第240話
東京・元赤坂、迎賓館赤坂離宮。
かつて紀州徳川家の屋敷があったこの地に建つ、ネオ・バロック様式の壮麗な宮殿は、明治以降、日本の外交の表舞台として数多の国賓を迎えてきた。
その一角にある和風別館、『游心亭』。
池を望む静謐な日本庭園の中に佇むこの数寄屋造りの建物は、今日、異世界からの若き賓客をもてなすための、非公式ながら極めて重要な「教室」であり、そして「商談」の場となっていた。
主賓席に座るのは、アステルガルドのリリアン王国第一王女、リシア・ド・リリアン。
彼女は窮屈なドレスではなく、先日日本のデパートで購入したという上品なクリーム色のブラウスと、膝丈のスカートという「オフィスカジュアル」に身を包んでいた。
その透き通るような銀髪とアメジストの瞳だけが、彼女がこの世界の住人ではないことを、静かに物語っている。
対面に座るのは、日本政府の最高意思決定者たち。
沢村総理、九条官房長官、そして麻生ダンジョン大臣。
彼らはリシアの要望通り、堅苦しい晩餐会ではなく、茶と和菓子を囲んだ「ティータイム(という名の戦略会議)」の席を設けたのだった。
「――結構なお点前でしたわ」
リシアは茶碗を丁寧に置き、優雅に一礼した。
その所作は、来日からわずか数日とは思えぬほど日本の礼法に馴染んでいる。
彼女の並外れた学習能力と適応力の高さが窺える。
「お気に召していただけて光栄です、リシア殿下」
沢村総理が柔和な笑みを浮かべた。
「ここは日本の伝統的な建築と庭園を楽しんでいただく場所ですが……。
本日は殿下からのご質問にお答えする場でもあります。
何なりと」
リシアは微笑み、窓の外の庭園に視線を向けた後、探るような知的な光を瞳に宿して口を開いた。
「では遠慮なく。
まず伺いたいのは、ここへ来るまでに乗せていただいた『車』についてですわ」
彼女が指したのは、送迎に使われたセンチュリーのことだろう。
「驚きました。
あの静粛性、振動の少なさ、そして何よりあの速度。
我が国の王室が使う最高級の馬車でさえ、あのような快適さは望めません。
魔法による浮遊馬車でさえ、風切り音や魔力の揺れがあるものです。
あれは……やはり『科学』の力なのですか?」
「ええ、左様です」
九条が答える。
「内燃機関、あるいは電気モーターによる動力と、空気抵抗を計算し尽くした車体設計。
そしてサスペンションと呼ばれる衝撃吸収機構。
それらの結晶です。
馬車と比較すれば、速度も持久力も格段に上でしょう」
「確かに。馬車より格上ですわね」
リシアは素直に認めた。
だが彼女は、そこで終わらなかった。
すぐに疑問を呈する。
「ですが……不思議ですの。
あれほどの速度が出る乗り物なのに、なぜ皆様は『渋滞』などという現象に悩まされているのです?
それに、あの車は『道』がなければ走れないのでしょう?」
彼女は来日してから、自分の足と目で見た東京の景色を思い出していた。
「アスファルト……でしたか。
街中が平らな石で覆われている。
あの道があるからこそ、車は走れる。
逆に言えば、道が悪い場所、ぬかるみや岩場では、あの車輪は無力なのではありませんか?
そういった場所では、生き物である馬の脚の方が融通が利くこともあるのでは?」
鋭い指摘だった。
麻生大臣が感心したように唸った。
「……ほう。良いところに気づかれましたな。
おっしゃる通りです。
車は『道』とセットで、初めて機能するシステムです。
インフラ整備が追いついていない場所では、最新鋭のフェラーリよりも、一頭のロバの方が役に立つことさえある。
文明レベルというよりは、環境整備の度合いによって、道具の優劣は変わるのです」
「インフラ……」
リシアは、その言葉を反芻した。
「そうです。道を整えること。
これが国家の発展には不可欠です。
ですが、それには別の側面もある」
九条が、歴史の教師のような顔で語り始めた。
「リシア殿下。
日本の歴史において『戦国時代』と呼ばれる内戦の時代がありました。
その頃の武将たちは、あえて『道を整えない』という戦略をとることがあったのをご存知ですか?」
「道を整えない?
