第5話
日本国政府が、歴史の教科書が「神への呼びかけ」と後に記すことになるであろう、あの前代未聞の緊急記者会見を行ってから、三日が過ぎた。
世界は、未だ熱狂と混乱の渦中にあった。
日本の発表を「集団ヒステリー」「国家ぐるみの壮大なジョーク」と切り捨てる国。あるいは、これを日本の新型兵器開発に関するブラフだと捉え、猛烈な非難声明を発表する国。また、これを真剣に受け止め、自国の領土内でも同様の超常現象が起きていないか、血眼になって調査を開始する国。国際社会の反応は、三者三様に分かれていた。
一つだけ共通していたのは、日本が、国際社会において完全に孤立したということだ。
首相官邸には、各国首脳からの抗議と問い合わせの電話が殺到し、外務省は、その対応だけでパンク寸前に陥っていた。株価は乱高下を繰り返し、市場には得体の知れない不安が、濃い霧のように垂れ込めていた。
そして、肝心の「知的存在」からの応答は、ない。
全く、ない。
「……やはり、我々は、とんでもない過ちを犯したのかもしれんな」
首相官邸、地下危機管理センター。対策本部の重苦しい会議の席で、総理大臣の沢村は、誰に言うでもなく呟いた。彼の顔には、この数日の心労が、深い影となって刻まれている。
「世界を敵に回し、国民を不安に陥らせただけ。得られたものは、何もない…」
「総理、弱音を吐くのはまだ早い」と、官房長官の九条が、いつもと変わらぬ冷静な声で言った。「相手が、我々と同じ時間感覚で生きているとは限りません。三日という時間は、彼らにとっては三秒にも満たないのかもしれない」
「気休めを言ってくれるな、九条君」沢村は、力なく笑った。「もう、認めようじゃないか。我々は、壮大な博打に負けたんだ」
その言葉が、現実のものとなりかけていた。対策本部の空気は、もはや絶望に支配されていた。彼らが投じた乾坤一擲の策は、最悪の結果、つまり「不発」に終わろうとしていたのだ。国家の威信を失墜させただけで、何一つ得るものなく。
その、瞬間だった。
会議室の中央、巨大な円卓のすぐ横の空間が、陽炎のように、わずかに揺らめいた。
最初にその異常に気づいたのは、壁際に直立していた警護官の一人だった。彼の鋭い視線が、その一点に突き刺さる。
「――ッ!?」
声にならない叫び。
次の瞬間、その何もないはずの空間から、すぅっと、まるで滲み出すかのように、一人の少女が姿を現した。
漆黒の、フリルとレースで幾重にも飾られた豪奢なドレス。純白のブラウスの胸元には、大きな真紅のリボン。頭には、同じデザインのヘッドドレス。銀色に近いプラチナブロンドの髪は、縦ロールに美しく巻かれている。
陶磁器のように滑らかな肌に、ルビーのように赤い瞳。人形のように整ってはいるが、一切の感情を読み取らせない、無機質な顔立ち。
ゴシック・ロリータ。
現代日本のサブカルチャーが生み出した、幻想の産物。そんな非現実的な存在が、日本で最も厳重に守られた、この部屋の真ん中に、何の兆候もなく、ただ、そこに立っていた。
時間が、凍りついた。
数秒の硬直の後、訓練された警護官たちが、一斉に銃を抜いた。甲高い金属音と共に、十数丁の銃口が、その小さな少女に向けられる。
「動くな!」
だが、少女は動かない。まるで、自分に向けられた銃口など、道端の石ころほどにも認識していないかのように、ただ静かに、会議の席に座る男たちを、その赤い瞳でゆっくりと見渡した。
「……待て。銃を下ろせ」
最初に我に返った沢村総理が、震える声で命じた。
警護官たちは、戸惑いながらも、その命令に従う。彼らもまた、理解していた。この少女の出現が、物理法則を超えた異常事態であり、銃という通常兵器が、おそらくは何の意味もなさないであろうことを。
静まり返る会議室。そこに、鈴を転がすような、しかし、どこまでも平坦で、感情の乗らない声が響いた。
「私を呼んだのよね?」
