第244話
「――本日のフライト時間は、離陸後およそ10分を予定しております。シートベルトをお締めになり、舌を噛まないようご注意ください」
機内アナウンスが流れると同時に、乗客たちの間に走ったのは緊張ではなく、ある種の「呆れ」にも似た失笑だった。
東京・羽田空港の特別滑走路。そこに鎮座するのは、かつてのスペースシャトルとは似ても似つかぬ、流線型の巨大な銀色の機体――『水推進式惑星間輸送機』である。
全長100メートルを超えるその巨体の中には、500名の乗客と大量の建設資材が詰め込まれている。
燃料は、ただの水。
目的地は、月。
所要時間は、10分程度の時間。
「……10分か。山手線で新宿から池袋に行くのと変わらんな」
窓際の席に座った日本人エンジニアの男が、苦笑しながら呟いた。
彼の隣には、アメリカ人の地質学者が座っている。
彼らはこれから、人類史上初の月面都市『セレーネ・ノヴァ』の建設と運営という、歴史的偉業に携わるために旅立つのだ。
だが、その旅路に「宇宙旅行」の壮大さは微塵もなかった。
あるのは、あまりにも日常的で、あまりにも効率化された「通勤」の感覚だけだ。
「――Take off(離陸)」
機体がふわりと浮いた。
轟音はない。重力制御システムが機体の質量を無効化し、水推進エンジンが静かに、しかし猛烈な推力を発生させる。
窓の外の景色が、一瞬で青から黒へと変わる。
G(重力加速度)も感じない。KAMIから供与された慣性制御魔法が、機内の物理法則を地上と同じ状態に固定しているからだ。
スマホを取り出し、機内Wi-Fi(これも魔導通信技術で完備されている)に接続してニュースをチェックする乗客たち。
窓の外には、遠ざかる青い地球と、急速に迫りくる灰色の月面が見えている。
「……着陸態勢に入ります。現地時間は地球標準時で午後2時。天気は快晴……というか、宇宙なので常に快晴です」
パイロットのジョークに、機内が和む。
そして、軽い衝撃と共に機体が着地した。
窓の外に広がっていたのは、荒涼としたクレーターの原野ではない。
巨大な透明のドームに覆われた、光輝く未来都市だった。
『静かの海』の地下に広がる溶岩洞を利用し、地上部には美しいガラスのドームを展開したその都市は、地球のどの都市よりも美しく、そして異質だった。
魔石エネルギーで輝く街灯、重力制御で空中に浮かぶ建造物、そして区画整理された緑豊かな公園。
酸素は植物と魔導プラントによって循環し、重力は地球と同じ1Gに調整されている。
人類の新しいフロンティア。
月面都市『セレーネ・ノヴァ』。
そのゲートが開かれた瞬間、人類は真の意味で「星の子」となった。
***
だが、この都市には、物理的なインフラ以上に衝撃的な「仕掛け」が施されていた。
入国ゲートをくぐり、ドーム内に入った瞬間。
エンジニアの男は、隣のアメリカ人に話しかけられた。
「Hey, look at that! It's magnificent, isn't it?(おい、見ろよ! 壮観だな!)」
男は耳を疑った。
聞こえてきた音声は間違いなく英語だった。アメリカ特有の巻き舌、イントネーション。
だが、彼の脳内で認識された「意味」は、まるで日本語を聞いているかのように、あまりにも自然で、そして即時的だった。
翻訳アプリを通したような機械的な遅延も、不自然な構文もない。
相手が喋った瞬間に、その単語の意味が脳に直接染み渡るような感覚。
「……え? あ、はい。本当に凄いですね。まるで映画の世界だ」
男は戸惑いながら、日本語で返した。
すると、アメリカ人が目を丸くして頷いた。
