第237話
ロンドン・ダンジョン『メトロ・ラビリンス』。
その中層に位置する「レイルウェイ・ヤード」は、かつての産業革命時代の栄華と、現代の魔素汚染が混ざり合った、陰鬱で広大な空間だった。
天井には朽ちた配管が網の目のように張り巡らされ、そこから滴り落ちる汚水が足元のレールを赤錆色に染めている。
遠くからは蒸気機関の排気音のような怪物の咆哮と、レールが軋む不協和音が絶えず響き渡っていた。
そんな油と鉄と死の臭いが充満する最前線に、似つかわしくない「香水の香り」が漂っていた。
「――ああ、汚らわしい。埃っぽくて、鼻が曲がりそうですわ」
純白のハンカチで口元を覆い、眉を顰めたのは貴族の令嬢シャーロットだ。
彼女の姿は、この薄汚れたダンジョンの中で異様なほどに浮いていた。
彼女が纏っているのは、ロンドンの高級ブティックがダンジョン探索用に仕立てた『シルク織りのマギ・ローブ』。
防御力こそ同レベル帯の標準的なE級相当だが、その生地には最高級の「耐火・耐汚染」のエンチャントが施され、さらに魔力回復速度を微増させる希少な糸が使われている。
一着の値段で、ロンドンの下町にあるフラット(アパート)が数ヶ月借りられる代物だ。
「我慢したまえ、シャーロット。これも『ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』だ。
我々が先頭に立ち、民衆に勇姿を見せる必要がある」
隣に立つ青年ウィリアムもまた、全身を「金」で武装していた。
彼が腰に差しているのは『銀細工のレイピア』。
柄には宝石が埋め込まれ、刀身には美しい装飾紋様が刻まれている。
もちろん、ただの飾りではない。
名のある鍛冶師が、F級素材の限界ギリギリまで強度を高め、切れ味を極限まで研ぎ澄ませた逸品だ。
量産品の剣が「鉄の棒」だとしたら、彼の剣は「カミソリ」のような鋭さを持っていた。
彼らの周りには、数人の労働者階級の男たちが付き従っている。
彼らは巨大な盾を背負い、貴族たちの「露払い」と「荷物持ち」を黙々とこなしていた。
まるでサファリツアーに来た観光客と、そのガイドたち。
ここが命のやり取りをする戦場であるという緊張感が、彼ら「円卓」の中心には欠けていた。
***
その光景を、物陰から冷ややかな目で見つめる集団がいた。
EU統合探索者ギルドから派遣された、ドイツ人のハンス率いる「大陸組」だ。
「……ケッ。見てみろよ、あのお上品な装備」
ハンスが足元の瓦礫を蹴りながら、忌々しげに呟く。
彼が着ているのは支給品の『量産型レザーアーマー』。
所々が擦り切れ、前の持ち主がつけたであろう爪痕や血のシミが残っている。
クリーニングはされているが、染み付いた汗と鉄の臭いは消えない。
「ウィムッシュ。あのお嬢ちゃんのローブ、僕らの装備を全部売っても、お釣りが来るね」
フランス人のピエールが、自身の欠けた刃を持つロングソードを撫でながら苦笑する。
彼らの装備は「F級スタンダード」。
ダンジョン省が推奨する最低限のスペックを満たしただけの、何の変哲もない量産品だ。
切れ味は鈍く、装甲は薄い。
だからこそ彼らは「技術」で補うしかなかった。
攻撃を装甲で受けるのではなく回避し、剣の切れ味に頼るのではなく、敵の関節や急所を正確に狙う。
そうやって彼らは、泥水をすするようにして生き延びてきたのだ。
「行くぞ。あいつらがモタモタしてる間に、俺たちがボスを狩る」
「待て、ハンス」
前に出ようとしたハンスを、ピエールが制した。
視線の先でウィリアムがこちらに気づき、大げさに手を振っている。
「――おや、そこにいるのは大陸からの出稼ぎ労働者諸君か?」
ウィリアムの声は悪意はないものの、無自覚な傲慢さに満ちていた。
彼はハンスたちの薄汚れた装備を一瞥し、憐れむような笑みを浮かべた。
「悪いが、このエリアのボス『骸骨駅長』は、我々が予約している。
君たちの装備では万が一にも怪我をするだろう?
