第246話
月面都市『セレーネ・ノヴァ』。
地球の衛星である「月」の、広大な『静かの海』の地下に広がる溶岩洞を利用し、地上部には美しく強靭な魔導ガラスのドームを展開したこの都市は、開業からわずかな期間で、人類史上最も魅惑的で、そして最もカオスな「一大観光地」へと変貌を遂げていた。
漆黒の宇宙空間と、クレーターだらけの灰色の荒野。
その無慈悲な死の世界の真ん中に、ぽつんと浮かび上がる巨大な光の半球。
ドームの内側には、KAMIの提供した環境維持システム(テラフォーミング・ライト)によって、地球と全く同じ大気、気温、そして1Gの重力が完全に再現されている。
緑豊かな公園の木々は魔石の光を浴びて青々と茂り、人工的に作られた小川のせせらぎが、未来的な摩天楼の足元を流れている。
だが、この都市を真に特別なものにしているのは、インフラの美しさではない。
そこを行き交う「人々」の熱気だ。
「――This is amazing!(これ、本当にすごいわ!)」
「Oh, oui! C'est un vrai miracle!(ああ! まさに奇跡だ!)」
「이 야경을 봐!(この夜景を見てよ!)」
「地球看起来就像一颗蓝色的宝石!(地球が青い宝石みたいに見えるアル!)」
広域言語翻訳結界が稼働する都市のメインストリートでは、あらゆる人種の旅行者たちが、それぞれの母国語で歓声を上げながら、完全に意思疎通を図っている。
言葉の壁がないということが、どれほど人間の購買意欲とコミュニケーション欲求を刺激するか。
カフェのテラス席では、イタリア人のナンパ師がロシア人の女性に甘い言葉を囁き、土産物屋ではインドの商人と大阪のおばちゃんが、白熱した値切り交渉を繰り広げている。
かつては「翻訳のタイムラグ」や「ニュアンスの欠落」で生じていたストレスは皆無。本音と本音がぶつかり合う、剥き出しの国際交流がそこにはあった。
そして、彼らの後ろをピョコピョコと跳ねてついてくる、色とりどりの半透明なウサギたち。
月面ダンジョン『静寂の坑道』の踏破報酬である『月のウサギ(ルナ・ラビット)』だ。
戦闘能力もステータス補正も一切ない、完全なる「おしゃれ装備」。
だが、だからこそ、このウサギを連れて歩くことは、セレーネ・ノヴァにおける最高のステータス・シンボルとなっていた。
「言葉の通じない沈黙の迷宮を、仲間との連携だけでクリアした実力者」であることの証明。
広場のあちこちで、ウサギ同士を戦わせる『ペットバトル』のホログラムリングが展開され、ギャラリーたちが賭けに興じている。
「行け! ウサギパンチだ!」
「かわせ! ニンジン・ミサイル!」
歓声と笑い声。
地球から『水推進式惑星間輸送機』でたったの10分。
もはや月は、選ばれた宇宙飛行士だけが命懸けで目指すフロンティアではない。
ちょっとした週末の小旅行で訪れることができる、究極のテーマパークなのだ。
「……信じられんな、何度見ても」
セレーネ・ノヴァの中心部、四カ国共同管理地区の展望ラウンジ。
そこに設置された高解像度モニター越しに、都市の繁栄ぶりを見下ろしていたのは、日本の官房長官、九条だった。
彼の本体は東京の地下にいるが、月面の分身体が、現地の視察と指揮を行っている。
「治安は維持されています。翻訳結界による些細な口論や、自由開拓区での利権争いは絶えませんが、D-POLの月面分隊が迅速に対処しており、重篤な事件には発展していません。
何より、観光業とダンジョン産業による経済効果は、我々の事前の試算を500%以上、上回るペースで成長しています。
……月面都市は、大成功と言って良いでしょう」
彼の報告は、暗号化された量子通信回線を通じて、地球の四つの首都を結ぶ最高機密バーチャル会議室へとリアルタイムで送信されていた。
***
東京、ワシントン、北京、モスクワ。
円卓を囲む四カ国の指導者たちの顔には、月面都市の成功を裏付けるような、深い安堵の色が浮かんでいた。
