第235話
ニューヨーク国連本部ビル。
イーストリバーを臨むデリゲート・ラウンジの空気は、数日前の剣呑な嵐が嘘のように、不気味なほど凪いでいた。
あの日、英国大使ウィリアム・アシュフォードを取り囲み、唾を飛ばして糾弾していた、フランスやドイツ、そしてEU諸国の外交官たちの姿は、今日もそこにある。
だが、彼らの表情からは、あの時の鬼気迫るような敵意が消え失せていた。
代わりに張り付いているのは、狐につままれたような困惑と、そして、背後から見えざる糸で操られている操り人形特有の、ぎこちない沈黙だった。
ウィリアムは窓際の席で、優雅に紅茶(もちろん、英国大使館から持ち込んだ特級品だ)を啜りながら、その変化を愉しんでいた。
彼の目の前には、フランスのベルナール大使と、ドイツのウェーバー大使が座っている。
彼らは数日前、「ドーバー海峡を封鎖してやる」と息巻いていた男たちだ。
だが今は、まるで借りてきた猫のように大人しい。
「……不思議ですな、諸君」
ウィリアムがソーサーにカップを置きながら、あえて白々しく切り出した。
「つい先日まで、欧州議会からは『英国の暴走を許すな』『制裁決議だ』と、勇ましいラッパの音が聞こえていたはずですが。
今日になって急に、潮が引くように静まり返ってしまった。
まるで嵐の前の静けさのようですが……。
本国の経済界の皆様の、ご機嫌でも悪かったのですかな?」
その言葉に、ベルナールの眉がピクリと跳ねた。
彼は悔しげに唇を噛み締め、低い声で唸った。
「……白々しいことを言うな、ウィリアム。
貴様らが何をしたか、分からぬ我々ではない」
ベルナールは周囲を憚るように声を潜めた。
「パリの『ル・サンクチュエール』での密会。
貴国のMI6の犬が、我が国の重工業界のドン、アンリ・ド・モンモランシーと接触したという情報は掴んでいる。
ドイツの金融王クラウスも同席していたとな。
……彼らが一夜にして態度を変えた理由など、推して知るべしだ」
ウェーバー大使もまた、忌々しげに頷いた。
「本国からの訓令が、今朝になって突然ひっくり返ったのだ。
『英国との対立を避け、実利ある協調路線を探れ』とな。
……あの頑固な産業界の連中が、こうもあっさりと矛を収めるとは。
一体どんな餌をぶら下げた?
よほど甘い毒饅頭を食わせたのだろうな」
彼ら外交官は、本国の政府や産業界の意向を代弁するスピーカーに過ぎない。
その「本体」であるフィクサーたちが英国と手打ちをしてしまえば、彼らにはもはや振り上げる拳すら残されていないのだ。
彼らの怒りは英国に対するものというよりは、自分たちの頭越しに国益(あるいは私益)を売り渡した自国の黒幕たちへの、無力感に近いものだった。
「買収したな?」
ベルナールが射るような視線を向けた。
「神聖なる議会に対する冒涜だぞ。
国家の威信を金で売り買いするなど……。
大英帝国の紳士道とは、これほどまでに薄汚いものであったか」
その糾弾に対し、ウィリアムは心外だとばかりに肩をすくめた。
その表情には一点の曇りもない――ように見える――完璧な外交的微笑が浮かんでいる。
「買収? 滅相もない。
人聞きが悪いことを仰らないでいただきたい」
ウィリアムはハンカチで口元を拭った。
「我々はただ、お話ししただけですよ。
古き良き隣人として、未来志向の対話をね。
EUを離脱したとはいえ、我々は同じ欧州の空気を吸い、同じ歴史を共有する仲間です。
貴国らが指をくわえて見ている中、我々だけが繁栄を享受するなど、心が痛みますからな。
だから我々としても、元EUの一員として、可能な限りの便宜を図りたいと申し出たまでです」
「便宜だと?」
「ええ。
その気持ちが、賢明な経済界の重鎮の方々には通じたようで、私も嬉しい限りですよ」
ウィリアムはテーブルの上に一枚の地図を広げた。
それは英国と欧州大陸を結ぶ、新たな「人の流れ」を示す図面だった。
「具体的に申し上げましょう。
我々は英国のダンジョンを、閉ざされた要塞にするつもりはありません。
EU市民……特に、貴国らが抱える失業者や野心あふれる若者たち。
彼ら『EUの探索者』たちを、我が国は歓迎します。
どうぞどうぞ、イギリスのダンジョンに潜ってください」
その提案に、ウェーバーが怪訝な顔をした。
「……移民を受け入れるというのか?
あれほど移民問題で揉めた貴国が?」
「『労働者』としてではありません。
『探索者』としてです」
ウィリアムは訂正した。
「彼らには『特別探索ビザ』を発給します。
滞在期間は限定されますが、その間、彼らは英国民と同等の権利を持ってダンジョンにアクセスし、魔石を掘り、モンスターを狩ることができる。
もちろん稼いだ金は、彼らのものです。
自国に持ち帰るもよし、ロンドンで豪遊するもよし。
……どうです?
