第34話
リリアン王国の王都ライゼン。その心臓たるシルヴァリオン宮殿の一角に、王の私的な執務室はある。
玉座の間のような荘厳さはない。だが、壁一面を埋め尽くす古今東西の歴史書や兵法書、そしてテーブルの上に広げられた大陸全土の精密な地図は、この部屋こそが王国の真の頭脳であり、心臓であることを物語っていた。
部屋の主であるセリオン王は、玉座にいる時とは違う、簡素だが仕立ての良い執務服に身を包み、暖炉の前に置かれた重厚な革張りの椅子に深く身を沈めていた。その顔には、一国の王としての威厳よりも、一人の老人の深い疲労と苦悩の色が浮かんでいた。
彼の前には、この国で彼以外に玉座の間以外での私的な謁見を許された、数少ない三人の男女が立っていた。
王国騎士団総長、ヴァレリウス公爵。
財務を司る、ギデオン侯爵。
そして、王国の叡智の象徴、大魔導師エルドラ。
部屋の空気は、暖炉で燃えるパチパチという音だけが響く、重苦しい沈黙に支配されていた。
議題は、一つ。
数日前にエルドラが提出した、一つの狂気じみた、しかし本人にとっては至極真面目な請願書について。
『神の国』、すなわち地球のニホンへの、公式な視察訪問。
「……エルドラよ」
長い沈黙を破ったのは、セリオン王だった。その声は、ひどく疲れていた。
「わしは、もう何度も言ったはずだ。その件は、時期尚早である、と。天上の人との関係は、まだ始まったばかり。互いの腹の内も、まだ何も見えておらぬ。そのような状況で、お主のような王国の至宝を、敵の懐に送り込むが如き真似が、許されると思うてか」
その言葉に、騎士団総長のヴァレリウスが、力強く頷いた。
「王のお言葉、全くもってその通りにございます! エルドラ殿、あなたの御身は、もはやあなた一人のものではない! あなたは、我が国の魔法防御網の要であり、最高の戦略兵器でもあるのですぞ! そのあなたを、正体不明の者たちの本拠地へと送り出すなど、狂気の沙汰! もし、彼らがあなたを捕らえ、その叡智を根こそぎ奪おうとしたら、どうするのですか!?」
財務を司るギデオンも、冷静な、しかし明確な反対の意を表明した。
「仮に、身の安全が保障されたとしても、です。この訪問で、我々王国が具体的に何を得られるというのですか? 確かに、彼らの『科学』とやらは興味深い。ですが、そのために我々が支払わされる対価が、あまりにも大きすぎるやもしれぬ。今は、辺境の交易で得られる実利を、着実に積み重ねていくべき時です。焦りは、禁物ですぞ」
三方向からの、理路整然とした、そして国家の安寧を思っての当然の反対意見。
だが、その中心にいるエルドラは、表情一つ変えなかった。
彼女は、ただ静かに、その全てを見通すかのような澄み切った瞳で、セリオン王の顔をじっと見つめていた。
「……王よ。ヴァレリウスよ、ギデオンよ」
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。その声は、古井戸の底から響いてくるかのように、どこまでも静かだった。
「そなたたちには、見えておらぬ。わらわが、あの日、あの場所で、何を見たのかが」
彼女は、数週間前にベースキャンプでKAMIと謁見した、あの瞬間のことを語り始めた。
「そなたたちは、天上の人を、力ある『異人』か、あるいは交渉すべき『国家』と見ておる。じゃが、違う。全く、違う。わらわが見たあのお方は、そのような矮小な存在ではない。あのお方は、理そのものじゃ。我ら魔法使いがマナと呼ぶ、この世界を構成する根源の力。その流れを、まるで粘土をこねるかのように、自在に、気まぐれに、創り変えておられた。あれは、魔法ではない。魔法が、その足元にも及ばぬ、世界の創造の御業そのものなのじゃ」
彼女の言葉には、もはや学者としての冷静な分析はなかった。
あるのは、絶対的な真理を目の当たりにしてしまった求道者の、狂信的なまでの熱情だけだった。
