第231話
ニューヨーク、マンハッタン東岸。
イーストリバーの濁った水面を眼下に望む国連本部ビルは、ガラスのカーテンウォールが午後の陽光を反射し、冷ややかな輝きを放っていた。
その二階、総会議場の喧騒から一枚の扉を隔てた場所に位置する『デリゲート・ラウンジ(代表団談話室)』は、世界で最も洗練され、そして最も偽善に満ちた空間の一つであった。
北側の壁一面に広がる巨大な窓からは、クイーンズボロ橋の鋼鉄の骨組みと、ルーズベルト島の緑が鮮やかなコントラストを描いているのが見える。
高い天井、間接照明の柔らかな光、そして座り心地の良い北欧製の高級ソファ。
ここでは議場のマイクを通した公式な演説の代わりに、コーヒーとサンドイッチ、あるいは昼下がりのワインを片手に、各国の本音と陰謀、そして信憑性の定かではない噂話が、紫煙のように静かに、しかし濃密に燻り続けている。
この日のラウンジは、いつにも増して奇妙な熱気に包まれていた。
表面上は穏やかな外交官たちの談笑が続いているが、その視線は頻繁にラウンジの一角、窓際の一等地に陣取るあるグループへと注がれていた。
他を寄せ付けない圧倒的なオーラと、そして余裕に満ちた空気を纏っているのは、この激変した世界の「支配者階級」――神聖四カ国(日米中露)と、新興の魔石大国インドの国連大使たちだった。
彼らのテーブルには香り高いコーヒーと、インド大使が差し入れた甘い菓子が並んでいる。
一見すれば友好国の代表たちが談笑しているだけの平和な光景だ。
だが、その中心にいる日本の国連大使――東京の九条官房長官から直接の指令を受けている、能面のように感情を削ぎ落とした男――は、スプーンでコーヒーをゆっくりとかき混ぜながら、周囲の耳を計算に入れつつ、その「爆弾」を切り出した。
「……ええ、実はですね。ここだけの話ですが」
日本大使は声を潜めた。
だが、その声量は周囲のテーブルに座る「耳の早い」外交官たち――特にEU諸国の代表たち――には十分に届く、絶妙な大きさだった。
「先日、KAMI様との定例会議の折に、ふと漏らされたのですよ。
今後のダンジョン展開についての構想をね」
「ほう?」
アメリカ大使がわざとらしく眉を上げてみせる。
彼は既にホワイトハウスからの脚本を頭に入れている。
「あの方はまた、何か突飛なことを仰ったのですか?」
「ええ。KAMI様は現状のダンジョン配置について、『少しバランスが悪いわね』と仰いましてね。
見ての通り、アジアには日本、中国、インドと三カ国も集中している。
ロシアを含めれば、ユーラシア大陸の東側に偏りすぎていると」
日本大使はコーヒーカップを置き、もったいぶって言葉を継いだ。
「そこで次は、欧州方面に一つ拠点を作るべきではないか、というお話になりまして。
KAMI様が具体的に国名を挙げられたのです」
ゴクリ。
近くの席で聞き耳を立てていたドイツの随行員が、唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「『次はイギリスなんてどうかしら?』と」
カチャン。
どこかのテーブルで、誰かがスプーンをソーサーに取り落とした。
その硬質な音が、ラウンジの静寂に波紋を広げた。
「……イギリスですか?」
ロシア大使が、氷河のように冷ややかな笑みを浮かべて追随する。
「それはまた興味深い選択だ。
大陸(EU)ではなく島国を選ぶとは。
KAMI様らしい気まぐれとも言えるが、ある種の合理性も感じるな」
「ええ」
インド大使がナッツを口に放り込みながら頷いた。
彼は先日、自国が選ばれた際の狂乱と嫉妬、そしてその後の繁栄を肌で知っているだけに、この「高みの見物」が楽しくて仕方がないようだった。
「KAMI様はこうも仰っていましたよ。
『歴史があるし、ファンタジーっぽいし。それに島国だから管理もしやすそうじゃない? ほら、日本も島国でうまくいってるし』と。
……まあ、あくまで内定というか、思いつきレベルの話ですがね」
「なるほど、管理のしやすさか」
中国大使が冷徹な分析を加えるふりをして、さらに燃料を投下する。
「確かに大陸と地続きの国にダンジョンを置けば、人の移動や魔石の密輸を管理するのは難しい。
その点、海に囲まれたイギリスならば検疫や出入国管理も容易だ。
日本と同じモデルケースが適用できる。
……KAMI様は案外、実務的なことを考えておられるのかもしれん」
彼らの会話は、あくまで「雑談」の体を装っていた。
だが、その内容は核爆弾級の衝撃を伴って、ラウンジの空気を浸食していった。
イギリス。あの大英帝国。
ブレグジットで欧州を混乱に陥れ、独自路線を歩もうとしているあの島国に、神の恵みが降り注ぐというのか。
彼らは理解していた。
この「噂」がラウンジの空気を伝播し、瞬く間にブリュッセルやベルリン、パリの官邸へと駆け巡ることを。
そして、それが引き起こすであろう化学反応を。
案の定。
彼らの会話を聞きつけた周辺の外交官たちの顔色が、見る見るうちに変わっていく。
ある者は青ざめ、ある者は耳を疑い、そしてある者は怒りに震えて席を立った。
「……イギリスだと?」
