第30話
深夜。日本の政治の中枢、首相官邸。
その主である沢村総理の執務室は、静かではあったが、安らぎとは無縁の濃密な空気に満たされていた。テーブルの上には、半分ほどで飲むのをやめた冷たいコーヒーと、異世界からもたらされた報告書の分厚い束が、まるで小さな山脈のようにそびえ立っている。
沢村は、その報告書の最後のページを読み終えると、深い、深いため息をついて、椅子の背もたれに全身の重みを預けた。
彼の向かいに座る官房長官、九条は、いつもの鉄仮面のような無表情で、ただ静かに主の反応を待っていた。
「……ふぅん」
長い沈黙の後、沢村の口から漏れたのは、そんな気の抜けたような声だった。
「翻訳スキルが、チート過ぎる、ね…。小此木君も、面白い表現をするものだ」
彼は、報告書の特定の箇所を指でなぞった。そこには、外交官である小此木が、その冷静な筆致の中に隠しきれない興奮と畏怖を込めて綴った、神の「翻訳」能力に関する驚くべき分析が記されていた。
言葉の表層だけでなく、その背景にある文化、歴史、思想までを100%の純度で理解させる、全知の如き力。
その結果、ベースキャンプの優秀な学者たちが、フィールドワークを放棄し、寝る間も惜しんで異世界の書物を読み耽っているという、奇妙で、しかしあまりにも示唆に富んだ現状報告。
「……九条君。君は、これをどう思う?」
沢村の問いに、九条は静かに答えた。
「……計り知れない、戦略的価値があります。そして同時に、計り知れない、文化的脅威です」
「同感だ」と、沢村は頷いた。「考えてもみろ。もし、この力を我々が自由に使えるとしたら…。例えば、だ」
彼は、どこか夢見るような、それでいて悪戯っぽい目で九条を見た。
「神に言って、この翻訳スキルを全国民に配布するのは、どうだろうか?」
その、あまりにも突飛な提案。
しかし、九条は眉一つ動かさなかった。おそらく、彼もまた、報告書を読んだ瞬間に同じ思考実験を頭の中で行っていたのだろう。
「あの神のことだ。それくらいは、対価も安いんじゃないか?」と、沢村は続けた。「なにせ、このスキルは向こうの世界へ行くための、ただの『おまけ』のようなものだったんだろう? ならば、そのおまけだけを量産してもらうことも、可能かもしれん」
彼は、楽しそうにその空想の翼を広げた。
「もし実現すれば、日本の英語教育は根底から変わる。いや、不要になる。外交の場での誤解もなくなる。世界中のあらゆる知識を、日本の誰もが、何の障壁もなく吸収できるようになる。素晴らしいことじゃないか」
「……全国民が、翻訳スキルを、ですか」
九条は、静かに、しかしその言葉の持つ恐るべき重さを吟味するように、反芻した。
「確かに、面白い。面白いですが、総理。それは、我々が築き上げてきた『日本』という文化を、根底から崩壊させることになりはしませんかな?」
「文化の崩壊?」
「ええ」と、九条は頷いた。彼の声は、いつになく哲学的な響きを帯びていた。
「言語とは、単なるコミュニケーションの道具ではありません。それは、文化そのものであり、思考の様式そのものです。例えば、我々が日常的に使う『いただきます』や『もったいない』という言葉。これを、英語に100%のニュアンスで翻訳することは不可能です。なぜなら、その言葉の背景には、我々日本人が数千年かけて培ってきた、自然への感謝や、万物への畏敬の念といった、独自の精神性が宿っているからです」
彼は、冷徹な官僚の仮面の下にある、深い教養人の顔を覗かせた。
「もし、全世界の言語が、神の力によって完全に相互理解可能になったとしたら。その時、それぞれの言語が持つ独自の『色』や『香り』は、どうなるでしょう。便利で効率的な、しかし無味乾燥なグローバル言語の前に、多様で豊かなローカル言語は、その存在価値を失い、緩やかに死滅していくのではないでしょうか。俳句の五七五のリズムが持つ意味も、和歌の枕詞に込められた情緒も、全てが平坦化され、失われてしまう。それは、文化的な『死』に他なりません」
「……うーむ」と、沢村は唸った。「それは、時期尚早、ということか」
「あるいは、人類には永遠に早すぎるのかもしれません」と、九条は言った。「聖書に登場するバベルの塔の物語を、ご存知ですか。神は、天に届く塔を築こうとした人間の傲慢を怒り、人々の言葉を乱し、互いに通じなくさせた、と。我々が今手にしている力は、その神の御業を、逆再生するようなものです。それは、果たして人類にとって祝福なのか、それとも…」
「分かった、分かったよ」と、沢村は苦笑しながら両手を上げた。「確かに、地球の全員が同じ言語を話せたら便利なんだがなぁ。今のAIによる自動翻訳も、まだまだ万能じゃないしな。だが、君の言うことも理解できる。それは、我々が今ここで軽々に結論を出していい問題ではない」
彼は、一つ咳払いをした。
「まあ、その与太話は、これくらいにしておいて。より現実的な問題に移ろう。例のゲート設置に関しては、進んでいるんだよな?」
その言葉に、九条の顔に浮かんでいた哲学者の憂鬱は、すっと消え失せた。
代わりに現れたのは、この国の最も厄介で、最も泥臭い現実と日々向き合っている、中間管理職の深い疲労の色だった。
「……ええ」と、彼は重々しく頷いた。「進んではおります。進んではおりますが…」
彼は、手元の別のタブレット端末を操作し、沢村の前に一枚の議事録を映し出した。
それは、先日行われた『ゲート構想・全都道府県参加会議』の、非公開部分の速記録だった。
