第42話
その日、世界は奇妙な凪の状態にあった。
日米両政府が主導した『神への感謝式典』を巡る国際社会の狂騒は、ひとまずの膠着状態に落ち着いていた。賛成する国々、反対する国々、そして「恩恵」を要求する国々が、国連を舞台に終わりの見えない外交戦を繰り広げている。それは、もはや日常の風景となりつつあった。
不死身の独裁者を手に入れた中国とロシアは、その事実を世界にひけらかすでもなく、ただ不気味な沈黙を守っている。
そして、日本のゲート構想は、国内の熾烈な政治闘争という泥沼の中で、遅々として、しかし着実にその計画を進めていた。
嵐の前の静けさ。
誰もが、次に神が、あるいは神の力を手にした人間たちが、何を仕掛けてくるのかを、固唾を飲んで見守っていた。
その、張り詰めた静寂を破るように。
四カ国の首脳レベルを結ぶ最高機密回線が、再び開かれた。
議題は、ただ一つ。
『KAMIから与えられた新能力に関する情報共有、及び、今後の対応についての協議』。
すなわち、日本、中国、ロシアの三カ国が手に入れた『分身スキル』について、唯一その恩恵に与れていないアメリカが、その説明を要求したのだ。
バーチャル会議室に、四人の男たちの顔が映し出される。
日本の沢村総理と九条官房長官。
アメリカのトンプソン大統領。
中国の王将軍。
そして、ロシアのヴォルコフ将軍。
彼らの間には、もはや以前のような剥き出しの敵意はない。かといって、信頼もない。あるのは、神という共通の、そしてあまりにも予測不能な上司を持つ同僚のような、奇妙な連帯感と、互いの腹を探り合う冷徹な緊張感だけだった。
「――では、定刻となりましたので、第四回・四カ国定例会議を始めます」
議長役である九条が、感情のない声で開会を宣言した。
「本日の議題は、トンプソン大統領からのご提案の通り、我々三カ国が新たに受領したスキルに関する情報共有です。まず、アメリカ側からのご質問を」
「うむ」
モニターの向こうで、トンプソンが腕を組みながら、単刀直入に切り込んできた。その声には、隠しきれない苛立ちと、子供のような羨望が滲んでいた。
「どうしようかな。正直に言おう。君たちがそれを持っているから、俺もその『分身スキル』が欲しくなってきたぞ。 だから、まずはその使用者としての感想を教えてくれ。本当に、それほど便利なものなのか?」
その、あまりにもストレートな問い。
沢村は、九条と顔を見合わせると、苦笑しながらマイクのスイッチを入れた。
「……感想、ですか。大統領」
彼は、慎重に言葉を選びながら、この数週間の体験を語り始めた。
「ええ。一言で申し上げるなら、うーん、便利ですよ? 非常に。私は、睡眠時間を短縮する『超熟睡』の能力も同時にいただいておりますが、単純に、一日の活動時間が二倍以上になりましたね。 これまで物理的に不可能だった、複数の重要会議への同時出席も可能になり、おかげで山積していた国内の課題を、驚異的なスピードで処理できております。仕事を全てこなして、若干ですが、空き時間も出てきました」
その言葉に、トンプソンが「ほう」と身を乗り出す。
だが、沢村はすぐに釘を刺した。
「これだけを見れば、確かに便利なのですが…ね」
彼は、このスキルの持つ、根本的な問題点を指摘した。
「大統領もご存知の通り、このスキルは単なる影武者を作るものではありません。意識と記憶を完全に共有する、もう一人の『本体』を生み出す。そして、両方が本体であるということは、片方が死んでも、もう片方が生きている限り、その人間の意識は存続する。老化するとはいえ、同時に死なない限り、実質的な『不死』を手に入れてしまうことになるのです」
沢村の顔から、笑みが消えた。
「我々も、当初はこの利便性を、例えばトップクラスの外科医や科学者に与えることで、人類全体の発展に貢献できないかと考えました。ですが、それは同時に『死なない人間』という、新たな階級を生み出してしまうことになる。それは、社会の倫理観、法体系、そして宗教観を、根底から破壊しかねない。この利便性を、軽々しく民間に降ろしたいとは、我々は考えておりません。この『不死』という側面が、あまりにも大きなネックとなって、降ろせないのです」
その、日本の指導者としての、誠実で、そして苦悩に満ちた説明。
トンプソンは、腕を組んで、深く唸った。
「……そうだよなぁ。不死、か。確かに、それは大きな問題だ。我が国でそんなことをすれば、間違いなく社会がひっくり返るほどの、大論争になる」
その時、それまで黙って話を聞いていた北京の王将軍が、まるでせせら笑うかのように、静かに口を挟んだ。
「は?」
彼は、心底不思議そうに言った。
「宗教家? そのような者たちが、国家の決定に何か口を挟む権利があるとでも? 放置すればよろしいでしょう」
その、あまりにも傲慢で、しかし彼らにとっては当然の理屈。
トンプソンと沢村は、言葉を失った。
「我が国の習近平首席は、この能力に大満足しておられます」と、王将軍は続けた。「国内の統治効率は、飛躍的に向上した。そして何より、この能力がもたらした戦略的な安定性は、計り知れない。例えば、台湾を巡る、西側諸国のつまらない動きも、これで完全に帳消しになったと、大変喜んでおられます。指導者の斬首作戦など、もはや意味をなしませんからな」
彼は、モニターの向こうの三人を、挑戦的な目で見据えた。
「この能力は、国家の核心的利益そのものです。これを取り上げることなど、断固として反対する。宗教家が、何を言おうと、一切構いませんな」
