第27話
異世界『アステルガルド』。その中央部に広がる広大なリーフェンタール平原を統べる、最も古く、そして最も強大な王国、リリアン。
その王都ライゼンの中心に聳え立つ白亜の城、シルヴァリオン宮殿。その最奥、玉座の間では、この国の運命を左右する最高意思決定会議が、重苦しい雰囲気の中で開かれていた。
広大な間の壁には、建国神話に登場する英雄王と六体の聖獣を描いた巨大なタペストリーが掲げられ、天井から吊るされた魔晶石のシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に複雑な光の模様を落としている。
玉座に深々と腰掛けているのは、この国を三十年にわたり治めてきた老王、セリオン・リ・リリアン四世。かつては竜殺しの勇者とまで謳われたその肉体は、今や王衣の下で老いによる衰えを隠せないでいたが、その灰色の瞳の奥には、未だ王国全土を睥睨するにふさわしい、鋭い知性と威厳の光が宿っていた。
玉座の前に並ぶのは、王国の中枢を担う三人の重鎮。
王国騎士団総長にして、セリオン王の腹心である武人、ヴァレリウス公爵。
王立魔導院の長にして、大陸最高の叡智と謳われる大魔導師、エルドラ老婆。
そして、王国の財政と内政を一手に握る、冷徹な現実主義者、ギデオン侯爵。
彼らの目の前、謁見の間に広げられた巨大な地図。その東の果て、深い森に覆われた国境地帯に、一つの赤い印がつけられていた。数ヶ月前まで、ただの辺境の田舎町でしかなかった『リリア』の名が、今やこの国の最も重要な議題の中心にあった。
「――以上が、リリアの街に派遣した王室直属の密偵からの、最新の報告でございます」
報告を終えた宰相が、汗ばんだ額をハンカチで拭いながら一歩下がった。
玉座の間は、沈黙に支配された。
誰もが、今しがた聞かされた報告の、あまりにも荒唐無稽な内容を、頭の中で反芻していた。
森の奥に、突如として現れたという『天上の人』。
彼らが築いたという、鉄とガラスでできた奇妙な「砦」。
そして、彼らが持ち込んだ、この世界の常識を覆す、数々の不可思議な品々。
「……チョコレート、か」
最初に沈黙を破ったのは、玉座のセリオン王だった。
彼の脳裏に、数週間前、白狼商会のガランが献上品として届けてきた、あの小さな黒い菓子の記憶が鮮やかに蘇る。
口に入れた瞬間、舌の上でとろけるように広がる、濃厚で複雑な甘み。それは、王宮の最高位の菓子職人が作るどんな蜜菓子とも比較にならない、まさに悪魔的なまでの味わいだった。王侯貴族として生まれ、この世の贅を味わい尽くしてきたはずの自分が、生まれて初めて体験する官能的なまでの美味。
「うむ。一度食べたが、あれは確かに天にも昇る心地がするほどの代物だった。我が国の菓子職人たちに再現を命じたが、カカオとかいう豆がなければ話にならぬと、皆さじを投げておったわ」
セリオン王は、楽しそうに髭を撫でた。
「その神々の菓子を、彼らは鉄のナイフや塩といった、我々にとってはありふれた品々と交換していると。面白い。実に面白い話ではないか」
その、どこか呑気な王の言葉に、苦虫を噛み潰したような顔で進み出たのは、騎士団総長のヴァレリウス公爵だった。彼は、この国で最も高潔で、そして最も警戒心の強い武人だった。
「王よ! お戯れを! これは、面白い話などでは断じてありませぬ!」
彼の武骨な声が、玉座の間に響き渡る。
「これは、侵略です! 我々の知らぬやり方で行われる、静かなる侵略に他なりませぬぞ!」
「侵略、だと? ヴァレリウス」と、王は眉をひそめた。「報告によれば、彼らに侵略の意思は見られぬとのことだが。彼らは砦から出てくることも稀で、武器を手に威圧するでもなく、ただ民間との交易を望んでいるだけだと」
「それこそが、彼らの狡猾な手口なのです!」
ヴァレリウスは、拳を握りしめた。
「考えてもみてください。彼らの持ち込む品々は、我々の経済を、文化を、静かに、しかし確実に蝕んでおります。リリアの街では、白狼商会が彼らとの交易を独占し、他の商会を圧倒するほどの富を築いていると。いずれ、我が国の経済は、天上の人の持ち込む品々なくしては成り立たなくなるでしょう。それは、経済的な植民地化に他なりませぬ!」
彼は、さらに続けた。
「言葉が通じるのも、不気味です。報告によれば、それは彼らの信じる『神の恩恵』によるものだと。我々とは異なる神を信奉する者たちが、我々の土地に土足で上がり込んでいるのですぞ! そして、何よりの問題は、彼らの『力』です!」
ヴァレリウスは、大魔導師エルドラの方を向いた。
