第215話
意識が、泥沼のような暗闇から浮上する。
ドミトリー・ヴォロノフが最初に感じたのは、寒さではなかった。
あの『氷獄の城塞』第5階層で、骨の髄まで凍てつくような冷気と、四方八方から叩きつけられる鈍器の衝撃、そして身体の自由を奪われる絶望的な無力感――それらが全て、嘘のように消え失せていた。
痛みもない。
恐怖もない。
重力さえも、曖昧だ。
彼は、ゆっくりと瞼を開けた。
そこには天井も壁も床さえもない、無限に広がる純白の空間があった。
光があるわけではない。空間そのものが発光しているかのような、影のない世界。
「……俺は、死んだのか」
自分の声が反響することなく、吸い込まれていく。
記憶は鮮明だ。
アイス・ウィッチの『沈黙』と『束縛』。
フロスト・ガードたちの包囲攻撃。
砕かれた腕。
削り取られるHPバー。
そして最後に見た、深紅のシステムメッセージ【YOU DIED】。
悔恨が胸を刺す。
慢心だった。ソロの限界を、自身の技量で超えられると過信していた。
あの時、撤退を選んでいれば。
あるいは、誰かと組んでいれば。
「――あら、意外と冷静ね」
不意に背後から、声がした。
聞き覚えのある、しかし直接耳にしたことはないはずの、鈴を転がすような少女の声。
ドミトリーが振り返ると、そこには非現実的な光景があった。
純白の虚空に、豪奢な装飾が施されたハイバックチェアが一脚、ぽつんと置かれている。
そしてそこに、黒いゴシック・ロリータのドレスを纏った少女が、足を組んで優雅に座っていた。
その手には湯気の立つティーカップ。
その瞳は深紅の宝石のように輝き、ドミトリーの魂の奥底までを見透かしている。
KAMI。
地球にダンジョンをもたらした、超越的な管理者。
「……KAMI様、か?」
ドミトリーは警戒し、腰の戦斧に手を伸ばそうとした。
だが手は空を切った。
装備がない。
いや、着ている服さえも、白い霧のようなもので構成された曖昧なイメージに過ぎないことに気づく。
「そうよ。初めまして、ロシアの英雄さん」
KAMIは紅茶を一口すすると、退屈そうに言った。
「ここは『境界の狭間』。あなたたち人間が『あの世』とか『リンボ』とか呼ぶ場所の、もっとシステム的な管理領域ね。
ようこそ。……そして、ご愁傷様」
「……俺は死んだ。それは認める」
ドミトリーは戦闘態勢を解き(そもそも戦える身体ではないが)、KAMIを直視した。
「だが、なぜ貴女がここにいる?
死んだ人間は、天国か地獄へ行くんじゃないのか?
それともここは、貴女が管理するゲームの『リスポーン地点』なのか?」
「ふふっ、鋭いわね」
KAMIは楽しそうに笑った。
「普通なら死んだ魂は、大きな流れに還って浄化されて、また別の命として循環するわ。
でもね、あなたは『特別』なのよ」
彼女は指先で、ドミトリーの胸のあたりを指した。
そこには彼の魂が、淡い青色の光を放って脈動しているのが見えた。
「ダンジョンのシステムを使ってレベルを上げ、魔石のエネルギーを吸収し、極限の戦いをくぐり抜けた魂。
それはね、ただの一般人の魂とは『質』が違うの。
高密度で、情報量が多くて、そして何より、強靭なエネルギーを秘めている。
いわば『養殖された極上の魂』よ」
KAMIは、まるで丹精込めて育てた果実を品定めするかのような目で、ドミトリーを見た。
「このKAMIが、死にっぱなしで納得するとお思いで?
せっかく育った貴重なリソース(魂)を、みすみす輪廻の彼方に流してしまうなんて、もったいないじゃない。
だから私が『獲た(キャッチした)』のよ。システムに還る直前にね」
「……獲た、だと?」
「ええ。あなたは私の所有物……と言ったら、人聞きが悪いかしら。
私の『管理下にある資産』になったの」
ドミトリーは眉をひそめた。
死してなお、何かに縛られるのか。
「悪い話じゃないわよ?」
KAMIはカップを置き、空中にいくつかのウィンドウを展開した。
「さて、レベルアップで育った魂は貴重よ。
あなたには選択肢があるわ。
ただ消滅するんじゃなくて、その強くてニューゲームな魂を使って、新しい『遊び場』を提供してあげる」
ウィンドウには、二つの選択肢が表示されていた。
【A:異世界転生(Reincarnation)】
【B:異世界転移(Transfer)】
「……なんだ、これは」
「読んで字の如くよ。
『転生』を選べば、記憶と経験値の一部を持ったまま、全く別の世界の赤ん坊として生まれ変われるわ。
剣と魔法の世界、SFの世界、あるいは平和な日常系。
あなたの希望に沿った世界の『有力な家系』とか『才能ある肉体』を用意してあげる。
いわゆる『チート転生』ね」
KAMIは、まるで旅行代理店のパンフレットを見せるように説明する。
「そして『転移』。
こっちは今のあなたの姿、人格、記憶を完全に保ったまま、別の世界に移動するの。
肉体は私が、こっちで再構築してあげる。
もちろんあなたが死ぬ直前に持っていた『最強の装備』も、そのままコピーして持たせてあげるわ」
「……装備を?」
「ええ。B級・氷河のプレートメイルに、D級ユニーク戦斧。
あれ苦労して揃えたんでしょ?
