第39話
モスクワ、クレムリン。
その歴史的建造物の心臓部は、現代のいかなる軍事力でも突破不可能な、静かな要塞と化していた。
廊下には、ロシア連邦保安庁(FSB)の精鋭たちが、壁の染みと見分けがつかぬほどの不動の姿勢で佇み、その視線は赤外線センサーのようにあらゆる動きを捉えている。建物の外では、最新鋭の電子戦システムがモスクワ上空の空を覆い尽くし、一羽の鳩の飛翔さえも管制下に置いていた。
彼らが守っているのは、国家元首の安全だけではない。
今まさに、この場所で行われようとしている、人類の歴史上、最も異質で、そして最も危険な『神との謁見』そのものだった。
日本の政府専用機でモスクワ入りした九条官房長官と、彼の率いる少人数の随行団は、その息詰まるような緊張感の中を、まるで死刑台へと歩む囚人のように、無言で進んでいた。
彼らの役割は、ただ一つ。
神の、案内役。
これから行われる、神と皇帝の会談の、ただの立会人。
その、あまりにも屈辱的で、そしてあまりにも重い責務。
案内されたのは、クレムリン宮殿の最も奥深く、『皇帝の間』と呼ばれる、帝政ロシア時代から受け継がれてきた豪奢な一室だった。
壁には、歴代皇帝の肖像画が掲げられ、その金箔で彩られた重厚な額縁が、巨大なシャンデリアの光を鈍く反射している。部屋の中央には、一本の巨大なカレリア樺の木から作られたという、壮麗な執務机。
そして、その机の向こう側。
部屋の主であるロシア連邦大統領、ウラジーミル・プーチンが、静かに彼らを待っていた。
テレビの画面で見るよりも、その男の身体は引き締まり、その佇まいには一切の隙がない。だが、何よりも印象的なのは、その瞳だった。氷のように冷たく、感情の色を一切映さない、しかし、獲物の心の臓を一瞬で見抜くかのような、鋭い光を宿した瞳。
彼は、椅子から立ち上がると、九条たちに形式的な、しかし完璧な礼儀正しさで歩み寄った。
「ようこそ、クレムリンへ。九条長官。長旅、ご苦労だった」
その声は、低く、落ち着いていた。だが、その響きの奥には、この場の空気を完全に支配する、絶対的な権力者のオーラが満ちていた。
「……大統領閣下。この度は、急なご調整、感謝申し上げます」
九条は、完璧なポーカーフェイスで、深々と頭を下げた。
儀礼的な挨拶が、数分間交わされる。
その間、九条の全身は、嫌な汗でじっとりと濡れていた。
(……これが、皇帝か)
彼は、肌で感じていた。
沢村やトンプソンのような、民主主義国家のリーダーたちとは、全く質の異なる圧力。彼らは、世論や選挙という『枷』にはめられた獣だ。だが、この男は違う。彼は、自らが法であり、自らが国家である、真の独裁者。
このような男に、神の力が与えられたら、一体どうなるのか。
その想像だけで、九条の背筋は凍るようだった。
約束の時刻。
プーチンが、ふと、部屋の中央の何もない空間に、視線を向けた。
「……そろそろ、時間かな」
彼がそう呟いた、その瞬間。
空気が、揺れた。
何の前触れもなく、その空間に、すぅっとあのゴシック・ロリタ姿の少女が、音もなく姿を現した。
FSBの警護官たちが、一斉に銃に手をかける。
だが、彼らが引き金を引くよりも早く、プーチンの、低く、しかし有無を言わせぬ声が、それを制した。
「動くな。…お客様だ」
少女――KAMIの分身は、物珍しそうに、部屋の豪華な装飾をきょろきょろと見渡していた。そして、やがてその視線を机の向こうのプーチンへと向けると、まるで旧知の友人にでも会ったかのように、気安く声をかけた。
「こんにちは、プーチン大統領。ご活躍は、インターネットでよく聞いてるわ」
その、あまりにも場違いな、少女の声。
だが、その声に含まれた、世界の理を超越した響きに、その場にいた誰もが、肌で理解した。
これが、神なのだ、と。
プーチンは、動じなかった。
彼は、その氷のような瞳に、初めて、かすかな笑みの色を浮かべた。
「光栄だな。神にまで、私のささやかな活躍が知られているとは」