「――ご苦労、九条長官」
議長役を務める日本の沢村総理が、手元の温かい緑茶をすすりながら口を開いた。
彼の顔には、この数ヶ月間、月面都市建設という人類未踏のプロジェクトを牽引してきた重圧から解放された、確かな達成感があった。
「セレーネ・ノヴァが順調に機能していることは、我々四カ国の結束と管理能力の証明だ。
水エンジンによる輸送コストの圧縮、空間折りたたみコンテナによる物資の大量輸送、そして何よりKAMI様がもたらした環境維持システム。
これらのパズルが完璧に組み合わさった結果だな」
「うむ。全く同感だ」
アメリカのトンプソン大統領が、満足げに葉巻の煙を吐き出した。
「我が国の富裕層たちも、こぞって月の不動産を買い漁っているよ。
『地球の重力から解放された別荘』というコンセプトが、彼らの心を鷲掴みにしている。
投資マネーの流入はとどまるところを知らん。我が国だけでも、月面特需によるGDPの押し上げ効果は計り知れない」
「中国も同様です」
王将軍が、珍しく相好を崩して頷いた。
「我が国の労働力とプレハブ建築のノウハウが、月面都市の急速な拡大に大きく貢献したと自負しております。
月面に展開した『中華街』は連日大盛況。地球の食材と魔石エネルギーを使った料理は、各国の観光客の胃袋を掴んで離さない。
この経済循環は、党の権威をさらに高めている」
「ロシアの採掘部隊も、月の地下資源を順調に掘り出している」
ヴォルコフ将軍もまた、グラスのウォッカを揺らしながら言った。
「ヘリウム3はもちろん、未知のレアメタル。
これらは我々の軍事力と産業を、さらに一つ上の次元へと押し上げるだろう。
……まあ、観光客どもがウサギを連れて浮かれているのを見るのは、少々目障りだがな。平和の象徴としては悪くない」
四人の指導者たちは、互いに目配せをして笑い合った。
ダンジョン解禁から約一年。
彼らは数々の試練と狂騒を乗り越え、ついに「宇宙」という絶対的なフロンティアを、安定したビジネスモデルへと昇華させることに成功したのだ。
それは、政治家としてこれ以上ない勝利の美酒だった。
だが。
人間とは、あるいは国家とは、現状に満足することを知らない生き物である。
特に、その「勝利の宴」に参加できなかった者たちにとっては。
「……さて」
沢村総理が、表情を少しだけ引き締めた。
「月面都市の成功は喜ばしいのですが。それゆえに、また新たな火種が生まれつつあるのをご存知ですか」
「国連の動きだな」
トンプソンが、忌々しげに顔をしかめた。
「ああ。国連総会や各種委員会の場において、EU諸国やグローバルサウスの代表たちが、早くも次の要求を突きつけてきている。
『月が成功したのだから、次は火星だ』とな」
火星。
地球のすぐ外側を回る、赤い惑星。
古くから人類の宇宙開拓の次の目標とされてきた場所。
九条官房長官が、モニターに国連での演説の映像を投影した。
フランスの国連大使が、拳を振り上げて熱弁を振るっている。
『――月面都市セレーネ・ノヴァの成功は、人類の偉大なる一歩である!
だが、その権益の大部分が四カ国によって独占されている現状は、看過できない!
水エンジンと空間折りたたみ技術がある今、我々にとって太陽系はもはや庭も同然だ!
ならば次は火星である!
火星の開拓権こそは、四カ国の独占を許さず、国連主導の下、全人類に平等に分配されるべきである!』
「……というような調子でして」
九条は淡々と報告した。
「『月面利権に乗り遅れた』という強烈な焦燥感が、彼らを火星へと駆り立てています。
連日、火星探査および植民計画に関する共同決議案が提出され、我々四カ国に対する『技術の全面開示』と『火星行きシャトルの共同建造』を求める圧力が、限界まで高まっています」
「馬鹿馬鹿しい」
王将軍が、鼻で笑って吐き捨てた。
「火星だと? 連中は宇宙開発をなんだと思っているのだ。ピクニックか?
