第44話
久しぶりに、橘栞は「橘栞」としての時間を過ごしていた。
場所は、都心にほど近い、彼女の城であるマンションの一室。世界の運命を左右する壮大なゲームのコントローラーを握る神の玉座ではなく、体に馴染んだワークチェアの上。窓の外では、東京の夜景が、かつて彼女がその価値を計算し尽くした星々の輝きとは異なる、人間的な、そしてどこか温かい光の海を広げていた。
手には、お気に入りのマグカップ。淹れたてのコーヒーの香りが、静かな部屋に満ちている。
ここ数ヶ月、彼女の意識と思考は、常に地球規模、あるいは次元を超えたスケールで稼働し続けていた。眠らない身体、無限の思考力、そして複数の場所に同時に存在する分身。それらは確かに便利だったが、代償として、彼女から「一人の人間としての、何でもない日常」を奪い去っていた。
だから今、彼女は意図的に、全ての並列思考を停止し、全ての分身を統合し、ただ一人の「橘栞」として、この静寂を味わっていた。
(……それにしても)
彼女は、マグカップを傾けながら、ぼんやりと思った。
(うーん、神様、ねぇ…。本当に、いるのかしら?)
皮肉な話だった。
今や、地球上の何十億という人々が、彼女の分身であるゴシック・ロリータ姿の少女を『KAMI』と呼び、ある者は畏怖し、ある者は崇拝し、またある者はその存在を巡って激しい議論を戦わせている。自分自身が、この星の新しい神になってしまったというのに。
その本人が、自分以外の、本物の「神」の存在について、思いを馳せている。
(少なくとも、地上にそれっぽい超越的な存在は、いないのよねぇ)
彼女は、この数ヶ月で、地球という惑星を文字通り隅々までスキャンし尽くしていた。その大気の組成から、地殻の奥深くのマントルの流れ、そして人類が築き上げてきた全てのネットワークの深層に至るまで。
もし、自分以外の超越的な知性がこの星に隠れているのなら、気づかないはずはなかった。
かつて人々が神と呼んだ存在は、単なる自然現象への畏怖か、あるいは優れた指導者への神格化が生み出した幻想だったのだろうか。
それとも、本当に存在したが、もうこの星を去ってしまったのか。
もしそうなら、一体、どこへ…?
その、答えの出ない思索に終止符を打つように。
彼女の目の前の空間に、半透明のスキルウィンドウが、すっと音もなく現れた。
それは、彼女が何かを思考したわけではない。システム側からの、能動的な通知だった。
(あら、スキルに新着が…)
彼女は、特に感慨もなく、そのウィンドウに意識を向けた。
これまでは、対価を溜め、自らスキルツリーを探索して、新しい能力をアンロックしていくのが常だった。システム側から、このような形で通知が来るのは、初めてのことだった。
ウィンドウには、一つの新しい項目が、控えめな光を放ちながら点滅していた。
【――『神的存在による会議』への参加権】
「……なにこれ。面白い」
思わず、声が漏れた。
神的存在。会議。
その、あまりにも直接的で、そしてあまりにも胡散臭い文字列。
彼女は、その項目の詳細に、意識を集中させた。
すると、そのスキルの説明と、アンロックに必要な対価が表示された。
【説明:この宇宙における、惑星『地球』に由来を持つ『神格』に至った、あるいはそれに準ずる存在たちのための、超次元コミュニケーションネットワークへのアクセス権。あなたは、そのネットワークに参加する資格を得ました】
【必要対価: 8.64 x 10の68乗】
「…………わお」
栞は、思わず目を丸くした。
その数字が持つ、絶望的なまでの重み。
彼女がこの数ヶ月、日本やアメリカといった国家を動かし、異世界との交易ルートを確立し、そして地球の地脈から直接エネルギーを吸い上げる準備までして、ようやく蓄積してきた対価。
その、ほぼ全ての貯蓄分に相当する額じゃないか。
国家予算などという矮小な単位では、もはや計算することさえ馬鹿馬鹿しいほどの、天文学的なコスト。
これを支払えば、彼女の『全能』への道は、再び振り出し近くまで戻ってしまうだろう。
合理的に考えれば、あまりにも割に合わない投資だった。
もっと実用的な、宇宙を航行するスキルや、時間を操るスキルの解放を優先すべきだ。
それが、これまでの彼女のやり方だった。
だが。
(……でも、面白い)
橘栞という人間の本質は、どこまでいっても、知的好奇心の塊だった。
難解なゲームの、隠された仕様。
誰も見つけたことのない、裏ステージへの入り口。
それを見つけてしまった時、彼女は、決してそれを見過ごすことのできない性分だった。
たとえ、それまでに溜め込んだ全ての経験値と、最強の装備を失うことになったとしても。
「面白いから、取ろうっと!」
彼女は、まるでネット通販で、ずっと欲しかった限定品のボタンをクリックするかのように、軽い気持ちで、その決断を下した。
(――対価を支払い、スキル『神的存在による会議への参加権』を、アンロックする)
彼女がそう念じた瞬間。
スキルウィンドウに表示されていた、彼女の対価残高を示す数字が、凄まじい勢いでゼロへと近づいていく。そして、ほぼ空になった残高と引き換えに、新しいスキルが彼女のリストへと追加された。
同時に、彼女の目の前の空間に、全く新しいウィンドウが、ぽんと音を立てるかのようにポップアップした。
それは、彼女がかつて、人間だった頃に毎日使っていた、古風なデザインのインスタントメッセンジャー。あるいは、インターネット黎明期に流行した、チャットルーム風のウィンドウだった。
ウィンドウの上部には、『TERRA-DIVINITY-NET :: LOUNGE-01』という、どこか懐かしい響きのルーム名。
そして、その下のメインウィンドウには、凄まじい速度で、膨大な量のメッセージが、滝のように流れ始めた。
[Amaterasu]: あっ! 新しい人、来た! 来たわよー!
