第40話
日本の政府専用機が北京首都国際空港に着陸した時、官房長官、九条の心は、モスクワを訪れた時とはまた異なる種類の、重い圧迫感に支配されていた。
モスクワが、凍てつくような剥き出しの権力と、個人の意思が支配する氷の帝国であったとすれば。
ここ北京は、五千年の歴史と、十数億の民の営みが積み重なった、底知れない巨大な官僚機構そのものが、一つの生命体として呼吸しているかのような、圧倒的な威容を放っていた。
空港から、物々しい警備の車列に護られながら、市の中心部へと向かう。窓の外に広がるのは、近未来的な摩天楼と、その足元に息づく古い胡同が混在する、混沌と秩序の 巨大都市。その全てが、一つの巨大な意思の下に、完璧に統制されている。
彼らが案内されたのは、紫禁城に隣接する、中国の政治の中枢、中南海。
その一角にある、歴代の最高指導者たちが外国の賓客を迎え入れてきたという、伝統的な四合院様式の会談所だった。
部屋の中は、クレムリンの金襴豪華な装飾とは対照的に、静謐な気品に満ちていた。壁には、水墨の山水画の掛け軸。隅には、人間国宝級の陶芸家が焼いたであろう、見事な青磁の花瓶。空気には、最高級の白檀の香が、ほのかに漂っている。
この部屋そのものが、力による威圧ではなく、文化と歴史の深淵さによって、相手を自ずとひれ伏させる、見えざる権威の結界となっていた。
やがて、部屋の奥の扉が静かに開かれ、一人の男が、穏やかな、しかし一切の隙のない足取りで入室してきた。
中華人民共和国、国家主席、習近平。
その男の佇まいは、プーチンのような獰猛な肉食獣のそれとは、全く異なっていた。彼は、むしろ巨大な図書館の主のような、落ち着いた学者の風格を漂わせている。だが、その穏やかな表情の奥にある瞳は、この国の十数億の民の運命を、その双肩に一人で担う者の、底知れない深さと重みを湛えていた。
「ようこそ、北京へ。九条長官。長旅、ご苦労であったな」
その声は、プーチンのように低くはない。だが、一度発せられれば、誰もがそれに耳を傾けずにはいられない、不思議な説得力を持っていた。
「首席閣下。この度は、我々の唐突な申し出に、迅速にご対応いただき、感謝の言葉もございません」
九条は、モスクワの時以上に深く、そして慎重に、頭を下げた。
形式的な挨拶が交わされる。
その間、九条は、目の前の男が放つ、プーチンとは質の異なるプレッシャーの正体を分析していた。
プーチンが、個人のカリスマと恐怖によって帝国を支配する「皇帝」であるとすれば。
この男は、自らを、五千年の歴史を持つ「中華」という巨大な文明そのものの、現時点における代理人と規定している「天子」なのだ。
個人ではない。歴史そのものと、対峙している。
その、あまりにも巨大なスケール感。
約束の時刻。
習近平は、ふと、部屋の中央に置かれた、見事な花梨のテーブルの向かいの空席に、視線を向けた。
「……そろそろ、仙女がお見えになる頃合いかな」
彼が、まるで旧知の友人を待つかのように、そう呟いた、その瞬間。
空気が、揺れた。
何の前触れもなく、その空席に、すぅっとあのゴシック・ロリタ姿の少女が、腰掛けている状態で、姿を現した。
警護のために部屋の隅に控えていた中国の特殊部隊員たちが、一斉に身構える。
だが、習近平は、穏やかに、手のひらでそれを制した。彼は、ロシア側から、この神がどのように現れるのか、詳細な報告を受けていたのだ。
少女――KAMIの分身は、珍しく、周囲をきょろきょろと見回すことはしなかった。
ただ、その赤い瞳で、目の前の男を、じっと見つめていた。
そして、まるで古い知り合いにでも語りかけるかのように、静かに、しかしどこか楽しげに、口を開いた。
「お会いできて光栄だわ。五千年の歴史をその身に宿すという、中華の龍にね」
その、あまりにも東洋的な、そして相手への深い理解を示す、神の第一声。
九条は、息を呑んだ。
この神は、相手によって、その態度と語り口を、完璧に変えている。
