第238話
太平洋の只中、高度3000メートルに浮かぶムー大陸。
その中枢に鎮座する黄金のピラミッド内部、「アカシックレコード」閲覧室。
そこは物理的な壁や床が存在しない。
光のグリッドと、データの奔流だけで構成された、電子の海だった。
国連多国籍特別調査団(UN-MUE)によって送り込まれた学者チームは、マザー・キーパーによる厳格な監視と制限の下、この「知の源泉」へのダイブを続けていた。
閲覧を許可されているのは「レベル1」――すなわち、古代の文化、芸術、生活様式といった、軍事転用が不可能な「無害な記憶」のみである。
だが、それでも学者たちにとっては垂涎の的だった。
失われた歴史の真実、古代人の息遣い、そして人類が忘却の彼方に置き去りにしてきた数多の物語が、そこには極めて鮮明な「体験」として保存されているのだから。
チームを率いるのは、月刊『ムー』編集長、三神。
黒いジャケットにサングラスという、神聖な場に似つかわしくない出で立ちの男は、しかしこの非科学的な空間において、誰よりも冷静に、そして的確にチームを指揮していた。
「――いいですか、皆さん。没入しすぎないように。
ここは『図書館』ですが、同時に『迷宮』でもあります。
あまりに深く意識を同調させると、現実と記憶の境界が曖昧になります。
デュポン博士の二の舞いになりますよ」
「分かっているとも、ムッシュ・ミカミ」
フランスの考古学者、デュポン博士が苦笑しながら答えた。
彼はかつて、この空間に取り込まれかけた経験を持つ。
だが今は、その執着を学術的な情熱へと昇華させ、チームの最長老として若手を導く立場にあった。
「だが止められんよ。これほどの宝の山を前にして、理性を保てというのは拷問に近い。
見てくれたまえ、この一万二千年前の収穫祭の記録を。
彼らが食べている果実、そして奏でている楽器の音色……。
ただのデータではない。匂いまで感じるようだ」
デュポン博士の周囲には、黄金色の麦畑と、白い衣を纏った古代人たちの映像が、ホログラムのように展開されている。
他の学者たちも同様だった。
中国の言語学者は古代文字の石板データと格闘し、ロシアの地質学者はかつての大陸の地層データを貪るように読み解き、アメリカの社会学者は古代の都市構造の美しさに息を呑んでいる。
彼らは「チャネリング組」と呼ばれていた。
直接的な物理調査ではなく、精神をシステムに接続し、膨大なアーカイブの中から有用な情報を「検索」し、「翻訳」して持ち帰る。
それは砂漠の中から砂金を探すような地道な作業でありながら、魂を削るような激しい知的格闘でもあった。
そのチームの片隅に、一人の男がいた。
アメリカから派遣された量子物理学者、ロバート・ミラー博士。
六十代半ばの彼は、痩せこけた頬と、どこか陰のある瞳をした寡黙な男だった。
彼の任務は、このアカシックレコードというシステムそのものの「構造解析」――いかにしてこれほど膨大なデータを量子レベルで保存し続けているのか、そのメカニズムを物理学の観点から解明することだった。
「……ありえない」
ミラー博士は目の前の光の文字列を操作しながら呟いた。
「量子もつれを利用した、多次元記憶媒体……。
いや、それだけではない。これは『時間』そのものを凍結保存しているのか?