「EUを抜けた、あの裏切り者にか?」
「フランスでもドイツでもなく、なぜ落ち目の英国なんだ!」
囁き声はさざ波となり、やがてラウンジ全体を覆う巨大なざわめきへと変わっていった。
情報は水のように広がる。
特に嫉妬と不安という毒を含んだ水は、重力に逆らってでも這い上がっていくものだ。
数分後。
ラウンジの中央付近にある大きな革張りのソファ席。
そこにはEU加盟国の主要な大使たちが自然発生的に集まり、深刻な顔で緊急の「非公式協議」を始めていた。
フランス、ドイツ、イタリア、スペイン。
欧州の重鎮たちは、この「噂」の真偽と、その意味するところについて額を寄せ合って激論を交わしていた。
「……聞いたか、ムッシュ・ベルナール」
ドイツ大使がフランス大使に耳打ちする。
その表情は硬い。
「日本大使の話だ。次はイギリスだと。KAMIの指名らしい」
「ああ、聞こえたとも」
フランス大使ベルナールは、苦虫を噛み潰したような顔で手元のクロワッサンを無意識に粉々にちぎっていた。
「馬鹿げている。悪い冗談だ。
KAMIは地理を知らんのか? それとも政治音痴なのか?
イギリスなど、大陸の端っこにある湿気た島国ではないか。
ダンジョンを置くなら、欧州の中心である我がフランスか、あるいはドイツであるべきだ。
地理的にも、経済的にも、物流のハブとしても、それが最も合理的だ」
「だがKAMIの基準は、『面白さ』と『管理のしやすさ』らしいぞ」
イタリア大使が口を挟む。
「ファンタジーっぽい、というのが理由の一つらしい。
確かにアーサー王やハリー・ポッターの国だ。
円卓の騎士にドラゴン退治。
イメージ戦略としては分からなくもないが……」
「イメージで国益を決められてたまるか!」
ベルナールが声を荒げ、周囲の視線を集めてしまったことに気づき、咳払いをして声を落とした。
「……いいか、諸君。冷静に考えるんだ。
もしイギリスにダンジョンができたらどうなる?
ブレグジットで我々と袂を分かった彼らが、魔石という無限のエネルギーを独占するのだぞ?
彼らの経済はV字回復し、ポンドは暴騰し、ロンドンは再び世界の金融と物流の中心になるだろう。
シティが息を吹き返す」
「そしてEUは……」
ドイツ大使が呻くように言った。
「資源を持たざる者として、イギリスに頭を下げて魔石を恵んでもらうことになる。
あのプライドの高いジョンブルどもにだ。
エネルギー価格の高騰に喘ぐ我々の産業界は、魔石を求めて英国へ移転するかもしれん。
……屈辱だ。耐え難い。
メルケル前首相が草葉の陰で泣くぞ」
「経済だけではない」
スペイン大使が懸念を示す。
「労働力の流出だ。
大陸の若者たちは失業率の高い母国を捨てて、こぞってドーバー海峡を渡るだろう。
『イギリスに行けば金持ちになれる』『探索者になれば人生一発逆転だ』と。
EUは空洞化し、老人ホームと化す。
ただでさえ移民問題で揺れているのに、これ以上の人口動態の激変は社会を崩壊させる」
彼らの脳裏に、かつての大英帝国の栄光と、そして最近のブレグジット交渉におけるイギリス側の頑迷さと、それによる混乱の記憶が蘇る。
「一人勝ち」は許されない。
特に自分たちの輪から抜けた者が、外の世界で勝手に成功し、自分たちを見下ろすことなど、感情的にも政治的にも絶対に容認できるものではなかった。
「……阻止せねばならん」
ベルナールが決意を込めて言った。
「KAMIは『合意がなければ進まない』と言っていたらしい。インドの時もそうだった。
つまり国際社会の――すなわち我々EUの同意がなければ、イギリスへの設置は見送られる可能性がある。
ここに付け入る隙がある」
「反対キャンペーンを張るか?」
「ああ。徹底的にな。
『イギリスは現在、政治的に不安定であり、ダンジョンという危険物を管理する能力がない』
『孤立主義的な彼らに、人類の共有財産を任せるのは安全保障上のリスクだ』
『北アイルランド問題が再燃する恐れがある』
あらゆる理屈をつけて、この案を潰すのだ。
少なくともEU域内にも同時に設置させる、というバーターを引き出さねばならん」
欧州の古狸たちが陰謀の糸を紡ぎ始めた、その時だった。
ラウンジの入り口から、一人の男が悠然と入ってきた。
完璧に着こなしたサヴィル・ロウの仕立てのスーツ。
磨き上げられた革靴がカーペットの上を音もなく滑る。
そして、その手には紅茶のカップではなく、なぜか日本のコンビニで売っているような「緑茶のペットボトル」が握られている。
駐国連イギリス大使、サー・ウィリアム・アシュフォード。
その顔には隠しきれない優越感と、周囲の視線を楽しむような、典型的な英国流のシニカルで傲慢な笑みが浮かんでいた。
彼はすでに情報を掴んでいる。
MI6の情報網か、あるいは日本側からの意図的なリークか。
いずれにせよ、彼は自分が「選ばれた」ことを知っていた。
「――おや、皆様。お揃いで」
ウィリアムはEUグループの席に近づくと、わざとらしく驚いて見せた。
その声は上流階級特有の気取った響き(ポッシュ・アクセント)を持っていた。
「何をそんなに深刻な顔をしておられるのです?