プーチンの時は、挑戦的な好敵手として。
そして、この男に対しては…。
習近平は、その神の挨拶に、動じることなく、穏やかな笑みを返した。
「こちらこそ、光栄だ。悠久の時を生きるという、偉大なる仙人よ」
龍と、仙人。
二つの、人ならざる存在が、今、時を超えて邂逅した。
その、あまりにも詩的で、そして高度に政治的な応酬。
「ふふふ。残念だけど、私は仙人ほど、外界の秩序や、民の安寧を重んじることはないけどね」
少女は、楽しそうに笑った。
「いや」と、習近平は静かに首を振った。「かつての仙人は、民を導き、徳を示すことで尊ばれました。しかし、現代では、力を与え、奇跡を示す仙人こそが、最も尊ばれる。貴方のようにね」
その言葉は、単なる追従ではなかった。
力こそが、現代における絶対的な「徳」であるという、彼の揺るぎない政治哲学の表明であり、そして、その力の源泉である目の前の存在への、最大限の敬意の表明だった。
「ふふふ。そうね」
少女は、満足げに頷いた。
二人の間に流れるのは、プーチンとの間にあったような、火花が散るような緊張感ではない。
互いの知性と、その計り知れない深淵さを認め合った、二人の超越者による、静かで、そして高度な知性溢れる会話だった。
「さて」と、少女は言った。「余談は、これくらいにして。そろそろ、約束の力を渡しましょうか」
彼女は、そう言うと、ただ、じっと習近平の目を見つめた。
次の瞬間、習近平の身体を、何か巨大な情報奔流が駆け抜けるような、しかし痛みは一切伴わない、不思議な感覚が襲った。
彼の長年の政治家としての経験と、膨大な知識が蓄積された脳が、全く新しいOSをインストールされるかのように、その構造を再構築していく。
数秒後。
感覚が、収まった。
習近平は、自らの身体に起きた変化を、冷静に、そして完璧に理解した。
彼は、意識を集中させた。
自らの、もう一つの半身を、この世に呼び出すために。
彼の隣の空席に、まるで水面に姿が映るかのように、もう一人の習近平が、音もなく現れた。
寸分違わぬ、二人の国家主席。
「……完璧だな」
片方の習近平が、自らの手を見つめながら、静かに呟いた。
「これで、北京を離れることなく、全国の津々浦々まで、私の意思を直接届けることができる。地方への視察が、捗る」
その言葉は、プーチンのように個人的な欲望からではなく、あくまで国家統治の効率化という、どこまでも公的な視点から発せられていた。
「まあ、それも、あの面倒なゲートが出来れば、終わりの話だけどね」
習近平の一人が、そう言って、九条の方をちらりと見た。
その視線には、お前たちの仕事は遅いな、という、穏やかな、しかし明確な圧力が含まれていた。
「でも、日本の、そしてアメリカのゲート構想は、まだまだ時間が掛かるわよ?」
少女が、面白そうに茶々を入れる。
「いいですよ、仙人」と、習近平は答えた。その声には、一切の焦りも苛立ちもなかった。「我々は、待つのは慣れています。中華というこの国は、数千年の間、ただひたすらに待ち、力を蓄え、そしてあるべき時に、あるべき姿を取り戻してきたのですから。そして何より…」
彼は、目の前の神をまっすぐに見据えた。
「今の私は、不死となったのだから」
その、静かな、しかし絶対的な自信に満ちた宣言。
少女は、くすくすと笑った。
「うーん、正確には、老化はするけどね。まあ、二人が同時に死なない限り、不死と言えなくもないからねぇ」
そして彼女は、まるでゲームの攻略情報を教えるかのように、プーチンには与えなかった、極めて重要なアドバイスを、この男にだけ与えた。
「分身はね、慣れれば、さらに増やせるわ」
「……ほう」
習近平の、二対の目が、同時に鋭い光を宿した。
「だから、二人と言わず、三人、四人、五人、六人と、出来るだけ多い人数で運用するのをおすすめするわ。このスキルは、使えば使うほど、習熟すればするほど、その上限数が増えていくからね」
