第52話
その日、東京の空は、雲一つない秋晴れの蒼穹に染まっていた。しかし、その穏やかな空の下、横田空軍基地の一角だけは、世界のいかなる場所よりも濃密な緊張感に支配されていた。
日米両政府が共同で管理するこの基地は、事実上の治外法権区画。民間人の立ち入りは固く禁じられ、周囲には何重もの物理的・電子的セキュリティ網が張り巡らされている。そして今日、その中心部に位置する巨大な格納庫の前には、歴史の証人となるべく選ばれた、ほんのひと握りの人間たちだけが集まっていた。
日本の官房長官、九条。彼の鉄仮面のような無表情は、この異常事態の前にあっても揺るがない。その隣には、外交官としてこのプロジェクトの最前線に立ち続ける小此木の姿があった。彼の額には、秋の涼しい空気とは裏腹に、じっとりと脂汗が滲んでいる。アメリカ側からは、異世界合同任務部隊の司令官であるデイヴィス大佐が、石像のように微動だにせず佇んでいた。
彼らの背後には、外務省の儀典官、日米のトップクラスの科学者数名、そして、もはやアドバイザーとして不可欠となったライトノベル作家の沢渡恭平と月城るなの姿もあった。彼らは皆、これから起きる歴史的瞬間に立ち会うという高揚と、未知との遭遇に対する根源的な畏怖の間で、言葉を失っていた。
約束の時刻、午前十時きっかり。
格納庫の前に広がる広大な駐機場の中央。何もない空間が、陽炎のように揺らめき始めた。
「……来たか」
九条が、誰に言うでもなく呟いた。
次の瞬間、空間に小さな光の点が生まれ、それは音もなく、しかし凄まじい速度で巨大な白銀の『扉』を構築していく。数ヶ月前、富士の裾野で初めて目撃した、神の御業の再来。だが、何度見てもその光景の神々しさには、息を呑むほかなかった。
やがて光が収まり、壮麗な門が静かにその姿を現す。そして、その門の向こう側、光の粒子が渦巻く空間から、ゆっくりと一団の影が現れた。
先頭に立つのは、深い紫色のローブに身を包んだ、小柄な老婆。その手には、古びた世界樹の杖。その背は老いによってわずかに曲がっているが、その歩みには一切の淀みがない。
リリアン王国が誇る大陸最高の叡智、王立魔導院の長、大魔導師エルドラ。
彼女の背後には、王国騎士団総長ヴァレリウス公爵が、白銀のミスリル鎧にその巨体を包み、寸分の隙もない立ち姿で控えている。さらにその後ろには、王国の賢者と思われる数名のローブ姿の男女と、ヴァレリウス公が率いる王国最強の近衛騎士たちが、整然とした隊列を組んで続いていた。
彼らが『扉』を完全に通過し、地球の、日本の大地にその第一歩を踏み出した瞬間。
エルドラが、ふと足を止めた。そして、何かを確かめるように、深く、深く、この世界の空気を吸い込んだ。
「……うむ」
彼女の口から、深い皺の刻まれた老婆らしい、かすれた声が漏れた。「やはり、そうか。報告にあった通りじゃな」
彼女は、小此木たちの方へゆっくりと歩み寄りながら、静かに言った。
「こちらは、大気中に満ちるマナが、驚くほど薄いのですね」
「……はい。我々の世界では、それが通常の状態です」
小此木が、緊張に強張った声で答えた。
「なるほど」と、エルドラは頷いた。「ならば、この姿を保つのも、少々骨が折れるわい」
彼女はそう言うと、持っていた世界樹の杖で、こつん、と軽く地面を突いた。
その瞬間。
彼女の身体から、淡い翠色の光の粒子が、まるで古い仮面が剥がれ落ちるかのように、はらりはらりと舞い散り始めた。
それまで彼女を覆っていた「老婆」という名の幻影が、急速にその形を失っていく。曲がっていた背筋が、すっと天に向かって伸び、深い皺が刻まれていたはずの顔は、陶磁器のように滑らかな輪郭を取り戻していく。白髪は、月の光を編み込んだかのような、美しいプラチナブロンドの輝きを放ち始めた。
数秒後。
そこに立っていたのは、もはや老婆ではなかった。
優雅なローブに身を包み、齢二百年を超えているとは思えぬ、二十歳前後の若々しい姿。長く、わずかに尖った耳。そして、森の最も深い湖の色を映したかのような、どこまでも澄み切った翠色の瞳。
完璧な美貌を持つ、ハイエルフの女性。
それが、大魔導師エルドラの、真の姿だった。
「――ッ!?」
