第94話
KAMIが『ダンジョン』という、あまりにも甘美で、そしてあまりにも猛毒な果実を世界に提示してから、まだ数ヶ月。一年後には、この国のどこかにその異世界への入り口が開くのだという。だが、我が国はその一年を待たずして、内側から弾け飛びそうになっていた。日本が「調整と合意形成」という名の、粘着質で終わりの見えない泥沼の地獄に陥っているのだとすれば、我がアメリカ合衆国はもっと乾いた、そしてもっと暴力的な地獄の業火にその身を焼かれている。「自由」と「資本主義」と「訴訟」という名の三つの業火に。
執務机の引き出しの奥。そこには、一枚の古い黄ばんだ便箋が眠っている。彼がまだ若き日の上院議員だった頃、もしもの時のためにと書き記しておいた、大統領の辞任演説の草稿。もう、それを読み上げる時が来たのではないか。彼は本気でそう考えていた。大統領を辞めたくなってきた。心の底からそう思う。その、あまりにも人間的で、そしてあまりにも無力な絶望が、世界の覇権国家の心臓部で静かに、そして深く夜の闇に溶けていこうとしていた、まさにその時だった。
コンコン。静寂を破り、重厚な執務室の扉をノックする音が響いた。
「……誰だ」
トンプソンの声は、ひどくかすれていた。
「夜分に失礼いたします、大統領。マッカーサーです」
統合参謀本部議長、ダグラス・マッカーサー将軍。この国の軍服組のトップ。トンプソンが最も信頼を置き、そして同時に最も恐れる男だった。
「……入れ」
静かに入室してきた将軍は、その寸分の隙もない軍服に身を包み、トンプソンの前に直立不動で敬礼した。その百戦錬磨の軍人の目には、同情も憐憫もない。ただ、この国の最高司令官の状態を冷静に分析する、冷徹な光だけが宿っていた。
「大統領。お顔の色が優れませんな。……グラスの中身は水ではないようですな」
その皮肉な言葉に、トンプソンは力なく笑った。
「……将軍。君は私を笑いに来たのかね」
「いいえ」とマッカーサーは即答した。「現状を確認しに来たのです。我が軍はあなたの指揮の下にあります。その指揮官が今どのような精神状態にあるのか、それを把握するのは、私の責務です」
トンプソンはグラスの中のバーボンを一気に呷った。喉を焼くようなアルコールの感覚。
「……見ての通りだよ、将軍。私は負けそうだ。いや、もう負けているのかもしれん」
彼は、まるで懺悔でもするかのように、この国を蝕む四つの地獄について語り始めた。
「憲法と訴訟の地獄だ。国民は『探索する権利』を叫び、政府を訴訟の嵐で身動きできなくしている。建国の父たちが夢見た理想が、今や我々の首を絞めるギロチンになっている」
「経済は実体のないバブルに浮かれ、ウォール街の強欲な連中は、まだ存在しない魔石でマネーゲームを繰り広げている。この国は巨大なカジノになった」
「学校では『CPS』という戦闘能力のスコアが、子供たちを新たなカーストで選別している。私の孫娘でさえ、自分が『ゼロ』ではないかと怯えているのだ。これが、我々が守りたかった未来の姿か?」
「そして極めつけは州だ。五十の州が、もはや五十の独立国のように振る舞い、互いに足を引っ張り合っている。合衆国は分裂寸前だ」
彼は、空になったグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「どうしろと言うのだ、将軍! 私に一体何ができる! 私はもはや大統領などではない! ただの巨大な難破船の船長室で、沈みゆく船と運命を共にするのを待つだけの、無力な男だ!」
その、魂からの悲痛なまでの叫び。マッカーサーはそれを黙って、表情一つ変えずに聞いていた。やがて彼は、静かに、しかしその場の空気を切り裂くような鋭い声で言った。
「――では大統領。一つお伺いしたい」
「何だ」
「あなたは、いつからその船が“客船”だと錯覚しておられたのですかな?」
「……何?」
トンプソンは怪訝な顔で、将軍を見上げた。
「大統領。あなたが今座っておられるその椅子は、豪華客船の船長室の椅子ではない。戦艦の艦長席です。そして、我々が今いるこの国は、平穏な航海を楽しむ客船ではない。敵だらけの荒れ狂う海を生き残るために、戦い続ける一隻の軍艦です」
