第241話
東京・上野。
上野恩賜公園の木々が色づき始める季節。
その一角に鎮座する国立西洋美術館の重厚なエントランスを、奇妙な、しかし洗練された三人組がくぐり抜けた。
先頭を歩くのは、透き通るような銀髪を揺らし、清楚なオフィスカジュアルに身を包んだ少女――リリアン王国第一王女、リシア・ド・リリアン。
そのすぐ後ろには、黒いスーツを着こなした冷徹な顔立ちの男性――九条官房長官(の分身)。
そして二人の間を、ふわりと浮遊するように歩く(実際には数ミリ浮いている)、ゴシック・ロリータドレスの少女――KAMI。
一般の来館者が振り返るほどの異彩を放つ一行だが、九条が事前に手配した「特別観覧」の枠組みと、KAMIが周囲に展開している不可視の「認識阻害フィールド(人払い結界のようなもの)」のおかげで、彼らは騒ぎになることなく、静謐な館内へと足を踏み入れていた。
「……美しいですわ」
リシアが展示室の中央で足を止めた。
彼女の視線の先には、クロード・モネの『睡蓮』が、柔らかな光を湛えて飾られている。
油絵具の厚塗り、光の粒子の表現、そして何よりも、そこに込められた画家の魂の震え。
それらは、リリアン王国の宮廷画家が描く、写実的で記録的な肖像画とは、根本的に異なる次元の「表現」だった。
「秋葉原で拝見した『同人誌』という文化も、熱量と愛に溢れた素晴らしいものでしたけれど……。
この『ファイン・アート』と呼ばれる芸術もまた、息を呑むほどに素晴らしいですわ」
リシアは食い入るようにキャンバスを見つめながら呟いた。
彼女の瞳はアメジストのように輝き、その奥で高度な知性が高速で回転している。
「我が国でも、貴族や王族がパトロンとなり、画家を呼んで絵を描かせることはあります。
ですが、それはあくまで権威の象徴であり、記録であり、あるいは装飾に過ぎません。
これほどまでに……『個人の内面』や『光そのもの』を追求した作品は、見たことがありませんわ」
「印象派ですね」
九条がガイド音声のように滑らかに解説を加える。
「彼らは、目に見える形そのものではなく、光と色の移ろい、そして空気感を描こうとしました。
それは、カメラという技術が登場し、写実的な記録の価値が相対的に下がった時代における、人間による『視覚の再定義』でもあったのです」
「カメラへの対抗……。技術が芸術を進化させたのですね」
リシアは感嘆の声を漏らした。
技術と文化の相関関係。
それこそが、彼女がこの世界で学びたかったことの一つだった。
だがリシアが衝撃を受けたのは、絵画そのものの美しさだけではなかった。
彼女はふと視線を絵から外し、周囲を見回した。
そこには、老夫婦が仲睦まじく絵を指差して語り合っている姿があった。
学生服を着た若者たちが、レポート用紙を片手に、真剣な顔でメモを取っている姿があった。
小さな子供の手を引いた母親が、「綺麗ねぇ」と微笑みかけている姿があった。
ごく普通の、平日の美術館の風景。
だがリシアにとっては、それこそが信じられない光景だった。
「……九条長官」
リシアが声を震わせた。
「あの方々は……貴族ですか? 富豪ですか?」
「いえ」
九条は首を横に振った。
「一般の市民です。学生、主婦、退職された方々……。
ごく普通の日本人ですよ」
「……やはり」
リシアは小さなため息をついた。
その表情には羨望と、そして自国への微かな憂いが混じっていた。
「リリアン王国では……民は日々の生活で精一杯です。
今日をどう生きるか、明日のパンをどう得るか。
芸術を楽しむ余裕など、王侯貴族や一部の富裕商人以外にはありません。
絵画とは、城の奥深くに飾られ、限られた者だけが愛でる、特権的な宝なのです」
彼女はスケッチブックを持った女子学生を見つめた。
「ですが、この国ではどうでしょう。
ごく普通の少女が、数百年前の異国の名画の前に立ち、何かを感じ、学んでいる。
入場料は……確か、ラーメン数杯分でしたわね?
