第29話
リリアン王国からの公式使節団がベースキャンプ・フロンティアを訪れ、地球とアステルガルドの間に初めて国家レベルのパイプが結ばれた、あの歴史的な日から一ヶ月。
外交官、小此木は、再び光り輝く『扉』をくぐり、この異世界の前線基地へと降り立った。
東京での報告と、その後の政府・FDA内での喧々囂々の調整会議に追われ、しばらく現場を離れていた彼がまず感じたのは、以前とは比較にならないほどの人の数の増加だった。
「……また、一段と賑やかになったな」
隣を歩く警備責任者の佐藤一尉に、小此木は感心したように言った。
ベースキャンプを取り囲むように形成された交易所『フロンティア・タウン』は、もはや「町」というよりは、一つの巨大な「都市」と呼ぶにふさわしい規模へと膨張していた。様々な種族の商人たちが建てた恒久的な石造りの店舗や宿屋が立ち並び、その間を地球から持ち込まれた太陽光発電式の街灯が、夜になっても煌々と照らしている。
活気がある。それは、いいことだ。
リリアン王国との公式な交易ルートが開かれたことで、これまで以上に多種多様な物資と情報が、この場所を介して二つの世界を行き来している。その成果は、富士の地下研究施設から送られてくるレポートを見るだけでも明らかだった。聖癒のポーションの解析は、地球の医療技術を根底から覆す革命の前夜を告げ、ドワーフの『黒鋼石』は、次世代の装甲素材として、そして須田教授が発見した『賢者の石』は、人類のエネルギー問題の完全なる解決策として、期待されていた。
だが、小此木は、今日のベースキャンプの空気に、どこか奇妙な違和感を覚えていた。
活気はある。だが、以前感じたような、欲望が剥き出しになったようなギラギラとした熱気が、少しだけ薄れているような気がするのだ。
代わりに、どこか静かで、内向的な、奇妙な「熱心さ」が、キャンプ全体を支配している。
「……佐藤一尉。少し、様子を見て回りたい。案内してくれ」
「承知しました」
小此木は、新たに到着した第三陣の民間調査団のメンバーたちを部下に任せると、佐藤と共に喧騒の中を歩き始めた。
そして彼は、すぐにその違和感の正体に気づいた。
あちこちで、地球側の人間が、本や古びた羊皮紙の巻物、あるいはタブレット端末を、まるで憑かれたかのように熱心に読み耽っているのだ。
植物学者が、森へサンプル採取に行くでもなく、拠点のテントの中で分厚い植物図鑑のようなものを広げ、時折ぶつぶつと何かを呟いている。
地質学者が、鉱山へ調査に行くでもなく、ドワーフの商人から買い取ったらしい石板に刻まれた奇妙な文字を、ルーペで食い入るように見つめている。
休憩時間なのだろうか、非番の米軍兵士たちでさえ、焚き火を囲みながら、アステルガルドの子供たちが読むような、素朴な絵本を真剣な顔で読み合っていた。
「……おい、佐藤一尉」
小此木は、怪訝な顔で尋ねた。「彼らは、一体何をしているんだ? 我々は、この世界に観光や読書をしに来たわけではないだろう。それぞれの専門分野のフィールドワークこそが、彼らの任務のはずだ」
その問いに、佐藤はどこか困ったような、それでいて面白さを隠しきれないような、複雑な笑みを浮かべた。
「ええ。当初は、我々もそう指導しておりました。ですが、どうやら皆さん、気づいてしまったようでして」
「気づいた? 何にだ?」
「この世界を最も効率よく『知る』方法は、歩き回ることではない、と。…ああ、ちょうどいい。あそこに、この現象の最初の伝道師がおります」
佐藤が指さした先。
簡易的なカフェテラスとして開放されているスペースで、一人の男が、恍惚とした表情で、一冊の古書に顔を埋めていた。
ライトノベル作家、沢渡恭平だった。
「沢渡先生」と、小此木が声をかけると、沢渡はゆっくりと顔を上げた。その目は、少しだけ焦点が合っておらず、その意識がまだ物語の世界から完全には帰還していないことを示していた。
「ああ、小此木さん。お帰りなさい。いやあ、これは凄い。本当に凄いですよ、この本は」
彼は、まるで宝物のように抱えた本の表紙を、小此木に見せた。そこには、古リリアン語で『英雄王アルトリウスと六聖獣の叙事詩』と記されている。
「……先生。あなたまで、一体何を。わざわざこんな場所まで来て、本を読んでいる場合ですか?」
