第223話
東京・永田町、首相官邸地下危機管理センター。
この場所は、神の気まぐれによって改変された世界に適応するため、不眠不休で稼働し続ける日本の心臓部である。
だが今日、この部屋に流れる空気は、いつもの対米・対中露交渉の際の冷ややかな緊張感とは異なり、どこか粘り気のある熱帯の湿気を含んだような、重苦しさに支配されていた。
KAMIによる「インドへのダンジョン設置」という唐突な神託。
国連での正式承認はまだ先だが、実務レベルでの調整は一刻の猶予も許されない。
日本政府は、KAMI直々の指名により、「ダンジョン導入コンサルタント」という名誉ある、しかし、あまりにも厄介な役割を押し付けられていたのである。
日本側の席には、九条官房長官(の本体)と、実務を取り仕切る内閣官房の精鋭たち。
対するインド側には、首相補佐官であり、インド行政職(IAS)のトップエリートであるラジェシュ・アグラワル次官と、各省庁の代表たちが顔を揃えていた。
「――ナマステ、九条長官。そして、日本の友人の皆様」
アグラワル次官が流暢な英語で、しかし深い憂慮を滲ませた表情で挨拶をした。
彼らの顔色は優れない。それも当然だろう。
14億の人口を抱える巨象・インドに、ダンジョンという劇薬を注入するのだ。
その副作用がどれほどのものになるか、想像するだけで胃に穴が開きそうになるのは、日本の官僚たちも痛いほど理解できた。
「ナマステ、アグラワル次官。
本日は、KAMI様より依頼されました『インドにおけるダンジョン運用システムの構築』に関する、第0回実務者調整会議となります。
国連の承認プロセスは難航しておりますが、現場が止まっていては、あのお方のご機嫌を損ねかねません。
見切り発車ではありますが、課題の洗い出しと対策の決定を進めておきましょう」
九条が事務的に、しかし力強く切り出した。
時間は限られている。
KAMIの気が変わる前に、あるいは彼女が「遅い」と痺れを切らす前に、最低限のフレームワークを作り上げなければならない。
「感謝します、日本側のご厚情に。
我々としても、ダンジョンの恩恵は喉から手が出るほど欲しい。
中国に、これ以上水をあけられるわけにはいきませんからな。
しかし……抱える問題が、あまりにも多すぎます」
アグラワルが、分厚い資料の束をデスクに置いた。
それは、多様性と混沌の国インドが抱える、解決不能に見える社会課題のリストだった。
「一つずつ、片付けていきましょう」
九条は手元のタブレットを操作し、最初の議題を表示した。
「まず第一に、経済の根幹に関わる『決済システム』についてです」
九条は、日本での経験に基づいたデータを提示した。
F級ダンジョン一つで動く金は、一日あたり数億から数十億円。
魔石の換金、アイテムの売買。それらが毎日、リアルタイムで行われる。
「探索者たちへの報酬支払いは、原則として即日・即金が基本です。
彼らは命がけで潜り、その日の糧を得るために換金所へ並びます。
支払いの遅延や滞りは、即座に暴動に直結するとお考えください。
日本の場合、当初は銀行振込と現金を併用しましたが、インドの場合どうされますか?
滞りなく魔石を換金するためには、各ダンジョン支部に莫大な量の紙幣を常備する必要がありますが」
その指摘に、インド財務省の代表が苦渋の表情を浮かべた。
「……現金ですか。
それは、我が国においては極めてリスクが高い選択肢と言わざるを得ません」
彼は説明を始めた。
「ご存知の通り、我が国では偽札の問題が依然として根深い。
ダンジョン周辺で大量の現金が動くとなれば、必ずそこに偽札組織が入り込み、マネーロンダリングの温床となるでしょう。
また、物理的な現金の輸送には強盗のリスクも伴います。
地方のダンジョンまで、毎日数億ルピーを現金輸送車で運ぶなど、ダコイト(盗賊団)に餌をやるようなものです」
「ふむ……。では、どうされますか?」
九条が問う。
「全て『電子マネー』に統一する方向で検討したい」
アグラワルが提案した。
「幸い、我が国には『UPI(統合決済インターフェース)』という世界に誇るデジタル決済基盤があります。
屋台のチャイ一杯から、高級車まで、QRコード一つで決済できるシステムが、既に国民の隅々まで浸透している。
魔石の換金も全て、探索者の銀行口座、あるいはデジタルウォレットへの直接送金のみとする。
現金は一切扱わない。これならば、偽札も強盗も防げます」
日本の官僚たちがざわめいた。
日本でさえ、完全キャッシュレス化には抵抗があった。
それを14億の国でやり切ろうというのか。
「……なるほど。システム構築のスピード感としては、それがベストかもしれませんね」
九条が頷く。
「しかし、懸念もあります。
ダンジョンに潜るのは、スマホや銀行口座を持てる層だけでしょうか?