「わらわは、行かねばならぬ。あの御業の源泉たる『科学』の正体を、この目で見届け、この身で理解せねば、大魔導師の名折れ。いや、一人の真理を探究する者として、死んでも死にきれぬわ!」
「エルドラ…」
セリオン王は、悲しげな顔で首を振った。「お主が、純粋な探究心に駆られておることは、よう分かる。じゃが、わしは王だ。一人の学者の夢のために、国を危険に晒すわけにはいかん。この話は、終わりだ。今は、許可できん」
王の、最終通告にも等しい、厳しい言葉。
ヴァレリウスとギデオンは、これでようやくこの話も終わるか、と安堵のため息をついた。
だが、次の瞬間。
彼らは、信じがたい光景を目の当たりにすることになる。
「…………」
それまで、静かに、そして威厳に満ちた態度を崩さなかった大魔導師エルドラ。
その皺の刻まれた顔が、みるみるうちに、まるで癇癪を起こす寸前の子供のように、不満の色に染まっていったのだ。
彼女の小さな身体から、抑えきれない魔力のオーラが、陽炎のように立ち上り始める。執務室の魔晶石のランプが、チカチカと明滅を繰り返した。
「……嫌じゃ」
ぽつりと、エルドラの口から漏れたのは、そんな言葉だった。
「嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ! ですから! やはり神の国にいくのです! いくったらいくのです!!!!」
ドンッ!!!!
エルドラが、その手にしていた世界樹の杖を、大理石の床に力任せに突き立てた。
凄まじい衝撃音と共に、頑丈なはずの床に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。数百年もの間、王城の歴史を支えてきた石造りの壁が、ミシミシと悲鳴を上げた。
ヴァレリウスとギデオンは、そのあまりの剣幕に、顔面蒼白となって後ずさった。
セリオン王だけが、驚きもせず、ただ深い、深いため息をついていた。
「エルドラよ…」
「セリオン! そなたは、分かっておらぬ!」
エルドラは、もはや敬語さえ忘れ、王の名を呼び捨てにしていた。その瞳には、涙さえ浮かんでいる。
「わらわは、この三百年間、魔法の真理だけを求めて生きてきた! そのわらわが、人生の終わりにきて、ようやく本物の『真理』に出会えたのじゃ! それが、どのようなことか、そなたに分かるか!? 目の前に、神々の図書館があるのじゃぞ! その扉が開いておるのに、指をくわえて見ておれと申すか! そんな殺生な話があろうか!」
彼女は、まるで駄々をこねる子供のように、再び杖で床を叩いた。
「いく! いく! いく! 何と言われようと、わらわは行くのじゃ! そなたが許可せぬのなら、この城を抜け出してでも、一人で行ってくれるわ!」
その、あまりにも見苦しい、しかし、あまりにも切実な魂の叫び。
セリオン王は、頭を抱えた。
(……ああ、始まった。彼女の、この癇癪が…)
彼は、遠い昔のことを思い出していた。
まだ自分が、やんちゃな王子だった頃。魔法の修行をサボっては、このエルドラに捕まり、今日と同じように、理路整然と、しかし最後は感情的に、こんこんと説教をされたものだ。
彼女は、何も変わっていなかった。
自分が正しいと信じたことに対しては、相手が王であろうと、決してその信念を曲げない。その頑固で、純粋で、そして子供のような情熱こそが、彼女を大陸最高の魔法使いへと至らしめた原動力なのだ。
(……それに、ワシの子どもの頃から変わらん、尊敬する魔術師が、こんな無様に駄々をこねる姿は、あまり見たくなかったな…)
セリオン王は、観念した。
この老婆は、一度こうなったら、もう誰にも止められない。下手に力で押さえつけようとすれば、本当にこの城を半壊させて、一人で森の砦へと向かい始めるだろう。
そうなれば、国の威信は地に落ちる。
ならば、残された道は、一つしかない。
