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第31話

 日曜日。

 秋晴れの穏やかな午後。日本中の多くの人々が、週末の気怠い安らぎの中に身を委ねていた、その時。

 全てのテレビ局の通常放送が、突如として断ち切られた。画面は、黒地に白のゴシック体で『内閣総理大臣官邸より 緊急記者会見』という、物々しいテロップに切り替わる。

 何事か。

 大地震か。北朝鮮からのミサイル発射か。あるいは、あの『神』の、新たな神託か。

 日本中のリビング、街頭の大型ビジョン、スマートフォンの画面の前で、一億二千万の国民が固唾を飲んで、その始まりを待っていた。


 首相官邸、記者会見ホールに隣接する控室。

 その張り詰めた空気は、まるで決戦前の将軍の幕舎のようだった。

 内閣総理大臣、沢村は、鏡に映る自分の顔を、どこか他人事のように見つめていた。隈の刻まれた、疲労の色が隠せない中年男の顔。だが、その瞳の奥には、恐怖と、そしてそれ以上の巨大な覚悟の光が宿っていた。


「……九条君。私は今から、この国に、巨大な爆弾を投下しにいくのだな」

 彼は、鏡の中の自分にではなく、その後ろに静かに佇む腹心の男に語りかけた。


「いいえ、総理」

 官房長官、九条は、いつもと変わらぬ鉄仮面のような無表情で答えた。「あなたは、爆弾ではなく、夢を語りに行くのです。もちろん、夢は時として、現実よりも遥かに厄介で、危険な代物ですが」

 彼は、沢村がこれから読み上げる会見原稿の最終稿を、そっと差し出した。

「重要なのは、期待を煽りすぎないこと。そして、決して我々が焦っていないと見せること。『調整中』、『時期は未定』。この二つの言葉を、盾としてください。国民の熱狂と欲望という濁流を、我々が制御できる範囲に留めるための、唯一の防波堤です」


「分かっている」

 沢村は、原稿を受け取ると、ふーっと長い息を吐いた。「神との対話よりも、異世界の存在の公表よりも、これが一番緊張するな。なにせ、今度の話は、国民一人一人の生活と、財産と、そして故郷の未来に、直接関わる話だからな」


「御意。だからこそ、我々自身の口で、誠実に語りかけるしかないのです」


 時間だ。

 報道官の冷徹な声が、控室の扉の外から響いた。

 沢村は、最後にネクタイを締め直すと、九条と共に、無数の閃光が待つ戦場へと、その一歩を踏み出した。


 会見場は、異常な熱気に包まれていた。

 国内の主要メディアはもちろん、海外の通信社も含め、数百人の記者たちが、その狭い空間に犇めき合っている。彼らの視線が、まるで探照灯のように、演台に立つ沢村と九条の二人へと集中する。

 カシャ、カシャ、カシャ。

 無数のシャッター音が、まるで機関銃の掃射のように鳴り響いた。


 最初にマイクの前に立ったのは、官房長官の九条だった。

 彼は、まずこの緊急会見の意図を、冷静な口調で説明し始めた。

「皆様、本日は急な呼びかけにも関わらず、お集まりいただき、誠にありがとうございます。先日、我が国とアメリカ合衆国は、国連総会の場におきまして、異世界『アステルガルド』の存在と、そこからもたらされる人類の未来への大いなる希望について、公表させていただきました。その発表以降、我が国には世界中から賞賛と、そして期待の声が寄せられております。政府として、これに勝る喜びはありません」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

「しかし、本日我々が皆様にお伝えするのは、異世界という遠いフロンティアの話ではありません。我々が今、この足で立っている、この日本という国の未来そのものを、根底から作り変える、新たな国家プロジェクトについてです」


 その言葉に、記者たちの間の緊張感が、一段と高まる。

 九条が、演台の脇へと下がる。

 そして、入れ替わるように、沢村総理がゆっくりとマイクの前に立った。

 彼は、会場にいる全ての記者たちの顔を、一人一人見回すように、ゆっくりと視線を巡らせた。そして、カメラのレンズの向こう側にいる、一億二千万の国民に向けて、静かに、しかし、力強く語り始めた。


「……国民の皆様。内閣総理大臣の沢村です」


「今日、私が皆様にお話しするのは、この国の『距離』と『時間』の概念を、永遠に変える物語です」


「我が国、日本は、今、多くの課題に直面しています。少子高齢化と、それに伴う地方の過疎化。東京一極集中による、都市と地方の深刻な格差。そして、地震、台風、豪雨といった、避けることのできない自然災害への備え。これらは、歴代の内閣が、その叡智の全てを注いで取り組んできた、国家的な課題です」