貧困層、戸籍すら曖昧な人々が、一攫千金を夢見て集まってくるはずです。
彼らにデジタル決済を強制することは、事実上の参入障壁になりませんか?」
「……痛いところを突かれますな」
アグラワルが苦笑した。
「確かに、デジタル・ディバイド(情報格差)の問題はあります。
ですが、これを機に国民識別番号と銀行口座の紐付けを完全なものにし、地下経済を炙り出すというのも、モディ首相の悲願なのです。
『ダンジョンで稼ぎたければ、口座を作れ』。
これは強力なインセンティブになります」
「分かりました。日本としては、その方針を尊重します」
九条は結論づけた。
「ただし、通信インフラの脆弱な地方ダンジョンでのシステムダウンなど、リスクヘッジは必須です。
バックアップとしての現金用意、あるいはギルド専用のプリペイドカードの発行など、ハイブリッドな運用も視野に入れて検討してください。
……では、インド国内での調整をお願いします」
「承知しました」
ここまでは、まだ「通常」の行政課題だった。
問題は、ここからだ。
インドという国が抱える、宗教と伝統の、あまりにも巨大で、そして不可侵な壁。
九条は一度深呼吸をし、次のスライドを表示した。
そこには、F級ダンジョンの主要モンスターである『ミノタウロス』や『バイソン・ソルジャー』の画像が表示されていた。
「次に……極めてセンシティブな問題ですが。
『聖なる牛』問題についてです」
その画像が表示された瞬間、インド側の代表団全員の顔が引きつり、一部の者は目を背け、あるいは怒りの表情を浮かべた。
「……九条長官。これは冗談では済まされませんぞ」
アグラワルが震える声で言った。
「ヒンドゥー教徒にとって、牛は聖なる母、神々の宿る存在です。
その牛を……たとえモンスターとはいえ、剣で切り裂き殺し、その肉や骨を素材として剥ぎ取るなど……。
断じて、断じて許されることではありません!
もしダンジョン内に牛型のモンスターが出現し、それを殺すことを推奨するようなことになれば、暴動どころではありません。
宗教戦争が起きます。政権が転覆します!」
「重々承知しております」
九条は冷静に応じた。
「日本では単なる『敵キャラ』として処理できましたが、貴国ではそうはいかない。
牛を殺すことへの忌避感はもちろん、逆に『神聖な牛が襲ってくる』という状況自体が、信徒たちにパニックを引き起こすでしょう」
「その通りです。
牛は崇拝の対象であり、保護すべき存在。
それが人間に牙を剥くなど、世界観の崩壊です」
「ですので」
九条は提案した。
「日本政府からKAMI様に対し、強く、強く要請いたします。
『インド国内のダンジョンにおいては、牛型のモンスター、および牛を連想させる外見を持つ一切の存在の出現を禁止する』と。
これはダンジョン運営の円滑化のため、必須条件であると」
「おお……! それは可能ですか!?」
インド側の顔に希望の光が差す。
「KAMI様は、そのような文化的な配慮を聞き入れてくださるのでしょうか?」
「……保証はできませんが」
九条は言葉を濁した。
あの気まぐれな神のことだ。
『えー? 面白いじゃん』と言って却下する可能性もゼロではない。
だが、ここは政治力を見せる場面だ。
「彼女も、無用な混乱でダンジョンが機能不全になることは望まないはずです。
『牛を出すと、インド人がダンジョンに入らなくなる(ボイコットする)』という論理で説得します。
