第6話
橘栞の分身であるゴスロリ姿の少女が首相官邸を去ってから、一ヶ月が経過した。
世界は、表面的には、以前と何も変わらない日常を繰り返しているように見えた。株価は乱高下を繰り返した末に、不気味なほどの静けさを取り戻し、あれほど騒がしかったメディアも、日本政府が「調査中」の一点張りで固く口を閉ざしたため、次第に熱を失いつつあった。あの歴史的な記者会見は、集団幻覚だったのではないか。そんな揶揄さえ、ネットの片隅では囁かれ始めていた。
だが、水面下では、世界は激しく揺れ動いていた。
そして、その震源地にいる日本政府、とりわけ総理大臣の沢村とその側近たちは、生きた心地のしない日々を送っていた。
彼らと、栞との歪な共生関係は、驚くほど順調に機能していた。
栞は、約束通り、日本が持て余していた高レベル放射性廃棄物を、まるで通販サイトのカートに商品を入れるかのように、遠隔で、そして定期的に対価として吸収していった。長年、国家の懸案であった最終処分場の問題が、人知れず、しかし着実に解決へと向かっていたのだ。
その見返りとして、政府はいくつかの「力」を授かった。
沢村総理個人に与えられた「物理攻撃の無効化」能力は、極秘裏に行われた自衛隊の演習場で、その絶対的な性能が証明された。対物ライフルで撃たれようが、至近距離で手榴弾が爆発しようが、彼自身は、服が少し汚れるだけで、全くの無傷だったのだ。その映像を見た防衛省のトップたちは、あまりの現実離れした光景に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
他にも、官房長官の九条には「限定的な未来予知」の力が与えられた。それは、数日先に起こる、ごく小規模な事故や災害を、断片的なキーワードとして察知できるというものだった。その情報のおかげで、政府は大規模な株価のシステムエラーや、地方で起きた土砂崩れを、未然に、そして秘密裏に防ぐことに成功していた。
まさに、神の奇跡。
もし、この事実が公になれば、沢村政権の支持率は、歴史上のいかなる政権も成し得なかったほどの高みに達するだろう。
だが、彼らは、その力の代償として、日に日に重くなるプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
「……アメリカから、三度目の非公式な問い合わせがあった」
地下の対策本部で、外務大臣が疲弊しきった顔で報告した。「『日本が接触した知的存在に関する、全ての情報を共有されたし』と。もはや、最後通牒に近い口調だった」
「中国とロシアも同様です」と、内閣情報調査室の担当者が続く。「我が国の政府中枢、及び主要な研究機関に対するサイバー攻撃の数が、先月の会見以降、通常の三百倍以上に跳ね上がっています。彼らは、我々が何かを隠していると確信している」
最初の記者会見は、世界中に「日本には何かがある」と知らせる結果となった。その「何か」が、他国にとっては喉から手が出るほど欲しい「力」であると同時に、自国の安全保障を根底から覆しかねない「脅威」でもある。
世界中の諜報機関が、今、この日本に、その総力を結集させていた。スパイ衛星は、日本のあらゆるインフラを二十四時間体制で監視し、各国の大使館員は、情報提供者を探して、霞が関の官僚たちに接触を繰り返している。
この秘密は、あまりにも重い。そして、あまりにも価値がありすぎる。
このままでは、いずれどこかから情報が漏洩し、日本は、この「神の力」を巡る、世界規模の争奪戦の中心地になってしまうだろう。それは、第三次世界大戦の引き金にさえなりかねない。
「……我々は、虎の尾を踏んでしまったのかもしれん」
沢村が、誰に言うでもなく呟いた。神との取引は、確かに国益をもたらした。しかし、それは同時に、世界中の虎の群れを、自国の庭に招き入れることと同義だったのだ。
重苦しい沈黙が、会議室を支配する。
その沈黙を破ったのは、またしても、官房長官の九条だった。
「総理。我々は、再び、決断を迫られているようです」
