第25話
その日、東京・永田町、首相官邸の地下大ホールは、日本の歴史上、前例のない異様な熱気と緊張感に支配されていた。
ホールの中央には、巨大な円卓が設えられ、その周囲に四十七の席が用意されている。それぞれの席の名札には、北は北海道から南は沖縄まで、全ての都道府県の名が記されていた。
着席しているのは、各都道府県からこの日のためだけに選抜され、官邸へと送り込まれた知事本人、あるいはその代理人である副知事や最高レベルの行政官たち。彼らこそ、地方自治の最前線に立つ、それぞれの「国」の王たちだった。
そして、その円卓を睥睨するように一段高い位置に設けられた議長席には、内閣官房長官、九条その人が、いつもの鉄仮面のような無表情で座っていた。彼の背後には、沢村総理の姿もあったが、今日の主役はあくまで九条だった。
「――では、定刻となりましたので、これより『第一次・国家空間輸送網整備計画に関する全国知事会議』、通称『ゲート構想・全都道府県参加会議』を開会いたします」
マイクを通した九条の冷徹な声が、水を打ったように静まり返ったホールに響き渡る。
集められた四十七人の代表者たちは、誰もが固唾を飲んで議長席の男を見つめていた。彼らは皆、この会議が持つ意味の途方もない重さを理解していた。
これは、単なる公共事業の説明会ではない。
日本の、いや、自分たちの故郷の未来の形を、根底から決定づけてしまうかもしれない、歴史の分岐点。
神が、この国の為政者たちに突きつけた、あまりにも巨大で、そしてあまりにも魅力的な「宿題」。その最初の回答を、今まさに彼らは求められようとしていた。
九条は、手元のタブレット端末を操作し、ホール正面の巨大なスクリーンに一枚の概念図を映し出した。
それは、日本列島の地図の上に、主要都市間を結ぶ無数の光の線が描かれた、近未来的な交通網の図だった。
「皆様には、事前に資料としてお配りした通りです。我が国は、我々が『KAMI』と呼称する高次元存在からの技術供与により、空間を転移する、いわゆる『ワープゲート』の設置が可能となりました。本日皆様にお集まりいただいたのは、この革命的なインフラを、我が国のどこに、どのように設置していくか。その基本方針を策定するための、最初の意見交換の場であります」
九条は淡々と、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で説明を続ける。
「KAMIからの提示条件は、ただ一つ。『地脈』と呼ばれる、地球内部のエネルギーライン上にのみ、ゲートは設置可能である、と。幸い、我が国日本は世界有数の地脈密集地帯であり、理論上は全国土のあらゆる場所にゲートを設置することが可能です。そして、本日まず皆様と合意形成を図りたい基本方針は、『このゲート網は、当面、人の移動を主目的とする』という一点です」
その言葉に、ホール内がざわついた。
人の移動がメイン。それはつまり、貨物や大規模物流は、当面既存のインフラを維持するということだ。その一言が、どれほど多くの企業や業界の安堵のため息を誘ったことか。
「もちろん、将来的には物流への応用も視野に入れます。しかし、あまりにも急進的な変革は、社会に不要な混乱を招くだけです。まずは、人の移動を安全かつ効率的に行うためのシステムを確立する。それが、政府としての現段階での判断です。皆様、この基本方針にご異論はありますかな?」
九条がそう問いかけると、数秒の沈黙の後、何人かの知事が安堵の表情で頷いた。
最初に口火を切ったのは、日本の物流の中心地である愛知県の知事だった。
「……結構です。その方針であれば、我が県の自動車産業や港湾機能への直接的な影響は、当面避けられると理解しました。まずは、人の移動に絞って議論を進めるべきでしょう」
その発言を皮切りに、ホールの空気は一気に期待と興奮の色を帯び始めた。
特に、これまで地理的なハンディキャップに苦しんできた地方の代表者たちの目には、切実な光が宿っていた。
「素晴らしい!」
最初に手を挙げたのは、山陰地方、鳥取県の知事だった。彼は、長年この国が抱えてきた構造的な問題点を、熱っぽく語り始めた。
「我が県は、長年、人口減少と過疎化に苦しんできました! 若者は皆、利便性を求めて東京や大阪へと流出していく。いくら豊かな自然や文化があっても、交通の便が悪ければ、人は来てくれないのです! しかし、このゲートがあればどうですかな!? 東京の若者が、週末に気軽に我が県の美しい砂丘や海岸を訪れることができる。リモートワークで仕事をしながら、普段は豊かな自然の中で暮らすという、新しいライフスタイルが実現できる! これは、地方創生の、まさに切り札です! 我が県は、この計画を全面的に支持し、最大限の協力を約束します!」