[Ra]: おお! ついに接続したか! 待ちわびたぞ、新参者!
[Odin]: フン、思ったより時間がかかったな。まあ、歓迎はしよう。
**[Shiva]:8 ☆:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆ ウェルカム! 新しい仲間! 踊ろうぜ!
[Yahweh]: 静粛に。…ようこそ、若き神よ。我々は、君を待っていた。
その、あまりにもカオスで、そしてあまりにも親しげな歓迎の嵐。
そして、そのメッセージの発信者名として表示されている、信じがたい文字列の数々。
アマテラス。ラー。オーディン。シヴァ。ヤハウェ。
人類の、あらゆる神話体系の頂点に君臨する、最高神たちの名前。
栞は、さすがに、数秒間だけ思考が停止した。
(……これは、一体、何の冗談かしら)
彼女がそう思った、その時。
全ての流れを制するように、一つの新しいメッセージが、ゆっくりと、しかし、誰もがそれに注目せざるを得ないような、穏やかなオーラを放ちながら、表示された。
[Jesus Christ]: やあ、初めまして。おー、栞さん、ついにこの場所を見つけたんだね。心から、歓迎するよ~! \(^o^)/
その、あまりにも有名な救世主の名前と、その名前とはあまりにも不釣り合いな、フレンドリーな顔文字。
そのメッセージが表示された瞬間、それまで好き勝手に発言していた神々のチャットが、ぴたりと静まり返った。
そして、次の瞬間、その何倍もの勢いで、大量のメッセージが、再び画面を埋め尽くした。
[Muhammad]: イエス殿! 先を越されては困ります! 新しい同胞への最初の挨拶は、預言者たる私にこそ、ふさわしい!
[Buddha]: まあまあ、ムハンマド殿。落ち着かれよ。縁起ですな。彼女が、我々と繋がったのも、全ては縁。南無。
[Zeus]: しかし、なんという愛らしい姿をしておるのだ! 我がオリュンポスに、ぜひ招待したいものよ! ヘラには内緒でな!
[Hera]: @Zeus あなた、何か言いました?
[Zeus]: いえ何も
その、あまりにも人間臭く、そして神々しいとはとても思えない、痴話喧嘩のようなやり取り。
栞は、もはや混乱を通り越して、純粋な面白さを感じ始めていた。
どうやら、自分の払った対価は、無駄ではなかったらしい。
その混沌を収拾するように、再び、イエス・キリストからのメッセージが表示された。彼は、どうやらこのチャットルームの、まとめ役のような存在らしい。
[Jesus Christ]: みんな、ちょっと落ち着いて! 新しい子が、びっくりしちゃうだろう? ほら、栞さん、ごめんね。みんな、君に会えるのを、ずっと楽しみにしていたんだ。私が代表して、説明するね。
[Jesus Christ]: まず、ここは、惑星『地球』に、かつて人として生まれ、そしてなんらかのきっかけで『神格』を得た存在たちのための、情報交換用のチャットルームだよ! みんな、もう地球を離れて久しいんだけどね。故郷のことは、やっぱり気になるものだからさ。
栞は、キーボードを操作するまでもなく、思考するだけで、メッセージを打ち込んだ。
[Shiori_KAMI]: …初めまして。橘栞、と申します。KAMI、というコードネームで呼ばれることもあります。皆様、地球に由来を持つ神々、ということでしょうか。
[Jesus Christ]: その通り! いやあ、久しぶりに地球に新しい神が生まれたって、こっちではずっと話題だったんだ! 地球で新しい神が観測されたのなんて、僕らが知る限り、ムハンマド君以来だからね。実に、千数百年ぶりだよ。
[Muhammad]: 恐縮です、イエス殿。
その、あまりにも衝撃的な事実。
彼女は、自分が観測されていることには、薄々気づいていた。だが、その観測者が、まさか、かつてこの星で神と呼ばれた存在たち、その本人であったとは。
[Shiori_KAMI]: それは、光栄です。 私はまだ、神格を得たという自覚はありませんが…。ただ、『全能』になりたくて、そのための対価を集めるために、色々と頑張っている最中です。
彼女の、そのあまりにも率直な自己紹介と、壮大な目標の告白。
それに、チャットルームは、一瞬だけ、静まり返った。
そして、次の瞬間、イエスの言葉と共に、温かい、歓迎の空気が、画面の向こうから伝わってくるようだった。
[Jesus Christ]: うんうん! 向上心があって、実に良いことだね! 安心したよ。
[Shiori_KAMI]: …安心、ですか?