小此木の呆れたような声に、沢渡は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「ああ、小此木さん。あなたもそろそろ気づくべきだ。実は、我々に与えられた神の『翻訳スキル』が、とんでもないチート過ぎると、今、このキャンプで話題沸騰なんですよ」
「チート…? どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ!」
沢渡は、興奮を隠せない様子で立ち上がった。
「我々がKAMIから与えられたこの翻訳能力は、ただ言葉の表層を訳しているだけじゃないんです。その言葉が持つ、背景や文脈、文化的ニュアンス、歴史的な意味合いの全てを、我々の脳に直接100%の純度で叩き込んでくるんです!」
彼は、その驚異的な能力について、作家ならではの比喩を交えて説明し始めた。
「例えば、この叙事詩に出てくる『王の涙』という一節。普通の翻訳なら、ただ『King's Tear』と訳されて終わりです。ですが、このスキルを通すと違う。『初代国王が、建国の苦難の末に流したとされる伝説の宝石の名であり、王家の正当性の象徴。同時に、民の間では、愛する者を失った悲しみを表す隠語としても使われる』…といった、その言葉に内包された全ての情報が、一瞬で、それも知識としてではなく、感覚として理解できるんです! まるで、この詩を書いた千年前の詩人が、すぐ隣でその真意を語りかけてくれているかのように!」
その、あまりにも熱のこもった説明。小此木は、まだ半信半疑だった。
「……つまり、非常に高性能な翻訳機能だということか」
「そんな生易しいものじゃない!」と、沢渡はかぶりを振った。「これは、もはや翻訳じゃない。全知ですよ! 他者の文化と知識を、ロスなく完全に理解する、究極のコミュニケーションツールなんです!」
そして彼は、核心を突いた。
「そして、ここの優秀な学者たちは、すぐに気づいてしまったんですよ。この世界に来て我々が最も効率的にやるべきことは、泥にまみれてサンプルを拾い集めることじゃない。ただひたすらに、彼らの『本』を読むことなんじゃないか、とね」
その言葉を証明するかのように、沢渡は周囲の光景を指し示した。
「見てください、あの植物学者の田中先生。彼はもう、三日間も森に入っていません。代わりに、リリアの街から買い集めた薬草学の古文書を読み耽っている。その結果、彼はこの地方に生息する全ての薬草の生態と効能、そしてそれらが現地の文化や神話の中でどのような役割を果たしてきたのかを、この世界の誰よりも詳しくなってしまった」
「あそこの物理学者のチームは、王立魔導院から流れてきたらしい魔法理論の入門書を読んで、頭を抱えていますよ。『マナとエーテルの相関関係における次元物理学的な考察』なんて、我々には意味不明な論文を書き始めています。彼ら、魔法は使えない。でも、この世界の『魔法の物理法則』を、理論上は完全に理解してしまったんです」
小此木は、唖然として周囲を見回した。
確かに、そうだ。
誰もが、読んでいる。
歴史家は、王国の年代記を。
社会学者は、ギルドの規約集を。
鉱物学者は、ドワーフの鍛冶技術の秘伝書を。
誰もが、自らの専門分野におけるこの世界の「真理」が記された書物を求め、そしてそれを手に入れては、寝る間も惜しんで読み耽っている。
フロンティア・タウンの市場では、今や最も高値で取引されているのは、金や宝石ではない。
ただの古びた本や、誰かが書き記した手記の類だった。
地球から持ち込まれた乾電池数本と、埃をかぶった羊皮紙の巻物が、真剣な顔で交換されている。
知のゴールドラッシュ。
それが、今この場所で起きていたことの正体だった。
「実際、この翻訳スキルはチート過ぎるんですよ」と、沢渡はため息をついた。「作家として、少しだけ嫉妬しますよ。我々が一生かけても辿り着けない、言語と文化の壁の完全な超越。それを、彼らは神の恩恵一つで、いとも簡単にやってのけているんですから」
小此木は、その場でしばらく立ち尽くしていた。
頭が、混乱していた。
自分の価値観が、再び根底から覆されようとしていた。
我々は何のために、ここにいる?