「先日の会議の後、各都道府県の担当者を集めた実務者レベルの調整部会を、既に五回開催しました。ですが、総理。もはや、あれは会議などではありません。**戦**です」
九条は、淡々と、しかしその言葉の端々に隠しきれない辟易を滲ませながら報告を始めた。
「先日などは、富士山のゲートの設置場所を巡って、山梨県と静岡県の担当者が、互いの歴史的優位性を主張しあい、最終的には胸ぐらを掴み合う寸前の大立ち回りになりました。文字通り、殴り合いをしながら進めています」
「……なんだって?」
「議題が、あまりにも巨大すぎるのです。ゲートが一つできるかどうかで、その地域の未来百年の趨勢が、文字通り決まってしまう。誰もが必死です。先祖代々の土地の価値が、紙くずになるか、黄金になるかの瀬戸際なのですから。議事録にこそ残っておりませんが、会議の裏では、罵詈雑言が飛び交い、特定の県を仲間外れにするための派閥が形成され、涙ながらに過疎地の窮状を訴える者までいる。まさに、現代の群雄割拠。戦国時代の様相を呈しております」
その、あまりにも人間臭く、そして情けない報告。
沢村は、頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。
「アメリカも、同様のようです」と、九条は続けた。「先日、トンプソン大統領の補佐官と情報交換をしましたが、彼らもまた、五十の州の知事たちの剥き出しのエゴのぶつかり合いに、頭を抱えておりました。ですが、流石はアメリカと言うべきか。彼らは、この混沌を『競争』という形で昇華させようとしています。各州にゲート設置の事業計画を提出させ、最も優れたプレゼンをした州に優先権を与えるという、巨大なコンペティションを始めたそうです。アメリカ政府も、これに本気で取り組んでいる」
「なるほどな。いかにも、彼らが考えそうなことだ」
「ええ。そして、そのルール作りも、アメリカ側と緊密に連携を取りながら進めています。ゲートを通過する際の人や物の権利関係、犯罪者が越境した場合の司法共助、そしてパスポート制度の国際的な互換性。議題は、山積みです。ですが、これに関しては、日米両国の官僚機構がその総力を挙げて取り組んでおり、着実に前進しているとご報告できます」
「そうか…」と、沢務は少しだけ安堵した。現場は混沌としているが、国家の屋台骨である官僚たちは、まだその機能を失ってはいなかった。
だが、九条はすぐに次の、そして最も厄介な問題に話題を移した。
「……総理。実は、もう一つ、喫緊の課題が。そろそろ、メディアがこの動きを感づき始めています」
彼は、いくつかの週刊誌のゲラ刷りと思われる画像をモニターに映し出した。
そこには、『政府、リニア計画を極秘裏に凍結か!? 謎の次世代交通網『G計画』の黒幕を追う!』といった、扇情的な見出しが躍っていた。
「まだ、核心には至っておりません。ですが、これだけ大規模な人員を動かし、全国の自治体を巻き込んでいるのです。情報の断片が漏れ出すのは、もはや時間の問題でしょう。このまま後手に回れば、我々は憶測とスキャンダル報道の嵐に飲み込まれることになります。そうなる前に…」
九条は、沢村の顔をまっすぐに見据えた。
「こちらから、国民に公表する時期に来ているのではないかと、愚考いたします。どうですかな?」
その問いに、沢村はしばらく天井を仰いで、深く考え込んでいた。
公表する。
それは、この国の国民全てを、あの混沌とした議論の渦に巻き込むということだ。
日本中が、ゲートの誘致合戦で狂騒状態になるだろう。
だが、隠し通せるものでもない。
ならば…。
「……そうだなぁ。メディアに公開しても、良いかもしれん」
彼は、覚悟を決めた声で言った。「もちろん、タイミングと、情報の出し方は慎重に検討せねばならんがな。国民の期待を過剰に煽ることなく、しかし、この国家的なプロジェクトの重要性を理解してもらう。広報戦略チームに、直ちに準備を始めさせろ」
「御意」
九条が、深く頷いた。
「……それにしても」と、沢村は疲れたように笑った。「中国とロシアが、『早く安定させろ』とうるさいが、こっちだってこれだけ本気で進めているんだ。あんまり文句を言われても、なぁ」
彼の口から、珍しく愚痴がこぼれた。
日米がゲート構想で先行しているという事実は、当然、中露の諜報網も掴んでいる。彼らからの、水面下での圧力は日に日に強まっていた。
「ハハハ。まあ、彼らの気持ちも分かりますよ」
九条は、こちらも珍しく、その鉄仮面にわずかな笑みを浮かべた。
「中国もロシアも、あの広大な国土に苦しめられてきた国ですからな。北京からウルムチまで、モスクワからウラジオストクまでが、一瞬で繋がる。喉から手が出るほど、欲しいでしょうし」
その言葉に、沢村も頷いた。
そうだ。
誰もが、神の力に翻弄され、そしてそれを渇望している。
自分たちだけではないのだ。
その当たり前の事実が、彼の心を少しだけ軽くした。
「よし」
沢村は、椅子から立ち上がった。その目には、いつもの政治家としての闘志が戻っていた。
「やることは、山積みだ。だが、やるしかない。九条君、直ちに広報戦略チームと、そして各省庁の次官をもう一度、私の部屋に集めてくれ。国民への公表に向けた、第一回の作戦会議を始めるぞ」
その力強い声が、深夜の執務室に響き渡った。
日本の、そして世界の運命を乗せた巨大な船は、今また一つ、未知なる海域へと、その重い錨を上げようとしていた。
国民という、最も巨大で、そして最も予測不能な乗客たちを、その甲板に乗せるために。
その先に、どんな嵐が待ち受けていようとも。
彼らはもう、この航海から降りることは、許されないのだ。




