第226話
インド、ニューデリー。
南アジアを焼き尽くすような灼熱の太陽が、インディラ・ガンディー国際空港の滑走路を、陽炎で歪ませていた。
その日、この巨大な亜大陸は、有史以来経験したことのない種類の「熱」に包まれていた。
それは、モンスーンの湿気でもなければ、クリケットのワールドカップ決勝の興奮でも、選挙の熱狂でもない。
14億の民が、その魂の底から発する欲望と希望、そして生存への渇望が入り混じった、マグマのような熱気だった。
『Pradhan Mantri Dungeon Yojana(首相ダンジョン計画)』。
日本政府の強力なバックアップと、KAMIの気まぐれな承認によって実現したこの国家プロジェクトは、本日、ついにそのベールを脱ごうとしていた。
デリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、バンガロール、ハイデラバード、アーメダバード、プネー、スーラト、ジャイプル。
インド全土の主要10都市に出現した巨大な漆黒のゲート。
その周囲には、夜明け前から――いや、設置が発表された数日前から――数え切れないほどの人々が押し寄せていた。
その数、推定一億人以上。
日本の総人口に匹敵する群衆が、たった10箇所の穴を目指して動いているのだ。
鉄道は屋根の上まで人で溢れ、道路は車とオートリキシャ、バイク、そして人の波で完全に埋め尽くされ、クラクションの不協和音と人々の叫び声が、終わりのない轟音となって都市を覆っていた。
***
デリー市街、ゲート設置エリア「コンノート・プレイス」。
かつてのイギリス植民地時代の面影を残す、美しい白亜の円形広場は今や、鉄柵と有刺鉄線、そして自動小銃で武装したインド軍兵士によって、厳重に区画整理されていた。
だが、その柵の外側に広がる光景は、地獄の釜の蓋が開いたかのようなカオスだった。
「――押すな! 押すなと言っている! 列を守れ!」
「俺が先だ! 三日前から並んでいるんだぞ! ビハール州から歩いてきたんだ!」
「どけ! 俺には病気の娘がいるんだ! 通せ!」
怒号、悲鳴、祈り、マントラの詠唱。
極彩色のターバン、サリー、シャツが波のようにうねる。
人々が手に握りしめているのは、日本企業の技術支援によって製造され、政府から無償配布された廉価版だが、最新型のスマートフォンだ。
画面には『ダンジョン・ライセンス(通称:ダルマ・パス)』のQRコードと、そして運命の『入場整理番号』が表示されている。
この群衆の中に、一人の青年がいた。
名をラヴィという。
年齢は22歳。カーストは「ダリット(不可触民)」。
彼の仕事は、デリー郊外の富裕層の邸宅や下水管に入り込み、素手で汚物を掃除することだった。
マニュアル・スカベンジャー。
法的には禁止されているはずの、しかし現実に存在する、最底辺の職業。
日給300ルピー(約500円)。
休みはない。病気になればクビだ。体を壊せば野垂れ死ぬ。
彼の父親も祖父も、そのまた祖父も、同じ仕事をして死んでいった。
それが彼の「カルマ(業)」であり、変えようのない運命だと教えられてきた。
だが今日。
その数千年の運命が、ひっくり返ろうとしている。
ラヴィは震える手で、スマホの画面を見つめた。
政府が配ってくれたこの黒い板だけが、彼と世界を繋ぐ唯一の希望だった。
ボロボロのシャツに、素足にサンダル。武器など持っていない。
あるのは、道端の工事現場からくすねてきた、錆びた鉄パイプ一本だけだ。
だが彼の瞳には、かつてのような諦めや絶望の色はなかった。
あるのは、燃えるような飢えた獣の光だけだった。
「……17万ルピー」
彼は呪文のように、その数字を呟いた。
ラジオのニュースで聞いた数字だ。街の噂で聞いた数字だ。
日本やアメリカのF級ダンジョンでの、一日あたりの平均獲得収益。
17万ルピー(約30万円)。
この数字が、現代インドの経済感覚において、どれほどの破壊力を持つか。
先進国の人間には、想像もつかないだろう。
インドの都市部において、英語を話し、大学を出たエリート事務職の初任給でさえ、月給2万〜3万ルピー程度だ。
年収にして、ようやく24万〜36万ルピー。
工場のライン工なら月給1万ルピー、農村部なら月数千ルピーで生活しているのが現実だ。
つまり、ダンジョンでの「たった一日の稼ぎ」が、この国のエリートサラリーマンの「半年分」、あるいは「一年分」の年収に匹敵するのだ。
一般的な労働者にとっては、「数年分」の賃金が一日に凝縮されている。