不便ではありませんか?」
「ええ、不便です。
ですが、自国の民にとって不便であるということは、攻め入ってくる敵軍にとっても不便であるということです」
九条は手元のタブレットに古地図を表示した。
「立派な街道を整備すれば物流は良くなる。
商人は喜び、国は富むでしょう。
しかし同時に、それは敵の軍隊が高速で自国の首都まで進軍できる『侵略のハイウェイ』を作ってやるようなものでもあるのです。
だからこそ、峠を険しくし、川に橋をかけず、あえて移動を困難にすることで天然の要害として国を守る。
『守り』のために『不便』を選ぶ。
そういう時代があったのです」
リシアは、はっとしたように目を見開いた。
彼女の脳裏に、アステルガルドの地図が浮かぶ。
リリアン王国、ガルニア帝国、そして魔物の領域。
「……なるほど。
アステルガルドでも同じことが言えますわね。
我が国の街道が石畳で整備されているのは王都周辺だけ。
辺境へ行けば泥道ばかり。
あれは単に予算がないからだと思っていましたが……。
魔物の侵攻を遅らせる。
あるいは帝国の戦車を阻むための、意図的な『悪路』という側面もあったのですか」
「おそらく、お祖父様であるセリオン王や軍部の判断でしょう」
沢村が補足する。
「平和な時代ならば、道は繁栄の血管ですが、戦乱の世では死を運ぶ動脈にもなり得る。
文明の利器を導入するには、そのリスク管理もセットで考えねばなりません」
リシアは深く頷いた。
単に「便利なものを導入すればいい」という単純な話ではない。
彼女は政治と防衛のバランスという、王族としての必須科目を一つ学んだ顔をした。
だが彼女の瞳の光は消えてはいなかった。
むしろ、より強い意志の光が宿っていた。
「……勉強になります。
ですが九条長官、総理。
リスクがあることは理解しましたが、それでも私は、我が国に『道』を作りたいのです」
彼女は身を乗り出した。
「街道が悪いせいで、地方の村々で採れた作物が王都に届く前に腐ってしまうことがあります。
病人が医者のいる街まで運べずに命を落とすこともあります。
そして何より、旅をする民が泥濘に足を取られ、盗賊や魔物の餌食になることが多いのです」
彼女は断言した。
「民が安全に、そして自由に旅をすること。
物資が滞りなく行き渡ること。
それは国が豊かになるための絶対条件です。
防衛のために民の利便性を犠牲にする時代は、もう終わらせたいのです。
魔物の脅威があるなら、道を守る騎士団を強化すればいい。
私はリリアン王国に、安全で高速な『道』を通したいのです」
その若々しく、そして力強い理想論。
大人の政治家なら「青い」と笑うところかもしれない。
だが沢村たちの目は笑っていなかった。
彼女の言葉は、かつて明治の日本が鉄道を敷設し、近代化へと邁進した頃の熱気を思い出させたからだ。
「……具体的には?」
麻生が試すように尋ねた。
「鉄道ですわ!」
リシアは目を輝かせた。
「昨日KAMI様と一緒に……いえ、視察で『博物館』に行きましたの。
そこで見た『蒸気機関車』。
そして現在の『電車』。
鉄のレールの上を、鉄の車輪が走る。
これなら泥濘も関係ありません。
大量の荷物と人を、一度に遠くまで運べる。
アステルガルドの大陸を横断する鉄道網。
これこそが、私が目指す未来のインフラです!」
鉄道。国家近代化の象徴。
彼女の着眼点は正しい。
だが、そこには大きな壁があった。
「おお、それは良いですね」
麻生は同意しつつも、すぐに現実的な障壁を提示した。
「とはいえ殿下、簡単にはいきませんよ。
鉄道を敷くには莫大な『鉄』が必要です。
レールを延々と敷き詰め、巨大な車体を作る。
聞くところによれば、アステルガルドでは鉄はまだ貴重品。
ミスリルや魔石よりも産出量は多いとはいえ、街道すべてに鉄を敷くなど、国家予算がいくつあっても足りないのでは?」
「……うっ」
リシアが言葉に詰まる。
その通りだ。
リリアン王国において鉄製品は農具や武具に使われる貴重な資源だ。
それを地面に敷き詰めるなど、今の国力では夢物語に等しい。
「それに動力です」
九条が続く。
「蒸気機関を作るには精密な加工技術と大量の石炭が必要です。
あるいは魔石エンジンを使うにしても、列車を動かすほどの高出力魔導炉を量産し、維持管理できる技術者が、貴国にどれほどいますか?
