第7話
日本政府が、後に「神の啓示」と呼ばれることになる、あの衝撃的な監視カメラの映像を全世界に公開してから、一ヶ月という歳月が流れた。
世界は、未だかつてない緊張と、熱病のような興奮に浮かされていた。
あの映像が流れた直後の数日間、世界中の株式市場は機能を停止し、各国首脳は自国の安全保障会議を不眠不休で続けた。それは、人類が初めて、自分たちよりも高次の存在が確かに存在するという、動かぬ証拠を突きつけられた瞬間だったからだ。
当初、世界が最も恐れたのは、日本の軍事的な暴走だった。神を味方につけた唯一の国家。そのアドバンテージは、核兵器の比ではない。しかし、日本政府は、映像公開後、驚くほど静かだった。彼らは「我々は、かの存在との唯一の対話窓口として、世界の平和と安定に貢献する」という声明を繰り返すのみで、一切の軍事的な威嚇も、外交的な恫喝も行わなかった。
そして何より、映像に映っていた「神の使者」自身が、その後、一切の動きを見せなかった。以前と同様、日本の廃棄物が人知れず消える現象は続いていたが、それ以外の干渉は、全くなかったのだ。
その結果、世界は、極めて歪で、不安定な均衡状態へと移行していた。日本は、畏怖と猜疑の入り混じった目で見られる、孤高の存在となった。各国は、日本を刺激することを恐れる一方で、水面下では必死に、その「神」との接触方法を探り、日本のあらゆる情報を貪ろうと諜報活動を激化させていた。世界は、新たなルールで動く、新しい時代に、否応なく足を踏み入れていたのだ。
そして、その全ての騒乱の中心にいる橘栞は、相も変わらず、都心に近いマンションの一室で、キーボードを叩く日常を送っていた。
フリーランスの仕事は、今も続けている。それは、彼女にとって、自分がまだ「橘栞」という人間であるための、最後の綱のようなものだった。
この一ヶ月で、彼女の力は、爆発的な進化を遂げていた。
政府との契約は、彼女のスキル解析を、異次元のレベルまで加速させた。国家プロジェクトとして、秘密裏に、そして最優先で提供される膨大な対価――高レベル放射性廃棄物や、処理不能な化学物質など、人類が持て余す「負の遺産」――は、彼女のスキルウィンドウの対価残高を、天文学的な勢いで満たしていった。
その結果、彼女は、もはや人間とは呼べない領域へと、足を踏み入れていた。
まず、彼女は自身の肉体を強化した。スキルリストに解放された**『生体最適化』**を選択。コストは決して安くはなかったが、これを実行した瞬間、彼女の肉体を構成する全ての細胞、遺伝子情報、脳の処理能力に至るまでが、人類という種の限界を超えた、完璧な状態へと再構築された。疲労も、病気も、緩やかな老化さえも、今の彼女には存在しない。
そこからは、雪崩のようだった。
原子を組み替えて、望む物質を練り上げる**『高等物質変換』。
世界のネットワークを自身の神経系のように掌握し、あらゆる情報を一瞬で引き出す『情報全域アクセス』。
そして、部屋にいながらにして、地球の裏側さえも覗き見ることができる『遠隔知覚』**。
もはや、この地球という惑星において、彼女の意思を阻める物理的な障害は、ほとんど存在しなかった。その気になれば、他国の軍事機密を全て白日の下に晒し、世界の金融システムを一日で崩壊させることさえ、可能だった。
時折、政府から官房長官の九条を通じて寄せられる「お願い」――例えば、某国の新型潜水艦の設計データが欲しい、あるいは、大規模なサイバーテロの攻撃元を特定してほしい、といった依頼――を、彼女は、まるでネットサーフィンでもするかのような気軽さで処理していた。
彼女は、神になりつつあった。
少なくとも、人類の尺度から見れば、その力は、まさしく神の御業と呼ぶにふさわしかった。
しかし、栞自身は、焦燥感に似た感情を、心のどこかで感じ始めていた。
彼女の視線の先にあるのは、常に、スキルリストの最上段で、決して輝きを失わない、あのただ一つの項目。
【――全能になる】
これこそが、彼女が『賢者の石』を手に入れて以来、目指し続けてきた、唯一無二の目標。
