていった黄金のシャンパンをラッパ飲みしながら、「やっぱり私が真の聖母ね!」と高笑いしていた。
代々木の夜は更けていく。エリカの「実家」との因縁は、より深い遺恨……という名の、笑い話へと姿を変えていくのであった。
第二十六章:堕ちた聖女の居候! 代々木・カオス修行編
代々木の朝は、いつも通り救いようのない騒がしさで始まった。しかし、事務所のドアの前に、山のような高級ブランドのスーツケースと共に、真っ白な顔で立ち尽くす少女の姿があった。
「……わたくし、破門されましたわ。お父様からもお母様からも『笑いの取れない聖女など、タピオカのカス同然だ』と切り捨てられて……」
マリアが、魂の抜けたような声で呟いた。かつての完璧な美貌はどこへやら、その瞳には「変顔の呪い」の後遺症か、時折ひきつけのような痙攣が混ざっている。
「あら、いいじゃない! どん底から這い上がるのが聖女の嗜みよ! ……でも、家賃はきっちり頂くわよ。あと、私のアイスを買いに行く係から始めてもらうわ!」
エリカが、女王様のようなポーズでマリアを見下ろした。ライバルを小間使いにできるという状況に、彼女の鼻の穴はいつになく膨らんでいる。
「……おやおや。エリート教育を受けたマリアさんが、この『カオスの吹き溜まり』で何を学ぼうというのですか? ここにあるのは、救いではなく、ただの身も蓋もない現実ですよ」
九条が、新入りのための(非常に高い)契約書を差し出しながら微笑んだ。
「……九条新。わたくし、学びたいのです。貴方のあの、理性を粉砕する『魔法』の正体を。……わたくしが再び聖母として君臨するためには、清らかさではなく、人を狂わせる笑いが必要なのだと悟りましたわ!」
マリアは、間違った方向に覚悟を決めていた。こうして、事務所には「ストーカー暗殺者」「銀糸のアイドル」に続き、「笑いに目覚めた元聖女」という、これまた面倒な住人が加わることになった。
修業の初日は、掃除から始まった。しかし、エリート育ちのマリアにとって、雑巾がけ一つが命懸けの儀式であった。
「な、なんですのこの黒い物体は!? まさか、教団で禁じられていた『悪魔の煤(ただの綿埃)』!? ……ひっ、わたくしの聖なる手が汚れていく……!」
「……マリアさん。それはただの埃です。……そんなに怖がるなら、鋼線で……分子レベルまで切り刻みましょうか?」
小雪が、親切心(?)から鋼線を振り回し、マリアの周りの埃だけでなく、彼女の着ていたブランド物のブラウスまで細切れにした。
「いやぁぁぁ! 何をするのですか、この暗殺娘!!」
「あはは! いいぜ、いいリアクションだマリア! 今の『半泣きで露出度アップした聖女』のカット、ネットのサブスク限定で流せば一稼ぎできるぜ!」
鷹見が、脚立の上からシャッターを連写する。事務所内は瞬く間に、マリアの悲鳴とシャッター音、そして真一の「エリカ様の床を汚すとは万死に値する!」という怒声でカオスと化した。
騒ぎを鎮めるべく、九条が部屋の中央に立った。
「……マリアさん。あなたが学ぼうとしているのは、小手先の技術ではありません。『心の境界線を捨てる』ことです。……よろしい、最初の特別講義を始めましょう」
九条がマリアの瞳をじっと見つめ、静かに、しかし力強く指を鳴らした。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、実は「世界一有名な便所掃除の達人」であり、この事務所の便器を磨き上げることが、銀河の平和を守る唯一の手段だと確信してしまう』!」
「……っ!? ……銀河の……平和……。……わたくし、気づきましたわ。聖母とは、人々の心を洗う者。……ならば、この便器こそが、わたくしの教会!!」
暗示にかかったマリアは、神々しいまでの表情でトイレへと突進した。彼女は素手でブラシを握り、かつてないキレのある動きで便器を磨き始めた。その背後には、九条が投影した「宇宙の誕生」のホログラムが重なり、トイレからは後光のような光が漏れ出していた。
「……すごい。……トイレから、アメージング・グレイスが聞こえてくる……」
零士が、恐怖を忘れてその光景に見入っていた。
夕暮れ時。見事に磨き上げられたトイレの前で、マリアは憑き物が落ちたような、清々しい表情で立っていた。
「……九条殿。わたくし、見えましたわ。汚れを落とすたびに、わたくしのプライドという名の業も消えていくのが。……明日からは、キッチンと玄関も聖域に変えてみせますわ!」
「……ふふ。その意気ですよ、マリアさん。……さて、エリカ様。彼女が働きすぎて、あなたのアイスを買いに行く時間がなくなるかもしれませんが、よろしいですね?」