まるでユーロが暴落したか、あるいは……『隣人の幸福』を妬んでいるかのような、そんな陰気なお顔ですが」
その挑発的な言葉に、ベルナールが即座に反応した。
「ウィリアム大使。白々しい挨拶はよしたまえ。
噂は聞いているぞ。
『次はイギリス』だとな。日本大使が吹聴している」
「ほう、もう耳に入りましたか。さすが地獄耳ですな」
ウィリアムは緑茶を一口飲むと、優雅に微笑んだ。
「やはり日本の茶は良い。心が落ち着く。
ええ、その通りです。
どうやらKAMI様は我が国をお選びになったようですな。
光栄なことだ。女王陛下もお喜びになるでしょう」
「……まだ決定ではないはずだ」
ドイツ大使が睨みつける。
「『合意』が必要だと聞いている。
国際社会の承認なしに、そのような危険な施設を設置することなど許されるはずがない。
貴国一国の判断で進められる話ではないぞ」
「合意? 承認?」
ウィリアムは心底おかしそうに笑った。
「ハハハ! 何を寝言を仰っているのですか、皆様。
相手は神ですよ? KAMI様ですよ?
神が『イギリスに恵みを与えよう』と仰っているのです。
それに対して人間ごときが『合意』だの『承認』だの……。
不敬にも程がある」
彼はEU大使たちを見下ろすように言った。
その視線は、かつて植民地総督が現地人を見るような無意識の尊大さに満ちていた。
「これは『王権神授説』ならぬ、『ダンジョン神授説』ですよ。
選ばれた者が、その資格を持つのです。
貴国らが選ばれなかったのは、単に神の御眼鏡に叶わなかっただけのこと。
あるいは貴国らの料理や文化が、神のお気に召さなかったのかもしれませんな。
それを僻むなど、見苦しいにも程がある」
そのあまりにも傲慢で、そして無慈悲な正論。
ベルナールの顔が怒りで紫色に変色していく。
「……貴様! 言わせておけば!
EUとの関係を何だと思っているんだ!
我々は隣人であり、最大の貿易相手だぞ!
ブレグジットの際の協定を忘れたわけではあるまい!
もしイギリスがダンジョンを独占し、我々を排除するような真似をすれば……。
ただでは済まんぞ!
経済制裁、国境封鎖、あらゆる手段を使って対抗する!
ドーバー海峡を封鎖し、物流を止めてやる!」
「制裁? 封鎖?」
ウィリアムは鼻で笑った。
「どうぞご自由に。痛くも痒くもありませんな。
我々にはダンジョンがある。これからは魔石がある。
エネルギーも食料も自給できる。
EU市場? 結構。
我々は日本やアメリカ、そして新たな盟友であるインドと交易すれば良いだけのこと。
環太平洋・インド洋経済圏こそが、これからの世界の中心だ。
老いた欧州にしがみつく必要など、もはやない」
彼は冷酷に突きつけた。
「むしろ困るのは貴方方の方では?
魔石エネルギーへの転換が進む中、ロシアのガスや中東の石油に頼る貴国らの産業競争力は地に落ちるでしょう。
我が国から魔石を買わなければ、ドイツの工場もフランスの農業も立ち行かなくなる。
頭を下げるべきは、そちらの方ではありませんかな?