「Yeah, exactly! Like a Sci-Fi movie come to life!(ああ、その通りだ! SF映画が現実になったみたいだ!)」
通じている。
彼には日本語で聞こえているはずなのに、こちらの意図を瞬時に理解し、英語で返してくる。
これこそが、KAMIがこの月面都市に施した最大の実験にして、最大の贈り物。
『広域言語翻訳結界』。
都市全域を覆う不可視の魔力フィールドが、人々の発する言語情報を瞬時に解析し、受け手の脳が最も理解しやすい言語(母国語)へと、ニュアンスを含めて自動変換して伝達するシステムだ。
「テレパシー」ではない。あくまで「超高度な同時通訳」である。
だからこそ、言葉の壁は消えても、言葉そのものが持つ「曖昧さ」や「裏の意味」までは解読されない。
並行世界での失敗を経て導入された実験結界である。
「……Nice weather today, isn't it?(いい天気ですね)」
アメリカ人が挨拶代わりに言った。
日本人の脳内には「いい天気ですね」と響く。
だが、このドーム内は人工気象で常に快晴だ。アメリカ人にとっては単なる「会話のきっかけ(社交辞令)」だが、生真面目な日本人は「当たり前だろ、管理されてるんだから」と心の中でツッコミを入れる。
言葉は通じる。
だが、文化は通じない。
それが、この結界の生み出す奇妙な距離感だった。
「すげえ……! 言葉が分かるぞ!」
「中国語もロシア語も、全部母国語みたいに聞こえる!」
「でも、あいつ何言ってるか意味はわかるけど、言いたいことが分からん!」
ロビーは驚愕と歓喜、そして微かな混乱の声で溢れかえった。
フランス人が皮肉を言えば、ドイツ人にはその皮肉が「母国語の皮肉」として完璧に伝わる。
インド人が独特の言い回しで交渉すれば、ブラジル人にはその「まどろっこしさ」がダイレクトに伝わる。
翻訳のタイムラグが消滅した世界。
それは「誤解」が減る世界ではなく、「相手の建前」や「嫌味」が、より鮮明に、よりダイレクトに突き刺さる世界でもあった。
***
『セレーネ・ノヴァ』の中心部、四カ国共同管理地区。
そこにある司令室では、地球と同じメンバーによる最高評議会が開かれていた。
沢村、トンプソン、王、ヴォルコフ。
彼らはホログラムではなく、今回は実体を持ってこの月面都市に降り立っていた。
「……言語結界、稼働状況は良好です」
九条官房長官が、モニターを見ながら報告する。
「通訳を介する必要がないため、会議の進行速度は地球上の数倍に達しています。
しかし……疲れますな。
相手の言葉がダイレクトに入ってくる分、思考のクッションを置く暇がない」
「ふん。全くだ」
ヴォルコフ将軍が、ロシア語で呟いた。
その言葉は、その場にいる全員の脳内に、それぞれの母国語の最も適切なニュアンスで伝わった。
『便利だが、気が抜けない』という、彼の無骨なニュアンスまで含めて。
「だが」
トンプソン大統領が、苦い顔で切り出した。
「言葉が通じるというのは、必ずしも平和を意味しないようだな。
……外の様子を見てみたまえ」
彼が指差したモニターには、都市の外縁部――四カ国の管理区域から外れた、「自由開拓区」と呼ばれるエリアの映像が映し出されていた。
そこは、舌戦の戦場だった。
「自由開拓区」。
それはKAMIと四カ国が、「四カ国以外の国々にもチャンスを与える」という名目で開放した、月面の未開拓エリアである。
そこには、EU、インド、南米、アフリカ諸国、そして一攫千金を狙う民間企業が殺到し、独自の拠点を築こうとしていた。
だが、そこで起きていたのは「平和な対話」ではなかった。
言葉の壁が消えたことによる、加速した「利権争い」だった。