少女は、首をこてんと小さく傾げた。その仕草は、歳相応の子供のように愛らしいはずなのに、見る者に、得体の知れない恐怖だけを抱かせた。
「用は、なに? ゴミを引き取ってるだけなんだけど?」
戦慄が、その場にいた全員の背筋を駆け抜けた。
『ゴミを引き取っている』。
間違いない。この少女こそが、彼らが追い求め、そして恐れていた『広域物質消失事象』の、その元凶。彼らが『神』と仮定した、その存在の、まさしく『使者』だった。
「……君が、我々の呼びかけに応えてくれた、ということで、いいのだな?」
沢村は、必死に平静を装いながら、問いかけた。心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく鼓動している。
「他に誰がいるのよ」と、少女はつまらなそうに答えた。
「我々は、君と対話がしたい。だが、その前に、一つだけ、確認させてほしい」
沢村は、ここで退くわけにはいかない、と自身を奮い立たせた。相手が子供の姿をしていようと、その本質は、国家を揺るがすほどの力を持つ、規格外の存在なのだ。
「君が、本当に、あの一連の現象を引き起こした張本人であるという、証拠を見せてもらいたい」
その言葉に、少女は、初めて、わずかに眉をひそめた。面倒くさい、と顔に書いてある。
「……証拠ねぇ。人間って、どうしてそう、自分の目で見たものしか信じないのかしら」
少女は、小さくため息をつくと、すっと右手を上げた。
そして、静かに、指を鳴らした。
パチン、という乾いた音。
それが、合図だった。
次の瞬間、会議室にいる全員が、信じがたい光景を目の当たりにすることになる。
目の前にあった、一枚板の巨大なマホガニーの円卓が、音もなく、その形を失った。
分解されたのではない。まるで砂のように、さらさらと、細かい光の粒子に変わってしまったのだ。光の粒子は、美しい銀河のように、部屋の中央で渦を巻き始めた。
警護官の一人が、恐怖に耐えきれず、絶叫と共に少女に向けて発砲する。
しかし、銃声が響くと同時に、発射された弾丸は、少女の数メートル手前で、ピタリと、空中に静止した。そして、その弾丸もまた、瞬時に光の粒子へと変換され、渦の中へと吸い込まれていった。
渦巻く光の銀河は、数秒後、今度は逆回転を始めた。粒子が、凄まじい速度で集束していく。
そして、光が収まった時。
そこには、先ほどと寸分違わぬ、巨大な円卓が、傷一つない完璧な状態で、元にあった場所に鎮座していた。
分解と、再構築。
物質を、素粒子レベルで自在に操る、神の御業。
誰もが、声も出せずに、その光景に立ち尽くしていた。
「証拠は、これね」
少女は、こともなげに言った。まるで、テーブルの上の埃を払っただけ、というかのように。
「で? 私は忙しいの。他にも回収したい廃棄物が、山ほどあるんだから。早く要件を言ってちょうだい」
その言葉で、政府のトップたちは、自分たちが完全に、赤子扱いされているという事実を、改めて突きつけられた。
沢村は、乾ききった喉を、ごくりと鳴らした。もはや、疑う余地はない。目の前にいるのは、彼らの想像を遥かに超えた、絶対的な力を持つ存在だ。
彼は、震える足で、一歩前に進み出た。
「……分かった。君の力が、本物であることは、理解した」
彼は、ここで覚悟を決めた。小手先の交渉など、意味はない。正直に、そして、国家として、最大の取引を持ちかけるしかない。
「君が必要としているのが、『不要物』…すなわち、我々が『ゴミ』と呼ぶものであるのなら、我が国が、それを最大限、提供しよう。君にとっても、価値のある対価になるはずだ。例えば…人類が持て余している、最高レベルの厄介物。高レベル放射性廃棄物というのは、どうだろうか」
究極のカードだった。数万年単位での管理が必要とされる、人類の負の遺産。それを、差し出す。
その代わり、と沢村は続けた。
「その代わり、我々に、君の情報を開示してほしい。君が何者で、何を目的としているのか。我々は、君を理解したい」
