第3話
一方その頃、日本国政府は、文字通り震撼していた。
事の発端は、環境省に所属する一人の課長補佐、田中が受け取った、数枚の奇妙な報告書だった。
最初の報告は、群馬県の山間部にある、とある自治体からだった。内容は、長年にわたり行政を悩ませてきた大規模な不法投棄現場が、一夜にして原状回復された、というものだ。報告書には「現地の担当者も狐につままれたような顔をしている」「重機やトラックの入った形跡は一切確認できず」と、どこか現実味のない文言が並んでいた。
田中は、その報告書に「詳細な経緯を調査の上、再提出を求める」という付箋を貼り、決裁箱の隅に置いた。どこかの奇特なボランティア団体が、行政に通知せず、夜中にこっそり片付けたのだろう。美談ではあるが、手続きとしては問題だ。その程度の認識だった。
しかし、その「美談」は、翌週には千葉から、その次の週には埼玉と茨城から、まるで感染するかのように田中の元へ届けられた。いずれの報告も、内容は酷似している。長年放置された不法投棄の山が、忽然と消えている。人の手によるものとは思えないほど、現場には何の痕跡も残っていない。
「……おかしい」
田中は、自身のデスクで唸った。彼は典型的な官僚であり、物事を前例とデータに基づいて判断する。この一連の事象は、彼の理解の範疇を完全に超えていた。彼は、これらの報告書を「全国同時多発・謎のクリーンナップ事象に関する一考察」と題した私的なファイルにまとめ、上司である課長に提出した。
課長の反応は、芳しいものではなかった。「田中君、疲れているのか? 素晴らしいことじゃないか。我々の税金が浮いたんだ。正体不明の篤志家に感謝しないと」と、軽く笑って受け流された。
その認識が、国家レベルで覆されることになるのは、それから一ヶ月も経たないうちのことだった。
経済産業省から、緊急の合同会議要請が、各省庁の幹部クラスに送付されたのだ。議題は「特定事業所における大規模資産の消失事件について」。田中も、件のファイルを携えて、陪席を許された。
会議室の重苦しい空気の中、スクリーンに映し出されたのは、とある湾岸地域にある金属リサイクル業者の、巨大な倉庫の写真だった。担当者が、レーザーポインターで倉庫の一角を指し示す。
「こちらが、事件発生前の倉庫内部です。ここには、輸出用に圧縮処理された金属スクラップが、約三百トン保管されていました。それが、昨日の未明、全て消失したことが確認されました」
どよめきが起きる。三百トン。トレーラー数十台分に相当する量が、一夜にして。
「監視カメラの映像です」
スクリーンが切り替わる。倉庫の内部を映した、数台のカメラの映像が四分割で表示された。早送りで再生されるが、時刻が深夜から朝に変わるまで、映像には何の異常も映っていない。ネズミ一匹、這い回る様子すらない。しかし、朝になって出勤してきた従業員が倉庫の扉を開けた時、そこにあるはずの金属の山は、綺麗さっぱり消えていた。
「……外部からの侵入形跡は?」
警察庁から来た幹部が、鋭い声で問う。
「一切ありません。シャッターも、厳重なロックがかけられた扉も、破られた形跡はありませんでした。完全な密室です」
会議室は、水を打ったように静まり返った。
窃盗? ありえない。三百トンの物量を、痕跡なく密室から運び出すなど、どんなマジシャンでも不可能だ。
テロ? 目的が分からない。なぜ、金属スクラップを?