誰にでも手の届く価格で、人類の至宝に触れることができる」
リシアは握りしめた手に力を込めた。
「民が芸術に興味を持つことができる。
生活の糧を得るだけでなく、魂の糧を求める余裕がある。
……これこそが国の『豊かさ』というものですわね。
金塊の量でも軍事力でもない。
文化の厚みと、それを享受できる層の広さ。
……日本という国の底力を、まざまざと見せつけられた気がします」
その鋭い洞察に、九条は内心で舌を巻いた。
まだ十代の少女が、観光の端々から国家の本質を見抜いている。
やはりこの姫は、ただ者ではない。
「ふふふ。いいこと言うじゃない、リシアちゃん」
それまで退屈そうに宙に浮いていたKAMIが、ニヤリと笑って降りてきた。
彼女の手には、いつの間にかミュージアムショップで買ったと思われる、ポストカードの束が握られている。
「そうよ。衣食住が足りて、初めて礼節……じゃなくて、芸術を知るの。
人間が動物から卒業して、文明人になるための最後のステップね。
まあ日本人は特に、こういうのが好きな種族だけど」
KAMIはリシアの肩に、ポンと手を置いた。
「でも、ここだけ見て満足しちゃダメよ?
東京にはね、もっと面白い美術館が山ほどあるんだから。
全部見なきゃ、比較にならないでしょ?」
「えっ? 全部ですか?」
リシアが目を丸くする。
「しかし、時間も移動も……。今日はもう午後ですし」
「時間は関係ないわ。移動もね」
KAMIは悪戯っぽくウインクした。
「私が案内するんだもの。
電車もタクシーも、いらないわ。
さあ行くわよ!
『東京アート・弾丸ツアー』の始まりよ!」
KAMIが指を鳴らした。
パチン。
その乾いた音が響いた瞬間、周囲の景色がブレた。
上野の静謐な空気が、一瞬にして別の場所の、全く異なる光の匂いへと書き換えられる。
***
転移。
KAMIの権能による座標の強制書き換え。
次にリシアたちが立っていたのは、六本木・国立新美術館の巨大なアトリウムだった。
波打つガラスのカーテンウォールから、午後の日差しが幾何学的な影を落としている。
「うわっ!? い、いきなり!?」
リシアがよろめくのを、九条が慣れた手つきで支える。
「……慣れが必要です、殿下」
「ここは『国立新美術館』よ」
KAMIが得意げに解説する。
「コレクションを持たない、企画展専門の巨大なハコ。
現代アートからファッション、アニメまで、何でもやる、日本の『雑食性』を象徴する場所ね」
KAMIは歩かない。
彼女が空中に指を滑らせると、三人の体は美術館の床を滑るように高速移動し、展示室へと飛び込んでいく。
現代美術のインスタレーション。
意味不明なオブジェ、叫び声のような映像作品、空間そのものを切り裂くような前衛絵画。
「……こ、これは……?」
リシアが鉄屑を固めたようなオブジェの前で、絶句する。
「『現代アート』よ」
KAMIが即答する。
「上手いとか、下手とかじゃないの。『問いかけ』なのよ。
『これを見て、あなたはどう思う?』っていう、作者からの挑戦状。
リリアン王国にはない概念でしょ?