地球側の代表団から、抑えきれない驚愕の声が漏れた。特に、月城るなは「本物の…エルフ様…!」と、感動のあまりその場に崩れ落ちそうになるのを、隣の沢渡が必死で支えている。
「……驚かせてしまったかのう」
エルドラの声は、もはや老婆のかすれたものではなく、鈴を転がすような、清らかで若々しい響きを持っていた。「わらわの種族は、マナの濃い環境では、自らの生命力を抑えるために、擬態の魔法で活動するのが常でな。じゃが、今日は貴国への敬意を表し、真の姿でまかり越した。わらわの名は、エルドラ。リリアン王国女王陛下の名代として、この地を訪れた」
その、あまりの幻想的な光景と、気品に満ちた佇まいに、小此木でさえ言葉を失っていた。
その、張り詰めた、しかしどこか夢見心地な空気を破るように。
「まあ、長旅ご苦労様。その姿の方が、見栄えがして良いわね」
唐突に、しかし誰もが聞き慣れた、平坦で子供っぽい声が響いた。
エルドラと九条たちの間に、いつの間にか、あのゴシック・ロリタ姿の少女――KAMIが、音もなく立っていた。
「KAMI様…!」
エルドラの顔が、ぱあっと輝いた。それは、自らが信奉する神の降臨を目の当たりにした、敬虔な信徒の顔だった。彼女は、その場で恭しくひざまずこうとした。
だが、少女はそれを、手のひらで軽く制した。
「いい、いい。そういう堅苦しいのは、抜き。今日は、私があなたに、この世界の面白さを案内してあげるから。観光よ、観光」
そして彼女は、呆然と立ち尽くす九条たちの方を、くるりと振り返った。
「じゃあ、そういうわけだから、エルドラは私が預かるわ。あなたたちは、後ろからついてくればいいから。よろしくね」
その、あまりにも一方的な決定。
九条は、もはや反論する気力もなかった。ただ、静かに頷き、部下たちに目配せで指示を送るだけだった。
こうして、人類史、そして異世界史に残る、最も奇妙で、最も重要な「東京観光」の幕が、切って落とされた。
最初に彼らが向かったのは、東京都庁の展望室だった。
厳重な警備の下、完全に貸し切りとされた地上202メートルの空間。そこから見下ろす風景に、エルドラは、初めて、その冷静な仮面の下にある純粋な驚きを、隠すことができなかった。
眼下に広がるのは、地平線の彼方まで続く、巨大な建造物の海。ガラスと鉄でできた幾何学模様の塔が、天を目指して無数に林立し、その谷間を、数え切れないほどの鉄の箱(自動車)が、まるで血液のように流れ続けている。
「……これが、トウキョウ」
エルドラは、ガラス窓に額を押し付けるようにして、その信じがたい光景に見入っていた。「なんという…。なんという、巨大で、そして緻密な魔法都市じゃ…。これほどの規模の都市を維持するには、一体どれほどの魔導師と、どれほどのマナが必要になるというのじゃ…」
「残念だけど、この街は、マナじゃ動いてないわ」
隣に立つKAMIが、こともなげに答えた。「電気よ。雷の力を、細かく、安全に使えるようにしただけの、単純なエネルギー」
「まあ、現代日本もそう悪くはないわ」
KAMIは、どこか自慢げに、そのコンクリートのジャングルを見下ろした。
「こちらはマナが薄いですね」
エルドラは、大気の流れをその超感覚的な知覚で感じ取りながら、静かに言った。
「そうね」と、KAMIは頷いた。「この世界…地球は、あなたたちの世界アステルガルドと違って、大気中に満ちるマナが極端に薄いの。だから、あなたたちのような『魔法』という技術は、一般的じゃなかった。その代わり、人間たちは、別の方法で世界の理を解き明かし、利用する術を見つけた。それが、『科学』よ」
「なるほど…。科学が発達するのも、納得ですね」
エルドラは、深く頷いた。彼女の翠色の瞳には、眼下の光景が、もはや単なる建造物の集合体には見えていなかった。それは、マナという恩恵なしに、人間たちが自らの知性と労働だけで築き上げた、巨大な、そしてどこか物悲しい、しかしあまりにも美しい、人工の生態系に見えていた。
次に、一行が乗り込んだのは、東京駅から博多へと向かう、最新鋭の新幹線『のぞみ』だった。
もちろん、その車両は一両まるごと、この日のために貸し切りとされていた。