「我が国も、中国に100%同意する」
今度は、モスクワのヴォルコフ将軍が、満足げな笑みを浮かべて言った。
「宗教家など、無視すればいい。そもそも、我が国の正教会は、大統領の決定を常に祝福するものだ」
彼は、まるで自慢話でもするかのように、プーチン大統領の近況を語り始めた。
「プーチン大統領は、この能力のおかげで、ついに『自由な時間』を手に入れたと、常にご機嫌です。一方の身体でクレムリンの執務をこなしながら、もう一方の身体で、黒海の別荘でチェスを指し、古典文学を読み耽っておられる。そのおかげか、最近下される戦略的な判断は、以前にも増して冴え渡っておりますよ」
そして彼は、声を潜め、まるでここだけの話だというかのように、付け加えた。
「……正直に申し上げて、もし今、この能力を取り上げでもしたら、大統領は絶対に機嫌が悪くなる。そうなれば、何が起きるか、分かりませんぞ? ですので、どうか、その話だけは、もう二度としないでいただきたいですね…」
その、脅迫とも懇願ともつかない、奇妙な言葉。
沢村と九条は、もはや苦笑するしかなかった。
神の気まぐれな福利厚生が、二人の独裁者に、絶対的な権力基盤と、優雅な余暇を与えてしまった。なんと皮肉なことか。
「ハハハ!」
トンプソンが、乾いた笑い声を上げた。「なるほど、なるほど。時間ができて嬉しいのは、皆同じ、ということか」
彼は、一度深呼吸をすると、改めて沢村に向き直った。
「……それで、総理。私は、どうすればいい?」
その問いは、もはや日本の総理大臣個人へというよりは、この狂った世界のルールそのものへの、問いかけのようだった。
「うーん、正直、欲しい。喉から手が出るほど、欲しい。 だが、君が言った通り、宗教家たちの反発が、怖い。我が国には、信教の自由という、厄介な、しかし尊重せねばならん原則があってな」
彼は、本音を吐露した。
「ただでさえ、KAMIの扱いに、どの宗教も困り果てている。 バチカンは、彼女を『地球外知的生命体による、神学的な挑戦』と位置付け、何百ページもの報告書をまとめている。イスラムの指導者たちは、彼女を『ジン(精霊)』の一種と見なすべきか、議論が紛糾している。そして、我が国の福音派は、彼女を『終末の日に現れる天使』だと信じる者と、『偽りの預言者』だと糾弾する者に、完全に分裂している。大騒ぎなんだよ」
トンプソンは、頭を抱えた。
「こんな状況で、私自身が、その神から『不死』の力を授かったと知れたら、どうなる? 一体、彼らが、神を『悪魔の化身』だとか言い出したら、どう収拾をつけるんだ?」
「それな!」
沢村は、思わず相槌を打った。「全く、同感ですよ、大統領」
「彼女は、ゴミ問題を解決してくれたんだぞ? その一点だけでも、神か、少なくとも天使で良いじゃないかと、私は思うがな。だが、理屈では割り切れないのが、信仰というものだ…」
トンプソンは、深く、深くため息をついた。
それは、民主主義国家のリーダーだけが抱える、独裁者たちには決して理解できない、重い、重い憂鬱だった。
会議は、終わった。
結局、トンプソンは、その場で結論を出すことができなかった。「少し、考えさせてくれ」と。
北京とモスクワのモニターが、満足げな余韻を残して消える。
後に残されたのは、沢村、九条、そしてトンプソンの、三人の男たちの映像だけだった。
「……大統領」
沢村が、静かに語りかけた。「お気持ちは、お察しします」
「……ありがとう、総理」と、トンプソンは力なく笑った。「羨ましいよ、君たちが。いや、ある意味では、プーチンや習近平が、羨ましい。彼らには、迷いがない。力とは、ただ奪い、行使し、維持するものだ。実に、シンプルだ。だが、我々には、それを使うことの『正当性』を、常に国民に、そして歴史に問われ続けなければならない、という呪いがかかっている」
その言葉は、この世界の、新たな、そして決定的な断絶を、明確に示していた。
神の力を手にした、独裁国家と、民主主義国家。
その両者の間にある、決して埋めることのできない、深い溝。
これから先、世界は、この二つの価値観の間で、永遠に揺れ動き続けることになるのだろう。
「……いずれにせよ」と、トンプソンは気持ちを切り替えた。「この件は、一度持ち帰る。だが、一つだけ、言っておこう、総理。もし、私がこの力を手に入れると決めたら。その時は、君たちと同じように、KAMIに直接、口利きを頼むことになる。その時は、よろしく頼む」
「……承知、いたしました」
沢村は、静かに頷いた。
中間管理職の仕事は、また一つ、増えそうだった。
回線が、切断された。
官邸の執務室に、再び静寂が戻る。
沢村は、椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
「……九条君。私は、どちらがいいのか、もう分からなくなってきたよ」
彼は、呟いた。
「不死身の独裁者たちと、たった二人で渡り合っていく、この地獄。それとも、アメリカも巻き込み、三対一の、より複雑で、より不安定な地獄。…どちらが、マシなのだろうな」
その問いに、九条は答えなかった。
ただ、淹れたての、熱い茶を、主の前に静かに差し出すだけだった。
その湯気だけが、この、あまりにも冷徹で、そしてあまりにも人間臭い、世界の縮図の中で、唯一、温かいもののように思えた。
答えの出ない問いを抱えたまま、彼らの、眠らない一日は、また静かに更けていく。