月面都市がこれほど短期間で構築できたのは、地球からの距離が近く、補給線が維持できたからだ。
そして何より、我々四カ国が莫大な資本と労働力を注ぎ込んだからだ。
技術だけあっても、それを運用するインフラと覚悟がなければ、開拓など不可能だ」
「同感だ」
ヴォルコフ将軍も、冷ややかに同意した。
「正直なところ、火星を植民地化してもねぇ……。
あそこはただの赤い石の塊だろう?
大気は薄く、放射線は強く、気温は極寒。
月のように『地球のすぐそば』という利点もない。
無理してあんな不毛な土地を手に入れても、維持費がかさむだけで、旨味があるとは思えん」
ロシアという広大で過酷な国土を管理する彼にとって、不毛な土地を抱え込むことのコストは痛いほど分かっていた。
「土地だけあっても困るでしょうしな。
月面都市の維持と、地球のダンジョン管理。それだけで我々のリソースは一杯一杯だ。
これ以上、無駄な戦線を拡大するメリットはない」
「全くその通りだ」
トンプソン大統領も、深く頷いた。
「アメリカ国民も、月の不動産には興味を示すが、火星となると話は別だ。
『遠すぎる』し『何もない』。
イーロン・マスクのような一部の宇宙オタクならいざ知らず、国家プロジェクトとして火星を開拓するのは、費用対効果が悪すぎる。
今の月面の利益を確実に回収し、国内経済を回すのが先決だ。
国連の馬鹿騒ぎなど、無視しておけばいい」
四カ国の意見は、見事に一致していた。
「火星進出は不要」。
彼らはリアリストだ。
神の技術を手に入れたからといって、無闇矢鱈に宇宙へ飛び出すようなロマンチストではない。
利益が見込めない不毛な惑星に、無駄な投資をする気は毛頭なかった。
「では、政府方針としては『火星計画については、月面都市の完全な安定化を見極めてから慎重に検討する』という、いつもの先送り答弁で……」
沢村総理が、安堵の息をつきながら結論をまとめようとした、その時だった。
フォン。
重厚な会議室の空気を切り裂くように、聞き慣れた、しかし常に心臓を跳ねさせる軽快な電子音が鳴り響いた。
円卓の中央、ホログラムの地球儀と月の間に。
空間が歪み、ゴシック・ロリータ姿の少女、KAMIが唐突にポップアップした。
今日の彼女は、なぜか銀色の宇宙服(レトロなSF映画に出てくるような、ダサくて可愛いデザインだ)を羽織り、手には「火星の石」を模したような、赤いチョコクランチを抱えていた。
彼女はチョコクランチをボリボリと齧りながら、四人の指導者たちを、不思議そうな顔で見回した。
「んー? なになに? 火星行かないの?」
その、あまりにも軽い第一声。
「K、KAMI様……!」
沢村が慌てて居住まいを正す。
「お、お待ちしておりました。
いや、火星の話ですが……我々としては、現時点では月面都市の運営に注力すべきであり、火星の植民地化はコストとリスクに見合わないと判断しておりまして……」
「えー、もったいない」
KAMIは、チョコクランチを口に放り込みながら、心底つまらなそうに言った。
そして、彼女は、まるで「隣のスーパーで特売やってるわよ」とでも言うかのような気軽さで、とんでもない爆弾を投下した。
「火星に行かないの?
宇宙人、いるかもしれないじゃない?」
ピタッ。
四人の指導者たち、そして九条官房長官の動きが、完全にフリーズした。
彼らの呼吸が止まり、瞬きさえも忘れる。
会議室の時間が、氷点下で停止したかのようだった。
「…………え?」
トンプソン大統領が、絞り出すような声で聞き返した。
葉巻が指から滑り落ち、机の上に転がる。
「い、いるのですか? 火星に、宇宙人が……!?」
知的生命体。地球外生命。
それは人類にとっての究極のロマンであり、同時に、最大の恐怖でもある。
もし火星に宇宙人がいて、それが高度な文明を持っていたら?