田中は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。彼のファイルに綴られた「謎のクリーンナップ事象」と、今スクリーンに映し出されている「大規模資産消失事件」。これらは、間違いなく地続きの現象だ。
もはや、奇特なボランティア団体の仕業などという、生易しい話ではなかった。
これは、日本の主権が及ばない、人知を超えた何者かによる、明確な「干渉」だった。
その頃、橘栞は、自室のソファで満足げにスキルウィンドウを眺めていた。
彼女の対価残高は、この一ヶ月で天文学的な数字に膨れ上がっていた。特に、先ほど対価として捧げた湾岸倉庫の金属スクラップは、質・量ともに素晴らしく、過去最高の対価価値を記録した。
「やっぱり、金属類は効率がいいわね」
彼女は、充実した対価を元手に、いくつかの新しいスキルを獲得していた。その一つが、『初級鑑定』。対価を捧げる前に、そのオブジェクトが持つおおよその価値をスキャンできるという、地味ながらも極めて有用なスキルだった。これにより、彼女の「ゴミ拾い」の効率は、さらに向上していた。
一息つこうと、栞はテレビの電源を入れた。流れてきたニュース番組が、ちょうど「謎の物質消失現象」について特集を組んでいるところだった。
『……専門家によりますと、これら一連の現象を現代の科学で説明することは、極めて困難であるとのことです。特に、千葉の湾岸倉庫で起きた事件は、これまでの不法投棄物の消失とは一線を画す、極めて異常なものと言えるでしょう……』
画面の中では、大学教授らしき人物が、難しい顔でフリップを指し示している。
栞は、それをどこか他人事のように眺めながら、マグカップのコーヒーを一口飲んだ。
「ふぅん。結構、大騒ぎになってるのね」
その口調に、罪悪感や恐怖心は欠片もなかった。
そもそも、悪いことをしているという認識が、彼女にはない。不法投棄物は、社会にとっての厄介者だ。誰もが、なくなればいいと思っている。それを片付けてあげているのだ。倉庫の金属スクラップにしても、所有権は企業にあったかもしれないが、どうせ海外に売り払われるだけの資源だ。それを少しばかり有効活用させてもらったに過ぎない。
「誰にも迷惑はかけていないし、むしろ社会貢献になってるじゃない。何をそんなに騒ぐ必要があるのかしら」
彼女は、心底不思議そうに首を傾げた。
自分の静かな探求が、国家の中枢でどれほどのパニックを引き起こしているかなど、知る由もなかった。彼女の関心はただ一つ。膨大な対価で解放された、新しいスキルリストの探求だけだった。
永田町、首相官邸の地下深くに存在する、危機管理センターの一室。
そこに、日本の行く末を左右する十数名の人間が集められていた。総理大臣、官房長官、主要閣僚、そして各省庁、警察、自衛隊のトップ。テーブルの中央には、「特定領域における物質の非可逆的消失事象に関する緊急対策会議」と記された分厚い資料が置かれている。
「……以上が、これまでに我々が掴んでいる情報の全てです」
内閣情報調査室の担当者が、重い口調で報告を締めくくった。
報告は、衝撃的な内容だった。この一ヶ月の間に、全国四十七都道府県の全てで、合計数千件、総量にして数十万トンに及ぶ物質が、原因不明のまま消失している。その大半は産業廃棄物や不法投棄物だが、中には湾岸倉庫の事件のように、明確に所有権の存在する資産も含まれていた。
「諸君、率直な意見を聞きたい。これは、一体なんだと思う?」
総理大臣が、深く刻まれた眉間のしわを揉みながら、一同を見渡した。
「外国勢力による、新型兵器の実験という可能性は?」
防衛大臣が口火を切る。
「ゼロではありません。ですが、もしこれほどの物質転送技術を持つ国があるのなら、もっと直接的な示威行為に出るはずです。なぜ、日本のゴミばかりを狙うのか。説明がつきません」
内閣情報調査室長が、即座に否定する。
「では、未知の自然現象か? ブラックホールのようなものが、突如として日本各地に…」
文部科学大臣が、SF映画のような仮説を口にするが、誰の賛同も得られなかった。この現象には、明らかに「意思」が介在しているように思えたからだ。廃棄物や金属スクラップといった、特定のカテゴリーの物質だけを選択的に消し去っている。これは、自然現象ではありえない。
重苦しい沈黙が、部屋を支配する。
やがて、これまで黙って分析官の報告を聞いていた官房長官が、静かに口を開いた。
「……我々は、前提から考え直すべきではないでしょうか」
全ての視線が、彼に集まる。