代替案として、他のモンスター……例えば、そうですね。
インド神話にも登場する『阿修羅』や『ナーガ(蛇神)』の類を増やす方向で調整してはいかがでしょう」
「ナーガですか……。
蛇ならば、まあ崇拝対象ではありますが、畏怖の対象でもありますから、戦うことへの抵抗は少ないでしょう。
少なくとも、牛よりはマシです。
ぜひ、その方向でKAMI様にお願いしたい!」
「了解です。では、これは日本側でKAMI様への折衝事項として引き取ります」
一つの地雷原を回避した。
だが、その先には、もっと根深く、そして解決の糸口さえ見えない巨大な断絶が待っていた。
九条は、最も重い議題へと移った。
「次に……カースト制度の崩壊と、それに伴う『力の逆転』についてです」
会議室の空気が、湿った重さに包まれた。
カースト。数千年にわたりインド社会を規定してきた身分制度。
法的には廃止されているが、現実の社会、特に地方部や結婚、就職においては、未だ厳然として機能している「見えざる壁」。
「ダンジョンは、完全なる実力主義の世界です」
九条は淡々と事実を述べた。
「そこでは、生まれも家柄も、親の職業も関係ありません。
モンスターを倒し、魔石を得た者が強くなり、富を得る。
もし……不可触民出身の若者がダンジョンで類まれな才能を発揮し、強力な装備とレベル、そして莫大な富を手に入れたら、どうなりますか?」
「……社会秩序が崩壊します」
インド内務省の代表が、苦渋に満ちた声で答えた。
「現在でも、指定カースト(SC)や指定部族(ST)への優遇措置を巡って、上位カーストからの反発や暴動が起きています。
それが国家の枠組みを超えた『超常的な暴力』と『経済力』を伴って、逆転現象が起きれば……。
バラモン(僧侶・知識階級)やクシャトリヤ(王族・武人階級)の若者が、かつて見下していたダリットの若者に力でねじ伏せられる。
そんな事態になれば、上位カースト層の怒りと恐怖は爆発するでしょう」
「逆に」
アグラワルが付け加えた。
「長年虐げられてきた下位カーストの人々が、ダンジョンの力を手に入れて『復讐』に走る可能性もあります。
『我々こそが新しい支配者だ』と。
それは内戦です。文字通りの階級闘争が、魔法と剣を使って行われることになる」
「これをどう制御するか、決めなければいけません」
九条は問いかけた。
「インドのIT業界のように、ダンジョンもまた『カーストの例外』として、新しい身分として認知させることは可能ですか?」
「……難しいですね」
アグラワルは首を振った。
「外国の方々は『インドのIT業界は実力主義でカーストがない』と仰いますが、それは一面的な見方に過ぎません。
実際には、高度な教育を受けられるのは上位カーストが多いため、結果としてIT企業の経営者やエンジニアも、上位カーストが占めている場合が多いのです。
構造的な格差は、ITという新産業の中でさえ再生産されている」
「ですが、ダンジョンは違います」
彼は続けた。
「初期投資こそ必要ですが、基本的には身体一つで成り上がれる。
教育も学歴もいらない。
肉体労働に従事してきた下位カーストの人々の方が、むしろ適性が高い可能性すらある。
この『流動性の高さ』が、既存の秩序にとっては脅威なのです」
「では、どうしますか?」
九条は、あえて極端な提案を投げかけた。
「カーストによってダンジョンの出入りを制限しますか?