貴国らにとっても、国内の不満分子を海外に放出し、外貨を稼がせることができる。
悪い話ではないはずですが」
それは一見すると寛大な提案に聞こえる。
だがベルナールは、その裏にある英国の意図を正確に読み取っていた。
ロンドンに来た若者たちは、そこで稼ぎ、そこで消費し、そして英国のシステムに組み込まれていく。
優秀な人材は英国に定着し、そうでない者は使い捨てられる。
これは「人材のブラックホール」を作る計画だ。
「……EU諸国は、それで良いとでも思っているのか?」
ベルナールが低い声で問うた。
「我々の若者が英国のために血を流し、その成果をロンドンの金融街が吸い上げる。
そのような従属的な構造を、我々が認めると?」
「認めるも何も」
ウィリアムは冷ややかに言った。
「既に若者たちは動き出していますよ?
ユーロスターの予約状況をご覧なさい。
パリ発ロンドン行きのチケットは、向こう三ヶ月先まで完売だ。
貴方方がここで何を叫ぼうと、民衆は豊かさを求めて動くのです。
それを止めることは、誰にもできませんよ」
事実は外交官たちの理想を遥かに追い越していた。
人々は国境や政治的対立など気にしていない。
ただ、チャンスを求めているだけなのだ。
「……くっ」
ベルナールは唇を噛んだ。
止められないならば、せめて管理するしかない。
それが政治家の最後の仕事だ。
「……ならば条件がある」
ベルナールは敗北を認めた将軍のように、しかし最後の砦を守るべく提案した。
「EU市民が無秩序に英国へ渡り、搾取されることだけは防がねばならん。
個人の資格でバラバラに渡航させるわけにはいかんのだ。
……EU加盟国は『EU統合探索者ギルド(European Union Explorer Guild)』を設立し、そこで欧州出身の探索者を一元管理する」
「ほう、EUギルドですか」
「そうだ。
パリやベルリンに支部を置き、そこでライセンスを発行する。
装備の調達、訓練、そして渡航の手続き。
それら全てをこのギルドが統括し、英国ギルドと対等なパートナーシップを結ぶ。
……英国のダンジョンを借りる形にはなるが、組織としての独立性は保たせてもらう」
それはEUに残された最後の意地だった。
英国の下請けにはならない。
あくまで対等な「組織対組織」の提携である、という形を整えるための。
「……ふむ」
ウィリアムは少し考える素振りを見せた。
だが、その目は笑っていた。
これもまた想定内のシナリオだったからだ。
むしろEU側で勝手に組織化してくれれば、英国側の管理コストが下がる。
「ええ、問題ありません。
ギルドの作成に関しては、KAMI様からも包括的な許可を頂いております。
『管理できるなら勝手に作りなさい』と。
よろしいでしょう。
そのEUギルド構想、一緒に進めようではありませんか」
ウィリアムは手を差し出した。
「ただし、条件があります」
「……なんだ」
「手数料です」
ウィリアムは冷徹なビジネスマンの顔になった。
「EUギルドに所属する探索者が、英国のダンジョンで得た魔石やドロップ品。
これらをオークションや市場で売却する際、その取引額の5%を手数料として、EUギルドの運営資金に入れることを認めましょう。
つまり、貴方方の組織の維持費は、探索者の稼ぎから天引きされる形になります」
「5%……。
まあ妥当な数字か」
ウェーバーが計算機を弾く。
数十万人が稼働すれば、5%でも莫大な金額になる。
ギルドの運営費どころか、EUの新たな財源になり得る。
「ですが」
ウィリアムは釘を刺した。
「その残りのお金……探索者の手取り分についてですが。
これをEU国内で課税対象にすることは、厳禁ですよ?」
その言葉に、二人の大使が顔をしかめた。
「……税金を取るなと言うのか?」
「ええ。
KAMI様の定めた絶対のルールです。
『ダンジョンで得た富は、命を懸けた探索者のもの』。
これを国家が税金という形で吸い上げようとすれば……どうなるか、ご存知でしょう?
KAMI様の逆鱗に触れ、国ごとBAN(アクセス禁止)されてしまいますからね」
これは最強の脅し文句だった。
日本やアメリカの例を見ても、ダンジョン収入の非課税化は絶対条件となっている。
社会福祉の充実した欧州諸国にとって、高額所得者から税金を取れないというのは痛手だが、ルールはルールだ。
「……承知済みだ」
ベルナールが苦々しく言った。
「税金は取れん。
だが消費税(VAT)は別だ。
彼らが持ち帰った金で家を買い、車を買えば、そこで税収は生まれる。
……それにギルドの手数料収入があれば、当面はそれでよしとするしかない」
「賢明です」
ウィリアムは頷いた。
「それに、このEUギルド構想には、将来的なメリットもあります」
彼は遠い未来の地図を描いて見せた。
「いつかEU国内……フランスやドイツにもダンジョンが設置される日が来るでしょう。
その時、この『EUギルド』という組織とノウハウがあれば、スムーズに運営をスライドさせることができます。
これは将来への準備でもあるのです」
「……将来か」
ウェーバーが、すがるような目でウィリアムを見た。
「英国は……約束を守ってくれるのだろうな?