「……まあ、分かった、分かった。許可するぞ」
王が、疲労しきった声でそう告げた瞬間。
執務室を支配していた、ビリビリと肌を刺すような魔力の圧力が、すっと霧が晴れるように消え失せた。
「……ほ、本当ですかな!? 王よ!」
エルドラの顔が、ぱあっと輝いた。先ほどまでの鬼のような形相が嘘のように、純粋な喜びに満ちた少女のような笑顔になっている。
「ああ、本当だ。ただし、条件がある」と、王は釘を刺した。「お主一人の巡礼の旅など、断じて認めん。これは、リリアン王国としての正式な使節団の派遣とする。ヴァレリウス、お主が選んだ王国最高の騎士たちを護衛につけ、ギデオン、お主が国の威信を示すに足るだけの贈答品を用意せよ。そしてエルドラ、お主は、ただの学者としてではない。我がリリアン王国の全権大使として、彼の地へと赴くのだ。よいな?」
それは、彼女の個人的な暴走を、国家としての正式な外交へと昇華させる、王としての最後の、そして最善の一手だった。
「やった!」
エルドラは、杖を天に突き上げ、子供のようにはしゃいだ。「これで、わらわは行けるのじゃな! 神の国へ!」
そして彼女は、決意に満ちた顔で王に向き直った。
「お任せください、陛下! 私は、魔術の真髄を会得するのです! そして、天上の人が使う『科学技術』を、必ずや解き明かし、この国へと持ち帰ってまいりますぞ!」
「ああ、頼むぞ…」
セリオン王は、もはや力なくそう答えることしかできなかった。
嵐は、去った。
エルドラは、目的を達成すると、上機嫌でヴァレリウスとギデオンを伴い、その準備のために執務室を後にして行った。
後に残されたのは、セリオン王、ただ一人。
彼は、侍従に命じて、天上の人から献上されたという、琥珀色の蒸留酒を持ってこさせた。
グラスに注がれたそれを、一気に呷る。喉を焼くような、強いアルコールの感覚。それは、彼の疲弊しきった心に、わずかな慰めを与えてくれた。
「……はあ。まさか、エルドラがあそこまで厄介なことになるとはな…」
彼は、誰に言うでもなく、呟いた。
尊敬する師であり、国の守り神でもある存在が、今や、この国で最も扱いの難しい、そして最も危険な爆弾になってしまった。
「結局のところ魔術を使えないわしには、あの『神』とやらの魅力が、さっぱり分からんよ」
彼は、グラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめた。
自分は、王だ。現実主義者だ。目に見えるもの、手に触れられるものしか信じない。軍隊、金、そして民の心。それが、自分が動かすことのできる全てだ。
エルドラが見たという、世界の理。因果律の書き換え。
そんな、形而上学的な話は、彼には理解できなかった。
「しかし…」
彼は、執務机の上に置かれた、ベースキャンプからもたらされた報告書の束に目をやった。
「密偵たちが見た物は、すごい。エルドラも、神と言うしなぁ」
そこには、鉄の鳥が空を飛び、夜に太陽を生み出し、そして遠く離れた者同士が黒い板で話すという、信じがたい事実が、客観的な記録として記されていた。
そして何よりも、あのチョコレートの味。
あれは、確かに人間の業とは思えなかった。
セリオン王は、もう一度、酒を呷った。
分からん。
分からんが、進むしかない。
エルドラという、あまりにも強力で、そして予測不能な切り札を、天上の人の懐へと送り込む。
それが吉と出るか、凶と出るか。
それは、もはや神のみぞ知る、だ。
王の仕事は、神の御心を測ることではない。
神がもたらしたこの混沌の中で、自らの民と国を、最善の未来へと導くこと。ただ、それだけだ。
彼は、窓の外に広がる、自らが愛する王都の夜景を見つめた。
その美しい営みを守るためなら、たとえ神であろうと、悪魔であろうと、取引してみせよう。
老王の瞳に、若い頃、竜に立ち向かった時と同じ、不屈の闘志の光が、静かに灯っていた。




