第61話
深夜。東京、橘栞のマンションの一室。
その部屋は、世界の運命を左右する神の玉座であると同時に、今や、地球上で最も静かで、そして最も贅沢な時間が流れる場所となっていた。
本体である橘栞は、体に馴染んだワークチェアに深く身を沈め、窓の外に広がる、人間たちが作り出した光の天の川を、静かに眺めていた。手には、お気に入りのマグカップ。ドリップしたばかりのキリマンジャロの、芳醇な香りが、静かな部屋に満ちている。
数分前まで、彼女のすぐ隣には、もう一人の自分がいた。
豪奢なゴシック・ロリタのドレスに身を包んだ、KAMIの姿をした分身。彼女は、モスクワと北京での、二人の不死身の独裁者との謁見という、あまりにも重い任務を終え、この部屋へと帰還したばかりだった。
そして、その役目を終えた分身は、光の粒子となって、すぅっと栞の本体へと還っていった。膨大な経験値と、そして、どこかうんざりとした疲労感だけを残して。
「……ふぅ」
栞は、小さく息を吐いた。
プーチンと、習 近平。二人の、底知れない権力者との対話。その記憶が、自らの脳内で再生される。彼らの、剥き出しの野心。神の力さえも、自らの支配の道具として使いこなそうとする、その傲慢なまでの自信。
(面白いわね、人間って)
彼女は、どこか他人事のように、そう思った。
だが、その「面白さ」は、彼女にとって、もはやメインの関心事ではなかった。
彼女の意識は、その謁見がもたらした、副産物…いや、真の「報酬」の虜になっていた。
彼女は、目の前の空間に、半透明のスキルウィンドウを呼び出す。
そこには、つい先ほど、新たにアンロックされた二つの項目が、誇らしげな光を放っていた。
「やったわ…。」
思わず、独り言が漏れた。
「プーチン大統領に色々教えたら、弟子扱いになって、【弟子の成長を対価に変換する】スキルを解禁して、ゲットできた!」
それは、彼女の予想を超えた、素晴らしい収穫だった。
あの日、プーチンが独力で『因果律改変能力』の初歩をマスターした瞬間。栞のスキルツリーに、この新しい、そして極めて魅力的なスキルが、突如として出現したのだ。
『師』が『弟子』の成長を観測することで、その成長の一部を、自らのリソースとして還元させる。
それは、まるで自分が育てたコンテンツから、ロイヤリティ収入を得るかのような、究極の不労所得システムだった。
プーチンが、神への道を駆け上がれば上がるほど、その過程で生み出される膨大な経験値の一部が、自動的に、栞の『対価』へと変換されていく。
(これで、ロシアという国家のリソースを、間接的に、そして半永久的に、吸い上げることができる。なんて、効率的なのかしら…)
彼女は、そのあまりの見事なシステム設計に、感嘆のため息をついた。
そして、もう一つ。
さらに巨大な、そして、これからの世界のあり方を決定づける、究極のスキル。
「あと、【信仰心を対価に変換する】スキルも、ゲットできたわ」
これは、地球の先輩神々…イエスや仏陀たちから、チャットルームでアドバイスされたものだった。
ローマ教皇レオ14世が、サン・ピエトロ広場で、あの歴史的な奇跡を起こした瞬間。全世界の、十数億のキリスト教徒から、爆発的に生まれた感謝と、畏敬と、そして純粋な信仰の念。その、目に見えない巨大な精神エネルギーの奔流が、KAMI…すなわち、その器である自分へと流れ込んでくるのを、彼女は確かに観測していた。
そのエネルギーを、正式に『対価』として変換するための、インターフェース。それが、このスキルだった。
彼女が、そのスキルを有効化した瞬間。
世界が、その見え方を変えた。
彼女の超感覚的な知覚が、地球を覆う、新たなエネルギーの流れを捉える。
ヨーロッパ、南北アメリカ、そしてアフリカの一部から、まるで黄金のオーロラのように、巨大な、そして温かい光の川が、天へと昇り、そして、この東京の、小さなマンションの一室にいる自分へと、緩やかに、しかし絶え間なく、流れ込んできている。
