第24話
官邸の地下深く。
日本の最高意思決定機関である国家安全保障会議のメンバーが、神の新たな神託を前に喧々囂々の議論を繰り広げた、あの混沌の会議が終わってから数時間。
首相執務室には、沢村総理と九条官房長官、ただ二人だけが残っていた。
部屋には、重い、重い沈黙が支配していた。
彼らの目の前のテーブルに広げられた、一枚の巨大な日本地図。
それは、もはや単なる地図ではなかった。
これから彼らが挑まなければならない、人類史上最も巨大で、そして最も困難なパズルの盤面、そのものだった。
「……九条君」
長い沈黙を破ったのは、沢村だった。その声は、極度の疲労によって力なくかすれていた。
「私は今、自分が総理大臣なのか、それともどこかの巨大企業の中間管理職なのか、分からなくなる時があるよ」
九条は、何も答えなかった。だが、その気持ちは痛いほど理解できた。
彼らが今やっていることは、もはや政治でも、外交でもない。
気まぐれで、そして圧倒的な力を持つオーナー(神)から、次々と無理難題を押し付けられるプロジェクトマネージャーの仕事、そのものだったからだ。
「神の宿題か」と、沢村は自嘲するように呟いた。「異世界の次は、ゲート構想だと。我々の常識など、彼女の前では何の意味もなさないのだな。全く、ぶっ飛んだ神だ…」
そうだ。
彼らの神は、あまりにも自由奔放すぎた。
人類が、ようやく異世界という新しい現実に順応し始めたこのタイミングで。
今度は、その足元である地球そのものを、作り変えろと平然と命じてくる。
その思考の飛躍に、人間側の処理能力が全く追いついていなかった。
「……総理。感傷に浸っている時間は、ありません」
九条が、冷徹な、しかしその奥に同じ疲労の色を隠した声で言った。「我々がまず為すべきことは、一つ。アメリカとの連携です。このあまりにも巨大なプロジェクトを、我々だけで進めることはできない。そして、彼らにとってもこれは他人事ではないはずです」
「ああ、分かっている」
沢村は頷いた。「すぐに、トンプソン大統領に連絡を取ろう。この悪夢のような宿題を共有して、少しでも心の平穏を取り戻さないと、やっていられん」
その日の深夜。
東京とワシントンを結ぶ、最高レベルの機密回線、ホットラインが再び開かれた。
モニターに映し出されたトンプソン大統領の顔もまた、沢村と同じように、深い疲労と心労に刻まれて険しいものになっていた。
沢村は、この数時間で九条と共に練り上げた報告内容を、慎重に、そして正確にアメリカの盟友に伝えた。
神の新たな計画。
地脈エネルギーの抽出。
そして、その副産物として与えられる、国家規模のワープゲート網の建設。
モニターの向こう側で、トンプソンが息を呑むのが分かった。
彼は数秒間言葉を失っていたが、やがて呻くように言った。
『……サワムラ総理。君の言っていることは理解した。理解はしたが…信じがたい。我々がようやく異世界という新しいカードを手に入れて、世界の秩序を安定させようとしているこの瞬間に、だと? 我々の神は、なんとせっかちな御方なんだ…』
その、あまりにも人間臭いぼやき。
沢村は、思わず苦笑した。
そうだ。この世界のリーダーもまた、自分と同じ悩める中間管理職なのだ。
『それで』と、トンプソンは本題を切り出した。『そのゲートとやらは、我が国にも設置されるという認識で、間違いないな?』
「ええ。そのように伺っております」
『では、中国とロシアは? 彼らにも、この革命的なインフラが与えられるのか?』
トンプソンの声が、鋭くなる。
「いえ」と、沢村は首を振った。そして、神から与えられたあの恐るべき裁量権について説明した。
「KAMIは、こう申しておりました。『日米が安定稼働に成功すれば、次は中露も検討する』と。そして、『その交渉の全ては、日本政府に一任する』と」
その言葉を聞いた瞬間。
モニターの向こうのトンプソンとその側近たちの間に、緊張と、そして安堵が入り混じった複雑な空気が流れたのを、沢村は見逃さなかった。
『……なるほどな』と、トンプソンは呟いた。『ダメダメ。そんなもの、絶対にダメだ。とりあえず、日本とアメリカがこのシステムを完全に安定させるまでは、絶対にダメだ。だよな?』
その、最後の同意を求めるような問いかけ。
沢村は、深く頷いた。
「ええ。我々も、全くの同意見です。このあまりにも強力なインフラを彼らに与えるのは、時期尚早に過ぎる」
『だが、彼らは必ず要求してくるだろうな』と、トンプソンは苦々しげに言った。