ラヴィのような最底辺の労働者にとっては、もっと絶望的な、そして神話的な格差がある。
彼の日給300ルピーで計算すれば、17万ルピーを稼ぐには566日かかる。
約二年近く、一日も休まず汚物にまみれて働き続けなければ、決して手にすることのできない金額だ。
それが一日で手に入る。
たった数時間、あの黒い穴の中で命を賭けるだけで。
「二年分の命」が「一日」で買える。
これはもはや、経済格差の是正などという生易しい話ではない。
「時間の圧縮」であり、「人生の再構築」であり、そして「運命の改変」だ。
「……行くんだ」
ラヴィは鉄パイプを握りしめた。手が汗で滑る。
周囲を見渡せば、同じような境遇の男たちが何千、何万人といる。
彼らの目もまた、血走っていた。
人生を一発逆転させるチャンス。
バラモンに頭を下げず、地主に搾取されず、自分の力だけで未来を掴み取るチャンス。
それが今、目の前にある。
午前9時。
ゲートが起動する低い重低音が、デリーの空気を震わせた。
それは神の心臓の鼓動のようだった。
「ゲート・オープン!! 整理番号A-0001からA-5000まで進め!!」
軍のスピーカーが叫ぶと同時に、巨大なバリケードが開かれた。
整理券の番号順に、人々が吸い込まれていく。
ラヴィの番号は幸運にも早かった。
徹夜で並び、システムの不具合で揉める群衆を尻目に、必死で登録を済ませた甲斐があった。
彼は走った。
生まれて初めて、誰かの命令ではなく、自分の意志で、自分の未来のために全力で走った。
ゲートの漆黒の渦が、彼を飲み込む。
その瞬間、彼は心の中で叫んだ。
さらばクソったれの現実よ。
俺は今から人間になるんだ。
***
転移した先は、乾燥した赤土の迷宮だった。
F級ダンジョン『熱砂の回廊』。
日本の洞窟タイプとは異なり、インドの風土に合わせたかのような灼熱の太陽(のような光源)が照りつける、荒野のフィールドだ。
「うおおおおおおッ!! 神よ!! アッラーよ!! シヴァよ!!」
ラヴィの周囲で、何百人もの男たちが雄叫びを上げて駆け出していく。
彼らの装備は、あまりにも貧弱だ。
クリケットのバット、農具の鎌、錆びた包丁、レンガ、あるいはただの石塊。
日本の探索者が全身をオークションで競り落としたF級装備で固めているのに対し、彼らはほぼ生身に近い。
Tシャツにジーンズ、あるいはルンギー(腰布)一枚の者さえいる。
だが彼らには、「数」という圧倒的な武器があった。
「出たぞ! リザードマンだ!」
前方の岩陰から、二足歩行する巨大なトカゲの化け物が現れた。
KAMIの配慮により、「牛」ではなく「爬虫類」にスキンが変更されたモンスターだ。
鋭い爪と牙、硬い鱗を持つ捕食者。
本来なら、訓練を受けていない一般人が勝てる相手ではない。
だがインドの探索者たちは、一歩も引かなかった。
恐怖よりも、目の前の「金塊」を逃すまいとする執着が勝った。
「囲め! 袋叩きにしろ!」
「殺せ! あれは金だ! 1万ルピーだ!」
「俺の娘の学費だぁぁぁッ!」
一匹のモンスターに対し、十人、二十人、いや、五十人の人間が殺到する。
戦術もへったくれもない。
ただの暴力の嵐、生存本能の爆発だ。
石が投げられ、棒が振り下ろされ、鎌が鱗の隙間を切り裂く。
リザードマンが爪を振るい、数人が吹き飛ばされる。血が舞う。
だが倒れた仲間の負傷者を乗り越えて、さらに十人が飛びかかり、のしかかり、動きを封じる。
「ギャアアアッ!」
モンスターが悲鳴を上げ、光の粒子となって消滅する。
後に残ったのは、黒く輝く魔石。
「やった! 出たぞ!」
「魔石だ! 本物だ!」
男たちが歓声を上げる。
だが次の瞬間には、その目は次の獲物を探してぎらついていた。
怪我をした者もいる。腕を折られた者もいる。
だが誰も帰ろうとはしない。
痛みなど、貧困の苦しみに比べれば蚊に刺されたようなものだ。
ここで帰れば、またあの地獄の日常が待っているだけなのだから。
ラヴィもまた、無我夢中で鉄パイプを振るっていた。
目の前のリザードマンの頭蓋を、全体重をかけて砕く。
手に伝わる硬い衝撃。骨が砕ける感触。
そしてドロップした魔石を、泥だらけの手で拾い上げる。
温かい。
そしてずしりと重い。
これが1万ルピー。
彼が33日間、朝から晩まで汚物の中を這いずり回って、罵声を浴びせられながら、ようやく手にできる金額。
それが、たった数分の暴力と熱狂の中で手に入ったのだ。
「……ははっ」
笑いがこみ上げてきた。
狂っている。この世界は狂っている。
だが最高だ。こんなに公平な世界が他にあるか?