その声には、皮肉も、へりくだりもなかった。ただ、対等なプレイヤーに対する、純粋な好奇心だけがそこにあった。
「そりゃそうよ」と、少女はこともなげに言った。「正直、こっちからしたら、大衆なんていう、面倒くさくて、理不尽で、感情的な生き物の集合体に、律儀に付き合って、それをまとめ上げようとするあなたたち政治家という人種は、内心、結構尊敬してるのよ?」
彼女は、こてんと首を傾げた。
「権力があるとはいえ、大変でしょうに」
その、あまりにも意外な、そして的確な評価。
九条は、息を呑んだ。
この神は、理解しているのだ。政治という、人間が営む最も厄介で、最も不毛なゲームの、その本質を。
その神の言葉に、プーチンは、初めて声を上げて笑った。
「ふふふ。そんなことはない。むしろ、逆だよ、神君」
彼は、まるで極上のワインでも味わうかのように、その言葉を口にした。
「大衆を操る、あの感覚。恐怖と、希望と、そしてほんの少しの真実を使い分け、一億の人間が、まるで私の指先から伸びた糸で操られる人形のように、一つの方向へと動いていく。あの全能感にも似た感覚は、何事にも代えがたい、最高の愉悦だよ。そして、これから私が手にするという『不死』にも、同じくらい期待している…そうだろう?」
その、剥き出しの、独裁者としての本音。
少女は、楽しそうに目を細めた。
「そうね。まあ、正確に言えば、『疑似不死』だけど」
彼女は、スキルの仕様を、淡々と説明し始めた。
「最初は、あなたと全く同じ意識と記憶を持つ分身を、一体しか出せないわ。でも、スキルに習熟していけば、その数はもっと増やせるようになるわよ?」
「ほう。それは、良いことを聞いた」
プーチンは、満足げに頷いた。「ならば、一人はクレムリンで執務をこなし、もう一人は、どこか黒海のほとりの別荘で、優雅にお茶でも飲みながら、チェスでも差すという生活も、夢ではないな。そんな人間らしい日常は、もう何十年も味わえていないからな…」
その言葉は、一見するとただの願望のように聞こえた。
だが、九条には、その言葉の裏にある、恐るべき戦略的な意味が、痛いほど理解できた。
一つは、世界の表舞台に立つ、公の『皇帝』。
もう一つは、決して誰にもその存在を知られることのない、影の『皇帝』。
絶対的な安全地帯から、世界というチェス盤を操る、不死身のプレイヤーの誕生。
「あら、ごめんあそばせ?」
少女は、そのプーチンの野心を見透かしたかのように、わざとらしく、そして楽しそうに言った。
「なんだか、私のせいで、あなたたちの世界を騒がせてしまって、悪いわね」
その口調には、謝罪の色など、微塵もなかった。
「いや」と、プーチンは首を振った。「むしろ、感謝している。君がもたらした混乱は、停滞していた世界を、再び面白いステージへと変えてくれた。それに、君が日本とアメリカに進めさせているというゲート構想は、是非とも我がロシア全土に導入したい。あれは、この広大すぎる国土を持つ我々にとってこそ、最大の恩恵となるだろうからな。早く、我が『友』である日本とアメリカには、さっさとあのシステムを安定させて欲しいものだね」
『友』。
その言葉が、どれほど冷たい響きを持っていたか。
「キャハハハ! そうね!」
少女は、甲高い声で笑った。「日本の、あの面倒くさい会議を見ていると、一体何年掛かることやら! まあ、私には時間は無限にあるから、別に良いけどね!」
その笑い声は、人間の努力や苦悩を、まるで矮小な蟻の行列でも見るかのように、嘲笑しているかのようだった。
「さて」
少女は、もうこの会話に飽きたとばかりに、くるりとプーチンに背を向けた。
「話は、終わり。じゃあ、約束のものを、渡してあげる」
彼女が、指をぱちんと鳴らす。
その瞬間、プーチンの身体を、何か冷たい奔流が駆け抜けるような感覚が襲った。
魂に、直接、新しいプログラムが書き込まれるような、異質な感覚。
数秒後、その感覚が収まった時。
彼は、理解した。