「ええ。ですので、とりあえず我々の方から彼らには連絡だけはしておきます」と、沢村は答えた。「『現在、KAMIより新しいインフラ計画が提示されている。日米で、その安全性と有用性を検証中である』と。もちろん、『早く安定させろ』と突っ込まれることは、想定しておきますが」
二人のリーダーの間で、暗黙の合意が形成された。
このゲート構想は、当面、日米だけの最高機密とする。そして、中露に対しては巧みに情報をコントロールし、時間稼ぎをする。
それは、神から与えられた裁量権を最大限に利用した、二国だけの新たな秘密の共有だった。
『……ところでだ、サワムラ総理』
トンプソンは、話題を変えた。『そちらではもう、具体的な設置場所の検討に入っているのかね?』
その問いに、沢村は今日何度目か分からない、深いため息をついた。
「いえ、それが…」
彼は、先ほど行われた各省庁の次官会議の惨状を、ありのままにトンプソンに伝えた。
「日本政府内でも、先ほど会議をしたばかりなのですが、まず全国の担当者を集めて調整会議を開くと決めたばかりでして…。この国の官僚機構をご存知でしょう。合意形成には、途方もない時間がかかります」
その日本の苦悩を聞いた瞬間。
モニターの向こうのトンプソンが、まるで我が事のように巨大な呻き声を上げた。
『あー、ヤバい…!』
彼は、頭を抱えた。
『ということは、うちも全米の各州の知事を全員集めて会議を開かなければならん、ということか! うちも、頭が痛いぞ!』
そうだ。
アメリカには、五十の州がある。それぞれが、一つの国家のような強大な権限とプライドを持っている。五十人の知事たちの利害を調整するなど、まさに悪夢そのものだった。
『いや、便利になるのは間違いないのだが、そのための政治的な仕事量が天元突破するぞ!?』
その、あまりにも切実な叫び。
沢村は、思わず同情を禁じ得なかった。
「……それは、ご愁傷さまです」
『まじで、最悪の時に大統領になったものだ…!』
トンプソンは、天を仰いだ。
その姿は、もはや世界の覇権国家のリーダーではなかった。
ただ、あまりにも厄介な上司と面倒な取引先に板挟みにされる、中間管理職の悲哀そのものだった。
数秒の沈黙。
それは、太平洋を越えて二人のリーダーが互いの苦労と絶望を共有する、不思議な時間だった。
やがて、トンプソンは顔を上げた。その目には、いつもの勝負師の光が戻っていた。
『よし。愚痴は、これくらいにしておこう』
彼は、気持ちを切り替えた。『早急に、こちらも知事を集めて会議を開く。そして、こう言ってやる』
トンプソンは、不敵な笑みを浮かべた。
『『日本の諸君は、もう動き出している。この歴史的なプロジェクトで、我々アメリカが日本に負けるな!』と、煽ってやるよ』
その、あまりにもアメリカらしい解決策。
沢村は、思わず噴き出した。
そうだ。
競争。
それこそが、この面倒で困難なプロジェクトを前に進める、最大の原動力となるのかもしれない。
「……承知した、大統領。その挑戦、受けて立とう」
沢村もまた、不敵な笑みを返した。
「では、これくらいで」
ホットラインが、切断された。
後に残されたのは、奇妙な友情と、そして健全なライバル意識だった。
「ええ、ふー…」と、沢村は息を吐いた。「アメリカさんも、相当面食らってましたね」
「ですが、総理」と、九条が隣で言った。「競争のゴングは鳴らされました。もはや、一刻の猶予もありません」
「ああ、分かっている!」
沢村は、椅子から立ち上がった。その目には、もはや疲労の色はなかった。
あるのは、国家のリーダーとしての決然とした覚悟だけだった。
彼は、内線電話の受話器を取ると、矢継ぎ早に指令を下し始めた。
「九条長官! 直ちに、官邸直轄の『国家空間輸送戦略本部』を設置しろ! 関係各省の最高の頭脳を、今すぐ全員ここに集めるんだ!」
そして、彼は声を張り上げた。
「ゲート構想の担当者を、全員東京に集めるぞ! 全国の知事にも即刻知らせて、調整会議の日程を打診しろ! これはもはや、省庁間の問題ではない! 日本が一つの国として、一体となってこの歴史的なプロジェクトを成功させるんだ!」
その力強い声が、執務室に響き渡った。
日本という国家が、今まさに神がもたらした壮大な未来へと、その重い一歩を踏み出そうとしていた。
その先に、どんな混沌と苦難が待ち受けていようとも。
彼らは、もう進むしかないのだ。
アメリカという好敵手と競い合いながら。
そして、その全てを手のひらの上で面白そうに眺めている、気まぐれな神の視線を背中に感じながら。
日本の、そして世界の、最も忙しく、そして最も面白い時代が、今まさに始まろうとしていた。