映像の中では、フランスの探査チームとドイツの採掘部隊が、一つの有望なクレーターの所有権を巡って対峙していた。
彼らの間には、かつてのような通訳を挟んだ間接的なやり取りはない。
リアルタイムの、剥き出しの言葉の応酬だ。
「退け、泥棒猫! このクレーターの採掘権は我々が先に申請した! 書類を見ろ!」
「ふざけるな、エスカルゴ! 貴様らの申請書など測量ミスだらけの紙屑だ! ここは我々の重機でなければ掘れん!」
フランス語の罵倒が、ドイツ人の耳には完璧なドイツ語の罵倒として響く。
ドイツ語の冷徹な指摘が、フランス人の耳には完璧なフランス語の侮辱として響く。
ニュアンスの欠落も、誤訳による緩和もない。
相手の「悪意」や「軽蔑」が、100%の純度で伝達されてしまう。
「貴様、今なんと言った? 我々の技術を三流だと? その言い草、EU委員会に報告してやるぞ!」
「ああ言ったとも! 事実を言ったまでだ! 聞こえなかったか? お前たちの耳は飾りか!」
激昂。
言葉が通じるからこそ、相手の言い分が「理解」できてしまう。
理解できるからこそ、「許せない」という感情が沸騰する。
通訳がいれば、「まあまあ、相手はこう言っていますが……」と角を丸めることもできただろう。
だが、神の結界はそんな「及び腰」を許さない。
別のエリアでは、インドとパキスタンの企業が、水資源(氷)の採掘権を巡って衝突していた。
「裏切り者!」「異教徒!」「泥棒!」
互いの歴史的な怨恨を込めた言葉が、フィルターなしでお互いの心臓を突き刺す。
言葉の壁がなくなった結果、彼らはより深く、より詳細に、互いを憎しみ合う理由を「確認」し合っていた。
「……皮肉なものだな」
王将軍が、冷徹な目でその光景を見つめた。
「人類は長年、『言葉が通じれば戦争はなくなる』と夢想してきた。
だが現実は逆だ。
言葉が通じるからこそ、嘘も、欺瞞も、敵意も、鮮明に見えてしまう。
『分からないから放っておく』という曖昧さが消え、全ての対立が先鋭化している」
沢村総理が、悲しげに目を伏せた。
「『話せば分かる』というのは、日本人の幻想でしたか。
話せば話すほど、分かり合えないことが分かる。
……言葉の壁というのは、ある種の緩衝材でもあったのですね」
結界の中では、嘘もつきにくいわけではない。嘘はつける。
だが、その嘘に含まれる「微妙なニュアンス」や「社交辞令」もまた、完璧に伝わってしまうのだ。
日本人が「前向きに検討します(やらない)」と言えば、アメリカ人には「I'll think about it positively」という、その場の空気を読んだ「拒絶のニュアンス」を含んだ言葉として聞こえる。
「No」と言わない日本の文化が、翻訳結界によって「婉曲的なNo」として正確に伝わってしまう。
結果、「はっきりしない態度」への苛立ちが加速する。
***
四カ国は、この混乱を高みの見物と決め込んでいた。
彼らには、あらかじめKAMIとの密約によって確保された、広大で資源豊富な「専用管理区域」がある。
そこでは他国との争いなど起きようがない。彼らは最初から「一番いい場所」を囲い込んでいるのだから。
彼らは安全地帯から、外の世界の泥仕合を眺め、そして冷ややかに管理していた。
「……まあ、放っておきましょう」
トンプソンが言った。
「彼らが言葉のナイフで刺し合っている間に、我々は着実に開発を進めればいい。
月面の資源の8割は、既に我々四カ国のものだ。
残りの2割のカスを巡って彼らが口論するのは、彼らの自由だ。
むしろ、議論で時間を浪費してくれれば、我々の優位は揺るがない」
「治安維持部隊(D-POL月面分隊)の出動コストは、彼らに請求すればいい」