マッカーサーは一歩前に進み出た。その瞳には、燃えるような光が宿っていた。
「あなたの仕事は、乗客の不満を聞き、その機嫌を取ることではない! あなたの仕事は、この艦を沈没させないため、必要とあらば非情な決断を下し、乗組員を一つの方向へと導き、そして勝利すること! ただ、それだけのはずです!」
その言葉は、もはや部下から上官への具申ではなかった。一人の軍人が、自らが命を預ける最高司令官の魂を叩き起こすための檄だった。
「敵は誰かね、将軍」とトンプソンは力なく言った。「中国か? ロシアか? 彼らもまた、神の下僕に過ぎん」
「いいえ!」とマッカーサーは断言した。「今の我々の最大の敵は、我々自身です! 我々の内なるその混沌です! 分裂し、互いを信じられなくなった我々の心そのものです! そして、その敵を打ち破ることができるのは、この国でただ一人。あなたしかいない!」
彼は、壁に飾られたエイブラハム・リンカーンの肖像画を指さした。
「リンカーンは、この国が内戦で引き裂かれた時、何をしましたか? 彼は南部の声にも、北部の声にも、ただ耳を傾け続けたわけではない。彼は『国家の存続』という、ただ一つの絶対的な目標を掲げ、そのためにあらゆる非難を覚悟の上で戦い抜いた! 今のあなたに必要なのは、その覚悟です、大統領!」
戦艦。艦長。覚悟。
その、あまりにもシンプルで、そしてあまりにも力強い言葉の数々が、バーボンと絶望で麻痺していたトンプソンの脳髄を、直接揺さぶった。そうだ。私はいつから忘れていたのだ。この椅子がどれほどの血と涙と、そして決断の重みの上に存在しているのかを。私はただの問題処理屋になっていた。次から次へと燃え上がる火を、必死に消して回るだけの哀れな消防士に。違う。私の仕事は火を消すことではない。この艦をどこへ進めるのか、その海図を自らの手で描き、そして嵐の中であろうと、その舵を取り続けることだ。
「……ありがとう、将軍」
トンプソンはゆっくりと顔を上げた。その顔には、もはや弱々しい自己憐憫の色はない。あるのは、この国の、そして世界の運命を再びその双肩に担う覚悟を決めた、合衆国の最高司令官の顔だった。
「君の言う通りだ。私は少しばかり平和ボケしていたらしい。……泣き言は終わりだ。これより反撃を開始する」
その言葉に、マッカーサーの口元に、初めてかすかな笑みが浮かんだ。
「御意、大統領。我が軍は、いつでもあなたの指揮の下にあります」
「ああ」とトンプソンは頷いた。「だが将軍。これから我々が始めるのは、銃やミサイルを使った戦争ではない。もっと厄介な戦争だ。……物語を巡る戦争だよ」
その夜、ホワイトハウスの灯りは朝まで消えることはなかった。トンプソンは、首席補佐官、国務長官、そして広報戦略チームの最高の頭脳たちを叩き起こし、オーバルオフィスへと緊急招集した。彼は、もはや問題に振り回されるだけの男ではなかった。彼はチェスプレイヤーへと戻っていた。混沌とし、絶望的にさえ見えた盤面を冷静に分析し、そして起死回生の一手を探し求めるグランドマスターへと。
「――聞け、諸君」
集まった側近たちを前に、トンプソンは生まれ変わったかのように力強い声で言った。
「我々はこれまで、四つの戦線でバラバラに戦い、そして敗北し続けてきた。だが、それは我々の戦略が間違っていたからだ。我々は今日この時から、その四つの戦線を一つの巨大な旗の下に再統合する」
彼は、ホワイトハウスのレターヘッドが入った便箋に、震える、しかし力強い筆致で、その旗印となる言葉を書き記した。
『The New Frontier Initiative(新開拓地構想)』
ケネディが宇宙を目指した、あの言葉。アメリカ国民の魂に刻み込まれた、挑戦と希望の象徴。
「我々は、これを単なるダンジョン対策とは呼ばない」と彼は宣言した。「これは、神がもたらした『因果律改変能力』という新しい“火”を、いかにして人類が正しく、そして偉大に使いこなすかという、国家の――いや、人類の存亡を賭けた第二のアポロ計画なのだと」