「……何が言いたい、九条君」
「我々がこの『神』を独占しようとすることこそが、最大のリスクなのです。秘密は、いつか必ず漏れる。他国が、我々と同じように『神』との接触に成功する可能性も、ゼロではない。その時、世界は、複数の神の力を手にした国家が睨み合う、破滅的な冷戦時代に突入するでしょう」
九条は、一同を見渡し、静かに、しかし、恐るべき提案を口にした。
「そうなる前に、我々自身の手で、この情報を世界に公開するのです。我々が、この『神』との唯一の対話窓口であることを、全世界に証明し、認めさせる。もはや、それしか道はない」
「正気か!」と、防衛大臣が椅子を蹴立てるように立ち上がった。「あの少女の映像を、世界に公開するだと!? それは、我々が超常的な力を手にしたと、自ら白状するようなものだぞ! 世界中が、我々を敵と見なすだろう!」
「その通りだ」と、外務大臣も同調する。「それは、日本が、世界に対して『我々は神を味方につけた』と宣言するに等しい。外交的に、完全に孤立する。経済制裁だけでは済むまい。国連の場で、我が国に対する非難決議案が…」
「ですが」と、九条は、その反論を冷静に遮った。「その映像は、同時に、最強の抑止力にもなり得ます」
彼は、スクリーンに、先日極秘裏に撮影された、沢村総理の「能力実験」の映像を映し出した。対物ライフル弾が、沢村の身体に当たる寸前で、見えない壁に阻まれて砕け散る。その衝撃的な映像に、誰もが息を呑んだ。
「これは、手付金に過ぎません。我々の協力者…『神』は、これ以上の力も、容易に与えることができる。その事実を、あの官邸での映像と共に世界に示すのです。我々が公開するのは、一個人の超能力ではない。物質を素粒子レベルで分解し、再構築する、文字通り『神の御業』の記録です。それを見た上で、なお、我が国に軍事的な圧力をかけようと考える国が、果たしてあるでしょうか?」
九条の言葉は、悪魔の論理だった。しかし、そこには、否定しがたい説得力があった。
核兵器が、その圧倒的な破壊力によって、大国間の戦争を抑制してきたように。この「神の力」の証明は、あらゆる物理的な侵略を無意味化する、究極の防衛システムになり得る。
「……我々は、日本が、この力の唯一の『窓口』であり、『管理者』であることを、世界に認めさせるのです。それは、孤立ではない。新たな世界秩序の中心に、我が国が立つことを意味する」
会議は、そこから数時間にわたって紛糾した。
しかし、彼らに残された選択肢は、もはや多くはなかった。このまま秘密を抱えて、世界の諜報機関との終わらない消耗戦を続けるか。それとも、全てを白日の下に晒し、世界中を敵に回す覚悟で、新たな時代の覇権を握りに行くか。
最終的に、沢村総理は、後者を選んだ。
彼の脳裏には、あのゴスロリ姿の少女の、底の知れない赤い瞳が焼き付いていた。
あの存在を、この国だけで抱え続けることは、不可能だ。ならば、世界全体を、この新たな現実のテーブルに、無理矢理にでも着かせるしかない。
「……よろしい。二度目の会見を開く」
沢村は、腹の底から声を絞り出した。「世界が、我々をどう判断するか。もはや、神のみぞ知る、だ」
そして、あの日から一ヶ月と数日後。
世界は、再び、日本の総理大臣による緊急記者会見に、その全ての注目を向けることになった。
官邸の会見場に現れた沢村の顔は、以前よりも、さらに深く、そして険しいものになっていた。彼は、居並ぶ内外の記者たちを前に、ゆっくりと、しかし、力強く語り始めた。
「先日の会見において、我々は、我が国で発生している『広域物質消失事象』が、人知を超えた知的存在によるものであると発表し、対話を呼びかけました。本日、国民の皆様、そして、世界の皆様に、ご報告いたします。――我々の呼びかけに、応答がありました」
その一言で、会見場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「静粛に!」
沢村は、それを一喝で制すると、続けた。
