第71話
その日、世界の頂点に立つ四カ国の指導者たちは、もはや日常となりつつあった、非日常な会議の席に着いていた。
東京、ワシントン、北京、モスクワ。その四つの首都を結ぶ、最高機密のバーチャル会議室。ホログラムとなって円卓に浮かび上がる男たちの顔には、数ヶ月前までの剥き出しの敵意はない。代わりにそこにあるのは、同じ気まぐれな神(あるいは理不尽なCEO)の下で働くライバル企業の支社長同士のような、奇妙な連帯感と、互いの腹を探り合うビジネスライクな緊張感だけだった。
そして、その円卓の上座には、当然のように彼女がいた。
ゴシック・ロリタのドレスに身を包んだKAMI。今日の彼女は、手元の空間に小さなウィンドウを浮かべ、日本の最新アニメを鑑賞しているようだった。時折くすくすと笑い声を漏らすが、会議の内容には一切興味を示していない。その存在そのものが、この会議がもはや人間たちだけのものではないという、絶対的な事実を物語っていた。
「――では定刻となりましたので、第六回・四カ国定例首脳会議を始めます」
議長役である日本の九条官房長官が、感情の温度を一切感じさせない声で開会を宣言した。
「本日の第一の議題は、先般の『マーンナの奇跡』によって生じた、全世界的な食糧需給バランスの変動に関する後処理についてです」
九条は手元の端末を操作し、共有モニターに一枚の複雑な物流ルートが描かれた世界地図を映し出した。
「皆様ご存知の通り、イスラム世界が食糧市場から事実上脱退したことにより、特にアメリカ、カナダ、オーストラリアといった農業大国において、深刻な食糧の生産過剰が発生しております。これは、世界経済の不安定化を招きかねない由々しき事態です。そこで我々日本政府は、関係各国、及びアステルガルド・リリアン王国と協議を重ね、この問題に対する一つの解決策を取りまとめました」
彼は淡々と、その驚くべき計画の概要を説明し始めた。
「結論から申し上げます。イスラム世界が消費しなくなった食料は、今後、その全てをアステルガルド・リリアン王国に売却します。」
その一言に、王将軍とヴォルコフ将軍の眉が、わずかにぴくりと動いた。
「リリアン王国は、先日のオークションで得た莫大な資金を元手に、我々の世界の食糧を安価で、かつ安定的に輸入することを強く希望しております。彼らの世界の農業生産性は、まだ決して高くはありません。地球の品種改良された高品質な穀物や保存技術は、彼らの国の発展に大きく貢献するでしょう」
そして九条は、この計画の最も巧みな部分を付け加えた。
「さらにリリアン王国は、輸入した食糧の一部を、自国の付加価値を付けた加工品としてアステルガルド大陸の他の国々へと転売し、そこで利益を上げることも計画しています。この計画については、リリアン王国の了承もすでに取り付けております」
それはまさに、三方一両得の完璧な解決策だった。
アメリカを始めとする農業大国は、市場を失うことなく生産体制を維持できる。
リリアン王国は、食糧安全保障を確立し、さらに大陸における経済的な覇権を握る大きな一歩を踏み出せる。
そして日本は、その二つの世界の間に立つ唯一無二の仲介者として、その影響力をさらに強固なものにできる。
「……なるほどな」
アメリカのトンプソン大統領が、感心したように頷いた。「見事なプランだ、長官。我が国の農務長官も、諸手を挙げて賛成するだろう」
とりあえず、食料が余るという最大の問題は、これで解決した。
沢村総理は、内心で深い安堵のため息をついた。
(異世界があって、本当に助かった…。もしアステルガルドという無限の胃袋がなければ、世界は今頃、破滅的な農業恐慌に陥っていたかもしれん)
その沢村の思考を読んだかのように。
モニターの向こうでそれまで黙っていた中国の王将軍が、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「ふん。実に見事な手腕ですな。まるで、こうなることを見越して、最初から全てを計画していたかのようだ。…あるいは、神はこれも承知済みだったということかな? 全ては、あなたの手のひらの上で、ということか!」
その皮肉な、そして的を射た指摘。