「えっ!? それは困るわよ! マリア、掃除はいいから、まず私の肩を叩きなさい! これも聖母の修行よ!」
こうして、マリアの居候生活は、教団の再興とは程遠い、ただの「プロジェクト・ゼロの超優秀なメイド」として定着し始めた。
代々木の夜は、住人が増えるたびにその密度を増し、より一層救いようのない、しかしどこか賑やかな色に染まっていく。
第二十七章:隠居した暗殺王・襲来! 最凶の祖父と黄昏の遊戯
代々木の雑居ビル周辺に、季節外れの深い霧が立ち込めた。その霧の奥から、カラン、コロンと、古めかしい下駄の音が響き渡る。事務所の窓際で警戒していた真一と小雪が、同時に顔を蒼白にして身構えた。
「……この殺気。まさか、あの御仁が動かれたのか」
「……暗殺界の生ける伝説。……雪見と霧隠の両家が、かつて一度も勝てなかった唯一の怪物……」
ドアが音もなく開き、入ってきたのは、枯れ木のように痩せ細った一人の老人だった。背中には古びた釣竿を担ぎ、腰には家宝の銘刀を帯びている。彼はエリカの祖父にして、教団の武力部門を一人で築き上げた「隠居した暗殺王」、源斎であった。
「……エリカ。お前がここで、得体の知れぬ男たちと『ままごと』に興じていると聞き、連れ戻しに来た。……それと、マリア。お前が便器を磨いて悟りを開いたという報告、耳を疑ったぞ」
源斎が杖を畳に突くと、凄まじい衝撃波が走り、事務所の窓ガラスがビリビリと震えた。その場にいた全員が、本能的な死の恐怖に身をすくませる。エリカでさえも、今回ばかりはポテトチップスを喉に詰まらせて、九条の背後に隠れた。
「……お、おじい様! 違うのよ、これは高度な潜入捜査……じゃなくて、私のファンクラブ活動なのよ!」
「黙れ。……九条新と言ったか。貴殿がこの不浄なカオスを統べる者か。……我が孫を誑かした罪、その命で償ってもらおう」
源斎が刀を抜こうとした瞬間、真一と小雪、そして珍しく段ボールから飛び出した零士が、源斎の前に立ち塞がった。
「……おじい様。……零士さんは、不浄じゃありません。……煮干しを、くれる……優しい人です!」
「エリカ様を守るためなら、伝説の王とて斬り伏せる! これが、私の新しい家訓だ!」
しかし、源斎の実力は次元が違った。彼は一歩も動かぬまま、気合一つで若き暗殺者たちを吹き飛ばし、九条の喉元に指先を突きつけた。
「……終わりだ。心理学など、死の直前には何の役にも立たん」
「……ふむ。確かに、あなたの精神力は岩盤のように強固だ。……ですが、源斎殿。強すぎる岩盤ほど、一度入った亀裂には脆いものですよ」
九条は死の淵にありながら、一切の動揺を見せず、源斎の瞳の奥にある「寂しさ」を射抜いた。彼は懐から、一枚の古びたチラシを取り出した。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、実は「町内会のゲートボール大会」の決勝戦に出場しており、ここで「最強の一打」を放たなければ、近所の老婦人たちに合わせる顔がないと確信してしまう』!」
「……っ!? ……ゲートボール……? 決勝……だと? ……そうか、わしは……わしは今、暗殺王ではない。……代々木三丁目町内会の、キャプテン・源斎!!」
源斎の脳内で、殺意の嵐が「町内会の名誉」へと瞬時に変換された。彼は構えていた刀を釣竿のように持ち替え、床に落ちていたエリカのアイスのカップを、見事なスイングでゴミ箱へと打ち込んだ。
「……決まった。……これで、優勝はわがチームのものだ。……あ、あそこの田中さんに、良いところを見せられたわい」
源斎は、先ほどまでの殺気が嘘のように、頬を赤らめて満足げに頷いた。
騒動が終わり、源斎はなぜか事務所のソファに座り、マリアが淹れたお茶を啜っていた。
「……九条殿。……わしは、長い間『王』という孤独な座に縛られすぎていたようじゃ。……ゲートボール、これこそがわしが求めていた真の闘争よ」
「それは重畳。代々木公園には腕に覚えのある老兵たちが大勢います。彼らとの戦いも、暗殺よりは有意義でしょう」
「……はあ。九条、あんた本当にもう、何でもありね。伝説の暗殺王をゲートボール愛好家にするなんて」
リンが呆れ果てて頭を抱える中、鷹見は源斎の「スイングの瞬間」を撮影し、すでに『全日本ゲートボール協会』のコンテストに応募していた。
「……小雪さん。おじい様、落ち着いて良かったね。……でも、俺の煮干し、全部食べられちゃった……」
「……いいですよ、零士さん。……次は、私が特上の『炙り煮干し』を作ってあげます……。……おじい様には、内緒で」