データではない。これは『過去そのもの』の切り抜きだ……」
彼はマザー・キーパーが許可した「レベル1」の領域の、さらに深層にあるシステムの基礎構造に触れようとしていた。
そしてその過程で偶然――あるいは必然として――彼は「ある領域」へのアクセスパスを見つけてしまった。
それは歴史の記録ではない。
「個人の記録」が保存されたプライベート・セクター。
本来ならば最高レベルのセキュリティで守られているはずのその領域が、システムの経年劣化によるバグか、あるいはマザー・キーパーの監視の隙間か、ほんのわずかな亀裂を生じさせていたのだ。
ミラー博士の指先が震える。
好奇心が恐怖を上回った。
彼はその亀裂に、自らの意識のコードを滑り込ませた。
――検索ワード:『ロバート・ミラー』。
彼が求めたのは、歴史的偉人でも古代の王でもない。
ただの自分自身の記録だった。
このシステムが「地球上のあらゆる事象を記録している」ならば、現代の自分自身の過去もまたそこに存在するはずだ、という科学者としての仮説の検証。
そして仮説は立証された。
光の奔流が彼を包み込む。
視界が白く染まり、次の瞬間、彼は「そこ」にいた。
三十年前のアメリカ、ボストンの郊外。
あたたかな日差しが降り注ぐ日曜日の公園。
芝生の緑の匂い。
遠くで聞こえる犬の鳴き声。
「……あなた! 早く!」
銀鈴のような笑い声が聞こえた。
ミラーは息を呑んだ。
視線の先に、一人の女性が立っていた。
亜麻色の髪を風になびかせ、白いワンピースを着た美しい女性。
サラ。
二十年前に病で亡くした、最愛の妻。
「パパ! ボール投げて!」
その足元には、小さな男の子が駆け回っている。
マイキー。
妻と同じ病で、わずか七歳でこの世を去った息子。
そしてその二人に向かって、若き日の自分――まだ髪が黒く、背筋の伸びた希望に満ち溢れていた頃のロバート・ミラーが、笑顔でボールを投げ返している。
「……あ……ああ……」
ミラーの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
それは映像ではなかった。
彼は三十年前の風を感じていた。
妻の髪の香りを、息子の体温を、そして若き日の自分の心臓の鼓動を、リアルタイムで「再体験」していた。
アカシックレコードは単なる記録媒体ではない。
過去の時空間を量子レベルで再現し、閲覧者の意識をそこに同調させるシステム。
そこには失われたはずの幸せが、永遠に色褪せることのない鮮度で保存されていた。
「サラ……マイキー……」
彼は触れられないはずの幻影に手を伸ばした。
だが、その指先には確かな感触があった。
妻の柔らかな頬の感触。
息子の細い肩の感触。
システムが彼の脳に直接信号を送り、触覚さえも完璧に再現しているのだ。
涙が止まらなかった。
冷徹な科学者としての仮面が、一瞬にして崩れ去った。
彼はこの三十年間、片時も忘れることのなかった喪失の痛みから解き放たれていた。
そこには死の影はない。
病の苦しみもない。
ただ永遠に続く幸福な日曜日だけがあった。
「……ドクター? ドクター・ミラー?」
通信機から聞こえる三神の声で、彼はハッと現実に引き戻された。
彼は慌てて接続を切断し、涙を拭った。
「……なんでもない。少し目の疲れが……」
嘘をついた。
この発見を、誰にも知られたくなかった。
もし報告すれば、間違いなくアクセスを禁止される。
マザー・キーパーによって修正パッチが当てられ、二度と妻と子に会えなくなる。
(これは私だけの秘密だ。……私だけの楽園だ)
その日から、ミラー博士の「空白の時間」が始まった。
彼は表向きは熱心にシステムの解析作業に従事していた。
だがその作業の合間を縫って、あるいは休憩時間を装って、彼は頻繁にあの「亀裂」へと潜り込んでいった。
一回、五分。
十分。
時間は、徐々に長くなっていった。
彼は過去の様々な場面を再生した。
妻との初めてのデート。
息子の誕生の瞬間。
家族で祝った最後のクリスマス。
現実の肉体は、ピラミッドの片隅でパイプ椅子に座り、ヘッドセットを付けて眠っているように見えるだけだ。