沢村の顔が引きつった。
「は、はい。まあ、そういうことにしておきましょう…。」
彼はそう言って、曖昧に笑うしかなかった。アニメ鑑賞に夢中な神は、こちらの苦労など知る由もないのだから。
「では、次の議題です」
九条は、何事もなかったかのように会議を進行させた。「インド、及びロシアの動向について」
その言葉に、会議室の空気が再び緊張を取り戻した。
「まずインドですが」と九条は報告した。「先日の『協力要請』以来、彼らは連日、外交ルートを通じてヒンドゥー教の奇跡の実現を強く要求してきております。ガンジス川での大規模な祈りの儀式の準備も、着々と進められている模様。ですが…」
彼は一度言葉を切ると、KAMIの方をちらりと見た。KAMIは、全く興味を示していない。
「我々としては、ローマ教皇とイスラム世界の件がまだ世界に大きな影響を与え続けている現状を鑑み、インドについては、しばらく放置するというのが現段階での基本方針です。官僚主義的な手続きの壁を使い、時間を稼ぎます」
その非情な決定。だが、この場にいる誰もそれに異を唱えはしなかった。インドという、巨大な火薬庫にこれ以上火をつけるのは得策ではない。それが、四カ国の暗黙の総意だった。
「……次に、ロシアです」
九条の声が、さらに低くなった。彼は、アメリカのトンプソンの方へと視線を向けた。
「大統領。あなたの懸念は、もっともです。我々の諜報網も、同様の情報を掴んでおります。ロシアのプーチン大統領が、KAMI様から与えられた力に飽き足らず、独自に『因果律改変能力』の訓練を行い、『神を目指す』などと公言しているという情報を。…この件、放置して大丈夫なのでしょうか?」
その危険な問い。
全ての視線が、モスクワのモニターに映るヴォルコフ将軍へと突き刺さった。
だが、ヴォルコフは動じなかった。彼は、まるで他人事のように肩をすくめてみせた。
「なにか問題でも?」
その白々しい、そして挑発的な一言。
「プーチン大統領は、日々、心身の鍛錬に励んでおられる。それの何が問題かね? 我が国の指導者がより強くなること。それは、我が国の民にとって祝福以外の何物でもない。他国がとやかく言う筋合いのものではないだろう」
完璧な、鉄壁の回答だった。
沢村は、内心で呻いた。
(いやー、何も…。言えるはずがない…)
これ以上この問題を追求すれば、それは内政干渉となる。そして、不死身の独裁者の機嫌を損ねることになる。そのリスクは、大きすぎた。
インドとロシア。二つの巨大な時限爆弾は、先送りという名の冷たい蓋の下に、再び封印された。
「……失礼」
その重苦しい空気を破ったのは、アメリカのトンプソン大統領だった。彼の声には、もはや外交的な駆け引きの色はなかった。ただ、軍人としての、そして超大国のリーダーとしての、剥き出しの危機感だけがそこにあった。
「それより、我々はもっと体系的に魔法を学ぶべきではないか?」
その唐突な提案に、誰もが息を呑んだ。
「我々はこれまで、KAMIから与えられる『スキル』という完成された奇跡を、受動的に受け取ってきたに過ぎない! だが、リリアン王国の『魔法』も、ローマ教皇やプーチンが見せた『奇跡』も、その根源は全て同じ『因果律改変能力』なのだろう!?」
彼は、身を乗り出した。
「それがもし『技術』であるならば、我々もまた、それを学ぶことが出来るはずだ!!! 我々アメリカとしては、この新たな力の研究、及びその習得のための専門部隊をアステルガルドに派遣すべきであると、強く提言する!」
それは、新たな軍拡競争の始まりを告げるゴングだった。
「……賛成ですな」
中国の王将軍が、即座にその提案に乗った。「我々もまた、その『技術』の本質を解明する必要がある」
「うむ。異論はない」と、ヴォルコフ将軍も頷いた。
三つの大国の、剥き出しの野心。
その危険な合意形成を、それまでアニメ鑑賞に夢中だったKAMIが、静かに遮った。
彼女は手元のウィンドウを消すと、初めて会議に意識を向けた。そして、心底面倒くさそうに言った。
「うーん。良いけど」
その一言で、会議室の空気が完全に変わった。
主導権は今、完全に神の手に移ったのだ。