地球のすぐ隣に、未知の脅威が潜んでいることになる。
「さぁね?」
だが、KAMIは、肩をすくめて悪戯っぽく笑った。
「いるかもしれないし、いないかもしれないわ。
でもね、火星って、昔は地球みたいに水が豊かで、大気もあって、生命が溢れる環境だったのよ?
並行世界の中には、火星人が地球に攻めてくる世界線だってあるくらいだし。
地下深くに、古代火星人の遺跡とか、コールドスリープした宇宙人が眠ってても、おかしくないわよねぇ?」
彼女は、チョコクランチの箱をカラカラと振った。
「シュレーディンガーの火星人よ。
行って開けてみるまで、分からないわ。
……ワクワクしない?」
ワクワクなど、するわけがない。
四人の男たちの背筋に、冷たい汗が流れた。
もし本当に宇宙人がいて、それがKAMIの言うように「地球に攻めてくる」ような存在だったら?
あるいは、ムー大陸のように、凄まじい防衛システムを持った遺跡が眠っていたら?
「そ、そんな不確定要素がある星に、安易に手を出すわけにはいかないでしょう!」
王将軍が、顔を青ざめさせて叫んだ。
「万が一、敵対的な異星文明を刺激してしまったら、地球全体が戦火に巻き込まれる!
やはり、火星は放置すべきだ! 絶対の不可侵領域とするべきだ!」
「そうよ。だから、放っておくのも手よ」
KAMIは、王将軍の言葉にあっさりと同意した。
だが、彼女の瞳の奥には、残酷なゲームマスターとしての光が宿っていた。
「でもね……。
せっかく『土地』が余ってるんだから、使わないのはもったいないと思わない?
火星、丸ごと一個よ?
あなたたちの地球の人口問題とか、資源問題とか、火星を丸ごと使えれば、一発で解決するじゃない」
「ですが、あそこは不毛の地です!」
ヴォルコフ将軍が反論する。
「呼吸もできない、極寒の砂漠だ! 住めるわけがない!」
「だから、テラフォーミングすればいいじゃない」
KAMIは、当然のように言った。
「『惑星環境改造』。
私のデータベースにある技術を使えば、火星の大気を暖めて、氷を溶かして海を作って、植物を植えて……。
十年もあれば、地球と全く同じ『第二の故郷』に改造できるわよ?」
テラフォーミング。
それは、人類が宇宙に進出するための、究極の最終目標。
惑星を丸ごと、地球環境に書き換える、神の御業。
「て、テラフォーミング……!」
沢村総理が、絶句した。
「そ、そんなことが、本当に可能なのですか!?」
「技術的にはね」
KAMIは、少しだけ面倒くさそうに頬を掻いた。
「でも、惑星一個丸ごと環境を変えるなんて、さすがに私にとっても一大事業なのよ。
マナの消費量も半端ないし、大気の成分調整とか、生態系のシミュレーションとか、計算がすっごく面倒くさいの。
だから、テラフォーミングを本気でやるのは、まだまだずっと先の話ね。
あなたたちがもっと強くなって、もっと魔石を貢いでくれないと、割に合わないわ」
彼女は、チョコクランチをぽりぽりと噛み砕いた。
「でもね。
後からテラフォーミングで地球みたいにするとしても。
今のうちに、少しだけ足場を固めておいても良いんじゃない?」
「足場……ですか?」
「そう。
月面都市みたいな、ドーム型の『コロニー』を、いくつか建設しておくのよ。
とりあえず旗を立てて、所有権を主張しておく。
中を探索して、宇宙人がいないか、あるいは使える遺跡がないか、ちょっとだけ掘ってみる。
……それくらいなら、今のあなたたちでも出来るでしょ?」
KAMIは、誘惑するように微笑んだ。
「それに、火星って遠い遠いって言うけど……。
あなたたち、私のあげた『水推進エンジン』のスペック、忘れてない?」
彼女は、空中に火星と地球の軌道図を投影した。
「光速の10%。秒速3万キロ。
地球と火星の距離は、最接近時で約5500万キロ。
……計算してみて?」
九条が、即座に脳内で計算を弾き出した。
「……およそ1833秒。
加減速の時間を考慮したとしても……約30分から、長くても数時間。
軌道が離れている最遠時(約4億キロ)であっても、光速の10%であれば、およそ3.7時間。
……半日もかかりません」
「ね?」
KAMIは、得意げに手を叩いた。
「地球から火星まで、たったの『半日』よ?