それは、あまりにも美しく、そしてあまりにも強大な、信仰という名のエネルギーだった。
「これで、対価効率が、大幅にアップするわね…」
栞は、その黄金の川の流れを、恍惚と見つめた。
「天使扱いで、キリスト教全体の信仰心も貰えるみたいだし。この調子で、これから始まるイスラム教の奇跡も、インドのヒンドゥー教の祈りも、全部、私の『対価』として頂戴できるわ」
それは、もはやゴミ拾いや、地脈からのエネルギー抽出などとは、比較にならないほどの、高純度で、そして無限の可能性を秘めた、新しいリソースだった。
人類が、神を信じ、祈り続ける限り、自分は、何もしなくても、『全能』へと近づき続けることができる。
「おまけに、若返りポーションの売却益の5%も、対価で貰えたし」
先日行われたオークションの、10兆円という天文学的な落札額。その5パーセント、実に5000億円分に相当する『対価』が、先日、エルドラとの最終的な契約締結と共に、彼女のアカウントへと振り込まれていた。
それは、信仰エネルギーという無限のインカムに比べれば、ささやかなボーナスに過ぎなかったが、それでも、当面の活動資金としては、十分すぎる額だった。
「さて、と」
栞は、コーヒーを一口飲んだ。そして、満足げに、息をついた。
対価は、潤沢にある。新しい収入源も、確保した。
「次は何をしようかしら?」
その、独り言。
それに、答える声があった。
「……うーん」
栞の背後、ソファの上で、いつの間にか、もう一人の自分が、いつものゴシック・ロリタのドレス姿で、膝を抱えて座っていた。先ほど統合したはずの、KAMIの分身。栞は、自らの思考の一部を、常に彼女の姿で、客観的な対話相手として、外部に実体化させておくのが、最近の癖になっていた。
「まだ、何かするの?」
分身のKAMIは、どこかうんざりとした、そして少しだけ、拗ねたような声で言った。
「少しは、手加減してあげたら? 私が、官邸や、バチカンや、クレムリンに行くたびに、日本の政府のあの人たち、寿命が縮んでるわよ?」
彼女は、頬をぷくりと膨らませた。
「この前、九条さんに和菓子をお土産に貰った時、彼の目の奥が、完全に死んでいたわ。『どうぞ、KAMI様。これでもお食べになって、どうか、どうか、しばらくは、何事も起こされませぬように…』って、心の底から祈っているのが、聞こえてきたもの」
「私がいくたび、また面倒事を増やすのか、って顔してるわよ、日本政府…」
その、あまりにも人間的な、そして同情に満ちた、もう一人の自分の言葉。
栞は、ふん、と鼻を鳴らした。
「それはそれ、これはこれよ」
彼女の論理は、どこまでも冷徹だった。
「彼らの心労は、彼らの問題。私のプロジェクトの進捗とは、全く別の話。それに、彼らには、ちゃんと『福利厚生』として、便利なスキルを与えてあげたじゃない。それで、文句を言われる筋合いはないわ」
栞は、再びスキルウィンドウを開き、神々のチャットルームで提示された、あの壮大なToDoリストを、眺めた。
『1. 地球の砂漠、緑地化計画』
『2. ムー大陸の浮上』
…どれも、魅力的だ。実行すれば、膨大な対価と、そして何よりも、面白い結果が観測できるだろう。
だが、同時に、彼女は理解していた。
これらのプロジェクトは、あまりにも地球という惑星に、直接的に干渉しすぎる。
これを実行すれば、また、沢村や九条たちが、血を吐くような調整作業に追われることになるだろう。気候変動、領土問題、生態系の破壊…。考えただけで、面倒くさかった。
彼らの悲鳴を、聞くのが。
(……少し、飽きたのよね)
栞は、正直に、そう思った。
この、地球という、小さな、そして面倒な箱庭の中で、人間たちの顔色を窺いながら、事を進めるという、このゲームに。
もっと、自由が、欲しかった。
誰にも、何も、気兼ねすることなく。
ただ、純粋な、未知との遭遇。
そして、自分の力の、限界を試すことができる、新しいステージ。