美しさだけが芸術じゃない。不快感や違和感さえも、心の糧にする。
それが飽食した文明の行き着く先よ」
「……なるほど。深いですわ」
リシアは真剣な顔で、鉄屑の山を見つめた。
理解はできない。
だが、その「分からなさ」を楽しむ余裕がある社会の凄みは理解できた。
パチン。
また指が鳴る。
次は、南青山・根津美術館。
竹林の庭園を抜けた先に広がる、静寂の和の空間。
国宝『燕子花図屏風』の前。
「金箔と青一色。
シンプルなのに、なんて大胆な……!」
リシアが息を呑む。
「『引き算の美学』ね」
KAMIが解説する。
「西洋がキャンバスを埋め尽くす足し算なら、日本は余白を残す引き算。
何を描かないかで空間を表現する。
これもまた、高度な精神性の現れよ」
パチン。
お台場・チームラボボーダレス。
光とデジタルの迷宮。
壁も床も全てが光の花々で埋め尽くされ、人の動きに合わせて変化していく。
「きゃあ! 蝶が! 私の周りに!」
リシアが少女のように、光の蝶を追いかける。
「『テクノロジーとアートの融合』よ」
KAMIが光の中に浮かびながら言う。
「科学は魔法に近づき、そして芸術になる。
あなたたちが魔石でやろうとしていることの、一つの未来形かもしれないわね」
パチン。パチン。パチン。
アーティゾン美術館、森美術館、東京国立博物館……。
東京中に点在する美の殿堂を、KAMIのデタラメなワープ能力で、数分刻みで飛び回る。
それは数千年の時と、地球上のあらゆる文化を圧縮体験する、目眩がするような知のジェットコースターだった。
九条の分身は、その間も冷静に、各美術館の警備システムへの入館記録の偽装と、KAMIの気まぐれな移動ルートのログ記録を行っていた。
(……これ、後で経費精算どうするんですかね……入場料、払ってないし……。まあ寄付金名目で、後日十倍にして支払っておきましょう)
そして。
陽が傾き、空が茜色から群青色へと変わる頃。
最後のワープアウト先は、東京国立博物館の、とある静かな展示室だった。
そこには、他の展示物とは一線を画す、厳重なガラスケースに収められた一枚の、古い古い絵画があった。
国宝『虚空蔵菩薩像』。
あるいは、それに類する、悠久の時を超えて残された宗教画。
金泥で描かれた菩薩の姿は、千年以上の時を経てもなお、見る者に静かな慈悲を投げかけている。
館内には、もう他の客はいない。
閉館後の静寂。
KAMIは、その絵の前で足を止めた。
いつものふざけた態度は消え、その深紅の瞳には、宇宙の深淵を映したような、底知れぬ静けさが宿っていた。
「……リシアちゃん」
KAMIが静かに呼びかけた。
その声は少女のものでありながら、億万の時を生きた老婆のようでもあり、あるいは星々の囁きのようでもあった。
「芸術品ってね、ただ綺麗なだけじゃないのよ」
彼女はガラスケースの中の絵を見つめたまま、語り始めた。
「芸術品は、時を越えて残るわ。
作った人間が死に、その国が滅び、言葉さえ忘れ去られた後も。
その『想い』だけが形として残り続ける。
それは、有限の命しか持たない人間が、永遠という概念に触れようとした、必死の足跡なの」
KAMIは指先で、空中に壮大なホログラムを描き出した。
それは地球ではなく、宇宙そのものの歴史だった。
ビッグバンから始まり、星が生まれ、銀河が渦巻き、そして生命が生まれ、文明が興り、やがて星が死に、宇宙が冷え切っていく未来図。
「……ねえ、知ってる?
この宇宙にも寿命があるの。
エントロピーが増大しきって、全ての星が燃え尽き、熱的死を迎える『終わりの時』が、いつか必ず来るわ」
リシアと九条は息を呑んで、その映像を見つめた。
神が語る、宇宙の終焉。
「でもね」
KAMIは微笑んだ。
「私が観測した並行世界の一つには、そんな終わりの時を迎えた世界があったわ。
そこでは地球人の末裔たちが、科学と魔法の極致に達して、宇宙そのものを『リブート(再起動)』させる旅に出たの」
映像の中で、銀色の宇宙船団が、崩壊しつつある宇宙の裂け目へと向かっていく。
その船団の中には、冷凍睡眠された人々だけでなく、膨大なデータバンクが積まれていた。
「彼らはね、自分たちの肉体よりも先に、自分たちが生み出した『文化』を船に乗せたわ。
モナ・リザも、第九交響曲も、源氏物語も。
そして名もなき子供が描いた落書きさえも。
次の宇宙へ、次のビッグバンへ、自分たちが『ここにいた』という証を届けるために」
KAMIは目の前の菩薩像を指差した。
「こうして今日、私たちが巡った作品たちの中にも。
そうやって宇宙のエントロピーが終わりを迎えて、全てが無に帰す、その瞬間まで。
旅の最後まで付き合う絵画があるのよ。
そして宇宙を超えて、次の次元へ、次の世界へと、残るものもある」
彼女は愛おしそうに目を細めた。
「美しい旅だと思わない?