ここではカーストも関係ない。親のコネも関係ない。
ただ殴れば金が出る。それだけのシンプルな真実。
「次だ! もっとだ!」
彼は走った。
疲れも空腹も忘れて、ただひたすらに狩り続けた。
周囲では同じように狂奔する同胞たちが、イナゴの大群のようにダンジョンを埋め尽くしている。
日本人が「効率」を求めてスマートに周回するのに対し、インド人は「生存」を賭けて泥臭く蹂躙していた。
F級ダンジョンの生態系は、この圧倒的な「人口圧」と「飢餓感」によって、瞬く間に崩壊し、狩り尽くされていった。
モンスターがリポップ(再出現)するそばから、人間の波に飲み込まれていく。
一方で別の場所では、全く異なる光景が繰り広げられていた。
上位カースト、クシャトリヤ(武人)やバラモン(僧侶)階級出身の富裕層たちで構成されたエリート・パーティだ。
彼らは日本やアメリカから輸入した最新鋭のF級フル装備に身を包み、洗練された動きでモンスターを狩っていた。
「ふん、ダリット(不可触民)どもが。野蛮な戦い方だ」
リーダー格の男が、ラヴィたちの群れを蔑むように一瞥する。
彼らは装備の力で、無傷のまま効率よく魔石を回収していく。
「我々はスマートに行くぞ。装備の差を見せつけてやれ」
確かに彼らは強い。装備がある分、安全で効率的だ。
だがF級ダンジョンのような「数」がモノを言う世界では、装備の優位性も絶対ではない。
何より彼らには、ラヴィたちのような「失うもののない捨て身の狂気」が欠けていた。
***
そして夕刻。
ゲートの外、デリー市内に特設された巨大なギルド支部(というより巨大なテント村のような集積所)の前は、換金を待つ人々の熱気で蒸し返していた。
「――次の方!」
窓口の職員が声を上げる。
ラヴィは泥と汗とリザードマンの返り血にまみれた姿で、破れかけたポケットから魔石を取り出した。
合計12個。
そして運良く拾った『富のオーブ』が1個。
職員がスキャナーを通す。
スマホの画面に通知音が鳴り響く。
『入金確認:170,000 INR』
ラヴィは画面の数字を凝視した。
17万ルピー。
ゼロの数を何度も数え直した。幻覚ではないか。夢ではないか。
間違いない。
彼の年収の約2倍。
父親が死ぬまで働いても、借金を返すだけで精一杯で、決して貯められなかった金額。
妹を学校に行かせ、医者に診せ、綺麗な服を買ってやり、雨漏りしない屋根のある家に住まわせても、まだ余る金額。
それが今日一日。
太陽が昇ってから沈むまでの、たった数時間の労働の対価だった。
「……あ……ああ……」
彼はその場に崩れ落ち、アスファルトに額をこすりつけて泣いた。
周囲でも同じように、泣き崩れる者、狂喜乱舞して踊りだす者、空に向かって神に感謝を叫ぶ者で溢れかえっていた。
「神よ!」「KAMIよ!」「モディよ!」
あらゆる神と指導者の名前が叫ばれる。
今日この場所で、何万、何十万という「億万長者(ルピー換算での庶民感覚としての大金持ち)」が誕生したのだ。
***
その夜。
インドの経済は、文字通り「爆発」した。
ダンジョンから帰還した数十万人の「成金」たちが、その莫大な現金を(あるいはスマホの中のデジタル数字を)握りしめ、街へと繰り出したからだ。
デリーのスラム街近くにある家電量販店。
店内のテレビ、冷蔵庫、エアコン、洗濯機。
ありとあらゆる家電製品が、飛ぶように売れていく。
「これとこれ、あとあれもくれ! 一番いいやつだ! 現金だ!」
「配送? いらん! 自分で担いで帰る!」
「村に発電機を持って帰るんだ!」
店主は悲鳴を上げていた。
在庫が瞬時になくなったからだ。
バイクショップでは新車のオートバイが次々と売約済みになり、宝石店では金のネックレスや腕輪が枯渇した。
インド人は金を好む。それは富の象徴であり、最も信頼できる資産だからだ。
屋台のカレー屋でさえ「全部乗せ」を注文する客で長蛇の列ができている。
かつてはチャパティ一枚で空腹を凌いでいた男たちが、羊肉のカレーを腹一杯にかきこんでいる。
消費の爆発。
