第56話
深夜。日本の政治の中枢である首相公邸の一室は、世界の喧騒から切り離された、真空のような静寂に支配されていた。
窓の外では、手入れの行き届いた日本庭園が深い闇に沈み、時折、鹿威し(ししおどし)の乾いた音が、この世ならざる静けさを際立たせる。
その静寂の中、四つの身体を持つ二人の男が、完璧なまでの無言のうちに、この国の、そして世界の運命を処理し続けていた。
本体の沢村総理は、アメリカのトンプソン大統領との極秘ビデオ会談に応じ、その分身は、山と積まれたゲート構想の国内調整に関する陳情書に、機械のような正確さで目を通している。
本体の九条官房長官は、来たるべきオークションの警備計画について警察庁長官と回線を繋ぎ、その分身は、異世界からもたらされた膨大な科学データを分類し、優先順位を付けていた。
会話はない。アイコンタクトさえない。全ての意思疎通は、思考の共有によって、瞬時に、そして完璧に行われる。
神の恩恵によって手に入れた超効率。それは彼らから、人間らしい非効率…すなわち、迷い、笑い、そして共に苦悩を分かち合うという、最後の人間性さえも奪い去っていた。彼らは、もはや眠らない。ただ動き続けるだけの、国家という名の機械人形だった。
その静かで、完璧な執務空間に、それは何の兆候もなく、そして自然に現れた。
気がつけば、そこにいた。
部屋の中央、来客用のソファに、ちょこんと腰掛けたゴシック・ロリータ姿の少女。
その小さな手には、美しい漆塗りの菓子皿。そしてその上に乗せられた、季節の草花を模した芸術品のような練り切りを、小さな黒文字(楊枝)で、楽しそうに突いている。
四つの身体が、寸分の狂いもなく、同時にピタリと動きを止める。
全ての回線が、瞬時に、そして丁重に切断された。
沢村と九条の四つの身体は、まるでプログラムされたかのようにソファの前のテーブルへと集い、深々と、そして無言で頭を下げた。
神の、気まぐれな巡察。
それは彼らにとって、もはや日常の一部となりつつあった、最も緊張を強いられる業務監査の時間だった。
「ん。おいしい」
少女――KAMIの分身は、口に入れた練り切りの繊細な甘さに、満足げに目を細めた。
「やっぱり、この前の晩餐会で出たヤツ、お気に入りになったわ。『花鳥風月』とか言ったかしら。日本の、こういう細かいところ、好きよ」
彼女は、まるで自分の家で寛ぐかのように、もう一つ、菊の花を模した菓子を口に運んだ。そしてようやく、目の前で石のように固まっている四人の男たちに、視線を向けた。
「それで? 今日は、定例報告の日だったわよね。何か、面白い話はある?」
その軽い口調。
九条の本体が、一歩前に進み出た。彼の顔には、完璧なまでの官僚としての仮面が、再び装着されている。
「はい、KAMI様。ご機嫌麗しく、何よりに存じます。では早速ですが、先日の四カ国会議で決定いたしました事項について、ご報告申し上げます」
彼はまず、最も厄介な議題から切り出した。
「次なる『奇跡』の被験者選定の件。KAMI様のご意向、そして各国の利害を総合的に勘案した結果、神という、この問題の重大性に鑑みまして、イスラム世界の指導者とすることで、四カ国間の基本的な合意が形成されました」
「ふーん。イスラムね。まあ、妥当なところじゃない?」
KAMIは、特に興味もなさそうに、菓子を食べながら相槌を打った。
「ですが」と、九条は続けた。彼の声に、初めて隠しきれない疲労の色が滲んだ。「問題は、そこからでした。ご存知の通り、イスラム世界には、ローマ教皇のような、単一の絶対的な指導者が存在いたしません。大きく分けて、スンニ派とシーア派という二つの潮流があり、それぞれに、極めて影響力の強い指導者が、複数、存在しております」
彼は、この数週間、外務省と諜報機関の総力を挙げて分析した、地獄のような勢力図を、目の前の神に、懇切丁寧に説明し始めた。
「例えば、スンニ派の最高権威としては、エジプト・カイロにございます、アズハル機関の総長がおられます。彼は、千年以上の歴史を持つイスラム法学の最高学府のトップであり、その学術的な権威は、全世界のスンニ派教徒から尊敬を集めております。しかし、彼には政治的な実権が乏しい」