人間という、ほんの一瞬しか生きられない生き物が。
絵の具と石と音だけで、永遠に届く翼を作り上げる。
因果律の荒波に揉まれても、決して色褪せない『魂の形』を残す」
彼女はリシアの方を振り向いた。
「何回見ても、その因果のタペストリーの美しさと言ったらね……。
神である私でさえ、嫉妬しちゃうくらいよ」
その言葉には、純粋な賛辞と、そして永遠を生きる者特有の、決して人間とは交われない孤独な響きが混じっていた。
「……まあ、貴方はその美しさまでは理解できないんだろうけど」
KAMIはふっと、いつもの調子に戻り、肩をすくめた。
「あなたたちにとっては、100年先のことだって想像できない未来だもの。
宇宙の終わりなんて、お伽噺にしか聞こえないでしょうね」
彼女は再び菩薩像に視線を戻した。
「でも覚えておいて。
あなたが今、アステルガルドでやろうとしていること。
鉄道を敷き、国を富ませ、民を教育する。
それら全てが、いつかこういう『残るもの』を生み出すための土壌になるのよ」
「……KAMI様」
リシアは震える声で尋ねた。
「全てが……奇跡なのですね?」
「そうよ」
KAMIは断言した。
「ダンジョンの魔石も、魔法も、スキルも、すごい技術かもしれないけど。
そんなものは、システム上のパラメータに過ぎないわ。
本当にすごいのは、そういうシステムとは関係ないところで、人間が勝手に生み出しちゃう、こういう『意味のない、でも絶対的な価値のあるもの』よ」
彼女はニヤリと笑った。
「だから私は、人間という種族の観察をやめられないの。
たまに私の予想を遥かに超えた『神作』をドロップするからね」
静寂が戻った博物館の一室。
千年前の絵画と、異世界の王女と、日本の官僚と、そして神。
奇妙な取り合わせの中で、リシアは深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、KAMI様。
大切なことを教わりました。
私が作るべき国は、ただ豊かなだけでなく……いつか星を超えるような『何か』を遺せる国。
そういう場所でなくてはならないのですね」
「ま、気負いすぎないことね」
KAMIは伸びをした。
「まずは、美味しいご飯を食べて、面白い本を読んで、良い絵を見て、感動する。
そこから始めなさいな。
……さて、そろそろ帰りましょうか。
お腹すいちゃった」
パチン。
最後の指が鳴らされる。
景色が歪み、彼らは再び、迎賓館の門前へと戻っていた。
夜空には月が輝いている。
その光は、一万年前も、そして一万年後も、変わらずそこにあるだろう。
だが、その下で営まれる人間の営みだけが、少しずつ、しかし確実に、何かを積み上げている。
リシアは胸に手を当てた。
今日の記憶は、彼女の生涯の宝物となるだろう。
そしていつか、彼女自身が描くアステルガルドの未来図の中に、今日の「光」が織り込まれていくに違いない。
「……九条長官」
「はい、殿下」
「日本は、美しい国ですわね」
「ええ。……色々と問題は山積みですがね」
九条は苦笑した。
だが、その顔には、いつもの疲労感だけでなく、自国の文化に対する、ささやかな誇りが浮かんでいた。
神の弾丸ツアーは終わった。
だが、リシアの心の旅は、ここからが本番だった。