それが、日本国総理大臣が、命を懸けて捻り出した、交渉のカードだった。
少女は、その提案に、初めて、少しだけ、興味を示したように見えた。赤い瞳で、じっと沢村の顔を見つめている。
「……ふむ。高レベル放射性廃棄物、ね。確かに、質のいい対価になりそう」
少女は、何かを納得したように頷いた。
「そこまで言うなら、対価を渡さないわけにはいかないな」
その言葉に、沢村は、わずかに安堵した。交渉のテーブルに、ようやく乗ってきた。
しかし、次の瞬間、少女が口にした言葉は、彼の、そして、その場にいた全員の想像を、またしても遥かに超えるものだった。
「では、何が欲しい?」
そう言うと、少女は、小さな白い手のひらを、彼らに向けて広げてみせた。
すると、その手のひらから、滝のように、真新しい一万円札が溢れ出し、音もなく床に山を築いていく。その額は、あっという間に数億円、数十億円に達した。
「金か?」
首脳たちが、その非現実的な光景に、言葉を失っていると、今度は紙幣の山が、目も眩むほどの宝石の山へと変化した。
「それとも、宝石か?」
そして、少女は、その富の山を、まるで幻であったかのように、すっと消し去った。
そして、総理大臣の目を、まっすぐに見据えて、こう問いかけたのだ。
「それとも…何か、超常の力が欲しいか?」
それは、悪魔の囁きそのものだった。
神が、ひざまずく人間に、三つの願いを提示している。
金か、富か、あるいは、人ならざる力か。
日本政府は、今、その究極の選択を、突きつけられていた。
沢村は、激しく揺さぶられる心を、必死で抑え込んだ。
金があれば、この国の莫大な債務を、一瞬で解消できるかもしれない。
しかし、そんなもので、この国が本当に救われるのか?
この、目の前にいる圧倒的な存在の前では、金など、何の力も持たない。
ならば、選ぶべきは…。
彼は、横に立つ官房長官の九条と、一瞬だけ視線を交わした。九条は、表情を変えず、しかし、わずかに、力強く頷いた。
二人の答えは、同じだった。
沢村は、顔中に浮かんだ冷や汗を、手の甲で拭った。そして、絞り出すように、しかし、はっきりとした声で、答えた。
「…………『力』を、いただきたい」
その答えを聞いた少女は、初めて、その人形のような顔に、明確な笑みを浮かべた。
それは、面白い実験対象を見つけた科学者のような、無邪気で、残酷な笑みだった。
「いい選択だ。契約成立、ね」
少女は、満足げに頷くと、沢村に向かって、くい、と指を向けた。
「これは、手付金」
その言葉と共に、沢村は、何か冷たいものが、自分の身体を通り抜けていくような、奇妙な感覚に襲われた。
「今、君にあらゆる物理的な攻撃を無効化する能力を与えた。銃も、爆弾も、君を傷つけることはできない。せいぜい、服が少し汚れるだけ。詳しいことは、自分で試してみればいい」
「……なんだと…?」
「約束通り、例の『不要物』は、後でまとめて引き取らせてもらうわ。この力に満足したなら、またいつでも呼びなさい。私は対価を、君たちには力を。悪くない取引でしょう?」
そう言うと、少女は、まるで用事は済んだとばかりに、くるりと背を向けた。
そして、来た時と同じように、何の兆候もなく、その姿は、ふっと、空間に溶けるように消えていった。
後に残されたのは、絶対的な安全保障を手に入れた一人の総理大臣と、言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす、日本のトップエリートたち。
そして、神とも悪魔ともつかぬ、底知れない存在との間に結ばれてしまった、あまりにも歪で、危険な、秘密の協力関係だけだった。
日本の、そして世界の運命が、この日、この瞬間、たった一人の在宅ワーカーの、ほんの気まぐれによって、大きく捻じ曲げられたことを、まだ誰も知る由はなかった。