 彼は、厳しい表情で続けた。

「高速道路を建設し、新幹線を走らせ、空港を整備する。我々はこれまで、物理的なインフラを整備することで、これらの課題を克服しようと努力を続けてまいりました。しかし、その効果は限定的でした。北海道の最北端と、沖縄の離島が、この東京と同じ時間を共有することは、決してありませんでした」


「ですが」

 沢村の声のトーンが、変わった。

 その声には、確かな、そして力強い未来への確信が宿っていた。

「もし、その『距離』という絶対的な制約を、我々が克服できるとしたら? もし、日本中のどこにいても、誰もが瞬時に、好きな場所へと移動できるとしたら? この国の未来は、どう変わるでしょうか」


 会場が、どよめいた。

 総理は、一体何を言っているんだ。


「本日、日本政府は、ここに新たな国家プロジェクトの始動を、宣言いたします。その名を、『国家空間輸送網整備計画』。通称、『ゲート構想』と呼びます」


「我々は、皆様もご存知の、我々の協力者である高次元存在『KAMI』より、空間を転移する、いわゆるワープゲートの基幹技術の提供を受けることに、合意いたしました。この技術を用い、我々は、日本全国の主要な地点を、この『ゲート』で結びます。このゲートをくぐれば、東京から札幌へも、大阪から福岡へも、移動に要する時間は、ゼロになります」


 その一言が、引き金だった。

 記者会見場は、怒号にも似た記者たちの興奮の渦に飲み込まれた。

「総理、それは本当ですか!」「ワープだと!?」「SF映画の話ではないのか!」

 無数のフラッシュが、嵐のように沢村の顔を白く照らし出す。

 彼は、その喧騒を、手のひらで静かに制した。


「静粛に願います。これから、最も重要な話をします」

 沢村の声が、再び会場を支配する。


「このゲート構想は、間違いなく、この国を、そして我々の生活を、根底から変える画期的なものとなるでしょう。通勤や通学の概念はなくなります。地方に暮らしながら、東京の職場で働くことも可能になる。観光業は、これまでにない活況を呈するでしょう。そして何よりも、災害発生時には、危険地域にいる全ての人々を、一瞬で安全な場所へと避難させることができる、究極の防災インフラとなります」

 彼は、そこで一度、大きく息を吸った。

 そして、九条から固く、固く言い含められていた、最も重要な「ただし書き」を、慎重に、そして明確な言葉で告げた。


「しかし、皆様。ご理解いただきたい。これほど巨大で、国家の形を永遠に変えてしまうプロジェクトを、我々政府だけで、拙速に進めるわけには、断じていきません」


「現在、このゲートを具体的にどこに設置するのかについては、全国の各都道府県、市町村、そして関係各所の皆様と、まさに今、真剣な調整を始めたばかりです。どの地域に、どれだけのゲートが必要なのか。その設置が、地域の経済や環境にどのような影響を与えるのか。安全を、どうやって確保するのか。それら全ての問題について、我々は、国民の皆様の声に真摯に耳を傾け、一つ一つ、丁寧に議論を積み重ねていくつもりです」


「故に」と、彼は強調した。

「このゲートの具体的な設置場所、そして、その設置がいつになるのかについては、現段階では全くの未定であると、ここで明確に申し上げます。どうか、過度な期待や、根拠のない憶測による混乱は、厳に慎んでいただきたい」


 そして、彼は最後に、国民にこう呼びかけた。

「この『ゲート構想』は、政府だけのものではありません。国民一人一人が、自らの故郷の未来、そしてこの国の新しい形を考える、壮大な国民的プロジェクトです。どうか皆様の、ご理解とご協力を、心よりお願い申し上げます。私からは、以上です」


 沢村が深く頭を下げると、一瞬の沈黙の後、会見場は再び爆発した。

「総理!」「総理! 質問を!」

 記者たちが、我先にと手を挙げる。

 質疑応答の始まりだった。


「そこの、中央新聞の方」

 九条が、冷静に指名する。

 指名された、壮年の記者が鋭い声で切り込んできた。

「総理にお伺いします! 時期も場所も未定とのことですが、首都圏のハブとして、東京駅や羽田空港といった場所が、最有力候補として既に事実上決定しているのではないですか! お答えください!」

 いきなりの、核心を突く質問。

 沢村は、動じなかった。

「お答えします。全ての場所は、等しく検討のテーブルの上にあります。首都圏が重要なハブになることは間違いありませんが、それと同時に、地方の拠点となる都市とのバランスをどう取るか。それこそが、今我々が議論している最重要課題の一つです」


「地方新聞の者です!」

 今度は、若い女性記者が声を張り上げた。「この構想は、結局、利便性の高い都市部ばかりが恩恵を受け、我々地方の過疎地域は、またしても取り残されることになるのではありませんか!?」

「いいえ、決してそのようなことはありません」と、沢村は力強く答えた。「むしろ、この構想の最大の目的は、その『取り残される地域』を、この国からなくすことです。全ての国民が、等しくこの革命の恩恵を受けられるよう、全力で調整に当たることを、ここにお約束します」