「我々は、その存在との、最初の接触に成功しました。本日、人類の歴史における、この重大な瞬間を、我々は、世界中の皆様と共有するべきであると判断いたしました。これから、その際に記録された、一切の編集を加えていない監視カメラの映像を、公開します」
その言葉を合図に、会見場の巨大スクリーンと、全世界で生中継されている放送の画面が、切り替わった。
そこに映し出されたのは、官邸の地下にある、対策本部の会議室の映像だった。日付と時刻のテロップが、これが数週間前の記録であることを示している。
重苦しい雰囲気の中、会議を続ける沢村や九条たちの姿。
世界中の視聴者が、固唾を飲んで画面を見守る。
そして、その瞬間は訪れた。
部屋の中央に、突如として、あのゴスロリ姿の少女が出現する。
世界中のニューススタジオで、解説をしていたコメンテーターたちが、一斉に言葉を失った。ロンドンのBBC、ニューヨークのCNN、北京のCCTV。全ての放送局が、ただ、沈黙のうちに、そのありえない光景を全世界に垂れ流し続けた。
映像は続く。
警護官たちが銃を抜き、沢村がそれを制す。
そして、字幕に、少女が発した言葉が表示される。
『私を呼んだのよね? 用は、なに? ゴミを引き取ってるだけなんだけど?』
SNSが、爆発した。
サーバーが、悲鳴を上げた。
世界中のインターネットが、そのたった一言の意味を、処理できずにいた。
そして、映像は、クライマックスへと向かう。
沢村が、力の証明を求める。
少女が、面倒くさそうに指を鳴らす。
次の瞬間、巨大な会議テーブルが、光の粒子となって分解され、宙を舞う。
発射された弾丸が、空中で静止し、同じように粒子へと変わっていく。
そして、完璧な形で、再構築される。
その光景は、もはや、どんなSF映画も、どんなCGも、陳腐に見せるほどの、圧倒的な現実だった。
それは、人類が初めて目の当たりにした、物理法則の「死」の瞬間だった。
世界は、戦慄した。
ワシントンのペンタゴンでは、統合参謀本部のトップたちが、言葉もなくスクリーンを見つめていた。彼らの最新鋭の兵器が、全て、無価値な鉄の塊になったことを、悟ったからだ。
バチカンのサン・ピエトロ広場では、映像を見ていた巡礼者たちが、その場にひざまずき、祈りを捧げ始めた。ある者は、それを天使の奇跡と呼び、ある者は、悪魔の顕現だと叫んだ。
渋谷のスクランブル交差点では、巨大ビジョンに映し出された映像に、全ての人が足を止め、空を見上げていた。
映像が終わると、画面は、再び、官邸の会見場に戻った。
沢村総理は、静まり返った記者たちを前に、最後の言葉を告げた。
「ご覧いただいた通り、我々の世界には、新たな法則、新たな力が存在します。その意図、その目的の全てを、我々はまだ理解していません。しかし、我々、日本国政府は、この存在との唯一の対話窓口として、全人類の平和と安定のため、最大限の努力を尽くす所存です」
それは、事実上の、新たな時代の幕開け宣言だった。
その頃。
全ての騒乱の中心にいる橘栞は、自室のソファで、その歴史的な放送を、ネットのライブ配信で見ていた。
「へぇ、あの時の映像、公開したんだ」
彼女は、どこか他人事のように呟くと、マグカップに残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。
画面の中では、自分の分身が、大国のトップたちを相手に、圧倒的な力を見せつけている。
その光景に、彼女は、何の感慨も抱かなかった。
「……ふぅん。動画の画質、結構いいじゃない。でも、肝心の取引の部分は、カットしたのね。まあ、賢明な判断だわ」
彼女は、そう一人ごちると、パタリとノートパソコンを閉じた。
そして、おもむろにスキルウィンドウを開く。
そこには、先日、政府から提供された膨大な対価によって解放された、新しいスキルのリストが、彼女の選択を待っていた。
世界が、自分の一挙手一投足に震撼していることなど、全く意に介さず。
彼女の関心は、ただ、次なる知的好奇心を満たすための、新しい「実験」にしか向いていなかった。