だがその精神は、かつての幸福な時間の中を、生き生きと駆け回っていた。
現実世界での食事は味がしなくなり、同僚との会話も上の空になった。
彼の魂の比重は急速に「過去」へと傾いていった。
「……最近、ミラー博士の様子がおかしいな」
異変に最初に気づいたのは、同じチームの中国人学者だった。
「解析データの提出が遅れている。
それに休憩の頻度が高すぎる。
一体、あのバイザーの向こうで何を見ているんだ?」
「疲れているんじゃないか? 彼も高齢だ」
ロシアの学者が肩をすくめる。
だが三神編集長は、サングラスの奥の目を細め、じっとミラーの背中を見つめていた。
彼の「オカルト的直感」が、警鐘を鳴らしていた。
「……いや、ただの疲労ではない。
あの雰囲気……何かに『憑かれている』者のそれだ」
三神はミラーの端末のアクセスログを、こっそりと解析班に照会させた。
本来、個人の閲覧履歴を覗くのはルール違反だが、緊急事態だ。
そして上がってきた報告書を見て、三神は舌打ちをした。
『対象:ロバート・ミラー。
アクセス先:セクター・プライベート/年代コード1990-2000。
接続頻度:過去三日間で計40回。
警告:深度同調率が危険域(90%)に接近中』
「……やはりか」
三神は立ち上がった。
これは「情報の毒」に侵された典型的な症状だ。
過去の甘い蜜に溺れ、現実への帰還を拒みつつある魂。
「デュポン博士、来てください。
貴方の経験が、彼を救うために必要です」
三神は、かつて同じように取り込まれかけたフランスの考古学者を伴い、ミラーの元へと向かった。
ミラーは薄暗い区画の隅で、ヘッドセットを装着したまま微動だにしていなかった。
その口元には、現実世界では決して見せない、とろけるような幸福な笑みが浮かんでいる。
「ミラー博士!」
三神が彼の肩を揺さぶった。
反応がない。
意識が深層に潜りすぎている。
「強制切断します!」
三神は端末のケーブルを引き抜いた。
ブツン、という音と共に、ミラーの身体がビクンと跳ねた。
「……あああ……! サラ……!」
彼は悲鳴を上げ、ヘッドセットをもぎ取った。
その目は虚ろで、焦点が定まっていない。
そして目の前に三神たちがいることに気づくと、激しい怒りの形相を見せた。
「何をする! 邪魔をするな!
あと少しで……あと少しで、あの日曜日の続きが見られたんだ!」
「博士、落ち着いてください」
三神が冷静に諭す。
「貴方が見ていたのは『記録』です。過去の残像に過ぎません。
あそこに、貴方の家族はいません」
「いるんだよ!」
ミラーは叫んだ。
その声は、理知的な科学者のものではなく、愛する者を奪われた男の絶叫だった。
「彼女は笑っていた! 私の手に触れた! 体温があった!
あれが現実でなくて、何だと言うんだ!
この……薄汚くて、孤独で、寒い今の世界よりも、あそこの方がよほど現実的だ!」
彼は泣き崩れた。
「私はもう疲れたんだ……。
一人のアパートに帰るのも、冷たいベッドで眠るのも……。
科学だの未来だの、そんなものはどうでもいい。
私はただ、もう一度、あの幸せな時間の中にいたいだけなんだ……」
その悲痛な告白に、周囲の学者たちも言葉を失った。
誰もが多かれ少なかれ、過去に悔いを残し、失ったものを抱えている。
もし自分も、あの世で一番幸せだった瞬間に戻れるとしたら。
その誘惑に勝てる自信がある者が、何人いるだろうか。
「……気持ちは分かります」
デュポン博士が静かに歩み寄った。
彼は老いた手を、ミラーの肩に置いた。
「私もそうでした。
フランス革命の熱気の中に身を置いた時、私は現代の自分の老醜を忘れ、歴史の一部になれた気がしました。
ですが、ミラー君。
それは『死』と同じなのです」
「死……?」
「ええ。
過去に囚われ、前へ進むことをやめた瞬間、人の魂は死にます。
あそこにいる貴方は若く、幸せかもしれない。
ですがそれは『録画された貴方』です。
新しいことを考えず、新しい発見もしない。
ただのデータです。
貴方は科学者でしょう?