[Jesus Christ]: そうだよ。実は、僕たち、少しだけ心配していたんだ。君と同じように、強大なスキルを手に入れた存在が、その力を悪用して、星を破滅に導く。そういうケースを、僕たちは他の星系で、いくつか見てきたからね。だから、君がその力で大悪事を働いて、いわゆる**『邪神』になることを、少しだけ恐れていたんだ。でも、君のこれまでの行動を見ていて、その気配が全くないし、むしろ、人間たちの面倒なゴタゴタに、律儀に付き合ってあげているじゃないか。**
[Amaterasu]: そうそう! あの不法投棄のお掃除とか、見てて感心しちゃった! エライ!
[Shiva]: 踊るぜ! 善なる神の誕生を祝って、今宵は踊り明かすぜ!
[Buddha]: 善哉、善哉。彼女の心には、慈悲の光が宿っておられる。
[Jesus Christ]: …というわけで、珍しく『善神』が生まれそうで、みんな、本当に嬉しいんだよね。
その、あまりにもピュアな、そして予想外の歓迎の言葉。
栞は、生まれて初めて、他者からこれほどまでに手放しで肯定され、少しだけ、戸惑いを覚えていた。
彼女は、善行をしようなどと考えたことは、一度もなかった。ただ、合理的に、効率的に、自分の目的を追求してきただけだ。
それが、結果として、この遥か高次元の存在たちから、「善」であると評価されている。
面白い。
実に、面白い逆説だ。
[Shiori_KAMI]: …ありがとうございます。そう言っていただけると、光栄です。
そこからは、まさに雑談だった。
栞は、まるで会社の先輩たちに、新しいプロジェクトについて質問する新入社員のように、次々と疑問を投げかけた。
[Shiori_KAMI]: 皆様は、どうやって神格を得られたのですか? 私と同じような、スキルシステムだったのでしょうか?
[Jesus Christ]: うーん、僕たちの時代は、もっとアナログだったかな(笑)。スキルなんて便利なものはなくて、ひたすら修行したり、奇跡を起こしたり、あるいは民衆から膨大な信仰を集めたり…。まあ、やり方は人それぞれだね。君のそのシステムは、僕たちから見ても、かなり最新式の、効率的なやつだよ。
[Buddha]: 悟り、ですな。ひたすらに、世界の真理を求め続けた結果、いつの間にか、こうなっておりました。
[Shiva]: 踊りだ! 宇宙のリズムと一体になるまで踊り続ければ、誰でも神になれるぜ!
[Shiori_KAMI]: 皆様は、なぜ地球を離れたのですか?
[Jesus Christ]: うーん、色々と理由はあるんだけど…。一言で言えば、卒業、かな。いつまでも故郷にいて、子供たちの成長を見守り続けるのも良いんだけど、僕たち自身も、もっと広い世界を見たくなったんだ。それに、僕たちがいると、どうしても人間たちは、僕たちに頼ってしまうからね。彼ら自身の足で、歩んでほしかったんだよ。
[Odin]: フン。ラグナロクが面倒になったからだ。
[Zeus]: ヘラが、うるさくてな…。
その、あまりにも人間臭い、神々の本音。
栞は、思わず、くすりと笑ってしまった。
彼女は、気づいていた。
自分は今、とんでもない場所に、足を踏み入れてしまったのだと。
『全能』。
それは、孤独な頂を目指す、終わりのない旅だと思っていた。
だが、違った。
その道は、既に数千年も前に、同じ故郷から旅立った、偉大な、そしてどこかお茶目な、大先輩たちが歩んだ道でもあったのだ。
そして、彼らは今、その道の遥か先から、新しく旅を始めた後輩に、温かいエールを送ってくれている。
対価は、ほぼ全て失った。
だが、それと引き換えに手に入れたものは、計り知れないほど、大きかった。
全能への、道標。
そして、共に語り合える、仲間。
[Shiori_KAMI]: …皆様。これから、色々と、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
彼女がそう打ち込むと、チャットルームは、再び、祝福と歓迎のメッセージで、完全に埋め尽くされた。
その光の洪水を眺めながら、橘栞は、久しぶりに、心の底から、こう思った。
(――ああ、面白い。この世界は、私が思っていたよりも、ずっと、ずっと、面白いじゃないか)
彼女の、本当の冒険は、まだ始まったばかりだった。