彼は、四つの地獄に対する具体的な反撃の狼煙を、一つ、また一つと上げていった。
「第一に憲法論争。我々は、もはや彼らと『権利』について議論はしない。代わりに我々は『責任』と『義務』を問う。今夜、私は国民に向けてテレビ演説を行う。そして、こう呼びかけるのだ。『探索者となることは、単なる金儲けの権利ではない。それはこの国を、そして人類を未知なる脅威から守るための、崇高な“国民の奉仕”である』と。我々は、この新しい時代の兵士を、国家の名の下に公募する」
「第二に経済。ダンジョン・バブルの熱狂は危険な兆候だ。故に私は大統領令をもって、FRB、SEC、そしてウォール街の代表者、ノーベル賞級の経済学者たちを招集し、『超党派・ダンジョン経済監督委員会』を設立する。我々は投機を否定はしない。だが、その熱狂を国家の厳格な管理下に置き、その果実が一部の強欲な者たちだけでなく、全ての国民に公正に分配されるための、新しいルールを作り上げます!」
「第三に教育。CPSという冷たいスコアが、我々の子供たちの心を傷つけているという声を、私は聞いています。故に私はここに、全国の若者たちに向けた新たな国家奉仕プログラム、『ジュニア・エクスプローラー・コーズ(若年探索者部隊)』の創設を発表します! これは軍隊ではありません。JICA(国際協力機構)や、かつての平和部隊のような組織です。高い戦闘能力を持つ若者だけでなく、『ゼロ』とされた若者たちにも、後方支援、データ分析、あるいはダンジョン内外でのボランティア活動といった様々な形で、この国家プロジェクトに参加する道を与えます。才能とは戦闘能力だけではない。この国に貢献しようとする、その全ての尊い意志こそが真の才能なのだと、我々は宣言します!」
そして、最後に彼は、分裂しかけた国家のその亀裂を修復するための、最後の、そして最も巧みな一手を打った。
「そして最後に、州政府の皆様へ。私はあなた方と争うつもりはありません。むしろあなた方の力を必要としています。故に私は、全米五十州の知事に対し、この『新開拓地構想』への具体的な貢献計画の提出を、ここに正式に要求します。最も優れた計画を提出し、最も多くの優秀な探索者を育成し、そして最も安全なダンジョン管理体制を構築した州には、連邦政府から莫大な報奨金と、次なるダンジョン設置の優先権を与えることをお約束します。さあ、競い合おうではありませんか! どちらの州が、この新しい時代において、最も偉大で、最も革新的な『自由の実験室』となりうるのかを!」
その、あまりにも壮大で、そしてあまりにも巧みな起死回生のグランド・デザイン。側近たちは言葉を失い、ただ目の前の男の、そのあまりの変貌ぶりに戦慄していた。彼は、もはや絶望に打ちひしがれた老人ではなかった。嵐の海図をその手に描き、そして乗組員たちの心を一つの方向へと束ねる、偉大なる艦長の姿がそこにあった。
「……大統領」
首席補佐官が震える声で言った。「これは……これは賭けです。あまりにも巨大な……」
「ああ」とトンプソンは頷いた。「だが、賭けなければ勝つこともできん。……演説の準備をしろ。私は今夜、この国の、そして世界の全ての国民に、直接語りかける」
その夜。全世界のテレビとインターネットの画面が、オーバルオフィスからの合衆国大統領による緊急演説の生中継にジャックされた。画面に映し出されたトンプソンの顔には、もはや疲労の色はない。あるのは、この国の、そして人類の未来をその双肩に再び担う覚悟を決めた、一人のリーダーの静かな、しかし燃えるような闘志だけだった。彼は、カメラのレンズの向こう側の、分裂し、傷つき、そして迷える、自らが愛する国民一人一人に語りかけた。
「――My fellow Americans...」
その力強い第一声が世界に響き渡った瞬間、アメリカという巨大な、そして傷ついた戦艦は、再びそのエンジンに火を灯し、未知なる、そして嵐の海原へと、その重い舵を切り始めたのだった。彼の、そしてこの国の本当の戦いは、今まさに始まろうとしていた。