ここは我々に任せて、後ろで『英国紳士の戦い方』を見学していてくれたまえ」
「……はあ? ここは公共のダンジョンだぞ。予約もクソもあるかよ」
「まあまあ、ハンス。彼らは『円卓』様だ。逆らって強制送還されたくないだろ?」
ピエールに小突かれ、ハンスは舌打ちをして引き下がった。
悔しいが、現実は厳しい。
彼らがここで揉め事を起こせば、シティの有力者である貴族たちの機嫌を損ね、職を失うのは自分たちだ。
「……へいへい、分かりましたよ。
お手並み拝見と、いかせてもらいますわ」
ハンスたちは壁際に下がり、腕を組んで成り行きを見守ることにした。
***
「では始めようか。総員、配置につけ!」
ウィリアムの号令で、労働者のタンク役ジャックたちが前に出る。
直後、広場の中央に黒い霧が渦巻き、轟音と共にエリアボスが出現した。
『骸骨駅長』。
身長3メートルを超える巨大な骸骨。
ボロボロになった駅長の制服を纏い、右手には人の胴体ほどもある巨大な「改札鋏」を、左手には「停止信号機」を模した鈍器を握っている。
眼窩には赤い鬼火が灯り、蒸気を吐き出しながら咆哮を上げた。
「GYAAAAAAAOOOOON!!」
鼓膜を破るような金属音の咆哮。
だがウィリアムたちは動じない。
彼らの高級装備には『聴覚保護』の魔法がかかっているからだ。
「ふん、ただの骨屑が。
シャーロット、最大火力で焼き払え!」
「ええ、お任せになって!」
戦闘開始のゴングと同時に、シャーロットが杖を掲げた。
彼女の膨大な魔力が、杖の先端にある最高級ルビーに収束する。
「『ファイア・ストーム』!!」
轟ッ!!!
放たれたのは、E級魔法とは思えないほどの凄まじい熱量だった。
金に物を言わせて購入した高位のスキルスクロールと、魔力増幅効果のある装備の相乗効果。
渦巻く炎がボスを包み込み、ボスのHPバーがごっそりと削れる。
「すげえ……一発で二割も!?」
ハンスが目を見張る。
火力だけなら、間違いなく自分たちより上だ。
しかし。
その「強すぎる火力」こそが、致命的なミスだった。
「――馬鹿野郎! 早すぎる!」
ハンスが叫んだ時には、もう遅かった。
タンク役のジャックが、まだボスの注意を十分に稼ぎきれていない段階での、超火力の魔法攻撃。
ボスの真っ赤な眼光が、盾を持つジャックを通り越し、後方のシャーロットへ釘付けになる。
「GAAAAッ!!」
「えっ……?」
ボスがジャックの盾を乱暴に弾き飛ばし、猛烈な勢いで突進を開始した。
ターゲットは、自分を焼いた生意気な魔術師。
「お、お嬢様! 逃げろ!」
ジャックが叫ぶが、シャーロットは動けない。
彼女は「敵が自分に向かってくる」という経験が、圧倒的に不足していた。
これまでは労働者が完璧に壁を作り、自分は安全圏から魔法を撃つ「射撃訓練」しかしてこなかったのだ。
「いや……来ないで! ウィリアム様!」
「くっ、させるか!」
ウィリアムが横から割って入り、自慢のレイピアを振るう。
鋭い一撃がボスの肋骨を捉える。
だが浅い。
彼の剣技は「型」としては美しいが、殺意と重みが足りない。
ボスの突進を止めるには至らない。
ブンッ!
ボスの左手にある信号機ハンマーが、ウィリアムを薙ぎ払う。
「ぐあっ!?」
ウィリアムの体が、高価なコートごと吹き飛ばされ、地面を転がる。
装備の防御性能のおかげで即死は免れたが、衝撃で脳が揺れ、立ち上がれない。
「ああ……」
シャーロットの目の前に、死神のような骸骨が迫る。
巨大な改札鋏がカチリと音を立てて開かれる。
火力はあるが当たらない。
装備は良いが使いこなせない。
それが「温室育ち」の限界だった。
――全滅する。
誰もがそう思った瞬間。
「……チッ。世話の焼けるお姫様だぜ!」
横合いから、薄汚れた影が飛び出した。
「ピエール、右だ! ジャック、足元!」
「ウィムッシュ!」
ハンスの怒号と共に、EU組が介入する。
ピエールはボスの正面に立つのではなく、振り下ろされる改札鋏の「側面」を、自身の安物の剣で叩いた。
力で押し返すのではない。
軌道をわずかにずらす『パリィ』。
ガギィンッ!!
鋏がシャーロットの髪を数本切り裂き、地面に突き刺さる。
その隙を見逃さず、吹き飛ばされていた労働者のジャックが、這いつくばったままハンマーを振るう。
「この野郎ぉぉっ!」
ドゴォッ!
ボスの膝関節に綺麗にヒット。
巨体がバランスを崩し、大きくよろめく。
「――おい! 呆けてんじゃねえぞ!」
ハンスがシャーロットの襟首を掴み、強引に立たせた。
至近距離で見る労働者の男の顔は、汗と土埃に塗れ、鬼のような形相をしていた。
「あ、あなたがたは……」
「俺たちが動きを止める! 3秒だ!
その間に、さっきのド派手な花火をもう一発ブチ込め!
外したら、俺たち諸共死ぬぞ! いいなッ!!」
それはお願いではなく、命令だった。
普段なら「無礼者」と激昂する場面だろう。
だが今のシャーロットの目には、彼らの背中が、どんな輝く鎧を着た騎士よりも頼もしく映っていた。
彼女は震える手で杖を握りしめ、唇を噛んだ。
恐怖を、怒りとプライドでねじ伏せる。
「……愚民が、指図しないでくださる!?」
彼女は叫んだ。
それは恐怖を隠すための精一杯の虚勢だったが、その瞳には戦士の光が宿っていた。
「私の魔法が、外れるわけありませんわァァァッ!!」
ハンスたちが作り出した、わずか数秒の好機。
そこに、ロンドン最高級の杖から放たれた最大火力の『ファイア・ストーム』が、一直線に吸い込まれていった。
ゴオオオオオオオオオッ!!