「大魔導師殿。報告では、彼らは魔法を使えぬと。しかし、『科学』なる不可思議な術を用い、熟練の冒険者でさえ手を焼く森の魔物どもを、いとも容易く退けたと。その『科学』とは、一体何なのですかな?」
問われたエルドラは、深い皺の刻まれた顔を静かに上げた。彼女の瞳は、まるで世界の深淵を覗き込むかのように、どこまでも澄み切っていた。
「……分からぬ。それが、正直な答えじゃ」
老婆は、ゆっくりと首を振った。
「わらわも、密かに使い魔を飛ばし、彼らの様子を観察させておる。彼らの身体からは、マナの流れが一切感じられぬ。故に、彼らが魔法を使えぬというのは、事実じゃろう。しかし、彼らが使う『科学』は、魔法とは全く異なる理で、この世界の事象に干渉する力。鉄の塊が空を飛び、太陽よりも明るい光を夜に灯し、そして、遠く離れた者同士が黒い板を通して話す。それは、我らの魔法の体系では、説明のつかぬ奇跡じゃ」
「つまり、正体不明の力、ということですな」と、ヴァレリウスは吐き捨てるように言った。「王よ! 正体も、目的も知れぬ相手を、このまま放置しておくおつもりか! 彼らがその気になれば、その『科学』とやらで、我が国の軍隊など一夜にして殲滅されるやもしれぬのですぞ!」
「落ち着け、ヴァレリウス」
セリオン王は、その激昂を静かに制した。
「うむ。だが、敵対してどうする? お主の言う通り、向こうは我らの知らぬ不思議な力を使うではないか。戦いを挑むは、あまりにも愚策。それに…」
王は、楽しそうに口の端を上げた。
「彼らの目的は、今のところはっきりしておる。彼らは、石や珍しい物を求めて交易をしているに過ぎぬ」
「石ころのために、これほどの大掛かりなことを…?」
「その石ころが、彼らにとっては金銀以上の価値を持つのかもしれん」
王の言葉に、今度は財政を司るギデオン侯爵が、怜悧な声で口を挟んだ。
「王のお言葉、ごもっともに存じます。彼らの行動原理は、我々の価値観とは全く異なるようです。しかし、ヴァレリウス公の懸念もまた、無視はできませぬ。リリアの街における経済の混乱は、既に看過できぬレベルに達しております。白狼商会の一人勝ちを許せば、いずれは王国の経済そのものが、一介の商人に牛耳られかねません」
彼は、玉座の王をまっすぐに見据えた。
「王よ。もはや、民間の交易に任せておける段階は過ぎました。今こそ、王家が、そしてこの国が、正式に彼らとの交渉のテーブルに着くべき時です」
その提案は、玉座の間を満たしていた三者三様の思惑を、一つに収束させるものだった。
そうだ。
恐れるにせよ、利用するにせよ、まずは相手を知らねば始まらない。
そして、その交渉の主導権は、辺境の商人ではなく、この国の中枢が握らねばならない。
「……うむ」
セリオン王は、深く頷いた。彼の灰色の瞳に、再び王としての鋭い光が戻っていた。
「皆の意見、よく分かった。ヴァレリウス、お主の懸念はもっともだ。エルドラ、お主の分析も理に適っておる。そしてギデオン、お主の提案こそが、今我々が取るべき道であろう」
王は、玉座からゆっくりと立ち上がった。
「よろしい。我が王国の基本方針を、今ここで決定する」
その声は、もはや老人のそれではなく、王国全土を支配する覇王の威厳に満ちていた。
「第一に、天上の人に対し、我々から敵対的行動を取ることは、固く禁ずる! これが絶対の方針だ!」
ヴァレリウスが、悔しそうに唇を噛む。
「第二に、リリアの街における交易は、これより王家の直轄管理とする! 白狼商会には、これまでの功に報いると共に、今後は王家の監督下で交易を続けるよう、厳命せよ!」
ギデオンが、満足げに頷く。
「そして、第三に…」
王は、三人の重鎮の顔を、一人一人見回した。
「エルドラ、お主を長とする、王国最高の賢者たちを集めた特別使節団を編成する。そして、天上の人の砦へと赴き、このリリアン王国として、初の公式な対話を試みるのだ」
その言葉に、玉座の間が緊張に包まれる。
「使節団の目的は、何か?」と、エルドラが静かに問うた。
「全てだ」と、王は答えた。「彼らが何者で、どこから来て、何を求めているのか。そして、彼らの『科学』とは何なのか。我々が彼らに提供できるものは何か。そして、彼らが我々に提供できるものは何か。その全てを探り、見極めてくるのだ」
王は、再び玉座に腰を下ろした。そして、まるでチェスの盤面を眺める名手のように、思考を巡らせ始めた。
「さて、そうなると問題は、交渉の切り札だ。国として、我々は何を提示できる? 一介の商人が持ち寄る石ころや薬草では、彼らの歓心は買えまい。我々は、彼らが絶対に断れない、最高の『商品』を用意せねばならん」