滑るようにホームを離れた白い流線型の車体が、やがて轟音と共に、その速度を上げていく。時速300キロ。窓の外の風景は、もはや像を結ばず、緑と灰色の線となって後方へと猛烈な勢いで流れ去っていく。
「……速い」
エルドラは、ほとんど揺れを感じさせない車内で、驚嘆の声を漏らした。「これは、風の魔法による加速か? いや、違う…。この鉄の塊そのものが、自らの力で、この速度を生み出しているというのか…」
彼女は、KAMIに問いかけた。
「これほどの速度で、これほど巨大な物体を動かす。我らの世界では、それこそ国家レベルの大魔法じゃ。それを、赤子を乗せても安全なほど、完璧に制御しておるとは…。これも、『科学』の力か?」
「ええ。電気の力で、磁石の反発力を利用して、車体を浮かせて走らせてるだけよ。単純な原理」
KAMIは、座席に備え付けられたテーブルの上で、車内販売で買ったばかりのアイスクリームを、楽しそうに食べていた。
「あなたたちの魔法みたいに、個人の才能や、その日の体調に左右されない。いつでも、誰でも、同じ結果を、正確に再現できる。それが、科学の便利なところね」
その言葉に、エルドラは深く考え込んでいた。
魔法は、術者の魂の力。一つとして、同じものはない。それが、魔法の素晴らしさであり、同時に限界でもあった。
だが、科学は違う。それは、誰にでも等しく恩恵を与える、普遍的な力。
どちらが、優れているというわけではない。
ただ、その思想の根幹が、全く異なるのだ。
そして、その日の午後。
エルドラは、人類が生み出した「科学」の、最も不可解で、そして最も強力な側面と、対峙することになった。
場所は、政府が管理する巨大なデータセンターの一室。壁一面に、膨大な情報を処理するサーバーラックが、青い光を点滅させながら、静かな唸りを上げていた。
KAMIは、その一角に置かれた巨大なタッチパネル式のモニターの前に、エルドラを導いた。
「これが、『インターネット』よ」
KAMIは、指先で軽くモニターに触れた。すると、世界地図が映し出され、その上を無数の光の線が、彗星のように飛び交い始めた。
「今、この瞬間も、この星の何十億という人間たちが、互いに情報を交換している。東京で起きた出来事が、一秒後には地球の裏側のニューヨークでニュースになり、ブラジルの奥地で撮られた蝶の写真が、数秒後には世界中の研究者の元へ届く。この星に蓄積された、ほぼ全ての知識が、この網のどこかにあるわ」
「……これは」
エルドラは、その光の奔流に、言葉を失った。彼女の超感覚的な知覚が、その光の一つ一つに込められた、膨大な「意思」と「情報」の重さを、感じ取っていた。
「これは…『世界精神』じゃ…。この星に生きる、全ての知性の集合意識…。我ら魔法使いが、その存在を追い求め、しかし決して触れることのできなかった、究極の叡智の海…」
彼女の声は、感動に打ち震えていた。
スカイスクレイパーも、新幹線も、確かに凄まじかった。だが、これだけは、次元が違った。
これは、物理的な力ではない。精神の、知性の、奇跡だった。
「あなたたちの世界では、賢者とは、塔に籠もり、一人で真理を探究する者だったかもしれない」と、KAMIは言った。「でも、この世界では、賢者とは、この巨大な知の海を、最も巧みに泳ぎ、最も深く潜れる者のことを言うのよ」
その言葉は、エルドラの魔法使いとしての、そして学者としての魂を、根源から揺さぶった。
自分は、三百年間、一体何をしていたのだろうか。
たった一人で、古文書を紐解き、世界の真理に近づこうとしていた。
だが、この世界では、子供でさえ、この黒い板を指先でなぞるだけで、自分の一生をかけても得られないほどの知識に、瞬時にアクセスできるというのか。
それは、絶望的なまでの、文明の格差だった。
その日の視察の最後。
一行は、茨城県つくば市にある、日本の理化学研究所の、とある施設へと案内された。
そこにあったのは、体育館ほどの広さを持つ巨大な部屋を、黒い金属の箱が、まるで古代の遺跡のように、整然と埋め尽くしている、異様な光景だった。無数のケーブルが、蛇のように床を這い、部屋全体が、低く、しかし力強い唸りを上げていた。
スーパーコンピュータ『富岳』。
この惑星で、最も強力な計算能力を持つ、科学の神殿。
「これは…?」