だが、その目標達成度を示すプログレスバーは、この一ヶ月、国家規模の対価を注ぎ込み続けたにも関わらず、まるで嘲笑うかのように、ピクリとも動いていなかったのだ。
「…………足りない」
ある日の深夜。
栞は、自室の窓から、煌めく東京の夜景を見下ろしていた。生体最適化によって、もはや睡眠は、必須の生理活動ではなく、気晴らしのための選択肢の一つとなっていた。無限に等しい覚醒時間が、彼女を、深く、そして孤独な思索へと誘う。
「足りないわ…。圧倒的に、足りない」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静寂な部屋に溶けた。
手に入れた力は、確かに大きい。この地球という閉じた箱庭の中であれば、彼女は女王として君臨できるだろう。
だが、それは「全能」ではない。地球という、あまりにも矮小なルールの上で成り立つ「万能感」でしかない。
彼女が求めるのは、そんなものではない。この宇宙の、森羅万象すべての法則を書き換え、因果律さえも自らの手で紡ぐ、真の意味での「全能」。
その至高の玉座にたどり着くには、対価が、絶望的に足りていなかった。
一体、あとどれほどの対価が必要なのか。
これまでは、漠然と、途方もない数字なのだろうとしか考えていなかった。だが、もう、そんな曖昧なまま進むことはできない。正確な現在地と、目的地までの距離を、知る必要があった。
栞は、意を決した。
このスキルの最終目標と、自分がいま立っている現実との、残酷なまでの乖離を、その目に焼き付けることを。
彼女は、ソファに深く座ると、静かに目を閉じた。
そして、この一ヶ月で獲得してきた、いくつもの神の如きスキルを、並列で起動させる。
まず、**『情報全域アクセス』**の権限を、最大レベルにまで引き上げる。
彼女の意識は、物理的な制約を超え、地球上のあらゆるネットワーク、サーバー、データベースへと、瞬時に浸透していく。アメリカ国家安全保障局の機密サーバーも、CERNの粒子加速器の観測データも、深海の地殻調査船が送るソナー情報も、全てが、等しく彼女の前に開示される。
次に、**『超並列思考』**を起動。
彼女の脳は、一個人の思考器官から、惑星規模のスーパーコンピュータへと変貌する。獲得したばかりのこのスキルは、彼女の思考を数百万のプロセスに分割し、それぞれが独立して、超高速の演算を実行することを可能にした。
そして、仕上げに、**『概念数値化』**のスキルを行使する。
彼女がアクセスした、人類が有史以来蓄積してきた、ありとあらゆるデータ。地質学、物理学、天文学、生物学、経済学、歴史学。それら全ての情報を、スキル『賢者の石』が規定する、唯一無二の価値基準、「対価」という単位へと、変換、定量化していく。
橘栞という個人の意識は、一時的に希薄になった。
彼女は、人類の叡智そのものと一体化した、巨大な計算機と化していた。
彼女の思考の中を、膨大なデータが、光の奔流となって駆け巡る。
地球の核の温度と、その質量。
プレートテクトニクスが秘める、莫大なエネルギー。
太陽から降り注ぎ、生命を育む、光子の数。
大気圏を構成する、窒素と酸素の原子量。
人類が築き上げてきた、全ての建造物、全てのインフラ、全ての金融資産の総額。
そして、八十億の人間が持つ、知識と、経験と、その営みの全て。
それは、まさしく、星の鑑定。
人類の視点から観測可能な、この惑星の、資産価値の総覧だった。
数分にも、あるいは、数時間にも感じられる、濃密な計算の末。
彼女は、ゆっくりと目を開いた。
目の前のスキルウィンドウに、その答えは、あまりにも無慈悲に、表示されていた。
【惑星『地球』(観測可能領域)の総対価価値: 1.28 x 10の72乗】
【目標『全能になる』の必要対価: 1 x 10の100乗(無量大数)】
「………………」
声も、出なかった。
思考が、停止する。
いや、彼女の超並列思考は、その数字が持つ、絶望的な意味を、瞬時に理解していた。
桁が、違う。
次元が、違う。
この地球という惑星の、人類が観測しうる全ての物質、全てのエネルギー、全ての知識、全ての富を、根こそぎ対価として捧げたとしても。