「一方で、政治的な影響力で言えば、サウジアラビアの国王陛下がおられます。彼は、メッカとメディナという二大聖地の守護者を名乗る、スンニ派の盟主です。ですが、彼を候補者とすれば、他のアラブ諸国や、非アラブのイスラム国家からの、猛烈な反発は避けられません」
「そして、シーア派。こちらには、イランの最高指導者という、明確なトップが存在します。ですが、彼を候補者とすれば、それはスンニ派が多数を占めるイスラム世界の、九割を敵に回すことを意味します。我々は、この三竦み、いや、実際にはさらに多くの宗派や国家の思惑が絡み合った、複雑怪奇なパズルの前で、完全に立ち往生しているのが現状です。指導者を、選んでる最中でして…」
九条の、詳細で、そしてうんざりとした報告。
それをKAMIは、菓子を食べる手を止めることなく、ただ、ふんふんと聞いていた。
そして、彼が話し終えるのを待って、心底不思議そうに、首を傾げた。
「うーん…。」
彼女は、口の中に残っていた餡の甘みを味わうように、少しだけ黙った後、まるで世界の真理でも告げるかのように、あっさりと、そして無邪気に言った。
「最高指導者が複数いるなら、その人たち全員で、良いわよ?」
「……………は?」
九条の、完璧なポーカーフェイスが、生まれて初めて、完全に崩壊した。
「だから」と、少女は、まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるように続けた。「スンニ派の偉い人と、シーア派の偉い人。あと、他にもいるなら、その人たちも。全員に、同時に、奇跡の起こし方を教えてあげれば、それで解決じゃない。なんで、わざわざ一人に絞る必要があるの?」
その、シンプルで、神がかった、そして人間世界の常識からかけ離れた解決策。
九条は、絶句した。
彼の、神のスキルで強化されたはずの超高速思考が、その言葉の意味する、カタストロフ的な、あるいは天国的な未来図を、処理できずに、完全にショートしていた。
全員に? 同時に?
それは、問題の解決ではない。
問題の、次元そのものを、消滅させる行為だ。
「ただし」と、少女は、一つの、しかし極めて重要な条件を付け加えた。「面倒だから、一箇所に集めてもらうけど。私があっちこっちに出向くのは、嫌だから。あなたたちが、上手く調整して、全員を、同じ場所に、同じ時間に、集めなさい。できるでしょう?」
その、悪魔の、あるいは天使の囁き。
数秒間の、完全な沈黙の後。
九条の口から漏れたのは、嗚咽にも似た、歓喜の声だった。
「本当ですか!?」
彼の顔には、この数週間、彼を苛み続けていた地獄の苦悩から一気に解放された、純粋な安堵と、そして官僚としての興奮が浮かんでいた。
「それなら、調整が捗ります…! ええ、捗りますとも! 問題は、神学的な対立から、単なる『開催場所』と『警備』という、物理的な交渉へと変わるのですから! それならば、我々が介入できる余地は、いくらでもある!」
彼は、もはや神への敬意も忘れ、一人のプロジェクトマネージャーとして、興奮気味に早口で捲し立てていた。
「なるほどね。じゃあ、その件は、それでよろしく」
KAMIは、もうその話題に興味を失ったとばかりに、次の菓子へと手を伸ばした。そして、全く別の話題を、唐突に切り出した。
「それより、若返りのポーションのオークションの進捗は、どうなの? あれ、結構面白そうじゃない」
「は、はい!」
九条は、慌てて思考を切り替え、次の報告へと移った。
「ええ。会場は、我が国の迎賓館にも隣接し、歴史と格式、そして最高のセキュリティを誇る、帝国ホテルで開催する予定です。日程は、世界中の参加者のスケジュールを調整した結果、一ヶ月後に開催することで、内定いたしました」
彼は、手元の端末に、現在の応募状況を映し出した。そこには、世界中の富と権力を象徴する、綺羅星のような名前が、リストとなって並んでいた。
「すでに、世界中のあらゆる国家元首、王族、そしてフォーブス誌の長者番付に名を連ねる、ほぼ全ての人物から、招待の要請が来ております。現在、外務省と警察庁が連携し、身元調査と、テロや犯罪組織との関わりについての厳格な審査を行いながら、順次、招待状を発送している段階です。当日は、人類史上、最も高価で、そして最も厳戒態勢のオークションとなるでしょう」