「我々は、これを『誰が』起こしているのか、という視点で調査を進めてきました。特定の国家、組織、あるいは個人。しかし、そのいずれにも、該当する可能性は極めて低い。ならば、発想を転換するのです。『誰が』ではなく、『何が』、と」
「『何が』…ですか?」
「ええ。我々が対峙しているのは、人間の物差しで測れる存在ではないのかもしれない。国家でも、組織でもない。人知を超えた、一つの『知性』。あるいは、我々が『神』や『悪魔』と呼んできたような、高次元の存在による、我々への『干渉』。その可能性を、真剣に検討すべき段階に来ている、と私は考えます」
官房長官の言葉は、会議室の空気を凍りつかせた。
それは、近代国家のリーダーたちが、公の場で口にするには、あまりにも非科学的で、オカルティックな響きを持っていた。しかし、そこにいる誰もが、その言葉を一笑に付すことはできなかった。なぜなら、それが、目の前で起きている不可解な現象を説明しうる、唯一の仮説だったからだ。
「……事象のコードネームを決定する」
総理大臣は、重々しく告げた。
「これより、この一連の現象を**『広域物質消失事象』**と呼称する。そして、本件に対応するため、本日この時をもって、私直轄の極秘対策チームを発足させる。メンバーは、ここにいる諸君だ。我々は、国家の総力を挙げ、この『見えざる知性』の正体を突き止める」
その日、日本は、歴史上初めて、人間以外の知的存在を、公式に「脅威」として認定した。
対策チームの調査は、しかし、完全に暗礁に乗り上げた。
彼らは、ありとあらゆる手を尽くした。消失現象が起きた現場に、高感度のセンサーや監視カメラを無数に設置した。自衛隊の特殊部隊を、二十四時間体制で配置もした。だが、現象は、彼らの監視網を嘲笑うかのように、全く別の場所で、何の前触れもなく発生する。
相手は、物理的にその場に現れるわけではないのだ。遠隔で、日本のどこにでも、任意に干渉できる力を持っている。その事実が、調査を絶望的に困難にしていた。
時間だけが、いたずらに過ぎていく。
対策チームの会議は、日を追うごとに重苦しさを増していった。報告書には、毎回「新たな手がかりは発見できず」という、無力感に満ちた一文が記されるだけだった。
そんなある日、栞は、自室でいつものようにスキル解析に没頭していた。
彼女は今、新たに獲得した**『空間操作(初級)』**というスキルの実験に夢中になっていた。これは、自身の周囲、半径数メートルに限られるが、空間を歪めたり、繋げたりできるという、とんでもないスキルだった。例えば、手を伸ばせば、部屋の反対側にある冷蔵庫から、直接飲み物を取り出すことができた。
その応用として、栞は自宅のセキュリティに、このスキルを組み込んでいた。マンションの玄関ドアと、自室のクローゼットの内部を空間的に連結させたのだ。これにより、彼女の部屋への物理的な侵入は、事実上不可能になった。たとえ誰かが玄関の鍵を開けても、その先は行き止まりのクローゼットでしかない。本当の入り口は、栞だけが知る、別の場所にある。
「うん。これで、セキュリティは万全ね」
満足げに頷いた彼女は、休憩がてら、テレビのニュースをつけた。
画面には、官房長官が険しい顔で記者会見に臨んでいる様子が映し出されていた。
『……政府としましては、現在発生しております『広域物質消失事象』について、引き続き最大限の警戒をもって、情報収集と原因の究明に当たっております。国民の皆様におかれましては、冷静な対応をお願いいたします……』
栞は、その会見をぼんやりと眺めながら、ポテトチップスを口に運んだ。
「まだやってたんだ、このニュース。原因不明って、そんなに難しいことなのかな」
彼女からすれば、原因は明白だ。自分だ。
そして、目的もはっきりしている。スキルの解析だ。
別に、国を混乱させたいわけではない。ただ、自分の知的好奇心を満たすために、粛々と実験を続けているだけだ。
「それにしても、大げさねぇ」
栞は、少しばかり呆れたように呟いた。
「誰かが困ってるわけでもないのに。むしろ、厄介なゴミが片付いて、みんな喜んでるじゃない。感謝状の一枚でも送ってほしいくらいだわ」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静かなマンションの一室に溶けて消えた。
彼女と、政府との間にある、絶望的なまでの認識の乖離。
その溝が埋まることなく、事態は、やがて誰もが予想しなかった方向へと、大きく動き出すことになる。
神の椅子を目指す一人の女と、見えざる神に怯える一つの国家。
両者の歯車が噛み合うのは、もう少しだけ、先の話である。