彼女の視線は、スキルリストの、さらに深層。
これまで、莫大なコスト故に、アンロックするのを躊躇していた、一つの項目へと、吸い寄せられていった。
『異世界への扉』の上位互換。
その名は――。
【――並行世界移動(Parallel World Travel)】
「……これね」
彼女は、呟いた。
これさえあれば。
自分は、この地球という、唯一無二のしがらみから、解放される。
無数の、IFの世界。
自分が、賢者の石を手に入れなかった世界。
人類が、全く異なる歴史を歩んだ世界。
あるいは、そもそも、人類が存在しない、地球。
その、無限の可能性。無限の、フロンティア。
「よし、決めたわ」
彼女は、ためらわなかった。
「とりあえず、並行世界移動を、解禁っと」
彼女がそう念じると、オークションで得た莫大な対価が、その大半を消費され、代わりに、彼女のスキルリストに、新しい、そして究極の「鍵」が、追加された。
彼女の脳内に、新しい世界の座標軸が、無数に展開されていくのが、分かった。
「さて。少し、私は、並行世界を旅するわ」
彼女は、椅子から立ち上がると、ソファに座る、もう一人の自分に、告げた。
「その間、この世界は、あなたに任せる」
「……えっ」
分身のKAMIは、きょとんとした顔で、彼女を見上げた。
「私が、お留守番?」
「そうよ」と、栞は頷いた。「あなたは、私の分身であると同時に、この世界と私を繋ぐ、唯一のアンカー。私が、どこか別の宇宙で、道に迷ってしまわないための、大切な灯台なの」
そして、彼女は、最も重要な指示を、与えた。
「私とあなたは、常に感覚を共有するから。もし、私の本体が、旅の途中で、何か不測の事態に陥ったら…その時は、あなたが、新しい『本体』になるのよ。だから、しっかりしてなさい」
その、あまりにも重い、そして不吉な響きさえ持った、言葉。
分身のKAMIは、ゴクリと、喉を鳴らした。
「…何か、って、あなたに、何か起きるっていうの?」
「さあね。分からないわ」と、栞は、初めて、心の底から楽しそうに、笑った。「分からないから、面白いんじゃない。でも、万が一、ということがある。そのための、保険よ」
そして、彼女は、まるで母親が娘に言い聞かせるように、付け加えた。
「それと、私がいない間、甘いものばかり、食べないこと。いいね? 九条さんたちを、あまり困らせるんじゃないわよ」
「……はーい」
分身のKAMIは、少しだけ不満そうに、しかし、素直に、頷いた。
これで、準備は、整った。
この世界に残るのは、完璧な、そして非情な、神の代理人としての、KAMI。
そして、旅に出るのは、橘栞という、ただ一人の、好奇心に満ちた、冒険者。
栞は、自室の、何もない空間に向かって、手をかざした。
彼女が、アンロックしたばかりの、新しいスキルを行使する。
「――開け。隣なる、世界への扉」
彼女の目の前の空間が、まるで水面のように、波紋を描き始めた。そして、その中心が、漆黒の、しかし、その奥に無数の銀河が渦巻いているかのような、美しい亀裂となって、口を開いた。
その亀裂の向こう側からは、この世界の物理法則とは、明らかに異なる、未知の匂いと、光が、漏れ出してきている。
「じゃあ、私は、旅に出るわ」
栞は、KAMIの姿をした、もう一人の自分を、振り返った。
「留守は、頼んだわよ」
「…ええ。いってらっしゃい、私」
KAMIは、静かに、そして少しだけ、寂しそうに、微笑んだ。
「行ってくるわ」
その、短い別れの言葉を最後に。
橘栞は、ためらうことなく、その次元の亀裂の、眩い光の中へと、その身を投じた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、窓の外に広がる東京の夜景を、ただ一人、静かに見つめる、ゴシック・ロリタ姿の少女だけだった。
彼女の、そして人類の、本当の神の不在の時代が、今まさに、始まろうとしていた。
そのことに、まだ、世界の誰も、気づいてはいなかった。