その王の言葉に、エルドラがはっとしたように顔を上げた。
「……王よ。一つ、報告がございます。リリアに潜ませた密偵によりますと、天上の人たちは、我々の『怪我治癒ポーション』に、異常なほどの興味を示しているとのこと」
「ほう? ポーションに?」
「はい。彼らは、その効能に驚愕し、金貨を惜しげもなく支払って買い占め、その成分を必死に解析しようとしていると。どうやら、彼らの『科学』とやらは万能ではなく、我々のポーションが持つ生命力を直接癒す力は、持ち合わせておらぬようです」
その報告を聞いた瞬間。
セリオン王の顔に、初めて、獰猛な肉食獣のような笑みが浮かんだ。
彼が、ずっと探していた相手の「弱点」。そして、自分たちが握る最強の「切り札」。
その輪郭が、はっきりと見えた。
「……なるほどな。なるほど、なるほど。実に、面白い」
王は、楽しそうに呟いた。
「たかが、軽い傷を癒す程度の初級ポーションに、あれほど夢中になるか。ふむ。連中の価値観が、少しだけ見えてきたわ」
彼は、玉座から身を乗り出した。その瞳は、もはや老人のものではなく、獲物を見つけた狩人のように、ギラギラと輝いていた。
「エルドラよ。ならば、問う」
王の声が、玉座の間に響き渡る。
それは、この世界の運命を、そして地球という星から来た闖入者たちの運命さえも左右するかもしれない、究極の問いかけだった。
「もし、我々が王家の宝物庫の最深部に封印されし、あの伝説の秘薬…**万病やあらゆる怪我を癒やすという『エリクサー』**を交渉のテーブルに出すとしたら、彼らは一体いくらの対価を支払うだろうかのう?」
その言葉に、ヴァレリウスとギデオンが息を呑んだ。エリクサー。それは、建国以来、王家が命に代えても守り抜いてきた、神代の遺産。それを、取引に使うと?
だが、王は止まらなかった。彼は、大魔導師エルドラの、その全てを見通すかのような瞳を、まっすぐに見据えて、最後の、そして最大の切り札を口にした。
「そして、エルドラよ。お主がその生涯をかけて研究してきたという、神々の領域への挑戦。もし、我々が禁断中の禁断…人の寿命さえも操るという**『若返りのポーション』**を提示したならば…。彼らは、その対価として、一体何を差し出すだろうな?」
玉座の間は、完全な沈黙に支配された。
王が提示した二つの切り札。
それは、もはや単なる交易品ではない。
生命そのものを取引の対象とする、神をも恐れぬ悪魔的な提案だった。
だが、その提案こそが、未知なる超文明を相手に、この小さな王国が対等以上に渡り合うための、唯一にして最強の武器であるということを、その場にいた誰もが理解していた。
「……」
エルドラは、しばらく目を閉じて黙考していたが、やてがゆっくりとその顔を上げた。
その皺の刻まれた顔には、覚悟と、そして学者としての純粋な好奇心が浮かんでいた。
「……王よ。その答えは、わらわにも分かりませぬ。ですが、一つだけ確かなことがございます」
「申してみよ」
「彼ら天上の人たちもまた、我々と同じように病に苦しみ、そして老い、死ぬ定めの生き物であるということです。ならば…その価値は、おそらく、彼らの持つ『科学』の全てを差し出してさえ、お釣りがくるほどのものになるやもしれませぬな」
その言葉に、セリオン王は満足げに、そして深く頷いた。
勝負の道筋は、見えた。
「よし。決まりだ」
王は、高らかに宣言した。
「使節団は、一週間後に出発する。ギデオン、国庫から最高の宝石と貴金属を用意せよ。ヴァレリウス、お主は王国最高の騎士たちを選抜し、使節団の護衛にあたれ。そしてエルドラよ…」
王は、大魔導師に命じた。
「お主は、王家の宝物庫へ入れ。そして、交渉の『見本』として、最高純度の『怪我治癒ポーション』を数本、用意せよ。我々の『商品』の、その質の高さを、まずは彼らに思い知らせてやるのだ」
その日、リリアン王国は、歴史上初めて、地球という未知の星から来た来訪者に対し、国家としての一歩を踏み出すことを決定した。
彼らはもはや、ただの観察者ではない。
この新しい、そして壮大なゲームの、積極的なプレイヤーとして、自らの意思で盤上へと上がったのだ。
彼らが懐に忍ばせた切り札が、人類の、そして神の計画さえも揺るがすほどの、とんでもないジョーカーであるということを、まだ地球の誰も、そして橘栞さえも、知る由はなかった。
物語は、新たなプレイヤーの参戦によって、さらに予測不能な混沌の渦の中へと、その駒を進めようとしていた。