こうして、最強の刺客であった源斎は、代々木公園のゲートボール界に新風を巻き起こす「謎の超人老人」として、この街に居着くことになった。
プロジェクト・ゼロの事務所は、ついに隠居した暗殺王までをも飲み込み、もはや何の事務所なのか誰も説明できないレベルのカオスへと突入していく。
第二十八章:電脳の処刑人! 暗殺一家のハイテク逆襲
代々木のビルの屋上に、不気味な赤い光がいくつも点灯した。それは星ではなく、最新鋭の自律思考型暗殺ドローンの群れだった。 事務所のモニターが突如としてノイズに覆われ、無機質な合成音声が室内に響き渡る。
「……祖父・源斎の機能停止、および小雪の戦意喪失を確認。これより雪見家次期当主候補、吹雪と雷鬼が、一族の『バグ』を消去する」
窓ガラスを突き破り、光学迷彩を纏った二人の男が躍り出た。彼らの全身は強化外骨格で覆われ、その腕には高周波振動ブレードが仕込まれている。小雪の兄たちである。
「……お、お兄ちゃん!? どうして……。ここは今、私の大切な『戦場』なのに!」
小雪が鋼線を構えるが、吹雪が放った電磁パルス弾によって、彼女の繊細な感覚が一時的に麻痺させられる。
「小雪、時代は変わったのだ。煮干しだのゲートボールだの、旧時代の遺物は必要ない。我ら電脳化された暗殺者こそが、世界の真の支配者となる」
事務所内は一気に戦場と化した。雷鬼が放つレーザーサイトが零士の眉間を捉え、吹雪のドローン群が真一のモップを粉々に切り刻む。
「ぐはあぁ! 私の聖なる清掃用具が! ……九条殿、奴らの動きは速すぎて、私の動体視力でも追いきれません!」
「……ひっ! レーザー! 怖い……! 狙われてる、俺の人生の残り時間がバーコードみたいに読み取られてる……!!」
零士がパニックで床をのた打ち回る中、九条は冷静にタブレット端末を操作していた。彼は兄たちの外骨格から漏れ出る微弱な通信プロトコルを瞬時に解析する。
「……なるほど。脳と機械を直結し、感情を排除して効率を極限まで高めているわけですか。……しかし、効率を求める者ほど、『不条理な待ち時間』には耐えられないものです」
九条が眼鏡を指で押し上げ、電子の海に干渉するかのように深く静かな声を響かせた。
「新呪文、その名も『全人類が、自分が今まさに、人生で最も重要なプレゼンの最中に、パソコンがフリーズし、かつ、背後から「Windowsの更新プログラムを構成しています(1%)」という青い画面が迫ってくる絶望感に襲われる』!」
「……っ!? ……な、なんだこの感覚は! 脳内の演算ユニットが、強制的に再起動を要求している……!?」
吹雪の動きがピタリと止まった。彼の視界には、ありもしない「無限のロード中マーク」がぐるぐると回り続け、思考回路が深刻なフリーズ状態に陥った。
「ば、馬鹿な……。雷鬼、援護しろ! ……おい、雷鬼!?」
隣の雷鬼もまた、虚空を見つめてガタガタと震えていた。
「……だめだ、兄さん。……俺の脳内OSが……『あと約4時間で完了します』って言ってるんだ。……動けない。……今動いたら、俺の記憶データが……全部消える気がする……!」
無敵のハイテク暗殺者たちは、九条が植え付けた「デジタル・トラウマ」によって、ただの置物と化した。
「今です、小雪さん。彼らの再起動を阻止し、物理的に『強制終了』させてあげなさい」
「……了解です。……お兄ちゃんたち、……アップデートは、お家(実家)でやってください……!」
小雪の鋼線が唸りを上げ、兄たちの外骨格の動力源だけを正確に切断した。二人はシュウシュウと蒸気を吹き出しながら、床に崩れ落ちた。
翌朝。事務所の隅には、機能を停止した兄二人が、マリアによって「オブジェ」として美しく磨き上げられていた。
「……九条殿。この方々、金属部分が多くて磨きがいがありますわ。わたくしの新しい『聖なる鏡』として、玄関に並べておきますわね」
「……ふふ。彼らもまさか、最新鋭の兵器からインテリアに転職するとは思わなかったでしょうね」
エリカは、動けなくなった吹雪のヘルメットをテーブル代わりにして、優雅に朝食のパンを食べていた。
「まあ、ハイテクだろうがローテクだろうが、私を崇めない奴はみんなこうなる運命なのよ。……さて、九条。このお兄さんたちのパーツ、売ったらいくらになるかしら?」
「それはリンさんの報告書次第ですね。……さて、小雪さん。お兄さんたちが目覚めたら、一緒にゲートボールでもいかがですか? 脳のアップデートには、日光浴が一番ですよ」
こうして、雪見家のハイテク逆襲は、代々木のカオスな日常に「便利な家具」を供給するという、皮肉な結末に終わった。
(つづく)