これまで経済の循環から外れていた数億人の貧困層が、一夜にして強力な購買力を持つ「中間層(あるいは富裕層)」へと変貌したのだ。
そのインパクトは、どんな経済政策よりも強烈で、そして無秩序だった。
一夜にして物価が乱高下する。
不動産価格が高騰する。
これまで安価な労働力として使われていた人々が、一斉に仕事を辞めてしまったため、都市機能の一部が麻痺し始めていた。
「リキシャが捕まらない! 運転手が全員、ダンジョンに行った!」
「ゴミ収集車が来ない!」
「建設現場が止まった!」
だが、その混乱さえも人々は笑い飛ばしていた。
「俺たちもダンジョンに行くさ!」と。
その光の裏で、社会の歪みもまた、極限まで達していた。
ニューデリーの高級住宅街、バサント・ビハール。
高カーストであるバラモンの地主ラージの豪邸では、緊急の家族会議が開かれていた。
豪華なリビングには、重苦しい空気が漂っている。
「……父上。使用人が全員、いなくなりました」
息子が青ざめた顔で報告する。
「料理人も掃除婦も庭師も。今朝、置手紙一つ残して消えました。『ダンジョンに行きます』と」
「な、なんだと!?」
ラージが激昂し、グラスを床に叩きつけた。
「あの卑しい者たちが! 誰のおかげで飯が食えていたと思っているんだ!
すぐに連れ戻せ! 給料を倍にしてやると言え! 警察に言いつけてやるぞ!」
「……無理です、父上」
息子は首を振った。
「彼らがダンジョンで稼ぐ額は、日給17万ルピーを超えています。
我々が払える月給の、いや年収の何倍もの額を、たった一日で稼いでいるのです。
……金で彼らを縛り付けることは、もう不可能です」
沈黙。
ラージは、自分の足元が崩れ落ちていくような恐怖を感じた。
カースト制度。
それは「清浄」と「不浄」の概念によって維持されてきたが、その実態は「経済的な従属関係」によって支えられていた。
下位カーストは、上位カーストに雇われなければ生きていけない。
土地を持たず、資本を持たない彼らは、労働力を安く売るしかなかった。
だからこそ、どんな屈辱的な扱いにも耐え、従ってきたのだ。
だが今、その前提が崩壊した。
彼らはもう、主人の慈悲にすがる必要はない。
ダンジョンという、誰にでも平等に富を与える神のシステムがある限り。
鉄パイプ一本あれば、誰でも社長以上の金を稼げるのだ。
「……秩序が壊れる」
ラージは震えた。
「金を持った彼らが土地を買い、店を出し、子供を学校に通わせ……そして我々と対等な口をきくようになる。
いや、我々を見下すようになるかもしれん。
そんなことが……そんなことが許されていいのか!?」
***
一方、別の場所では、「高カースト」であることのアドバンテージを活かした、より高度で、そしてよりえげつない動きも始まっていた。
ムンバイの超高層ビル、ナリマン・ポイント。
インド最大の財閥系企業の役員室。
そこには、最新鋭の日本製・アメリカ製装備(オークションで落札されたE級フルセットだ)に身を包んだ若きエリートたちの姿があった。
彼らは海外留学帰りのMBAホルダーであり、同時に剣術や射撃の訓練を受けたエリートだ。
「……ふん。下々の者たちがF級で泥遊びをしている間に、我々は先を行くぞ」
リーダーの青年ヴィクラムが冷笑を浮かべて言った。
彼らは資本力に物を言わせ、日本やアメリカから最高級の装備、そして「オーラジェム」を輸入していた。
防御力は鉄壁。回復アイテムは山積み。バフは完璧。
バット一本で特攻する貧困層とは、スタートラインが違う。
「我々の目標はE級、そしてD級の早期攻略だ。
下層民が数で稼ぐなら、我々は質で稼ぐ。
ユニークアイテム、高位エッセンス、そしてダンジョン深層の利権……。
それらを独占し、再び彼らを支配下に置くのだ」
「その通りです」
参謀格の男が頷く。
「それに彼らが得た魔石を買い取るのも、結局は我々の関連企業です。
彼らが家電を買えば我々が儲かる。彼らが家を建てれば我々が儲かる。
彼らが稼げば稼ぐほど、流通とインフラを握る我々も富む。
