第54話
その日、日本の政治の中枢である首相官邸の記者会見場は、異様なほどの静けさと、その静寂の下でマグマのように煮えたぎる期待感に包まれていた。
数時間前に、国内外の主要メディアに向けて発せられたのは、ただ一文。『政府による、異世界交流に関する重要発表について』。
ゲート構想を巡る国内の狂騒が日増しに熱を帯び、ローマ教皇の奇跡が世界の宗教観を根底から揺さぶった、まさにその直後。このタイミングでの「重要発表」が、ただの定例報告でないことは、この場に集った百戦錬磨の記者たちならば誰もが肌で感じていた。
異世界からもたらされた新エネルギー『アステルニウム』の実用化か。あるいは、第二、第三の異世界への扉が開かれたのか。憶測が、囁き声となって会場の隅々で交わされる。無数のカメラのレンズが、これから歴史が刻まれるであろう演台の一点に、飢えた獣の目のように向けられていた。
やがて、定刻。
演台に立ったのは、沢村総理ではなかった。
内閣官房長官、九条。その鉄仮面のような無表情は、今日の発表が、感情的な熱狂や、政治的な駆け引きとは無縁の、どこまでも冷徹で、そして事務的な「報告」であることを、暗黙のうちに物語っていた。
会場が、息を呑む。
九条は、集まった記者たちを一瞥すると、手元の分厚い資料には一切目を落とすことなく、用意してきた言葉を、完璧な官僚としての口調で紡ぎ始めた。
「――皆様、本日は急な呼びかけにも関わらず、お集まりいただき、誠にありがとうございます」
その第一声は、どこまでも平坦だった。だが、その声に含まれた微かな重みが、これから語られる内容の重大さを、何よりも雄弁に物語っていた。
「先般、我が国を公式訪問された、友好国アステルガルド・リリアン王国の大魔導師エルドラ様との文化・科学技術交流は、極めて実り多い成果を収め、両世界の友好関係は、新たな、そしてより強固なステージへと進みました。政府として、この歴史的な一歩を、国民の皆様と共に喜びたいと存じます」
まず、外交的成功という名のジャブを放つ。それは、これから投下される爆弾の、穏やかな前奏だった。
「その、深化した友好の証として。本日、リリアン王国政府より、我が国に対し、一つの、貴重で、そして重い『贈り物』が、正式に寄託されましたことを、ここにご報告いたします」
贈り物。その言葉に、記者たちの指が、一斉にキーボードの上で身構えた。
「それは、リリアン王国が建国以来、王家の至宝として、決して国外に持ち出すことのなかった、伝説の秘薬。その名を――『若返りのポーション』と申します」
若返りの、ポーション。
その、まるで御伽噺から飛び出してきたかのような単語が、現代日本の政治の中枢で、公式な言葉として発せられた瞬間。
数秒間、会見場は、時が止まったかのような、絶対的な沈黙に支配された。
そして、次の瞬間。
嵐のようなシャッター音と、抑えきれないどよめきが、爆発した。
九条は、その喧騒を、手のひらで静かに制した。彼の表情は、依然として、能面のように変わらない。
「皆様、お静かに。これから、その詳細について、正確にご説明いたします」
彼は、まるで製品のスペックを説明するエンジニアのように、淡々と、しかし一言一句違わぬように、その奇跡の仕様を語り始めた。
「このポーションの効果は、リリアン王国の伝承によれば、ただ一つ。『服用した者の肉体を、その者が最も心身ともに充実していたとされる、二十歳の時点にまで、完全に巻き戻す』。ただ、それだけです。そして、人格や知識、記憶は、服用前の状態を完全に維持したまま、肉体だけが若さを取り戻す、と。ただし、その絶大な効果と引き換えに、このポーションは、生涯においてただ一度しか使用できない、という絶対的な制約があります」
二十歳への、回帰。
記憶はそのままに。
甘美で、そして具体的な奇跡の内容。
会場の記者たちは、もはやペンを走らせることも忘れ、ただ呆然と、その言葉を聞いていた。老いた権力者、病に苦しむ富豪、そして、過ぎ去った若さを惜しむ、この世の全ての人間の、究極の夢。それが今、現実のものとして、提示されたのだ。
「皆様、お察しの通り、このポーションが持つ価値は、我々がこれまで扱ってきた、いかなる物質とも、比較になりません。それは、金銭的な価値を超え、人の生き死に、そして社会の根幹そのものに触れる、禁断の果実とも言えるでしょう」
九条の声が、わずかに重みを増した。
「我々日本政府は、このポーションを寄託された責任として、その扱いについて、数日間にわたり、あらゆる角度から、徹底的な議論を重ねてまいりました。これを、国の発展に貢献した偉大な科学者に与えるべきか。世界平和に尽力した指導者に与えるべきか。あるいは、国家の管理下で、その成分の解析に全てを注ぐべきか」
彼は、そこで一度、大きく息を吸った。