資源の確保? 国家の利益?
違う。
そうじゃないのかもしれない。
我々は、ただ、知るためにここにいるのではないか。
一つの文明が、もう一つの文明の魂を、その書物を通して丸ごと理解しようとしている。
その、人類史上誰も成し得なかった、究極の知的探求の現場に、自分は今立っているのではないか。
その日の午後。
小此木は、米軍のデイヴィス大佐と共に、司令ドームの作戦室でこの奇妙な現象について話し合っていた。
「……というわけなんだ、大佐。君のところの兵士たちも、休憩時間になると熱心に絵本を読んでいると聞いたが」
「ああ」と、デイヴィスは苦笑した。「全く、その通りだ。最初は、現地の子供たちとコミュニケーションを取るための、良い訓練だと思っていたがな。どうやら、それだけではないらしい」
彼は、一枚の報告書を小此木に見せた。
「これは、我が軍の心理作戦部隊からのレポートだ。彼らも、この翻訳スキルの異常なまでの有用性に気づいている。曰く、『現地の民話や童謡を百本も読めば、その地域の民衆が何を恐れ、何を望み、どのような価値観で動いているのか、手に取るように分かる』と」
デイヴィスの目が、鋭い光を宿した。
「オコノギ殿。これは、単なる文化交流の話ではない。これは、究極の諜報活動だ。我々は今、リリアン王国という国家の、その精神構造を、隅から隅まで丸裸にしていることに気づいているか?」
その言葉に、小此木は背筋が凍るのを感じた。
そうだ。
光があれば、必ず影がある。
全知の理解は、完全な共感にも繋がるが、同時に、完全な支配にも繋がりかねない。
相手の文化を、魂を、完全に理解するということは。
その文化の、魂の、最も脆い部分、最も効果的に突き崩せる弱点を、完全に把握するということと同義だった。
「……神は、我々に何という力を与えてくれたんだ…」
小此木は、呻くように言った。
それは、あまりにも強力で、あまりにも危険な、両刃の剣だった。
「いずれにせよ」と、デイヴィスは言った。「我々のミッションの優先順位は、変更せざるを得ないだろうな。鉱石や植物のサンプル採取も重要だが、それ以上に、『知的資産』の確保が最優先事項となる」
小此木の頭の中に、新しい指令の草案が、自動的に組み上がっていく。
東京とワシントンに、緊急の報告書を送らなければならない。
『――神の翻訳恩恵の戦略的再評価、及び、それに伴う情報資源獲得の最優先化に関する緊急提言』
これからのフロンティアで最も価値を持つのは、金塊ではない。古びた紙切れだ。
この新しい常識を、一刻も早く両国政府に理解させなければならない。
そして、この恐るべき力を、我々人類は果たして正しく使うことができるのか。
その、あまりにも重い問い。
小此木は、窓の外で、今も黙々と本を読み続ける学者たちの姿を眺めた。
彼らの純粋な探究心は、果たして人類を新たな叡智の時代へと導くのか。
それとも、他者の魂を丸裸にする、恐るべきパンドラの箱を開けてしまうのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
ただ、神の気まぐれな采配によって、物語の歯車はまた一つ、大きく、そして予測不能な方向へと回転を始めていた。
開拓者たちは、今やスコップではなく、本を片手に、未知なる世界の最も深い場所――その精神の奥深くへと、足を踏み入れようとしていた。