新幹線で東京から博多に行くようなものじゃない。
全然遠くないわ。ご近所よ、ご近所」
半日。
火星まで、半日。
その数字のリアリティが、四人の指導者たちの脳髄を激しく揺さぶった。
かつては探査機を飛ばすのに半年以上かかっていた、絶望的なまでに遠い赤い星。
それが今、自分たちの手元にある「技術」を使えば、朝に出発して、夕方には到着できる距離にあるのだ。
「……半日、か」
トンプソン大統領が、呆然と呟いた。
彼の瞳の奥で、再び「フロンティア・スピリット」という名のアメリカ人の業が、チロチロと燃え上がり始めていた。
「半日で火星に着く……。
ならば、補給線は完全に維持できる。
月に前哨基地を置くよりも、はるかに短時間で火星に到達できるということか……」
「うーむ……」
王将軍も、腕を組んで深く唸った。
「月面都市で、しばらくはお腹いっぱいだと思っていたが……。
半日で行ける土地に、他国が先に行くのを黙って見ているわけにはいかんな。
もし国連の有象無象が、我々を出し抜いて火星に旗を立て、そこに眠る超古代遺跡(あるいは宇宙人)の技術を独占したら……」
「それは、許容できないリスクだ」
ヴォルコフ将軍が、冷徹な声で断言した。
「宇宙人の存在は脅威だ。
だが、その脅威を『他国がコントロールする』ことは、さらに大きな脅威だ。
やはり、火星もありだな……。
本格的なテラフォーミングは後回しにするとしても、コロニーぐらいは建設しておくか?」
「……コロニー建設ですか」
沢村総理が、頭を抱えるようにして言った。
「月面都市のローンチで、国家予算も人材も限界スレスレだというのに。
さらに火星にまで手を広げるのですか……?」
だが、沢村の言葉とは裏腹に、彼の心の中にも「行かなければならない」という、為政者としての強迫観念が芽生え始めていた。
他国が動くなら、日本も動かなければならない。
それが、大国間競争の絶対ルールだ。
「でも、火星って広いからなぁ……」
麻生ダンジョン大臣が、ぼやいた。
「月の表面積の数倍以上でしょう?
そこにコロニーを一つ二つ作ったところで、全体を管理しきれるわけがない。
それに、いくら光速の10%で飛べるとはいえ……。
やっぱり、半日かかるというのは、遠いですよ。
何かトラブルがあった時、救援部隊が到着するまでに半日かかる。
その間に、宇宙人に襲われたら全滅ですぞ」
「そうですね……。半日は、遠いです」
九条も、麻生に同意した。
「物流の観点からも、月面のようにシャトルバス感覚で行き来するのは難しい。
やはり、月と火星では、ハードルの高さが違います」
その時だった。
「…………ん?」
トンプソン大統領が、ふと、怪訝な顔をして、麻生と九条を見た。
「いや、ちょっと待て。
お前たち、今、なんと言った?」
「え? ですから、火星まで半日かかるのは、やはり遠いと……」
九条が真面目な顔で答える。
「……おかしいと思わないか?」
トンプソンは、まるで狐につままれたような顔で、自分の頬をペチペチと叩いた。
「火星まで『半日』だぞ?
人類がかつて、数千億ドルの予算を投じて、何年もかけて到達しようとしていた火星だぞ?