「良いけど、あなたたちがゼロから学ぼうとしても、多分無理ね。あの世界の人間は、生まれながらにしてマナという素養がある。教皇やプーチンには、異常なまでの信仰心や自我という才能があった。あなたたちの普通の兵士たちにそれをやらせても、百年かかるわ」
彼女は、まるでゲームの初心者救済措置でも告げるかのように続けた。
「だから、私が特別な『学習補助スキル』を上げてあげるわ。いわば、『補助輪』よ。それを使えば、適性のある人間なら、比較的短期間で初歩の初歩くらいはマスターできるかもしれないわね」
そして彼女は、にっこりと悪魔の笑みを浮かべた。
「あっ。もちろん、これはタダじゃないわよ? レッスン料として、ちゃんとした『対価』は貰うわよ?」
対価。
その言葉に、三つの大国の指導者たちは、むしろ安堵の表情さえ浮かべた。
金で解決できるのなら、安いものだ。
「はい! お支払いします!」
トンプソンが、食い気味に答えた。「ですので、アメリカ軍の選抜部隊に、その因果律改変能力の訓練を施してください!」
「了解〜。じゃあ、詳しいことは後で日本の九条さんを通して、予定を組んでおいてね」
「了解しました!」
「ふむ。であるならば、中国人民解放軍にもぜひお願いしたいですな」
王将軍が、すかさずそれに続いた。
「じゃ、対価ちょうだいね」
「はい。対価は、お支払いするのでお願いします」
「了解〜」
ロシアも、当然のようにそれに続いた。
わずか数分で、世界の主要三カ国の軍隊が、「魔法」を正式な装備として導入することを決定した瞬間だった。
その恐ろしい、そして狂ったような軍拡競争の光景を、沢村総理だけが青ざめた顔で見つめていた。
全ての視線が、最後に彼に注がれる。
KAMIが、不思議そうに問いかけた。
「あれ? 日本は良いの?」
その無邪気な問い。
それが、沢村の心に深く、深く突き刺さった。
(……自衛隊が、魔法を学ぶですか…。)
彼の脳裏を、様々な光景が駆け巡る。
専守防衛。平和憲法。文民統制。
戦後、この国が必死に守り、そして縛られてきた数々の重い枷。
その枷を、この魔法という強大で、そして定義不能な力が、どう変えてしまうのか。
(……どうします? 九条君…)
沢村は、隣に座る腹心に、思考だけで助けを求めた。
(……総理。ここで即答はできません。あまりにも、国内の政治的リスクが大きすぎる…)
九条の冷静な、しかし苦渋に満ちた答え。
沢村は、覚悟を決めた。
「……すまん。少し、考えさせてくれ」
彼は、絞り出すような声でそう言った。
「個人的には、お願いしたい。我が国の防衛を考えれば、当然だ。だが、これには国内の世論というものもある。魔法という強大な力を、自衛隊という組織だけに独占させて良いのかと。おそらく、民間から先に、平和利用のために学ぶべきだという話になるかもしれん…」
その日本的で、そしてこの場の空気からはかけ離れた苦悩の吐露。
それを聞いた瞬間。
それまで呉越同舟の奇妙な共犯関係にあった他の三カ国の指導者たちが、一斉に、信じられないという顔で声を上げた。
「はぁ!? 何を言ってるんだ、総理!」
トンプソンが叫んだ。「民間に魔法だと!? それは、戦闘機や戦車を市民に配るようなものだぞ! ダメだろ、絶対にそれは!」
「全く同感ですな」と、王将軍も呆れ返ったように言った。「それは、国家の統制を自ら放棄するに等しい。革命を誘発したいのですかな?」
「正気の沙汰ではないな」と、ヴォルコフも吐き捨てた。
三方向からの、完全な、そして当然の否定。
沢村は、国際社会の中で完全に孤立した。
彼は、改めて痛感していた。
この国が、この狂った新しい世界の中で、いかに特異で、そして厄介な立ち位置にいるのかを。
会議は、終わった。
アメリカ、中国、ロシアは、魔法という新しいおもちゃを手に入れ、その軍拡競争の新たなステージへと突き進んでいく。
そして、日本だけがそのスタートラインで立ち尽くしている。
専守防衛と、国民感情と、そして神の力。
その決して交わることのない三つのジレンマの中で、ただ一人、頭を抱えて。
沢村の、そして日本の、長い、長い憂鬱の季節が、またしても始まろうとしていた。