エルドラは、その圧倒的な光景に、思わず問いかけた。
「これは、冷気を生み出す魔法ですか? 部屋全体が、ひどく冷えておるが…」
「一定の温度に調整しているのよ」と、KAMIが答えた。「この機械は、考えすぎるせいで、すぐに熱くなっちゃうから」
その、あまりにも擬人化された説明。
だが、エルドラは、その意味を正確に理解した。この機械は、思考しているのだ。それも、人間の一億倍、一兆倍もの速度で。
「凄い科学ですね…」
エルドラの口から、純粋な感嘆の声が漏れた。
「うーん、そうね」と、KAMIは頷いた。「こういう、一つのことだけを、休まず、間違えず、延々とやり続けるのは、機械の長所ね。魔法だと、こうは行かないし…。術者の集中力には、限界があるから」
「ふむ…」
エルドラは、興味深そうに、その黒い箱の列を見つめた。
「我が国の魔法兵士たちは、常に自らの周囲の温度や湿度を、最適な状態に保つための、微細な調整魔法を、無意識のうちに使い続けておる。じゃが、ここの人間たちは、それができぬ。不便なのでは?」
その、純粋な問い。それは、個人の力に依存する魔法文明と、社会のインフラに依存する科学文明の、根本的な違いを突くものだった。
KAMIは、にこりと笑って答えた。
「そうね。でも、この国の人間は、大抵の建物に入れば、空調…適切な温度になる科学が使われているから、そう不便ではないのよ?」
そして彼女は、この視察の、本質を突く言葉を、付け加えた。
「あなたたちの世界の『強さ』は、一人一人の英雄や賢者の、その個人の力に宿る。でも、この世界の『強さ』は、特定の誰かではなく、社会全体が共有する、この『システム』そのものに宿っているの。どちらが良い、という話ではないわ。ただ、アプローチが違うだけ」
その言葉は、エルドラの心に、深く、深く、突き刺さった。
その夜。
迎賓館で開かれた、ささやかな晩餐会の席。
エルドラは、一日中付き添ってくれたKAMIに、そして九条たちに、深く、深く頭を下げた。
その顔には、もはや日本に来る前の、自らの文明への絶対的な自信の色はなかった。
あるのは、計り知れないほど広大な、新しい知識の海を前にした、一人の謙虚な求道者の顔だった。
「……感謝する。KAMI様。そして、日本の皆様。わらわは、今日一日で、この三百年間で学んだことよりも、多くのことを学んだかもしれぬ」
彼女は、静かに言った。
「わらわは、科学というものを、侮っておった。それは、マナの恩恵を受けられなかった者たちが、仕方なく手にした、劣った技術だと。じゃが、違った。それは、我らの魔法とは全く異なる道筋で、しかし、同じ世界の真理へと至ろうとする、もう一つの、偉大なる道であったのだな」
そして、彼女は、九条の顔を、まっすぐに見据えた。
その翠色の瞳には、もはや単なる好奇心ではない、国家の代表としての、真剣な、そして戦略的な光が宿っていた。
「九条殿。わらわは、貴国から多くのものを見せていただいた。その礼として、今度は、わらわが、我が世界の『力』を、貴国にお見せする番じゃな」
彼女は、懐から、一つの小さな、しかし、この世のものとは思えぬほどの清らかな輝きを放つ、水晶の小瓶を取り出した。
中には、虹色の液体が、自ら光を放つように揺らめいている。
「これは、我が王家が、建国以来、決して外に持ち出すことのなかった、究極の秘薬。『若返りのポーション』の、試作品じゃ」
その一言が、晩餐会の和やかな空気を、一瞬で凍りつかせた。
九条の、鉄仮面が、わずかに、ぴくりと動いた。
エルドラは、その反応を見逃さず、静かに、しかし、決して断ることのできない、悪魔の提案を口にした。
「わらわは、この秘薬の秘密を、貴国に提供しても良いと考えておる。もちろん、それに見合うだけの『対価』を、貴国が支払うというのなら、の話じゃがな」
彼女の目が、細められる。
「さて、九条殿。貴国の『科学』は、人の『老い』に、一体どれほどの価値を、つけるかな?」
交渉は、今まさに、始まった。
科学と、魔法。
二つの、全く異なる文明が、互いの最も根源的な欲望をテーブルの上に晒し、その価値を値踏みしあう、壮大なゲーム。
その、最初のゴングが、今、静かに、そして確かに、鳴らされたのだった。