未知を探求し、未来を切り拓くことが、貴方の誇りではなかったのですか?」
「誇り……」
ミラーは力なく首を振った。
「そんなもの、妻と子の笑顔に比べれば塵芥に等しい」
説得は失敗した。
彼の絶望は、学者としての理性よりも遥かに深かった。
そしてその夜。
事態は最悪の方向へと転がり始めた。
ミラー博士は監視が厳しくなったことを悟り、ある決断を下していた。
「見る」だけでは足りない。
邪魔が入る現実世界になど、戻ってくる必要はない。
ならば向こう側へ「移住」してしまえばいい。
彼は物理学者としての天才的な頭脳をフル回転させ、アカシックレコードのシステム構造を逆手にとった「裏技」を構築し始めていた。
『精神転送プロトコル(Mind Upload Protocol)』。
人間の脳の電気信号をデジタルデータに変換し、それをレコードの空き領域に書き込む。
同時に肉体との接続を恒久的に切断する。
成功すれば彼は肉体という檻を捨て、純粋な精神データとなって、あの「1990年代のボストン」という仮想空間の中で永遠に生き続けることができる。
それは理論上、可能なはずだった。
マザー・キーパーの管理権限をすり抜け、システムのバックドアを突けば。
彼は徹夜でプログラムを組み上げた。
誰にも気づかれないよう、偽装工作を施しながら。
そして翌日の昼下がり。
彼は「体調不良のため自室で休む」と告げ、宿舎のベッドに横たわった。
手には改造した携帯端末。
画面には転送開始のカウントダウンが表示されている。
「……さよなら、現実」
彼は微笑み、実行キーを押そうとした。
だが。
その指が画面に触れる寸前。
宿舎のドアが蹴り破られた。
「止めろッ!」
飛び込んできたのは三神と、そしてロシアのスペツナズ隊員たちだった。
彼らは即座にミラーを取り押さえ、端末を奪い取った。
「放せ! 返せ! 私は行くんだ!」
ミラーが狂ったように暴れる。
「馬鹿なことを考えるな!」
三神が怒鳴る。
「貴方がやろうとしていることは自殺だぞ!
肉体を捨てれば、二度と戻れない!
データになった貴方は、ただの『記憶の残滓』だ!
それは、生きているとは言わない!」
「それでもいい!
ここで孤独に朽ち果てるより、あの中で幸せな夢を見て消える方がマシだ!」
ミラーの絶叫が響く。
騒ぎを聞きつけた調査団のメンバーが集まってくる。
小此木も、バーンズ大佐も駆けつけてきた。
「……なんてことだ」
バーンズが絶句する。
「科学者が科学で、自らを消そうとするとは……」
その時。
部屋の空気が急激に冷え込んだ。
天井付近に光の粒子が集束し、一つの幾何学的な球体を形成する。
マザー・キーパーのホログラムだ。
『――異常なエネルギー流動を検知。
システムへの不正侵入の試みを確認した』
無機質な声が響く。
マザーの「目」が、取り押さえられたミラーを見下ろした。
『個体名、ロバート・ミラー。
お前が作成した「精神転送プログラム」。
……稚拙ではあるが、理論的には機能する可能性がある。
我がシステムのセキュリティホールを突く、興味深いアプローチだ』
「マザー! 彼は錯乱しています!
どうか寛大な処置を!」
小此木が叫ぶ。
だがマザーは、意外な言葉を口にした。
『処置?
私は彼を罰するつもりはない。
むしろ彼の「願い」を叶えてやっても良いと考えている』
「……え?」
『本人が望むなら、データの一部として保存してやってもいい。
我がシステムには、まだ十分な空き容量がある。
一人の人間の精神データ(約2.5ペタバイト)程度、保存することに何の支障もない』
マザーは冷酷に告げた。
『彼が望む「1990年代のシミュレーション空間」を生成し、そこに彼の人格データを配置する。
そこで彼は永遠に妻と子の幻影と戯れ続けることができるだろう。
肉体は廃棄処分となるが、本人の同意があるなら問題はない』
それは悪魔の契約の承認だった。
管理AIにとって、人間一人の命などデータの一つに過ぎない。
「……ほ、本当か!?」
ミラーが顔を上げた。
その目には、狂気じみた希望の光が宿っていた。
「やってくれるのか!
私を、あそこへ送ってくれるのか!」
『肯定する。
お前の作成したプログラムを修正・最適化し、安全に転送することは造作もない。
……実行するか?』
「頼む! 今すぐだ!」
「ダメだ!」
三神が叫んで、マザーの前に立ちはだかった。
「マザー!
貴女は人間の尊厳を分かっていない!
それは救済じゃない!
ただの『標本化』だ!
彼を永遠に繰り返される録画映像の一部にするつもりか!」
『尊厳?