狭い坑道内を舐め尽くすような紅蓮の奔流。
シャーロットの放った『ファイア・ストーム』は、ハンスたちが作った「完璧な的」に直撃し、『骸骨駅長』の巨体を飲み込んだ。
断末魔の叫びさえも、轟音にかき消される。
最高級の杖と、限界まで高められた魔力補正。
その火力はF級やE級の適正を遥かに超え、ボスモンスターの骨格をバターのように溶かし、炭化させ、そして塵へと変えていった。
――カランコロン。
やがて炎が収まった時、そこに立っている者は誰もいなかった。
ただ黒焦げになった巨大な鋏の残骸と、ドロップアイテムの宝石が、乾いた音を立てて地面に転がっただけだった。
***
戦闘終了。
静寂が戻った広場に、システムのアナウンスが響く。
ハンスたちは煤だらけの顔で、その場に大の字になってへたり込んだ。
呼吸が荒い。
心臓が早鐘を打っている。
一歩間違えれば死んでいたという実感が遅れて全身を駆け巡る。
「……ふぅ。あっぶねえ」
ハンスが天井を見上げながら呟く。
ピエールも欠けた剣を投げ出して、苦笑している。
「あのタイミングで撃てなきゃ、僕ら全員バーベキューだったね。
……ま、信じてたけどさ」
一方シャーロットは、まだ杖を構えたまま呆然と立ち尽くしていた。
自分の手を見る。
震えが止まらない。
だがそれは、恐怖だけの震えではなかった。
初めて、守られるだけではなく、自らの力で死線を越えたという高揚感。
そして何より、目の前の男たちが体を張って作ってくれたチャンスを、自分がモノにしたという達成感。
「……やりやがったな、お嬢様」
ハンスがよろりと立ち上がり、シャーロットの方へ歩み寄る。
慌ててウィリアムが割って入ろうとしたが、足がもつれて転びかけた。
「おい、無礼だぞ! シャーロットから離れろ!」
「いい火力だったぜ」
ハンスはウィリアムを無視して、シャーロットの前でニカっと白い歯を見せた。
「あの威力は、俺たちの装備じゃ逆立ちしても出せねえ。
まさに『大砲』だ。
……おかげで助かったよ」
嫌味のない、現場の男の純粋な称賛。
シャーロットは目を丸くした。
泥だらけの手で、薄汚れた革鎧を着た男に褒められる。
本来なら汚らわしいと顔を背ける場面だ。
しかし彼女の口から出たのは、全く別の言葉だった。
「……貴方たちこそ」
彼女は杖を下ろし、煤で汚れたスカートの裾を摘んで、少しぎこちなく、しかし深々とカーテシー(膝を折る礼)をした。
「あのような動き……教本にも載っていませんでしたわ。
わたくし一人では、ただの的で終わっていました。
……感謝します」
それは貴族としての義務的な礼儀ではなく、戦場を共にした「戦友」への敬意だった。
「へっ、よせよ。背中が痒くなる」
ハンスは照れくさそうに鼻をこすった。
そこへピエールがドロップ品を拾い上げて戻ってくる。
「さて、戦利品の分配と行こうか。
『駅長の金時計』に『不滅の石炭』……結構な値がつくぜ。
半分こってことで、文句はないよな? リーダー」
ピエールがニヤリと、ウィリアムに視線を投げる。
ウィリアムは高級コートについた土埃を払いながら、バツが悪そうに咳払いをした。
「……ああ、認めよう。
君たちの動きは、その……参考になった。
金時計は君たちに譲る。
我々は経験値だけで十分だ」
「おっ、太っ腹! さすが英国紳士!」
「勘違いするな! 施しだ!」
顔を真っ赤にして言い返すウィリアムに、その場にいた全員――労働者のジャックたちも含めて――が堪えきれずに吹き出した。
金で買える装備だけでは勝てない。
だが、金で買った装備もまた勝利には必要だった。
その事実を、両者は痛いほど理解したのだ。
現場では、労働者のジャックとハンスたちが、すでに「さっきの足払い最高だったぜ」「次はもっとうまく合わせられる」と肩を叩き合って盛り上がっている。
貴族の「火力」と、労働者・移民の「技術」。
バラバラだった歯車が、ダンジョンの危機という油を差され、初めて一つに噛み合った瞬間だった。
この「ロンドン・ミックス」とも呼べる即席パーティの噂は、やがてシティの投資家たちの耳にも届くことになる。
「最強の装備を持つ金持ち」と、「最高の腕を持つ貧乏人」を組ませれば、最強のパーティができるのではないか? と。
ロンドンの地下で、新たなビジネスモデルの胎動が始まっていた。