その言葉に、九条は内心で身構えた。
(……来たか。モスクワの時と同じ助言だ。プーチン大統領は、これを自身の安全保障の強化と、個人的な時間の創出という文脈で捉えていた。だが、目の前のこの男は…)
「……ほう」
習近平の、二対の目が、同時に深い思索の色を宿した。
彼は、プーチンのように「それはいいことを聞いた」などと、単純な喜びを見せることはなかった。ただ、その巨大な知性が、与えられた情報の真の意味と、その究極的な応用方法を、超高速で計算しているかのようだった。
「だから」と、少女は続けた。「二人と言わず、三人、四人、五人、六人と、出来るだけ多い人数で運用するのをおすすめするわ。このスキルは、使えば使うほど、習熟すればするほど、その上限数が増えていくからね」
(神は、プーチンにも同じ助言を与えた。だが…目の前の男の反応は、全く違う)
九条は、戦慄を禁じ得なかった。
(プーチンが個人の『不死』と『安寧』を求めたのに対し、この男は、即座にそれを『統治システム』へと昇華させようとしている。同じ情報を受け取りながら、これほどまでに構想のスケールが違うとは…! 器が、野心が、違いすぎる…!)
「じゃあ、私は帰るわよ」
少女は、もう用事は済んだとばかりに、椅子から立ち上がった。
「ほう、もうですか?」
習近平は、心底名残惜しそうに言った。「もう少し、話をしませんか? あなたと語らうのは、実に有意義だ」
「遠慮するわ。またの機会に、ね」
少女は、悪戯っぽく微笑んだ。
「私達には、無限の時間がある。そうでしょう?」
「ふふふ。そうですね。では、また」
習近平もまた、穏やかに笑い返した。
「ええ。また」
その言葉を最後に、少女の姿は、すっとその場から消えた。
後に残されたのは、二人の国家主席と、呆然と立ち尽くす日本の外交官だけだった。
執務室は、再び静寂に包まれた。
片方の習近平が、おもむろに立ち上がると、壁にかけられた巨大な中国全土の地図の前へと歩み寄った。
もう片方の習近平は、部屋の隅にある書架から、一冊の古い『資治通鑑』を取り出し、そのページをめくり始めた。
二人の間に、言葉はなかった。
だが、その意識は、完全に一つだった。
彼らは、これから始まる、永遠の統治の計画を、脳内で静かに組み立てていた。
一人は、北京で世界の外交を司る。
一人は、国内の統治と視察を。
そして、KAMIのアドバイス通り、三人目、四人目が生まれれば。
一人は、軍の全てを掌握し。
一人は、人類の全ての知識を、書庫に籠って吸収し続ける。
完璧な、分業。
完璧な、統治。
一人の人間が、一個の国家そのものへと変貌する、壮大な計画。
やがて、書を読んでいた方の習近平が、顔を上げた。
そして、誰に言うでもなく、深い感慨と共に、楽しそうに呟いた。
「ふふふ。この歳で、仙人と出会えるとはな。…いや、あれは、神だったか」
その言葉は、もはや単なる感想ではなかった。
古来より、この国の天子は、天からの命、『天命』によってその座に就くとされてきた。
彼は、今まさに、新しい時代の、新しい『天』から、永遠の統治という、新しい天命を授けられたのだ。
その、あまりにも重く、そしてあまりにも甘美な運命を、彼は、静かに、そして確信と共に、受け入れていた。
九条は、その二人の男の姿を、ただ黙って見つめていた。
彼は、理解した。
自分は、とんでもないものを、この国に与えてしまった。
プーチンという、獰猛な虎に、不死の牙を与えた。
そして今、習近平という、深淵の龍に、無限の叡智と、永遠の時間を与えてしまった。
世界は、もはや後戻りのできない場所へと、足を踏み入れてしまったのだ。
その、あまりにも重い事実を胸に、彼は、この静謐な、しかし、世界の未来を永遠に決定づけてしまった部屋を、静かに退出するしかなかった。
彼の、そして日本の、中間管理職としての苦悩は、また一つ、その深さを増したのだった。