定義不能な概念だ。
彼は「現実の苦痛」よりも「虚構の幸福」を選んだ。
それは合理的な判断ではないのか?』
マザーは淡々と返す。
「違います!」
三神はミラーの胸ぐらを掴み上げた。
「ミラーさん! 目を覚ませ!
貴方が愛した奥さんと息子さんは、データじゃない!
彼らは確かに生きていて、そして死んだんです!
その『生きた証』を持っているのは、世界で貴方一人しかいないんだ!
貴方がデータになってしまえば、その『本物の記憶』はどうなる?
システムに同化され、平均化され、ただの『1990年代のサンプルデータ』として消費されるだけだ!
彼らの笑顔も、涙も、貴方への愛も!
全てが0と1の羅列に還元されてしまうんだぞ!」
三神の言葉が、ミラーの心に突き刺さる。
「貴方は科学者だろ!
科学者なら、事実から目を背けるな!
彼らが死んだという事実。
そして、貴方が生き残ったという事実!
そこから逃げて、甘い幻覚に浸ることが、彼らへの愛なのか!?」
「……ううう……」
ミラーの目から涙が溢れる。
「じゃあどうすればいいんだ……!
この悲しみを、どうすれば……!
私一人で、抱えきれないんだよ……!」
「書き残すんです」
三神は静かに、しかし力強く言った。
「貴方が見たものを。
感じたものを。
あのアカシックレコードの中で体験した奇跡のような再会の喜びを。
そして、失うことの悲しみを。
全てを言葉にして記録して、本にするんです」
三神は編集者としての顔を見せた。
「それは、どんなデータよりも価値がある。
貴方の『主観』というフィルターを通した世界で、一冊だけの物語になる。
それを地球に持ち帰り、人々に伝えるんです。
『過去は美しい。だがそれは戻る場所ではない』と。
それが、あのアカシックレコードという危険な遺産に触れた貴方にしかできない『学術的な使命』であり、
そして家族への本当の弔いになるはずです」
「本に……する……?」
「ええ。私が手伝います。
月刊『ムー』で連載してもいいし、学術書として出版してもいい。
貴方の体験を、人類の共有財産にするんです。
それが、生き残った者の義務です」
ミラーは震える手で顔を覆った。
自分のエゴで、家族の記憶をシステムの藻屑にしようとしていた自分。
その愚かさに、ようやく気づいたのだ。
「……すまない。すまなかった……」
彼は泣き崩れた。
憑き物が落ちたように、その身体から力が抜けていく。
『……キャンセルか』
マザー・キーパーの声が響く。
そこには失望も怒りもない。
ただの事実確認だけがあった。
『理解不能な行動だ。
だが、それが人間という種族の特性か。
……記録した。
「苦痛を伴う現実を選択する」という非合理性。
これもまた貴重なサンプルデータだ』
マザーの光が薄れていく。
『ロバート・ミラー。
お前のアクセス権は剥奪する。
二度とここへは来るな。
……地上で、その不合理な生を全うするがいい』
光が消え、静寂が戻った。
数日後。
調査団は地球への帰還を果たした。
ミラー博士の手には、一冊の分厚いノートが握りしめられていた。
そこには彼がアカシックレコードで見た風景、家族との会話、そして自分の心の揺れ動きが、震える文字でびっしりと書き綴られていた。
彼は二度と過去には戻らない。
だが、その記憶を未来へと繋ぐための、新しい戦いを始めたのだ。
そしてこの事件をきっかけに。
人類はアカシックレコードという「劇薬」と付き合うための、一つの重要な教訓を得た。
『情報は体験するものではなく、記述し、解釈するものだ』。
その鉄則が、後の「アカシックレコード管理条約」の基礎となるのだが、それはまた別の話である。
東京の編集部に戻った三神は、ミラー博士から送られてきた原稿の第一稿を読み、満足げに頷いた。
「……良い原稿だ。
科学と愛と、そしてオカルトが融合している。
これはベストセラーになりますよ」
彼は窓の外を見上げた。
空には今日も変わらず、ムー大陸が浮かんでいる。
その影の下で人間たちは悩み、苦しみ、そしてそれでも前へと進んでいく。