それは、『全能』に至るためのコストの、一パーセントどころか、一兆分の一にも、いや、それよりも遥かに、全く、及ばない。
それは、完全な、論理的な、数学的な「不可能」の証明だった。
「……うーん」
長い、長い沈黙の後。
栞の口から漏れたのは、そんな、間の抜けたような声だった。
「全能スキルって、そこまで難しいのね」
彼女は、ふっと、息を吐いた。
それは、絶望のため息ではなかった。
むしろ、あまりにも高すぎる、垂直に切り立った崖のような目標を前にして、一周回って、愉快にさえなっているような、そんな響きがあった。
「ちょっと、甘く見てたわ」
栞は、あっさりと、自身の敗北を認めた。
この星一つで、神の座に手が届くなどと、考えていた自分が、少しだけ、青くて、可愛らしく思えた。
だが、彼女は、決して諦めたわけではない。
橘栞という人間は、元来、そういう風にはできていなかった。
難攻不落のゲームで行き詰まった時、彼女は、決して電源を落としたりはしない。仕様の穴を探し、裏技を探し、あるいは、全く新しいプレイスタイルを、ゼロから編み出す。
そういう人間だった。
今回も、同じだ。
敗北を認めた次の瞬間には、彼女の脳は、既に、次の「攻略法」を探し始めていた。
(この惑星では、リソースが足りない)
思考は、単純だ。
(ならば、答えは、一つしかない)
栞は、ソファから立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
眼下には、彼女がその全てを計算し尽くした、ちっぽけで、しかし、今の自分を育んでくれた、愛おしい、青い星の夜景が広がっている。
(この星以外の『資源』を、見つければいい)
彼女の視線は、夜景を通り越し、漆黒の夜空の、さらにその先へと向けられていた。
宇宙か? 他の銀河か?
いや、それでも、おそらくは足りないだろうし、時間がかかりすぎる。もっと、効率的な方法があるはずだ。
彼女は、再び、スキルウィンドウを開いた。
そして、獲得済みのスキルツリーを丹念に調べていくうちに、一つの可能性に、思い至った。
『空間操作』『情報操作』『高等物質変換』…これらの上位スキルとして、まだ解放には膨大な対価が必要だが、うっすらと、その存在が示唆されている項目があった。
それは――
【――異世界への扉(ゲート・オブ・異世界)】
「…………異世界、ね」
栞は、思わず、笑みを漏らした。
かつて、自分がただの人間だった頃に、小説やゲームの中で親しんだ、陳腐で、使い古された、便利な言葉。
だが、このスキルリストが、それを用意しているというのなら、それは、紛れもない「現実」として、存在するのだろう。
物理法則も、文明レベルも、そして、資源の価値さえも、この世界とは全く異なる、無数の、未知なる世界。
「異世界を開拓して、その資源を、頂戴するしかないわ」
方針は、決まった。
もはや、この地球という星に、彼女の探究心を満たすだけのフロンティアは残されていない。
次なる舞台は、次元の壁の向こう側だ。
問題は、その方法だ。
『異世界への扉』を解放するには、まだ少し、対価が足りない。そして、解放したとして、未知の世界を調査し、開拓し、資源を確保するのは、骨の折れる作業だろう。
彼女自身が行ってもいい。最適化された彼女の肉体と能力をもってすれば、多くの困難は乗り越えられるだろう。
だが、それは、あまりにも非効率的だ。
彼女は、神を目指す研究者であり、戦略家だ。現場で泥にまみれる、開拓者の役割は、誰か、他の者に任せるべきだ。
では、誰に?
組織力があり、命令に忠実で、そして、ある程度の戦闘能力と、未知の状況に対応できる柔軟性を持った、都合のいい駒。
そんな存在に、彼女は、一つだけ、心当たりがあった。
栞は、窓の外の、国会議事堂の方角へと、目を向けた。
この一ヶ月、彼女の忠実な「対価の供給源」として、そして、彼女が与えた「力」の恩恵を最も受けている、あの組織。
「うーん………」
彼女は、楽しそうに、そして、少しだけ、意地悪く、呟いた。
「日本政府に、異世界征服でも、させる?」