それが、たったの『半日』だ。
……それを我々は今、平然と『遠い』と言っているのか?」
その言葉に、会議室の全員が、ハッとして顔を見合わせた。
「……あ」
沢村が、小さく声を漏らした。
「……確かに」
王将軍が、目を丸くした。
「……数年前なら、奇跡と呼ぶべき速度だな」
ヴォルコフ将軍が、乾いた笑いを漏らした。
そう。
彼らは気づいてしまったのだ。
自分たちの「常識」が、いつの間にか、完全に書き換えられてしまっていることに。
月まで15秒。
火星まで半日。
かつてはSF映画の中でしか語られなかった光速の10%という途方もない速度を、彼らはもはや「当たり前のインフラ」として認識し、「半日もかかるのか、不便だな」と愚痴をこぼしている。
「……完全に、感覚が麻痺していますね」
九条が、鉄仮面を崩して、深く、深いため息をついた。
「地球の裏側までゲートで0秒で行けるのが当たり前になり。
月まで15秒で通勤できるのが当たり前になり。
……我々は、距離と時間に対する感覚を、完全に失ってしまったようです」
「そうねぇ、既存のロケットなら、火星まで行くのに数ヶ月から数年はかかる計算だっただろう?」
トンプソンが、天を仰いで笑った。
「それが半日だ。
我々は、コロンブスが帆船で大西洋を渡るより短い時間で、別の惑星に行ける力を持っている。
……だというのに、それが『遠い』だと?
ハッハッハッハ! なんて傲慢で、なんて贅沢な悩みだ!」
「それはそうですね……。いけない、いけない」
沢村総理も、自分の顔を両手でパチンと叩いて、正気を取り戻そうとした。
「我々は、完全に感覚が麻痺してます……。
火星が隣町のように感じてしまう。
これも全て……」
四人の視線が、円卓の中央でチョコクランチを食べている、一人の少女へと注がれた。
「KAMI様が、我々の『常識』を、根底からぶっ壊してしまったからですな」
麻生大臣が、呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。
「地球の常識。宇宙の常識。時間の常識。
全てが、あのお方の与える技術の前に、無意味なものになっていく。
我々は、神のスピードに振り回される、哀れなハムスターですわ」
「あはは! 何よそれ!」
KAMIは、チョコクランチの箱を抱えて、楽しそうに笑った。
「でも、それでいいじゃない。
常識なんて、壊すためにあるのよ。
限界を決めてるのは、いつだって人間自身の『思い込み』なんだから」
彼女は、指先で火星のホログラムをくるくると回した。
「さあ、どうする?
火星、行く? 行かない?
宇宙人が待ってるかもしれないわよ?」
その、悪魔的で、そして無邪気な誘惑。
四人の指導者たちは、顔を見合わせた。
感覚は麻痺している。
リスクは計り知れない。
宇宙人がいるかもしれない。
だが、彼らの胸の奥底で燃える「野心」と「探究心」は、もはや抑えきれないところまで膨れ上がっていた。
「……行くしかないだろうな」
トンプソン大統領が、ニヤリと笑って、葉巻に火をつけた。
「半日で行けるフロンティアを、見過ごす手はない。
アメリカ合衆国は、火星に一番乗りの旗を立てる!」
「中国も譲りませんよ」
王将軍が、不敵な笑みを浮かべた。
「我が国の宇宙船は、既に建造の最終段階に入っている。
火星の大地に、紅い旗を立てて見せましょう」
「ロシアもだ」
ヴォルコフ将軍が頷く。
「……やれやれ」
沢村総理が、頭を掻きながら、九条を見た。
「九条君。
また、徹夜が続きそうだな。
火星探査特別委員会の立ち上げと、コロニー建設の予算編成だ。
……胃薬を、追加で発注しておいてくれ」
「……御意」
九条は、無表情のまま、深く一礼した。
かくして。
神の気まぐれな一言と、完全に感覚が麻痺した権力者たちの欲望によって、人類の歴史はまた一つ、大きな跳躍を遂げることになった。
目的地は、赤い惑星、火星。
そこに宇宙人がいるのか、それとも超古代の遺跡が眠っているのか。
あるいは、何もない不毛な砂漠が広がっているだけなのか。
それは、行ってみなければ分からない。
だが、彼らはもう、立ち止まることはできなかった。
神の用意した無限のゲーム盤の上で、彼らは駒を進め続けるしかないのだ。
「じゃあ、楽しみに待ってるわね! 火星からの第一報!」
KAMIは、満足げに手を振ると、光の粒子となって消えていった。
残された会議室には、新たな狂騒の始まりを予感させる、熱を帯びた静寂が漂っていた。
人類のフロンティアは、ついに地球圏を飛び出し、太陽系の深淵へと向かおうとしていた。