KAMI様に対して、次はフランスかドイツにと推薦してくれるという話は」
これこそがEU側が折れた最大の理由だった。
今は英国に頭を下げてでも、次に自分たちの番が回ってくるという確約が欲しかったのだ。
「もちろんですとも」
ウィリアムは満面の笑みで請け負った。
その笑顔の裏で、舌を三枚にも四枚にも重ねながら。
「私は英国紳士です。嘘はつきません。
次の定例会議の席で、KAMI様に強く進言しておきましょう。
『欧州の友人たちが首を長くして待っています。次はパリかベルリンに穴を開けてやってください』とね」
(……まあKAMI様は最近、『オーストラリアのエアーズロックとか神秘的で良くない?』とか仰ってましたがね。
南半球に飛ぶ可能性が高いですが、それは言わぬが花というもの)
ウィリアムは心の中で舌を出した。
推薦はする。
だが決定するのは神だ。
もしオーストラリアになったとしても、「神の気まぐれには勝てませんでした」と言い訳すればいい。
それまでの間、EUは「次は自分たちだ」という希望(人参)を目の前にぶら下げられ、英国という馬車を押し続けることになる。
「信じよう」
ベルナールが重い腰を上げた。
「我々には、もはや他に選択肢はないのだからな」
「ええ。
では細かい実務の話に移りましょうか」
ウィリアムは手元のタブレットを操作した。
「これで『人の問題』は片付きました。
次は『物』です。
ダンジョン攻略には装備が不可欠ですが、貴国の探索者たちは丸腰だ。
そこでF級装備の供給についてですが……」
「それについては手配済みだ」
ウェーバーが言った。
「アメリカとの間で、中古のF級装備および『富のオーブ』の大量輸入契約を結んでいる。
彼らのアークエンジェル部隊が使い古した放出品だが、性能は十分だそうだ。
来週には、ハンブルク港に第一便が到着する」
「さすが手回しが良い」
ウィリアムは感心した。
「装備は十分。
人は集まっている。
組織の枠組みも決まった。
……準備万端ですな」
彼は立ち上がり、窓の外の国連ビルを見上げた。
そこでは今、総会での最終決議が行われようとしている。
「今日の国連総会の承認があれば、一週間以内にKAMI様によるダンジョン設置が実行されます。
ここでグダグダして、否決されたり延期になったりすれば、あの短気な神様がお怒りになる。
『じゃあナシね』と言われたら、英国だけでなくEUの未来も閉ざされますよ?」
「……分かっている」
ベルナールが覚悟を決めた顔で言った。
「我々も、これ以上反対する理由はない。
むしろ一刻も早く解禁させ、我々の国民を稼がせねばならんのだ」
反対派の急先鋒だったフランスとドイツが転向した。
これで勝負は決まった。
国連決議は圧倒的多数で、「英国へのダンジョン設置」を承認するだろう。
表向きは「世界平和と人類の発展のため」という美名の下に。
裏では「利益誘導と妥協」という汚い握手によって。
「では承認をお願いしますよ?
EUの皆様の『賢明なるご判断』を期待しております」
「……フン。貸しにしておくぞ、ウィリアム」
「了解ですよ。
では国連議会が終わり次第、EUギルド設立のための実務者会議の予定を組みましょう。
場所は……ロンドンのシティでよろしいですかな?」
「……勝手にしろ」
ベルナールとウェーバーは、逃げるようにラウンジを後にした。
彼らの背中は、敗北感と、そしてようやくこの不毛な対立から解放される安堵感で、少しだけ丸くなっていた。
ウィリアムは一人残った。
紅茶を飲み干した。
「……やれやれ。
これで外堀は埋まった」
彼は窓の外、イーストリバーの向こうに広がる空を見つめた。
その空の向こう、大西洋を越えた先に、彼の祖国がある。
斜陽の帝国と呼ばれた島国。
だが今、その地下には無限の富が眠り、地上には世界中からヒトとモノとカネが集まりつつある。
「大英帝国の再興だ」
ウィリアムは小さく呟いた。
軍事力による支配ではない。
ルール作りと金融と、そして「外交という名の詐欺」による新しい形の支配。
それこそが21世紀の英国の戦い方だ。
彼はポケットからスマートフォンを取り出し、ロンドンのボリス首相に短いメッセージを送った。
『ミッション・コンプリート。
EUは落ちた。
ゲートを開け。ショータイムの始まりだ』
送信完了の表示と共に、彼は不敵な笑みを浮かべた。
世界はまた一つ、英国の描いたシナリオ通りに回り始めたのだ。




