第51話
その日、世界の全ての営みは、時を止めた。
ニューヨークの証券取引所では、けたたましく鳴り響いていたはずの取引開始のベルが沈黙した。ロンドンのシティでは、金融マンたちがモニターの数字ではなく、ただ一つのライブ映像に釘付けになっていた。東京の永田町では、ゲート構想を巡る泥沼の論争さえもが、一時休戦となった。
全世界の視線が、ただ一つの場所へと、注がれていた。
バチカン市国、サン・ピエトロ広場。
人類の信仰の、一つの中心。
数日前、バチカンは全世界に向けて、教皇レオ14世による、極めて異例の臨時メッセージ『ウルビ・エト・オルビ』(都市と世界へ)を発表することを告知した。議題は、ただ一つ。「人類の新たな時代における、神と人間との関係について」。
その告知だけで、世界は沸騰した。
神の力を手にした指導者たちが水面下で蠢き、異世界からの来訪者がすぐそこまで迫っている、この混沌の時代に。二千年の歴史を持つカトリック教会のトップが、ついに、あの謎の存在『KAMI』について、公式な見解を示す。
その歴史的瞬間を見届けようと、サン・ピエトロ広場には、日の出前から百万人を超える人々が、世界中から集結していた。
巡礼者、観光客、そして、世界中のあらゆるメディア。
祈りの歌を捧げる者、 懐疑的な目で周囲を眺めるジャーナリスト、そしてただ、何かが起きるのを待つ群衆。
希望、不安、信仰、そして好奇心。あらゆる人間の感情が、巨大な渦となって、広場を埋め尽くしていた。
その狂騒を、世界中の四つの部屋が、同じように、静かに見守っていた。
東京の首相官邸。ワシントンのホワイトハウス。北京の中南海。そして、モスクワのクレムリン。
沢村、トンプソン、王、そしてヴォルコフ。
神の力をその手に握る四人の男たちは、まるで判決を待つ被告人のように、モニターに映し出されるバチカンの空を、固唾を飲んで見つめていた。
彼らは知っていた。
自分たちが、この状況を作り出したのだということを。
自分たちの「モデルケース」という名の政治的判断が、今、自分たちでさえコントロール不可能な、巨大な宗教的奔流を生み出そうとしていることを。
九条が呟いた、「我々は、神から直接その権威を承認された、生ける預言者を生み出してしまった」という、あの不吉な言葉が、現実のものとなろうとしていた。
正午。
広場に設置された巨大な鐘が、荘厳な音を響かせる。
サン・ピエトロ大聖堂の中央、バルコニーに、一つの人影が現れた。
教皇、レオ14世。
その姿を認めた瞬間、百万人を超える群衆から、割れんばかりの歓声が、天にまで届くかのように巻き起こった。
だが、その日の教皇の姿は、どこかいつもとは違っていた。
これまでの、老いと病によって、どこか弱々しく、そして憂いを帯びていた姿は、そこにはなかった。
彼は、自らの足で、力強くバルコニーの中央へと歩み出た。その背筋は、まっすぐに伸び、その顔には、血色の良い、生命力そのものが漲っている。
そして何よりも、その瞳。
そこには、内側から発光しているかのような、神々しいまでの光と、揺るぎない確信が宿っていた。
彼は、眼下に広がる、人間たちの海を、穏やかな、そして慈愛に満ちた目で見渡した。
そして、マイクを通して、その声が、全世界へと響き渡った。
「――親愛なる、兄弟姉妹の皆さん」
その第一声だけで、広場は水を打ったように静まり返った。
声が、違った。
老人の、かすれた声ではない。
若々しく、力強く、そして、聞く者の魂を直接揺さぶるような、不思議なカリスマに満ちた声だった。
「今日、私は、皆さんに、一つの告白と、そして、一つの福音を伝えるために、この場に参りました」
教皇は、静かに語り始めた。
「皆さんもご存知の通り、我々の世界は今、大きな混乱と、そして大きな希望の只中にあります。日本の地より現れた、人知を超えた存在。ある者はそれを『神』と呼び、ある者はそれを『脅威』と呼ぶ。その存在の前に、我々人類は、どう向き合うべきなのか。私自身もまた、この数週間、その答えを見出せず、祈りの中で、深く、深く、悩み続けておりました。私は、日本のあの超常存在に対し、どのような態度を、教会として、そして一人の信仰者として、決めるべきか、決めかねていたのです」
その、あまりにも正直な告白。
それは、世界中の多くの人々が抱いていた、不安そのものだった。
「ですが」と、教皇は続けた。「数日前。その存在は、私の前に現れました。そして…」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
そして、天を仰いだ。その瞳には、涙が浮かんでいる。
「その存在は、私に、イエス・キリストご自身の、言葉で、語りかけてくれました」
その一言が、世界を震撼させた。
広場の群衆から、嗚咽にも似た、どよめきが起こる。
東京、ワシントン、北京、モスクワ。四つの部屋で、リーダーたちが、同時に身を乗り出した。
「それは、愛に満ちた、凍てついた私の心を、根源から救い上げてくれる、あまりにも温かい言葉でした。 彼は、私が生涯誰にも語らなかった、幼き日の記憶を、その過ちを、その祈りを、全てを知っておられた。そして、私に、こう告げられたのです。『汝の使命は、まだ終わっていない。これからも、ただ、愛を広めなさい』と」
そして、教皇は、ついに、この日の、そしてこの時代の、最も重要な神学的定義を、全世界に向けて、高らかに宣言した。