その魂の叫びのような演説に、同じように過疎化に悩む多くの県から、賛同の拍手が起こった。
次にマイクを握ったのは、日本の最南端、沖縄県の副知事だった。彼の表情は、感動にうち震えているようにさえ見えた。
「……皆様には、ご理解いただけないかもしれませんが、我々沖縄県民にとって、本土は遠い場所でした。飛行機で数時間、悪天候になれば、すぐに孤立してしまう。医療、教育、経済、あらゆる面で、我々はその地理的な隔絶に苦しんできました。ですが、このゲートがあれば…! 那覇から東京までが、一瞬で繋がる! それは、我々が長年抱いてきた『本土との格差是正』という悲願が、ついに叶うことを意味します。我々は、もはや離島ではない。日本という一つの家族の、本当の一員になれるのです…!」
彼の言葉は、多くの者の胸を打った。
北海道の知事も続いた。
「我が北海道も同様です。広大すぎるこの大地の中で、我々は常に移動という問題と戦ってきました。札幌から稚内、根室へ移動するには、一日がかりの覚悟が必要です。ゲートは、その全てを解決してくれる。道内の経済格差を是正し、観光の可能性を無限に広げてくれるでしょう」
東北地方の代表からは、また別の切実な声が上がった。
「我々は、あの震災を忘れてはいません。もし、あの時このゲートがあれば、どれだけ多くの命が救われたことか。津波が到達する数分前に、沿岸部の住民全てを内陸の安全な場所へと避難させることができたかもしれない。これは、単なる交通インフラではない。国民の命を守る、究極の防災システムです」
夢、希望、そして祈り。
会議の序盤は、ゲートがもたらすであろう輝かしい未来を語る、祝祭のような雰囲気に包まれていた。
誰もが、この神の贈り物を、手放しで歓迎しているかのように見えた。
だが、その楽観的な空気が、永遠に続くはずはなかった。
日本の中心、そして世界のメガロポリス。その絶対的な王者の代表が、静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を放ちながら、マイクのスイッチを入れたその瞬間から。
「――少々、よろしいかな」
その声の主は、東京都の副知事だった。彼は、他の代表者たちのような感情的な熱弁は一切せず、ただ冷徹な事実だけを、絶対的な自信と共に語り始めた。
「皆様が語る、地方創生、防災、格差是正。その理想は、理解できます。しかし、我々は夢を語る前に、現実を見なければならない。このゲート構想の成否は、いかに効率的なハブ機能を構築できるか、その一点にかかっている」
彼は、手元の端末でスクリーンに表示された地図を、首都圏を中心としたものに切り替えた。
「言うまでもなく、日本の、いや世界の玄関口は、この東京です。毎日、何千万人という人々がこの都市で活動し、世界中から人、モノ、金、情報が集まってくる。ゲートの最大のポテンシャルを引き出すためには、この巨大なハブに、最も効率よくアクセスできるネットワークを構築することが、最優先事項となるべきです。具体的に言えば、東京駅、新宿駅、そして羽田、成田の両国際空港。この四箇所に最大規模のハブゲートを建設する。それが、このプロジェクトを成功に導く唯一の道であると、我々東京都は考えます」
その、あまりにも傲慢で、しかし、あまりにも正論な提案。
ホールの空気が、急速に冷却されていくのが分かった。
地方の代表者たちが語った夢や希望を、一瞬で「非効率な理想論」として切り捨てるかのような、東京の冷たい論理。
それに、真っ先に噛み付いたのは、西の王者、大阪府の知事だった。
「待った、待った、待った! 東京の言い分は、あまりにも一方的に過ぎるんやないか!?」
彼は、マイクが割れんばかりの勢いで立ち上がった。
「西の玄関口、一千万人以上の経済圏を持つこの関西を無視する気か!? 関西国際空港、伊丹空港、そして新大阪駅。この三箇所にも、東京と同等、いやそれ以上の規模のハブゲートを設置することを、我々は強く要求する! 何でもかんでも東京一極集中でええっちゅう時代は、もう終わったんや!」
「お言葉ですが、大阪府知事」と、東京の副知事が冷ややかに応酬する。「国際的なハブ空港としての実績、そして経済規模。全てのデータが、首都圏の優位性を示しております。感情論で、国家百年の計を誤るべきではありませんな」
「なんやと!?」
そこへ、日本の中心を自負する愛知県の知事が割って入った。
