第38話
その日、日本の官邸は、ついに静寂を取り戻していた。
いや、正確に言えば、静寂という名の、極度の緊張と疲労に支配された、巨大な真空地帯と化していた。
世界中から殺到していた抗議と嫉妬の嵐は、日米両政府が仕掛けた巧みな情報戦と、『異世界』という新たな夢の提示によって、ひとまずの鎮静化を見ていた。ゲート構想を巡る国内の狂騒も、無数の調整会議という名の泥沼の中で、不毛ながらも安定した膠着状態へと移行しつつあった。
沢村総理と九条官房長官は、神から与えられた『超効率的睡眠』と『分身』スキルによって、物理的には疲労を知らない、完璧な政治マシーンと化していた。彼らは眠らない。彼らは休まない。彼らは、二つの身体で、四人分の仕事を、淡々と、そして無感情にこなし続けていた。
それは、平穏だった。
だが、その平穏は、死の静けさにも似ていた。
人間としての感情をすり減らし、ただ国家という巨大な機械の歯車として回転し続ける日々。その先に、一体何があるのか。彼らは、もはや考えることさえ放棄していた。
その、あまりにも静かで、あまりにも脆い日常の中に、それは三度、何の兆候もなく舞い降りた。
首相執務室。
分身の沢村が国内の経済閣僚会議を、本体の沢村がアメリカのトンプソン大統領とのビデオ会談を、同時にこなしている、まさにその最中。
部屋の中央に、すぅっとあのゴシック・ロリタ姿の少女が顕現した。
「――ッ!」
沢村の二つの身体が、同時に凍りつく。
モニターの向こうで、トンプソンが「どうした、総理?」と怪訝な顔をしている。閣僚会議のモニターでは、財務大臣が訝しげな視線を向けている。
その全てを無視して、沢村は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
彼の隣で、同じように別の公務をこなしていたはずの九条の分身も、いつの間にか彼の背後に現れ、同じようにひれ伏していた。
神の、突然の来訪。
それは、もはや彼らにとって、死刑宣告にも等しい響きを持っていた。
「やあ。また忙しそうね」
少女――KAMIの分身は、まるで自分の部屋に入ってきたかのようにくつろいだ様子で、室内にいる四人の沢村と九条を興味深そうに見比べていた。
「スキル、ちゃんと役に立ってるみたいで何よりだわ」
「は。はい。お陰様で…」
沢村の喉から、乾いた声が絞り出された。
「それでね」と、少女は本題を切り出した。彼女の言葉には、いつものように、何の含みもない。ただ、純粋な好奇心だけがあった。「この前、あなたたちから預かった宿題。中国とロシアの、あの件。どうなったの?」
その一言で、沢村と九条の背筋を、冷たい氷のような汗が伝った。
来た。
ついに、来てしまった。
彼らが、この数週間、心の奥底で最も恐れていた、神からの「進捗確認」が。
「……はい。その件につきましては、先日、四カ国首脳レベルでの緊急ビデオ会議を開催し、両国の意向を正式に確認いたしました」
九条が、完璧な官僚としての仮面を被り直し、一歩前に進み出た。
彼は、あの悪夢のような会議の内容を、一言一句違わぬように、目の前の神に報告し始めた。
中国とロシアが、単なる生産性の向上ではなく、指導者の『不死性』という究極の戦略的価値を見出し、その一点において『分身スキル』の提供を強く要求してきたこと。
そして、その対象が、習近平首席とプーチン大統領、その個人に限定されていること。
九条は、報告の最後に、自らの、いや、人類としての最後の抵抗を試みた。
「……KAMI様。僭越ながら、申し上げます。このスキルを、特定の個人、それも絶大な権力を持つ独裁的な指導者に与えることは、世界のパワーバランスを永遠に、そして不可逆的に固定化させる、極めて危険な行為であると、我々は愚考いたします。どうか、今一度、ご再考を…」
その、魂からの、悲痛なまでの諫言。
それを、少女は、まるで興味のない授業を聞く子供のように、退屈そうな顔で聞いていた。
「んー?」
彼女は、こてんと首を傾げた。その赤い瞳には、九条が語る地政学的なリスクなど、何一つ映ってはいない。
「別に、良いんじゃないの?」
その、あまりにも軽い、そしてあまりにも残酷な一言。
沢村と九条の最後の希望が、音を立てて砕け散った。
「だって」と、少女は続けた。その論理は、どこまでもシンプルで、そして人間には理解しがたいものだった。「所詮、一国の長が、永久にその座にいるだけじゃない。別に、世界が滅びるわけでもないでしょう?」
絶句。
この神にとって、独裁も、民主主義も、人権も、自由も、全てが等しくどうでもいいことなのだ。
彼女の興味は、ただ、この実験が、この世界というゲーム盤が、どう変化していくか。その一点にしか、ないのだ。
そして彼女は、まるでゲームの仕様の欠陥でも見つけたかのように、あっさりと、さらに恐ろしいことを口にした。
「それに、そのスキル、完璧じゃないわよ。老化は、防げないし…。仮の話だけど本体含めて分身全てが同時に老衰で死んだら、終わりよ。不完全な不死ね」
その、あまりにもずれた指摘。
沢村と九条は、もはや眩暈を感じていた。
問題は、そこではない。全く、そこではないのだ。
「ああ、そうだ」
少女は、何かを思い出したかのように、ポンと手を打った。そして、悪魔のような、しかし本人にとっては純粋な善意からの提案を、にこやかに口にした。
「老化を防ぐスキルも、上げてあげようか? 身体の時間を、全盛期の状態で完全に固定する能力よ。もちろん、これは結構な高位スキルだから、流石にタダじゃ無理。ちゃんとした対価は、貰うけど」