「しかし、我々は、一つの結論に達しました。それは、『このポーションの運命を、我々日本という一国家だけで、独善的に決定するべきではない』という、結論です。誰が、この奇跡に最もふさわしいのか。その問いに、答えを出せる者など、この世には存在しません」
そして彼は、この記者会見の、そして世界の歴史の、核心を告げた。
「故に。日本政府は、ここに、全世界に向けて、宣言いたします。我々は、この『若返りのポーション』の所有権を、全世界を対象とした、公開オークションによって、販売することを決定いたしました」
オークション。
その一言が、記者たちの麻痺していた思考を、再び叩き起こした。
なんだ、と。
売るのか、と。
神の奇跡を、金で、売るというのか。
非難の声が上がるか、と九条は一瞬身構えた。だが、会場を支配したのは、非難ではなかった。
それ以上に巨大な、純粋な「興奮」だった。
人類史上、最も価値のある商品。その価格が、自分たちの目の前で決まる。その歴史的なイベントの目撃者になれる。その、ジャーナリストとしての、あるいは単なる野次馬としての、抗いがたい興奮。
「このオークションは」と、九条は畳み掛けた。「いかなる国家、組織、そして個人も、その参加を妨げられることはありません。参加資格は、ただ一つ。その価値を支払うだけの、資産を持つこと。ただ、それだけです。我々は、このオークションを通じて、このポーションの価値を、誰か一人の判断ではなく、人類全体の、集合的な欲望によって、公正に決定させたいと考えております」
そして彼は、この壮大な計画の、最後の、そして最も重要な仕上げを、付け加えた。
「なお、このオークションによって得られた売却益は、我々が申し受ける、ごく僅かな手数料を除き、その全てを、今後のアステルガルド世界との、平和的かつ持続的な交易のための、共同基金として活用することをお約束いたします。このポーションは、アステルガルドの民からの、友好の証です。その価値は、我々二つの世界の、輝かしい未来のためにこそ、使われるべきであると、我々は信じております」
完璧な、物語だった。
日本は、決して私腹を肥やすのではない。ただ、人類全体の公平性のために、そして二つの世界の未来のために、この困難な「仲介役」という責務を、果たしているに過ぎない。
見事な、そして官僚的な、大義名分。
最後に、彼は、世界中が最も知りたいであろう情報に、釘を刺した。
「オークションの具体的なスケジュール、参加方法、そして最低落札価格など、詳細につきましては、現在、関係各所と鋭意調整中です。決定次第、速やかに公表いたしますので、今しばらく、お待ちいただきたい。私からは、以上です」
質疑応答は、もはや戦場だった。
「長官! その手数料とは、具体的に何パーセントですか!?」
「独裁者や、犯罪組織のリーダーが落札した場合、どうするのですか!? 倫理的な審査は、行わないのですか!?」
「そもそも、ポーションは本物なのですか!? その効果を、政府としてどうやって保証するのですか!?」
その全ての質問を、九条は、完璧なまでに、受け流した。
「手数料については、国際的な慣例に基づき、専門家を交えて透明性の高い形で決定されます」
「価格については、市場原理に委ねるのがオークションの趣旨であり、我々が事前に言及することは差し控えます」
「参加者の審査については、国際法及び国内法に抵触しない範囲で、最大限の門戸を開くのが原則です」
「ポーションの真贋については、寄託者であるリリアン王国政府の、全権大使であるエルドラ様の権威によって、保証されております」
鉄壁。
まさに、鉄壁の答弁だった。
彼は、決して嘘は言わない。だが、決して真実の全てを語ることもしない。
ただ、用意されたルールと、大義名分という名の盾の内側から、相手の全ての攻撃を、無力化していく。
その姿は、もはや政治家ではなかった。
世界のルールそのものを設計し、そしてその運用を司る、究極のゲームマスター。そのものだった。
【世界の反応】
その記者会見の映像は、瞬く間に世界を駆け巡った。
そして、世界は、燃え上がった。
異世界、ゲート構想、ローマ教皇の奇跡。それら全てを、過去のものとして吹き飛ばすほどの、巨大な、一つの欲望の炎。
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
「……あの狐めが(That son of a bitch, Kujo…)」
トンプソン大統領は、執務室のモニターに映し出される九条の顔を見ながら、感嘆と、そして嫉妬が入り混じった声で、呟いた。
「見事だ。実に見事な手腕だ。彼は、世界で最も厄介な爆弾を、世界で最も儲かるビジネスに、一瞬で転換させてみせた。そして、その主導権を、完全に手中に収めた。…我が国の、ウォール街の連中が、束になってかかっても、あれほどのディールはまとめられんぞ」