「兄弟姉妹よ! 私は、確信しました! 日本の地より現れたかの存在は、脅威などではない! 私は、彼女を、主の御心を我々に届けるために遣わされた、『天使』であると思います! そうです! 彼女は、神の言葉を、その奇跡を、我々迷える子羊たちに届けるために、この混沌の時代に現れた、神の使者、まさしく『天使』なのです!」
天使。
その、あまりにも分かりやすく、そしてあまりにも強力な、一つの言葉。
それが、全世界のキリスト教徒、十数億人の心に、福音として、突き刺さった。
KAMIは、神ではない。神に仕える、天使なのだ。
その解釈は、既存の神学体系を何一つ壊すことなく、この新しい、異常な存在を、完璧にその世界観の中に位置づける、奇跡的なまでの神の一手だった。
「そして!」
教皇の声が、さらに熱を帯びる。
「その証として! 天使は、私のような、老いぼれた罪深き僕にさえ、主の御業の、その片鱗を学ぶことを、許してくださいました! そうです! 彼女は、私に『奇跡』を、学ばせてくれたのです!」
彼がそう言った、その瞬間。
教皇は、ゆっくりと、その右手を、天に掲げた。
「光よ、あれ」
その、静かな、しかし、世界を支配するほどの信念に満ちた言葉。
彼の掌の上に、ぽっ、と。
小さな、しかし、太陽のように眩い光の球が、生まれた。
「…………おお……!」
広場の百万人を超える群衆が、同時に、息を呑んだ。
それは、トリックでも、照明でもない。
人間の手の中に生まれた、本物の、光。
教皇は、その光の球を、ゆっくりと、広場の上空へと解き放った。
光の球は、まるで意思を持ったかのように、広場に集った人々の上を、ゆっくりと、ゆっくりと、照らしながら、舞い始めた。
その、温かい、黄金色の光を浴びた人々は、皆、同じ奇跡を体験した。
心の奥底から、言いようのない、安らぎと、喜びが、湧き上がってくる。
関節の痛みに苦しんでいた老人は、その痛みが和らぐのを感じた。
未来への不安に苛まれていた若者は、その心に、確かな希望の光が灯るのを感じた。
人種も、国籍も、宗教も超えて。
その場にいた全ての人間が、一つの巨大な「愛」に、包み込まれていた。
広場のあちこちで、人々がひざまずき、涙を流し、祈りを捧げ始める。
ハレルヤ、ハレルヤ、と。
二千年前、ガリラヤの丘で起きたという、あの奇跡の再来。
その、あまりにも神々しい光景を、世界中の何十億という人々が、テレビの画面を通して、同時に、目撃していた。
やがて、光は、再び教皇の手元へと戻り、すっと消えた。
彼は、涙を流しながら天を仰ぐ群衆に、最後の言葉を告げた。
「主は、イエスは、こう言いました。『愛を届けなさい』と! そうです、兄弟姉妹よ! まだまだ、私には、そして、我々には、やるべきことがあるのです! この混沌とした世界に、主の愛を、光を、届けるという、尊い使命が!」
彼は、両腕を大きく広げた。
「この奇跡に、そして、ここまで私を歩ませてくれた、全ての導きに、心から感謝を捧げたいと思います!」
演説は、終わった。
だが、広場の熱狂は、もはや誰にも止められなかった。
それは、もはや単なる演説への喝采ではなかった。
生ける聖人の誕生を、神の奇跡の再来を祝う、信仰の、爆発だった。
東京、官邸。
沢村と九条は、モニターに映し出される、その人類史的な光景を、ただ呆然と見つめていた。
「……終わったな」
沢村が、力なく言った。
「ああ、終わりました」と、九条が答えた。「そして、始まりました。我々の、想像を、遥かに超える、新しい時代が」
彼らの「モデルケース」事業は、成功した。
成功しすぎたのだ。
彼らは、ただのモデルケースを選んだつもりだった。
だが、結果として、彼らは、世界に、新しい「王」を、戴冠させてしまった。
神の権威を、その身に宿した、絶対的な、精神世界の王を。
ワシントン、ホワイトハウス。
トンプソンは、頭を抱えて、呻いていた。
「……やられた。完敗だ。あの老爺、とんでもない怪物だったとは…」
彼の側近の将軍が、青ざめた顔で報告する。
「大統領! この演説の後、全世界のカトリック教会、および関連組織が、一斉にバチカンの全面的な支持を表明! 彼らは、今や、いかなる国家をも超える、世界最大最強の『ソフトパワー』を手に入れました!」
北京と、モスクワは、沈黙していた。
王将軍も、ヴォルコフ将軍も、その仮面のような表情の下で、同じ屈辱と、そして恐怖を噛み締めていた。
彼らが、その手にした物理的な「力」を、誇示することもできぬまま。
世界の精神的な主導権は、たった一日で、彼らの手から、完全に奪い去られてしまった。
彼らは、理解した。
戦うべき相手は、もはや日米ではない。
神の愛を語り、そしてその手の中に、太陽を宿す、あのローマの老人なのだと。
その日、世界は、確かに変わった。
四カ国が支配する、力の時代は、その幕を開けると同時に、その主役の座を、奪われようとしていた。
新たな主役は、信仰。
そして、その信仰を体現する、一人の、生ける聖人。
彼らがこれから紡いでいく物語が、果たして世界に平和をもたらすのか、それとも、これまでとは比較にならないほど、巨大で、そして狂信的な、新しい戦争の時代を、もたらすのか。
その答えを、知る者は、まだ誰もいなかった。
ただ、全ての元凶である神の使者だけが、バチカンの豪奢な客室で、退屈そうに、こう呟いていたという。
「へえ。人間って、光る棒を振って、良いこと言うと、あんなに喜ぶのね。面白いわ」