その、悪夢の上塗り。
あまりにも無邪気な、地獄への招待状。
その瞬間、沢村と九条の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「――勘弁してください!!!!」
二人の男の、心の底からの絶叫が、首相執務室に響き渡った。それは、もはや政治家の声ではなかった。あまりにも理不尽な上司の無茶振りに、ついに堪忍袋の緒が切れた、哀れな中間管理職の、魂の叫びだった。
「またの機会に! どうか、それだけは、またの機会にしてください!」
沢村は、ほとんど土下座するような勢いで懇願した。「これ以上は、もう無理です! 我々のキャパシティは、完全にオーバーしているのです!」
「不死身の上に、不老不死の独裁者など、もう一人生まれたら」と、九条も顔面蒼白で続けた。「我々は、もう調整する自信がありません! 世界が、本当に、本当に終わってしまいます!」
彼らは、もはや国家の体面も、外交儀礼もかなぐり捨てていた。
ただ、これ以上の仕事と、これ以上の混沌を、自分たちの目の前に積まないでくれと、必死に神に懇願していた。
その、あまりにも見苦しく、しかしあまりにも切実な姿。
それを、少女は、心底不思議そうな顔で眺めていた。
「……そう?」
彼女は、少しだけ残念そうに、しかしあっさりと引き下がった。「あなたたちが、そう言うなら、いいわ。別に、無理強いするつもりはないし」
(……助かった…)
沢村と九条は、心の中で安堵のため息をついた。
最悪の、最悪のシナリオだけは、回避できた。
「じゃあ」と、少女は気持ちを切り替えた。「分身スキルの件は、それで決定ね。プーチン大統領と習近平首席に、私が直接挨拶しながら、ついでにスキルを渡してあげるわ」
彼女は、まるで近所の家に回覧板を届けに行くかのような、軽い口調で言った。
そして、いつものように、最も厄介な最後の仕事を、彼らに丸投げした。
「じゃあ、そのための予定を組んでおいてね」
その一言を残して、少女はもう用事は済んだとばかりに、くるりと背を向けた。
そして、来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、床に崩れ落ちるようにへたり込む、二人の男の姿だけだった。
いや、四人か。
本体と分身。四つの身体が、同じように、燃え尽きた灰のように、動かなくなっていた。
「…………九条君」
数分後。
沢村が、呻くように言った。
「私は、今、夢でも見ていたのだろうか」
「いいえ、総理」
九条は、虚ろな目で天井を仰ぎながら答えた。「残念ながら、これが我々の現実です。そして、我々には今、新しい仕事が与えられました。神と、二人の独裁者のための、『謁見スケジュール調整』という、人類史上最も困難な業務が」
彼は、よろめくように立ち上がると、最高機密のビデオ会議システムの端末へと歩み寄った。
やるしかないのだ。
たとえ、それが世界の終わりへのカウントダウンを、自らの手でセットする行為であったとしても。
「えー、というわけで」
数時間後。
再び招集された四カ国首脳レベルの緊急ビデオ会議。
その席で、九条は、完全に感情を消し去った能面のような顔で、淡々と、そして事務的に告げた。
「神は、貴国らの要請を、了承なさいました」
モニターの向こう側。
ワシントンのトンプソンが、絶望に顔を歪めるのが見えた。
そして、北京の王将軍と、モスクワのヴォルコフ将軍が、その仮面のような表情の下で、抑えきれない勝利の笑みを、わずかに浮かべたのを、九条は見逃さなかった。
そして彼は、最後の、そして最も厄介な神の命令を、三カ国のリーダーたちに伝えた。
「つきましては、KAMIが直接、プーチン大統領と習近平首席に謁見し、能力を授与されるとのことです。両首脳との面談の用意を、直ちに始めていただきたい。候補日時と場所を、複数提示してください。こちらのKAMIのスケジュールと調整の上、正式な日程を決定いたします」
その言葉は、もはや外交交渉ではなかった。
神の秘書官から、二つの帝国の宮廷執事への、一方的な業務連絡。
その、あまりにも屈辱的な、しかし、決して断ることのできない命令。
王将軍とヴォルコフは、一瞬だけ不快な表情を浮かべたが、すぐにそれを完璧なポーカーフェイスの下に隠した。
手に入るものの巨大さを思えば、これしきの屈辱など、問題ではなかった。
『……承知した』
『直ちに、準備に入ろう』
短い返事と共に、北京とモスクワの回線が、切断された。
モニターには、頭を抱えるトンプソンと、疲れ果てた沢村と九条の姿だけが、虚しく映し出されていた。
「……終わったな、総理」
トンプソンが、力なく言った。「我々は、ついに、パンドラの箱を、完全に開けてしまった」
「ええ」
沢村は、静かに頷いた。「不死身の独裁者たちの、誕生ですな」
その日、世界は、後戻りのできない一線を、静かに、そして確かに越えてしまった。
神の善意という名の、最も無邪気で、そして最も残酷な気まぐれによって。
人類の未来は、永遠に権力の座に君臨し続けるであろう二人の男と、その彼らさえも手のひらの上で転がす一人の神によって、完全に支配されることになったのだ。
その、あまりにもグロテスクで、そして絶望的な新しい時代の幕開けを、まだ世界中の誰も知る由はなかった。
ただ、その全ての段取りをさせられている、哀れな中間管理職たちを除いては。
彼らの、人間性を捨てた戦いは、まだ、どこまでも続いていく。