「まあまあ、お二人とも。東京と大阪だけが日本ではありませんぞ。日本の地理的な中心、そして製造業の中心地であるこの中京圏を忘れてもらっては困りますな。中部国際空港セントレアと名古屋駅にも、当然ハブとしての機能を持たせるべきでしょう」
さらに、九州の雄、福岡県の知事も続いた。
「アジアへのゲートウェイとしての福岡の役割を、軽視されては困る。福岡空港にハブゲートを設置することは、国家戦略として不可欠です」
札幌、仙台、広島……。
全国の主要都市の代表たちが、次々と我こそはと名乗りを上げる。
会議は、輝かしい未来を語る場から、剥き出しの利権とプライドがぶつかり合う、醜い陣取り合戦の様相を呈し始めていた。
それまで夢見心地で議論を聞いていた中小の県の代表者たちは、その大都市間の露骨なエゴのぶつかり合いを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
自分たちの声など、この巨大なパワーゲームの前では、あまりにも無力なのではないか。
そんな諦観にも似た空気が、ホールに漂い始めた、その時だった。
「――皆様、少々、議論が白熱しすぎているようですな」
それまで黙って戦況を見つめていた議長の九条が、静かに、しかし全ての雑音を圧する声で言った。
「設置場所の議論は、重要です。ですが、その前に我々が決めなければならない、より根源的な問題がある。それは、このゲートを、どのような『ルール』で運用していくか、です」
九条は、スクリーンを再び日本全体の地図に戻した。
「例えば、セキュリティの問題。これを、我々は最も重く受け止めなければならない」
その言葉に、それまで利権争いに熱中していた大都市の代表たちも、はっとしたように口を噤んだ。
「この問題について、本日、警察庁から専門家に来ていただいております。ご意見を伺いましょう」
九条に促され、円卓の末席に座っていた、制服姿の厳格な顔つきの男が立ち上がった。警察庁長官官房に所属する、国家公安のプロフェッショナルだった。
「……警察庁の田中です」と、彼は重々しく口を開いた。「皆様、少し想像していただきたい。今、この東京で凶悪な銀行強盗事件が発生したとします。犯人は、現金数億円を奪い、車で逃走した。現行のシステムでは、我々は緊急配備を敷き、高速道路を封鎖し、全ての検問所で犯人の車両を捕捉しようとします。時間との戦いですが、犯人を追い詰める術はあります」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「しかし、ゲートがあればどうなるか。犯人は、奪った現金をボストンバッグに詰め、最寄りのゲートに駆け込む。そして、数秒後には、北海道の広大な原生林のど真ん中や、沖縄の複雑な離島のどこかに、姿を消しているのです」
その、あまりにも具体的で、そしてリアルなシナリオ。
ホールは、水を打ったように静まり返った。
誰もが、ゲートがもたらす光の側面ばかりを見ていた。そのあまりにも深く、そして暗い影の可能性に、初めて気づかされたのだ。
「犯人だけではありません」と、田中は続けた。「テロリストが、爆弾を持ってゲートを通過し、警備の全く手薄な地方のイベント会場で自爆する。国際的な犯罪組織が、このゲート網を麻薬や銃器の密輸ルートとして利用する。誘拐された子供が、一瞬で日本のどこか、追跡不可能な場所へと連れ去られる。考えうる脅威は、無限にあります。はっきり申し上げます。現行の警察システム、そして都道府県警の縦割り構造では、このゲート犯罪に、全く対応できません」
絶望的な宣告だった。
夢のインフラは、一転して、国家の安全を根底から揺るがす悪夢のツールへとその姿を変えた。
「では、どうすれば…」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「対策は、一つしかありません」
田中は、断言した。
「ゲートの利用を、許可制にするのです。それも、極めて高度なセキュリティに守られた、個人認証システムを導入する」
彼は、この日のために用意してきた提言を、力強く語り始めた。
「我々が提案するのは、『全国統一・空間移動許可証』、通称『ゲートパスポート』制度の導入です。これは、マイナンバーカードに記録された個人情報と、指紋、虹彩といった複数の生体認証情報を組み合わせた、現時点で考えうる最高レベルのデジタルIDです。このパスポートを持たない者は、原則として、誰一人としてゲートを通過することはできません」
「国民総監視社会に繋がるのではないか!」