『どうか売ってください』と礼儀正しくお願いするなら、考えてやらんでもないですがね」
「き、貴様……ッ!」
もはや外交交渉の体をなしていなかった。
それは富を手に入れた成金の傲慢さと、没落する貴族の怨嗟がぶつかり合う醜悪な口論だった。
ウィリアムはさらに追い打ちをかけるように言った。
「それに、暴動が起きる? 治安が悪化する?
ハッ、笑わせないでいただきたい。
我が国の民は秩序を愛するジェントルマンです。
インドのようなカオスにはなりませんよ。
我々は得られた富を適切に管理し、世界の平和のために活用する準備ができている。
貴方方のような寄り合い所帯で、何も決められない官僚機構とは違うのです」
その言葉は、EUという組織そのものへの最大級の侮辱だった。
ラウンジの空気が発火点に達しようとしていた。
他の国々の外交官たちも遠巻きにこの様子を眺めながら、ヒソヒソと囁き合っている。
「イギリス、調子に乗りすぎだろ」
「でも魔石が手に入れば、彼らの勝ちだ」
「欧州が分裂するぞ……」
その様子を少し離れた席から眺めていた、四カ国+インドの代表団。
日本大使は手元の端末でその会話を録音しながら、内心で冷や汗を流していた。
(……煽りすぎだ、イギリス大使。
これでは火に油を注ぐだけだ。
KAMI様は『合意形成』を求めたが、このままでは『全面戦争』になりかねんぞ。
いや、九条長官の狙い通りなのかもしれんが……胃が痛い)
隣のアメリカ大使が、うんざりしたようにコーヒーを啜った。
「……英国人の悪い癖が出たな。
優位に立った瞬間に、相手を皮肉で刺しまくる。
これじゃあ、まとまる話もまとまらん。
まあ我々としては欧州が揉めてくれれば、対岸の火事として高みの見物ができるがね」
中国大使がニヤニヤと笑っている。
「いいではないか。
西側諸国が分裂するのは、我々にとっては好都合だ。
イギリスが孤立すればするほど、彼らはアジアの市場に依存せざるを得なくなる。
これぞ『以夷制夷(夷を以て夷を制す)』だ」
インド大使が、どこか同情的な目でイギリス大使を見ていた。
「……彼も今は舞い上がっているのでしょう。
我が国も最初はそうでした。
ですがダンジョンという劇薬は、甘い夢だけではありません。
実際にゲートが開けば、彼らも思い知ることになるでしょう。
国内の格差、移民の流入、そして社会の変容……。
『ジェントルマン』の国が欲望の坩堝と化す様を。
彼らの誇る階級社会が、魔石という暴力的な富の前に崩壊する様をな」
彼らは知っていた。
ダンジョンは祝福であると同時に、社会を内側から食い荒らす毒でもあることを。
今のイギリス大使の傲慢さは、その毒が回り始める前の最後の徒花に過ぎないことを。
「――そこまでになさい!」
一触即発のEU対イギリスの口論に、冷や水を浴びせる声が響いた。
現れたのは騒ぎを聞きつけた国連事務総長だった。
彼は顔をしかめ、ラウンジでの醜態をたしなめた。
「ここは神聖な国連の場です。ロンドンのパブの喧嘩ではありません。
イギリス大使、フランス大使。
議論があるなら、正規の委員会でやりなさい。
感情的な対立は、KAMI様の心証を害するだけですぞ。
もし彼女が『喧嘩するなら無しね』と言ったら、誰が責任を取るのですか!」
事務総長の一喝で、ようやく場が収まる。
だが、残された遺恨は深かった。
ベルナール大使は去り際に捨て台詞を残した。
「……覚えておけ、ウィリアム。
EUは一枚岩だ。
我々の同意なしに、その島国に穴が開くと思わないことだ。
全力で阻止してやる。
国連の場で貴国を吊るし上げてやるからな」
ウィリアム大使は涼しい顔で肩をすくめた。
「やってみなさい。
神の意志を、人間の嫉妬で止められるものならね。
……まあ、せいぜい吠えることですな。負け犬らしく」
二人の男は睨み合い、そして背を向けた。
その背中には、これから始まる長い長い外交戦争の重い影が落ちていた。
四カ国の代表団は、その様子を見て静かに席を立った。
仕事は完了した。
火種は撒かれた。
あとは、それが燃え広がるのを待つだけだ。
「……とりあえず、議論が必要ですね」
日本大使が呟いた。
「フランスがマジギレしそうですから」
「ああ、徹底的に議論させよう」
アメリカ大使が頷く。
「結論が出ない議論をな」
ラウンジに残されたコーヒーカップの底には、黒い澱が沈んでいた。
それは、これからの世界を覆うであろう混乱と欲望の予兆のようだった。
「次はイギリス」。
その噂は、もはや噂ではなく、欧州を分断する楔として深く、鋭く打ち込まれたのだった。