麻生大臣が計算機を弾く。
「喧嘩の仲裁料だ。高くつくぞ。
言葉が通じる分、口喧嘩が長引くからな。残業代が嵩む」
彼らは勝者だった。
言葉の壁がなくなろうとも、力の壁はなくならない。
むしろ、言葉が通じるようになったことで、その「力の差」や「持てる者の余裕」が、より明確に、より残酷に突きつけられるようになっただけだ。
***
その頃。
都市の一番高い場所にある展望ラウンジ『ムーンライト・カフェ』。
そこには、地球をバックに優雅に「月見団子」を食べるKAMIの姿があった。
重力制御された特別席で、彼女は眼下の都市で繰り広げられる人間たちの喜劇を眺めていた。
言葉を得て、なお争う人々。
理解し合えたからこそ、嫌味を言い合う人々。
「……ふふっ。やっぱりね」
KAMIは団子を頬張りながら、楽しそうに笑った。
「テレパシー(精神感応)にしなかったのは正解だったわ。
心が完全に通じ合っちゃったら、喧嘩にもならないし、個性が消えちゃうもの。
『言葉だけ通じるけど、心は通じない』。
このもどかしさが、人間ドラマのスパイスなのよ」
彼女は、争う人々を見下ろした。
フランス人とドイツ人が、通訳なしで流暢に罵り合っている。
その様子は、どこか滑稽で、そしてエネルギーに満ちていた。
「バベルの塔を壊したのは、人間をバラバラにするためじゃなくて、
『分かり合えないからこそ、必死に伝えようとする努力』をさせたかったからかもね。
便利になりすぎると、人間って退化しちゃうし」
KAMIは、傍らの本体である栞に話しかけた。
「ねえ、私。
これ、どうなると思う?
みんな仲良くなると思う?
それとも、言葉のナイフで刺し違えて全滅する?」
栞は、パソコンの画面から目を離さずに答えた。
「……さあね。
でも、本音でぶつかり合えるようになったのは、進歩なんじゃない?
通訳越しの建前じゃなくて、直接相手に『馬鹿野郎』って言える関係。
まずはそこから始まる『本当の外交』があるのかもしれないわよ。
喧嘩するほど仲がいい、って言うしね」
「ふーん。相変わらず甘い見立てね」
KAMIは肩をすくめた。
「ま、いいわ。
私はこの特等席で、彼らの『お喋り』を最後まで見届けさせてもらうわ。
月面戦争のBGMには、罵り合いの声が一番似合うもの」
彼女は指を鳴らした。
ラウンジの窓ガラスに、新たな情報が表示される。
【システム・アナウンス】
【月面ダンジョン『静寂の坑道』、発見報告あり】
【特性:内部での会話・音声通信の一切の禁止(沈黙デバフ)】
KAMIは意地悪く笑った。
「さあ、次の餌よ。
地上で散々喋り倒して疲れたら、今度は『沈黙』の世界で戦いなさい。
言葉が通じない世界で、どうやって連携を取るのか。
……便利さに慣れたあなたたちが、どこまでやれるか見物ね」
世界は広がり続ける。
月面都市『セレーネ・ノヴァ』。
そこは希望の光に満ちた新天地であり、同時に、人間の業と言葉の綾を映し出す、あまりにも透明で残酷な鏡の城だった。
青い地球が、頭上で静かに彼らを見下ろしていた。
その星で起きてきた数千年の争いの歴史が、場所を変えて、言葉を(表面的には)統一して、また繰り返されようとしている。
人類は、どこまで行っても人類なのだ。
沢村総理は、月面の執務室で、窓の外の地球を見上げながら、ポツリと呟いた。
「……言葉が通じるというのは、便利だが、疲れるな。
聞きたくない悪口まで、はっきりと聞こえてしまう」
その言葉は、誰の翻訳も必要とせず、そこにいる全ての指導者たちの心に、深く、深く染み渡っていった。
彼らの眠らない、そして語り尽くせぬ夜は、まだ始まったばかりだった。