自分の中に、新しい「手足」が生まれたことを。
彼は、意識を集中させた。
――来たれ、我が半身。
その、心の呼び声に応えるように。
彼のすぐ隣の空間に、まるで陽炎のように、もう一人のプーチンが、音もなくその姿を現した。
同じスーツ、同じ顔、同じ冷たい瞳。
寸分違わぬ、二人の皇帝。
部屋にいたFSBの警護官たちが、息を呑む。
九条もまた、そのあまりにも異常な光景に、背筋が凍るのを感じていた。
二人のプーチンは、互いを値踏みするように見つめ合った。
そして、全く同じタイミングで、全く同じ、冷たい笑みを浮かべた。
「じゃあ、私は帰るわ」
少女の声が、部屋に響いた。「二人分の仕事、頑張って頂戴。せいぜい、国家の繁栄に励むことね」
その、まるでゲームのNPCがプレイヤーにかけるような、無機質なエールの言葉を残して。
少女の姿は、来た時と同じように、ふっとその場から消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、二人の皇帝。
そして、その神の御業を目の当たりにして、ただ立ち尽くすしかない、人間たち。
「……下がれ」
プーチンの一人が、低い声で命じた。
FSBの警護官、そして日本の随行団は、その有無を言わせぬ声に促されるように、足早に部屋を退出していった。
皇帝の間に残されたのは、二人のプーチンと、そして彼の最側近であるヴォルコフ将軍、ただ三人だけだった。
「……見事なものだな」
片方のプーチンが、自らの手を見つめながら、感嘆の声を漏らした。「感覚は、完全に共有されている。思考も、寸分の遅延なく同期している。まさに、もう一人の私だ」
「ああ」と、もう片方のプーチンが答えた。「これで、我々は、時間と空間の制約から、完全に解放された」
彼は、部屋の隅に置かれていた、美しい象牙のチェス盤へと歩み寄った。そして、白のキングを、指でそっとつまみ上げた。
「これで、ようやく、ゆっくりとゲームが楽しめそうだ」
その言葉の意味を、ヴォルコフは理解していた。
これは、もはや国家運営などではない。
不死の王が、永遠に続ける、壮大な世界という名のゲーム。
その、始まりのゴングが、今まさに、鳴らされたのだ。
その夜。
日本の政府専用機が、モスクワの空を飛び立った。
機内は、重い沈黙に包まれていた。
九条は、窓の外に広がる、宝石を散りばめたようなモスクワの夜景を見下ろしていた。
美しい、光の海。
だが、その光の一つ一つが、今や、不死身の皇帝が支配する、巨大なチェス盤の駒にしか、彼には見えなかった。
(……我々は、とんでもない怪物を、この世に解き放ってしまった…)
その、あまりにも重い後悔と、罪の意識。
だが、彼に感傷に浸っている時間は、残されていなかった。
彼の次の目的地は、北京。
そこでは、もう一人の皇帝が、同じように、神の降臨を待ちわびている。
自分は、この手で、もう一体、同じ怪物を、世界に解き放たねばならないのだ。
その、あまりにも過酷な運命。
クレムリンの一室。
二人のプーチンのうちの一人が、チェス盤の前に一人座り、駒を並べていた。
もう一人は、執務机で、山と積まれた機密文書に、サインをし続けている。
静かな、完璧な夜だった。
チェス盤の前のプーチンは、白のキングをそっと指で撫でながら、誰に言うでもなく、楽しそうに呟いた。
「ふふふ。また会いたいものだな、神君。今度は、神と、チェスでも指しながら、ゆっくりと語り合いたいものだ」
その言葉は、もはや人間が神に抱く、畏敬の念ではなかった。
盤上で、唯一自分と対等たりうる、好敵手に対する、挑戦状。
そのものだった。
世界は、今、二人の神の、巨大なチェス盤と化した。
一人は、気まぐれにルールを作り変える、絶対的な創造主。
そしてもう一人は、そのルールの下で、永遠に勝利を目指し続ける、不死身のプレイヤー。
その、あまりにも歪で、そして危険なゲームの行方を、まだ誰も知る由はなかった。