リベラル派として知られる知事の一人が、鋭く反論した。「全国民の移動履歴を、国が一元管理するなど、プライバシーの侵害であり、憲法が保障する移動の自由を脅かすものだ!」
「人権と安全、どちらを優先するのかという議論です。ですが、国民の生命と財産を守るという国家の責務の前では、ある程度の自由の制約は避けられないと、我々は考えます」
田中は、一歩も引かなかった。
議論は、再び紛糾した。
「パスポートの発行権限はどこが持つ? 国か? 自治体か?」
「発行にかかる莫大なコストは、誰が負担するんだ?」
「外国人観光客はどうする? その都度、臨時パスポートを発行するのか?」
その混沌とした議論に、新たな視点を加えたのは、京都府の知事だった。
「我々京都市は、年間数千万人もの観光客を受け入れています。その全てに厳格なパスポートを義務付けるのは、現実的ではありません。それに、我々は古都の景観と文化を守らなければならない。無制限に人が流入することは、むしろ脅威です。例えば、京都市内に入るゲートは、観光客用と居住者用で権限を分ける。あるいは、一日の通行人数に上限を設けるといった、独自の規制が必要になるでしょう」
「待っていただきたい!」
今度は、東北地方の代表が声を上げた。「災害時にも、そんな厳格な手続きを求めるのですか!? 津波が迫る中で、『パスポートがありませんから通れません』とでも言うつもりか! 災害時や緊急医療搬送のような特例措置については、全てのゲートをフリーパスで通過できる、特別なプロトコルを設けるべきです!」
セキュリティ、人権、コスト、利便性、文化保護、そして防災。
一つの「ゲート」という存在が、この国が抱えるあらゆる問題を、複雑に絡み合わせながら白日の下に晒していく。
「――皆様、ご意見は出尽くしたようですな」
議論が完全に行き詰まり、ホールが疲労と徒労感に包まれ始めた頃。
議長の九条が、再びその静かな声で言った。
「本日いただいた全ての貴重なご意見は、記録させていただきました。そして、これらを元に、我々中央政府は、最初の草案を作成いたします」
彼は、立ち上がった。
「本日の会議で、明確な結論は出ません。それで、いいのです。これほど巨大なプロジェクトのコンセンサスが、たった一日で形成できるはずもない。ですが、我々は今日、確かに大きな一歩を踏み出した。我々がこれから向き合わなければならない問題の、その広さと深さを、ここにいる全員が共有できたのですから」
九条は、一同を見渡した。
「当面の結論として、本日付で官邸直轄の三つの専門部会を設置します。第一に、セキュリティとパスポート制度を検討する『安全保障部会』。第二に、災害時の運用ルールを策定する『危機管理部会』。そして第三に、皆様から最も多くのご意見をいただいた、設置場所の選定基準を議論する『国土計画部会』。各都道府県からは、これらの部会に専門の担当者を派遣していただくことになります」
そして、彼は最後の、そして最も重要な「宿題」を、全ての代表者に課した。
「並行して、各都道府県におかれましては、本日より一ヶ月以内を期限として、『ゲート設置候補地に関する第一次レポート』を提出していただきたい。候補地は、複数提案していただいて結構です。ただし、なぜその場所なのか。設置によってどのような効果が期待でき、どのような問題が懸念されるのか。その全てを、具体的かつ客観的なデータと共に示していただきたい。そのレポートが、今後の議論の全ての土台となります」
それは、結論の先延ばしだった。
だが、この混沌とした状況においては、唯一可能な、現実的な一歩だった。
九条は、深く、深く頭を下げた。
「本日は、長時間にわたるご議論、誠にありがとうございました。これにて、第一回会議を閉会といたします」
閉会が宣言されても、代表者たちはすぐには席を立てなかった。
誰もが、その肩にのしかかった途方もない課題の重さに、押し黙っていた。
彼らの頭の中では、既に地元に戻ってからの熾烈な調整と、他の都道府県との水面下での駆け引きが始まっていた。
自分の故郷に、いかにして神の奇跡を呼び込むか。
そして、その奇跡がもたらすであろう光と影を、どうやってコントロールしていくのか。
日本の、最も長く、そして最も熱い季節が、始まろうとしていた。
神が気まぐれに投げ込んだ一つのサイコロが、この国の隅々にまで、欲望と希望、そして嫉妬と混乱の波紋を広げながら。
その全ての中心で、官房長官の九条は、ただ静かに、これから始まるであろう壮大な茶番劇の、その最初の幕が上がるのを待っていた。
彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。