彼の隣で、CIA長官が苦々しげに報告した。
「大統領。既に、国内の長者番付トップ100のうち、半数以上から、政府に対して非公式な問い合わせが入っております。『オークションへの参加を、全面的に支援してほしい』と。彼らは、本気です。国家予算規模の資金を、動かす準備を始めています」
モスクワ、クレムリン。
二人のプーチンが、一つのチェス盤を挟んで、静かに向かい合っていた。
「……若返り、か」
片方のプーチンが、黒のクイーンを指で弄びながら、面白そうに言った。「我々には、もはや不要なものだがな。死なぬのだから」
「ああ」と、もう片方が答えた。「だが、我々以外の、老いゆく者たちにとっては、究極の宝だ。そして、宝は、時に、最高の武器となる」
彼らの視線が、交錯する。
「…オークション、か。面白い。日本の官僚が考えそうな、回りくどい、しかし確実な手だ。だが、我々は、そんな面倒なゲームに付き合う必要は、ないかもしれん」
「その通りだ。宝は、競り落とすものではない。…奪うものだ」
二人の皇帝の口元に、同じ、冷たい笑みが浮かんだ。
サウジアラビア、リヤドの王宮。
莫大なオイルマネーをその手に握る、老いた国王は、侍従たちが持ってきた会見の報告を聞くと、ただ一言、震える声で命じた。
「…集めよ。我が王家の、全ての富を。そして、世界中の、我が友人たちの力を。…私は、もう一度、あの砂漠を、若き日のように、馬で駆けたいのだ…」
シリコンバレー、巨大IT企業のキャンパス。
世界を変革した天才、しかし、今やその肉体の衰えからは逃れられない、カリスマ創業者は、自らが作ったソーシャルメディアに、ただ一言だけ、投稿した。
『How much?』
その一言だけで、彼の会社の株価は、数パーセント上昇した。
そして、インターネット。匿名掲示板。
スレッドタイトル:【5兆円スタート?】若返りポーション争奪戦 Part. 1【人類オークション】
1 名無しさん@お腹いっぱい。
九条無双、ここに極まれり。
全人類を巻き込んだ、史上最大のデスゲームの開幕を宣言しやがった。
誰が、いくらで、若さを買うのか。
さあ、賭けようぜ。
45 名無しさん@お腹いっぱい。
これ、もう国家間の戦争だろ。
アメリカのIT長者 vs 中東の石油王 vs ロシアのオリガルヒ vs 中国の太子党。
俺たちの知らないところで、とんでもない金が動く。
101 名無しさん@お腹いっぱい。
倫理的にどうなんだよ、これ。
結局、金持ちだけが若さを手に入れて、貧乏人は老いて死ぬだけ。
格差、ここに極まれり。
188 名無しさん@お腹いっぱい。
101
今に始まったことか?
高度な医療も、安全な食料も、昔から金持ちだけのものだろ。
それが、究極の形で可視化されただけだ。諦めろ。
250 名無しさん@お腹いっぱい。
これ、落札したやつ、絶対に暗殺されるだろwww
ポーション奪い合いの、リアルなバトルロワイヤルが始まる。
366 名無しさん@お腹いっぱい。
つーか、九条が言ってた「ごく僅かな手数料」って、絶対僅かじゃねえだろwww
落札価格が10兆円だとしたら、手数料1%でも1000億円だぞ。
日本政府、笑いが止まらんな。
521 名無しさん@お腹いっぱい。
この狂騒を、一番高いところから眺めてるやつがいるんだよな。
そう、KAMI様だよ。
自分の世界のポーション一つで、別の世界の人間たちが、国家予算レベルの金で殴り合ってる。
どんな気持ちで見てるんだろうな。
多分、何も考えてないんだろうな。
東京、とあるマンションの一室。
橘栞は、自らが引き起こした、その全世界的な狂騒の渦を、ノートパソコンの画面越しに、どこか他人事のように眺めていた。
彼女の隣では、KAMIの姿をした分身が、九条の記者会見の録画を見ながら、感心したように呟いていた。
「へえ。九条さん、すごいじゃない。あのポーションの価値を、ああいう形で現金化するなんて。頭いいわね」
彼女は、栞本体の方を振り返った。
「これで、また対価がたくさん手に入るわね。アステルガルドに、どんなすごい科学技術を売ってあげようかしら。やっぱり、最初は基礎的な冶金技術と、蒸気機関あたりかしらね。それとも、いきなりトランジスタの作り方でも教えちゃう?」
楽しそうな、そして無邪気な声。
栞は、何も答えず、ただマグカップに残っていた冷たいコーヒーを、静かに飲み干しただけだった。
世界が、一つの小瓶を巡って、欲望と陰謀の渦に飲み込まれていく。
人間臭く、そして滑稽な光景。
それさえも、彼女にとっては、自らの究極の目標である『全能』へと至るための、一つの、効率的なプロセスに過ぎなかった。
人類史上、最も高く、そして最も危険なオークションのゴングは、今まさに、鳴らされた。
その主催者は、一人の日本の官僚。
そして、その真の出品者は、この世界のどこにもいない、気まぐれな神だった。