導入コストもさることながら、ランニングコストとメンテナンスの問題で計画は頓挫するでしょう」
理想と現実のギャップ。
リシアは唇を噛んだ。
「では……諦めろと?
まだ早いと、そう仰るのですか?」
「いいえ」
麻生がニヤリと笑った。
ここからが商談の本番だ。
「諦める必要はありません。
いきなり最新の新幹線やSLを走らせようとするから、無理が出るのです。
身の丈に合った、そして貴国の現状に即した『過渡期の技術』から始めれば良いのです」
麻生は一枚の古い写真をタブレットに表示して見せた。
それは明治時代の日本の風景。
路面に敷かれたレールの上を、馬が客車を引いて走っている姿だった。
「これは……馬車ですか?
でも下にレールが……」
「『馬車鉄道』です」
麻生が説明する。
「動力は蒸気でも電気でもない。馬です。
貴国の馬や、あるいは魔獣(地竜など)を使えばいい。
これなら複雑なエンジンも燃料もいりません。
馬の世話ができる人間がいれば、すぐにでも運行可能です」
「ですが、レールの上を馬で引くことに、何の意味が?」
「摩擦係数ですよ、殿下」
麻生は指を立てた。
「土の上を木の車輪で走るのと、鉄のレールの上を鉄の車輪で走るのとでは、抵抗が全く違う。
レールを使えば、同じ馬一頭でも、土の上の馬車の何倍もの重さの荷物を、より速く、より楽に引くことができるのです。
そして何より、雨が降っても泥濘まない。
揺れも少ない」
「……!」
リシアの目が開かれた。
ローテクとハイテクの融合。
アステルガルドの動力(馬・魔獣)と、地球のインフラ(レール)の組み合わせ。
「そして、鉄の問題ですが……」
麻生は商人の顔で言った。
「アステルガルドでは貴重ですが、ここではありふれています。
特に最近は、鉱山型ダンジョンからの供給過多で、鉄スクラップの相場が暴落しておりましてな。
我が国の製鉄所も、在庫の山に頭を抱えているところです」
彼はリシアに身を乗り出した。
「安く融通しますよ。
レール用の鋼材、車輪、車軸。
これらを『政府開発援助(ODA)』の一環として、破格の条件でリリアン王国に輸出しましょう。
その代わり、建設工事には日本のゼネコンを参加させていただきたい。
……どうです?
これなら貴国の予算内でも、十分に実現可能では?」
それは日本にとっても、アステルガルドにとっても、完璧なWin-Winの提案だった。
日本は余った鉄を処分しつつ、インフラ輸出の実績を作れる。
リリアン王国は念願の高速輸送網を手に入れられる。
「なるほど!
馬車鉄道……!」
リシアは興奮気味に手を合わせた。
「それならば我が国の御者ギルドの反発も抑えられますし、技術的なハードルも低い。
何より、すぐに着工できますわ!」
「話が早くて助かります」
沢村が頷いた。
「では早速、手配しましょう。
レールと車両の設計図、そして技術者を派遣します。
『リリアン王立鉄道』の設立ですね。
比較的、すぐに出来ますよ」
こうして一つの巨大プロジェクトが、茶飲み話の延長で決定した。
異世界にレールが敷かれる。
その上を、地球の鉄で作られた車両を、異世界の馬が引いて走る。
それは文明の交差点が生み出した、歪で、しかし愛すべき進歩の形だった。
話が一段落し、新しい茶が運ばれてくる。
リシアはホッとしたように一息つくと、ふと以前から気になっていたことを口にした。
「……そういえば総理。
一つ、個人的な質問をしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「日本には『王族』はいらっしゃらないのですか?」
彼女の素朴な疑問。
アメリカやロシア、中国には王がいないことは知っている。
だが日本は古い歴史を持つ国だと聞いている。
自分と同じような「血筋」を持つ者が、この国にもいるのではないか。
「ええ、いらっしゃいますよ」
沢村は居住まいを正し、敬愛を込めて答えた。
「『天皇陛下』がいらっしゃいます。
現存する世界最古の王朝、皇室の当主であらせられます」
「やはり!」
リシアは目を輝かせた。
「では、その方がこの国を治めておられるのですか?