「なるほどね。了解」
KAMIは、満足げに頷いた。彼女にとって、それは面白いイベントの進行状況を確認する程度の、軽い興味でしかなかった。
そして彼女は、最後の、そして彼女が最も関心を寄せているであろうプロジェクトについて、問いかけた。
「それで、リリアン王国には、何を贈るの? あのポーションの対価として」
「はい」と、九条は答えた。「エルドラ様との会談で、彼女が最も関心を示されたのは、我々の『科学技術』そのものでした。ですが、いきなり最先端の技術を提供することは、彼らの社会に無用な混乱を招きかねません。そこで、第一段階として、彼らの生活を、そして文明を、着実に、しかし劇的に向上させる技術を提供すべきであると、我々は判断いたしました」
彼は、その具体的な内容を語った。
「そうですね。まずは、電気を使わない、アンモニアを冷媒とした、簡易的な『冷却技術』あたりでも良いかな、と考えております。これさえあれば、彼らの世界の食料保存、医療品の管理、そして何より、人々の生活の質は、飛躍的に向上するはずです。武器ではなく、民生技術。それが、我々の最初の答えです」
「そして、その後は」と、彼は続けた。「一方的な技術供与ではなく、相互理解を深める場が必要です。あとは、地球とアステルガルド、双方から最高の知性を集めて、合同の学術会議を開催する。魔法と科学、その二つの道が、いかにして交わり、共に発展していけるのか。それを、共に探求していく。それこそが、真の友好の証となると、我々は信じております」
その、誠実で、そして長期的な視野に立った壮大な計画。
KAMIは、初めて、その赤い瞳に、純粋な感心の色を浮かべた。
「へえ。あなたたち、結構ちゃんと考えてるのね。面白いじゃない」
彼女は、最後の菓子を口に放り込むと、満足げに立ち上がった。
「分かったわ。じゃあ、全部、その方針で進めなさい。何か問題が起きたら、また呼んでちょうだい。…まあ、起きても、あなたたちが何とかするんでしょうけど」
その、どこまでも他人事な、しかし絶対的な信頼(という名の丸投げ)の言葉。
「あ、そうだ」
彼女は、去り際に、何かを思い出したかのように振り返った。
「この『花鳥風月』。美味しいから、お土産に、いくつか包んでくれる?」
その、場違いな、そして神らしからぬ、おねだり。
数秒の沈黙の後。
沢村と九条の、四つの身体が、同時に、深々と、そして完璧に、頭を下げた。
「――はいッ! 喜んで!!!」
神は、去った。
手には、最高級の和菓子の桐箱をぶら下げて。
後に残されたのは、静寂と、そして新たに与えられた、三つの、あまりにも巨大な宿題だった。
イスラム世界の、全ての指導者を集めた、史上初の頂上会談のセッティング。
人類の欲望の全てが渦巻く、史上最高のオークションの開催。
そして、二つの世界の未来を架ける、史上初の科学と魔法のシンポジウムの計画。
沢村は、崩れ落ちるように、椅子にへたり込んだ。
「……九条君。私は、もう、自分が総理大臣なのか、イベントプランナーなのか、分からなくなってきたよ…」
だが、その隣で、九条は、もはや疲労の色さえ浮かべていなかった。
彼の四つの身体は、既に、それぞれのタスクフォースを編成し、完璧な分業体制で、その地獄のような業務に、着手し始めていた。
一人は、外務省を通じて、中東各国の水面下の調整を。
一人は、警察庁と、帝国ホテルの警備計画の最終確認を。
一人は、文部科学省と、学術会議の参加メンバーの人選を。
そして本体の彼は、ただ静かに、主君のために、新しい、熱い茶を淹れていた。
「総理」
彼は、湯気の立つ湯呑みを、そっと沢村の前に置いた。
「お疲れでしょうが、我々には、休んでいる暇は、ありません。世界は、我々の答えを、待っておりますので」
その声は、もはや人間のものではなかった。
国家という、眠らない機械の、冷徹な、そしてどこまでも頼もしい、作動音。そのものだった。
彼らの、終わりのない戦いは、またしても、新たな、そしてより困難なステージの、幕を開けたのだった。