例えば……『高カーストはC級以上の深層へ進めるライセンスを与えるが、低カーストはE級・F級までしか入れない』といった制限をかける。
これなら、魔石という労働力は確保しつつ、圧倒的な力の逆転は防げるかもしれません」
その提案に、インド側の一部から「それが現実的だ」という安堵のため息が漏れた。
だが、アグラワルは青ざめた顔で首を横に振った。
「……いえ、九条長官。それは危険すぎます」
「なぜです? 国内の安定のためには……」
「KAMI様の不興を買う可能性があります」
アグラワルは天を指差した。
「我々も研究しました。KAMI様の言動、行動原理を。
あのお方は『自由』と『混沌』、そして『個人の努力による成り上がり』を好まれる。
逆に、既得権益による『不当な制限』や『つまらない秩序』を、何よりも嫌う傾向がある。
もし我々がカーストという人間の古いルールで、彼女のゲームの参加者を不当に制限したと知れたら……」
「……『つまらないわね』の一言で、インドのダンジョンそのものを消滅させるかもしれませんな」
九条が、その言葉を引き取った。
「あるいは、逆に『面白いから』といって、虐げられた下位カースト全員に最強のユニークスキルを付与して、革命を扇動するかもしれない」
「ひぃっ……!」
インドの官僚たちが震え上がった。
神の怒りよりも、神の悪ふざけの方が恐ろしい。
「……あの人の機嫌を損ねるリスクを考えると、KAMIが定めたダンジョンという領域においては『例外』とするのが、最も安全な選択肢気がします」
アグラワルが脂汗を拭いながら結論づけた。
「ダンジョン内は、カーストフリーの聖域とする。
そこでの序列は、レベルとランクのみによって決まる。
……そう定義するしかありません」
「ですが、国内の保守派、特に支持基盤であるヒンドゥー至上主義団体などは納得しないでしょう」
「ええ。ですから、これは……持ち帰りさせて下さい。今ここでは決められません」
アグラワルは頭を抱えた。
「モディ首相と、そして宗教指導者たちとの、血の滲むような調整が必要です。
『ダンジョンの力は前世のカルマの結果である』とか、なんとか、宗教的な解釈を捏造してでも納得させるしか……」
「了解です」
九条は、それ以上は追求しなかった。
これはインド自身が乗り越えなければならない試練だ。
他国が口を出せば、火に油を注ぐだけだ。
「調整の健闘を祈ります」
とだけ、彼は伝えた。
「さて、次の議題です」
九条は画面を切り替えた。
そこに映し出されたのは、日本の通勤ラッシュを遥かに超える、インドの鉄道駅の殺人的な混雑映像だった。
「圧倒的な『人口圧』と、将棋倒しのリスクについてです」
14億人。
その巨大な人口が、一斉にダンジョンを目指して動いた時、何が起きるか。
物理的な質量としての「人」の波は、あらゆる管理システムを押し流す津波となる。
「現在、日本でさえF級ダンジョンの入り口は、数時間待ちの行列です。
インドの人口密度と、ダンジョンへの渇望感を考えれば……。
ゲートが開いた瞬間、数万人、数十万人が殺到し、将棋倒しで死者が出るのは確実です。
モンスターに殺される前に、人間同士で圧死する。
そんな悲劇は避けねばなりません」
「……耳が痛い話です」
アグラワルが頷く。
「我が国では宗教的な祭典などで、過去に何度も群衆事故が起きています。
ダンジョンという新たな『聖地』に人が集まれば、同じことが起きるでしょう」
「対策は、一つしかありません」
九条は、日本での経験を踏まえて提案した。
「『分散』です。
最初からF級ダンジョンを一箇所ではなく、最低でも10箇所、できれば20箇所に同時に設置するのです。
デリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、バンガロール……。
主要都市に分散させ、人の流れを散らすしかありません」
「10箇所……!」
「ええ。KAMI様には『人口比を考えれば妥当な数だ』と、日本から進言しておきます。
また、入場システムについても、日本の『整理券システム』と『顔認証予約』を導入してください。
物理的な行列を作らせない。
スマホでの予約者のみを、時間差で入場させる。
IT大国のインドならば、システムの構築は容易でしょう?」
「技術的には可能です。
ですが、スマホを持たない層はどうします?」
「そこは、各地の役所や登録センターで代行予約を行うなど、アナログな対応を組み合わせるしかありません。
とにかく『ゲートの前に人を溜めない』。これを徹底してください。