私のお祖父様のように、政治の決定を下し、軍を指揮し……」
「いいえ、違います」
沢村は静かに首を振った。
「天皇陛下は政治的な権能をお持ちではありません。
憲法により、『日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴』と定められています」
「象徴……?」
リシアは首を傾げた。
権力を持たない王。
絶対君主制に近いリリアン王国の常識からは理解し難い概念だった。
「歴史を振り返れば、古代においては政治に関わる天皇もいました。
ですが長い時を経て、武家が政治を行い、天皇は権威の源泉として存在するという形が定着しました。
そして現代においては、政治は我々のような選挙で選ばれた国民の代表が行い、天皇陛下は国民の安寧を祈り、文化を守り、外国との親善を深めるという、精神的な支柱としての役割を担っておられるのです」
「権力を持たず、ただ祈り、国民を見守る……」
リシアは、その言葉を反芻した。
「それは……とても高潔で、そして難しいあり方のように思えますわ。
剣を持たずに、どうやって民の尊敬を集めるのです?
力を行使せずに、どうやって国をまとめるのです?」
「それは『徳』と『歴史』です」
九条が補足した。
「二千年以上続く血筋の重み。
そして常に国民と共にあり、国民の幸せを願うその無私のお姿。
それこそが、いかなる法律や武力よりも強く、日本人の心を統合しているのです」
リシアは沈黙した。
彼女の脳裏に祖父セリオン王の姿が浮かぶ。
老獪な政治家として権謀術数を駆使し、国益のために汚い手も使う祖父。
それは王として必要な姿だ。
だが日本の「天皇」という存在は、それとは対極にあるように思えた。
権力を捨て、権威のみで存在する。
それはある意味で、KAMIのような「超越者」に近いのかもしれない。
あるいは、リリアン王国が目指すべき未来の王の姿なのかもしれない。
「……お会いすることはできますか?」
リシアは真剣な眼差しで沢村を見た。
「その『象徴』と呼ばれる方が、どのような目をされているのか。
どのような言葉を紡がれるのか。
これから国を背負う者として、ぜひ拝謁したいのです」
その申し出に、沢村は優しく微笑んだ。
「ええ、ぜひ」
彼は即答した。
「国賓として来日された王女殿下が陛下にご挨拶されるのは、外交儀礼としても自然なことです。
陛下も、異世界からの若き王女との対面を心待ちにしておられることでしょう」
「では手配しますね」
九条が端末を取り出す。
「宮内庁と調整し、皇居での茶会、あるいは御所でのご会食をセッティングいたします。
警備体制も、万全を期します」
「ありがとうございます!」
リシアは嬉しそうに手を合わせた。
「楽しみですわ。
日本の『王』が、どんな方なのか」
「まあ、気さくな方ですよ」
麻生が笑った。
「政治の話はなさいませんが、学問や文化のお話なら、きっと弾むでしょう。
殿下のその好奇心があれば、きっと良い時間になりますよ」
会談は終わった。
馬車鉄道という実利的なプロジェクトと、天皇陛下への拝謁という精神的なイベント。
その二つが決まったことで、リシアの日本滞在は、より深く意義のあるものになることが確定した。
リシアは席を立ち、窓の外の庭園を見つめた。
美しく剪定された松の木。
静かな池。
その風景の中に彼女は「力」だけではない、この国の奥深さを感じ取っていた。
「……日本という国は不思議ですわね」
彼女は呟いた。
「最先端の技術と、最古の伝統が共存している。
効率を求める一方で、目に見えない『心』を大切にする。
……私もこの国から、もっと多くのことを学ばなければ」
その横顔は、来日した時よりも少しだけ大人びて見えた。
彼女の「留学」は、まだ始まったばかりだ。
だがその一歩一歩が、確実に彼女を、そしてアステルガルドを変えていくことになるだろう。
「では参りましょうか」
麻生が案内する。
「次は視察も兼ねて、『東京駅』をご覧に入れましょう。
日本の鉄道の起点。
将来のリリアン王国の姿を想像してみてください」
「はい!」
一行は部屋を出ていった。
彼らの背中には、二つの世界の未来が乗っていた。
鉄の道が世界を繋ぎ、王の心が時代を繋ぐ。
そんな予感と共に、赤坂の午後は静かに暮れていった。