構造は変わりませんよ。ただパイが大きくなっただけです」
持てる者は、その資本力でさらに富み、新たな支配構造を築こうとする。
持たざる者は、数と命知らずの勇気でその壁を突き崩そうとする。
インドは今、数千年の歴史の中で最も激しく、そして最もダイナミックな「階級闘争」の渦中にあった。
武器はイデオロギーではない。
魔石とレベルと、そして暴力だ。
***
そして、その狂乱を遠く離れた場所から見守る者たちがいた。
東京・永田町。
首相官邸の地下モニターには、デリーのゲート前の混沌とした、しかし凄まじいエネルギーに満ちた映像が映し出されている。
「……凄まじいな」
沢村総理が呆気にとられたように言った。
「日当17万ルピー……。日本の感覚で言えば、日当数千万円が空から降ってくるようなものか。
そりゃあ社会もひっくり返るわな。誰も真面目に働かなくなる」
「ええ」
九条官房長官が冷静にデータを分析する。
「インド経済は今、まさに爆発的な成長期に入りました。
消費意欲の増大、新たな中間層の出現、そして魔石輸出による外貨獲得。
数年後にはGDPでアメリカや中国を抜く可能性すらあります。
……ただし、インフレと社会不安を制御できればの話ですが」
「だが、その副作用も大きい」
麻生大臣が、モニターの隅に映る暴動のニュースを指差した。
高カーストの屋敷が武装した低カーストの探索者集団に取り囲まれ、「土地を売れ」「水をよこせ」と要求している映像だ。
「カーストの崩壊と、それに伴う治安の悪化。
そして急激なインフレ。
インド政府がこの『成長痛』に耐えられるかどうか……。
モディ首相も胃が痛いだろうな。我々以上に」
「まあ我々としては」
沢村は苦笑した。
「彼らが稼いだ金で、日本の家電や車、そして中古のダンジョン装備を爆買いしてくれれば、それでいいのだがね。
コンサル料としては十分な見返りだ。
……あとは隣のパキスタンが暴発しないことを祈るのみだが」
日本は、この混乱を最大の商機と捉えていた。
インドの探索者が稼げば稼ぐほど、日本の高品質な装備や製品が売れる。
Win-Winの関係だ。少なくとも、経済的には。
その時。
部屋の隅にKAMIが現れた。
彼女はインド風のスパイスの効いたスナック菓子を食べながら、モニターを面白そうに眺めていた。
「あはは! すごい、すごい!
やっぱり人口が多いと絵面が派手ね!
一億人が一斉にレベル上げしてるとか、壮観だわ」
彼女はカースト崩壊のニュースを見ても、眉一つ動かさなかった。
「古い秩序が壊れて、新しい力が台頭する。
いいじゃない、歴史っぽくて。
人間社会のアップデート(再インストール)ってやつね。
痛みを伴う改革こそが、一番面白いドラマを生むのよ」
彼女はモニターに映る、パキスタン国境付近の緊張の高まり――インド側のダンジョン武装した軍と、それを警戒するパキスタン軍の睨み合い――を指差した。
「ま、隣の国とかは気が気じゃないでしょうけどね。
あっちもあっちで何かアクション起こさないと、座して死ぬだけだし。
人間同士の争いは減らないわねぇ」
KAMIはサモサを飲み込むと、満足げに言った。
「とりあえずインド・サーバーは稼働良好よ。
魔石の回収量も桁違いだし、私の『対価』もガッポリ貯まりそう。
質より量。これぞ人海戦術の勝利ね」
彼女はそう言い残すと、すっと姿を消した。
残された三人の男たちは、モニターの中の燃え上がるインド亜大陸を見つめ続けた。
14億の民が手にした「力」と「富」。
それが世界経済のバランスを崩し、新たな火種を生み出しつつある。
「……パキスタンへのケアも急がねばなりませんな」
九条が呟く。
「彼らが暴発すれば、核戦争のリスクすらある。
インドの独走を許しつつ、周辺国をどう宥めるか。
我々の仕事は、まだまだ山積みです」
インドの夜明け。
それは同時に、アジア全域を巻き込む巨大な地殻変動の始まりでもあった。
熱狂と混乱の中で、世界はまた一つ、後戻りできない変革の時を迎えていた。