D-POLの警備ノウハウも提供します。日本の機動隊を指導役として派遣しましょう」
「感謝します。日本の『整列文化』は、我々が最も学びたいものの一つです」
そして、最後の議題。
それは国内問題を超えた、国際的な火種だった。
九条は地図を、インド国境付近へとズームさせた。
カシミール地方。
インド、パキスタン、中国が対峙する、世界で最も危険な係争地帯。
「パキスタン、および中国との軍事緊張についてです」
九条の声が、一段低くなった。
「インドにだけダンジョンができ、魔石という戦略物資と、レベルアップした超人兵士が手に入る。
隣国のパキスタンが、これを黙って見ているはずがありません」
「……『インドだけずるい』と言うでしょうな」
アグラワルが苦々しげに言った。
「彼らは間違いなく、国境付近での軍事挑発を強めてくるでしょう。
あるいは、テロリストを送り込んでダンジョンを破壊しようとするかもしれない。
『イスラムの同胞を差別するのか』というプロパガンダと共に」
「軍事衝突のリスクも跳ね上がります」
九条は警告した。
「ダンジョンの恩恵を受けたインド軍は、急速に強化されます。
パワーバランスが崩れれば、インド側からの『予防戦争』や、パキスタン側の『暴発』が起きかねない」
「我々は戦争を望んではいませんが……」
「ええ。ですが、KAMI様は、もっと望んでいません」
九条は神の視点を代弁した。
「KAMI様が戦争を嫌うのは、慈悲があるからではありません。
『戦争が起きると、人間が死んで、ダンジョンに潜るプレイヤー(労働力)が減るから』です。
彼女にとって人間同士の殺し合いは、『非効率なリソースの浪費』でしかない。
もしインドがダンジョンの力を使って戦争を始めれば、彼女はインドへのサービス(ダンジョン)を停止するでしょう。
『対価が減るから』という理由で」
「……それは困る」
アグラワルが本音を漏らした。
せっかく手に入れた繁栄の源泉を、戦争ごときで失うわけにはいかない。
「ですから、手を打つ必要があります」
九条は外交的な解決策を提示した。
「パキスタンとの関係を改善しつつ、彼らの不満を逸らすための『飴』を用意するのです。
例えば……『パキスタン国民への探索者枠の開放』です」
「なっ……!?」
インド軍の代表が色めき立つ。
「敵国の国民を、我が国のダンジョンに入れるのですか!?
スパイやテロリストを招き入れるようなものです!」
「ですが、完全に締め出せば彼らは暴発します」
九条は諭した。
「『限定的な枠』でいいのです。
厳格な身元調査をパスした者だけにビザを発給する。
そして彼らが持ち帰る魔石や富が、パキスタン国内の経済を潤せば、彼らもインドとの全面衝突を避けるようになるはずです。
『インドのダンジョンは、自分たちの飯の種でもある』と思わせるのです」
「経済的な相互依存による平和維持……ですか」
アグラワルが考え込む。
「……政治的には極めて困難な決断ですが、KAMI様の意向となれば、モディ首相を説得する材料にはなります。
『神が平和を望んでいる』と言えば、国民も納得せざるを得ないでしょう」
「中国については、我々からも働きかけます」
九条が請け負った。
「王将軍も、アジア全体が不安定化することは望んでいないはずです。
彼らには『インド洋ルートの安全確保』というメリットを提示して、牽制を緩めさせます」
会議は予定時間を大幅に超過していた。
だが、議論すべき課題の山は、まだその頂きさえ見えていない。
「……ふぅ」
アグラワルが疲れ切った顔で眼鏡を外した。
「日本の方々が、なぜあそこまでやつれていたのか、今ようやく理解できました。
神の恵みを受け取るというのは、これほどの苦行を伴うものだったのですね」
「ええ。祝福と呪いは、常にセットですから」
九条は自嘲気味に笑った。
「ですが、やるしかありません。
14億の民の未来が、あなた方の双肩にかかっているのですから」
「……肝に銘じます」
アグラワルは深々と頭を下げた。
「日本という先輩がいてくれて、本当に良かった。
これからも、どうかご指導を」
「こちらこそ。共に、この狂った世界を管理していきましょう」
九条は熱くなった端末を置き、天井を仰いだ。
「……終わりのない調整だ」
彼の口から本音が漏れた。
インドという巨大なカオスが、ダンジョンというシステムに組み込まれる時、世界はまた大きく揺らぐだろう。
その衝撃波を、日本は、そして世界は、耐えきれるだろうか。
彼は執務室の窓の外、明け初めた東京の空を見つめた。
今日もまた、眠らない一日が始まる。
神の気まぐれなシナリオの、次のページをめくるために。