 経済への影響、安全保障、アメリカとの技術共有、そして中国、ロシアへの対応。

 矢継ぎ早に繰り出される厳しい質問の嵐。

 その全てに、沢村と九条は、用意してきたシナリオ通り、冷静に、そして誠実に、しかし決して核心は明かさずに、答え続けた。

 彼らが繰り返したのは、ただ一点。

「全ては、これから国民の皆様と共に、慎重に議論して決めていく」

 その、あまりにも模範的で、そしてあまりにも巧みな言葉だけだった。


 三十分後。

 嵐のような記者会見は、終わった。

 沢村と九条が会見場を後にした瞬間、記者たちは堰を切ったように、それぞれの報道機関へと走り出した。

 日本の、歴史が動いた。

 その熱狂を、一刻も早く世界に伝えなければならない。


 その数分後。

 日本中の、いや、世界中のニュース速報が、一斉に同じ見出しを報じた。


『【速報】日本政府、全国ワープ網『ゲート構想』を正式発表』


 渋谷のスクランブル交差点。巨大な街頭ビジョンに映し出されたそのニュースに、道行く全ての人々が足を止め、呆然と画面を見上げていた。

 北海道の漁師町の食堂で、テレビを見ていた老人たちが、箸を止めて絶句していた。

 大阪のオフィス街で、スマートフォンの速報を見たビジネスマンが、思わず声を上げていた。

 日本中が、揺れた。

 disbelief(信じられない)と、excitement(興奮)、そしてanxiety(不安)。

 その三つの巨大な感情の渦が、列島全体を飲み込んでいった。

 不動産情報サイトのサーバーは、アクセスが殺到し、瞬く間にダウンした。

 証券取引所は、週明けの市場が大混乱に陥ることを予測し、JR各社や航空会社の株の取引を、一時的に停止する緊急措置を発表した。

 SNSは、『ゲート構想』というただ一つのキーワードで、完全に埋め尽くされた。

「マジかよ!」「俺の地元にもできるのか!?」「これで東京まで通勤できる!」「うちの土地の値段、どうなるんだ!?」


 官邸の控室に戻った沢村は、その日本中の狂騒を伝えるニュース映像を、ただ黙って見つめていた。

「……始まったな、九条君」

「ええ。始まりました」


 その時、一本の国際電話が、沢村の元へと繋がれた。

 ワシントンのホワイトハウスからの、ホットラインだった。

 受話器の向こうから、トンプソン大統領の、興奮と、そしてどこか呆れたような声が聞こえてきた。


『――総理。見たぞ、君の記者会見を。とんでもない花火を打ち上げたものだな。おかげで、こちらのメディアも大騒ぎだ。『日本の次は我々だ! アメリカのゲート構想はどうなっているんだ!』とね。全く、大胆な手を使ったものだ』


「これも、必要なことでしたので」


『ああ、分かっている。実に見事な手腕だったよ、我が盟友。これで、レースの号砲は鳴らされたわけだ。どちらが先に、この狂ったプロジェクトを安定させるか。競争だな』


「ええ。負けるつもりはありませんよ、大統領」


 短い会話が終わった。

 沢村が受話器を置くと同時に、今度は内閣官房の部下が、血相を変えて執務室に飛び込んできた。

 彼が手にしていたタブレット端末には、信じられないほどの量のデータが表示されていた。


「総理! 大変です! 先ほど設置したばかりの『ゲート構想・国民意見公募窓口』に、アクセスが殺到しております!」

 部下は、上擦った声で報告した。

「会見終了後、わずか十分で、全国の自治体、企業、各種団体、そして個人から、既に一万件を超える公式な陳情、要望、そして抗議が届いております! 『我が市にゲートを!』『我々の業界への影響を考慮しろ!』『断固反対だ!』と! このままでは、一時間後にはサーバーがパンクします!」


 その報告を聞いた沢村は、顔を覆った。

 そして、隣に立つ九条と顔を見合わせ、二人同時に、深い、深いため息をついた。

 そうだ。

 自分は、夢を語った。

 だが、その夢は同時に、一億二千万の欲望が渦巻く、パンドラの箱でもあったのだ。

 自分は、今まさに、その箱の蓋を、自らの手で開けてしまったのだ。


「……九条君」

 沢村は、どこか楽しそうに、そしてどこまでも疲れた声で言った。

「これから、日本で最も長い会議が、始まるらしいぞ」


 本当の戦いは、これからだった。

 神が不在のまま。

 神が投げ込んだ一つのあまりにも巨大な夢を巡って、人間たちが繰り広げる、滑稽で、愛おしく、そしてどこまでも終わりのない、調整という名の泥沼の戦いが。

 その、最初のゴングが、今まさに、日本中に鳴り響いていた。

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