ロストするのは、惜しいものね。
私、優しいでしょ?」
KAMIは悪戯っぽく微笑んだ。
「上手く行けば、元の世界……地球に戻ることも出来るかもよ?」
その言葉に、ドミトリーの心が大きく揺れた。
地球。
残してきた家族。仲間。
そして何より、志半ばで終わったダンジョン攻略への未練。
「……戻れるのか?」
「可能性はゼロじゃないわ。
向こうの世界で、あなたが活躍して十分な対価を私に支払うか、あるいは次元を超えるような力を手に入れればね。
KAMIたる私にとって、生死なんて表裏一体の入れ替え可能なパラメータに過ぎないのよ?
死んだ人間を生き返らせることも、生きたまま別の場所に送ることも、コストさえ払えば造作もないことだわ」
生死は、入れ替え可能なパラメータ。
その傲慢で、しかし絶対的な神の論理。
ドミトリーは戦慄と同時に、奇妙な納得感を覚えていた。
この存在にとって、人間の一生などゲームの1プレイに過ぎないのだと。
「……なるほど。話は分かった」
ドミトリーは腕を組んだ(魂の状態だが、その感覚はあった)。
「だが、その前に一つ聞きたいことがある」
「なあに?」
「俺が死んだ後の世界は……地球はどうなった?
俺の死は、無駄ではなかったのか?」
彼は、自分の死が他の探索者たちへの教訓になったのか、あるいは単なる犬死にとして処理されたのか。
それを知りたかった。
トップランカーとしての矜持が、そう問いかけさせた。
その問いに、KAMIは心底つまらなそうに、そして不満げに頬を膨らませた。
「ああ、それね……。
はぁ……」
彼女は、深いため息をついた。
「ソロ、厳禁になったわよ」
「……は?」
「あなたの死を受けて、四カ国の政府とギルドが大騒ぎしてね。
『B級以上での単独行動を禁止する』っていう緊急声明を出したの。
パーティ必須。ソロお断り。
おかげで私の計画が台無しよ」
KAMIは苛ただしげに、指先で虚空を叩いた。
「私、手駒増やしたいからサクサク死んでも良いんだけど……。
まあ四カ国が許すわけないでしょうね。
あいつら、人間の命を『貴重な国家資産』だと思ってるから、過保護すぎるのよ」
彼女は空中に、別のグラフを表示した。
そこには『年間死亡者数予測』という、物騒なタイトルがついていた。
「当初の計算じゃ、B級解禁初年度で、欲をかいた馬鹿なソロプレイヤーを中心に『年3000人』くらいの死者を見込んでたのよ。
その魂を回収して、別の並行世界の戦力として再利用するつもりだったのに。
今の調子じゃ、年100人も怪しいわね」
3000人の死。
それを「見込み」として計上し、達成されなかったことを「不満」として語る。
この神の倫理観は、人間とは決定的に乖離していた。
「……フッハハハハ!」
ドミトリーは思わず、笑い声を上げた。
「そうか。俺の死のおかげで、世界はビビって縮こまったか!
3000人が死ぬはずだった地獄を、俺一人の命で塞き止めたわけだな!
……悪くない。俺の死にも価値はあったようだ」
彼はヴォルコフ将軍や仲間たちが、自分の死を無駄にせず、即座に対策を講じたことに感謝した。
ソロの自由が失われたのは残念だが、犬死にが減るなら、それに越したことはない。
「あなた、変なところでポジティブね」
KAMIは呆れたように言った。
「まあいいわ。地球の供給が減った分は、他で補うしかないし。
……で、どうするの?
選択肢は、もう一つあるわよ」
彼女は三つ目のウィンドウを開いた。
【C:待機(Waiting)】
「転生も転移も拒否する場合。
あなたを私の『労働力』として、この亜空間、あるいは私の管理する異世界のバックヤードで働かせるわ。
仕事は、ダンジョンのメンテナンスとか、モンスターの行動パターンの調整とか、データ整理とか。
地味だけど、安全よ」
KAMIは甘い言葉を囁いた。
「待機中は、贅沢し放題よ?
好きな映画を見てもいいし、最高級の料理を食べてもいい。
労働時間以外は、永遠のバカンスを楽しめるわ。
戦いに疲れたなら、ここでゆっくりするのも悪くないんじゃない?」
永遠の安息。
苦痛も、死の恐怖もない管理された楽園。
多くの人間ならば、それに飛びついたかもしれない。
だがドミトリー・ヴォロノフという男は違った。
彼はシベリアの永久凍土で育ち、拳一つで地下格闘技を生き抜き、そして誰よりも早くダンジョンの深淵に挑んだ男だ。
安寧など、彼にとっては退屈という名の死と同義だった。
「……ハハハ。贅沢し放題か。魅力的ではあるな」
ドミトリーは笑い飛ばした。
「だが断る。
俺は管理室でモニターを眺めるような性分じゃない。
現場で血と汗を流して、ギリギリの勝負をしている時だけが、俺が生きていると感じられる瞬間なんだ」
彼はKAMIを、真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、死んだはずの男とは思えない燃えるような闘志が宿っていた。
「異世界転移、ですか。ぜひお願いしたい」
彼は即答した。
「転生して赤ん坊からやり直すのは面倒だ。
俺は、この身体と、この技術に愛着がある。
装備もそのままで行けるなら、好都合だ。
……新しい世界には、もっと手強い奴らがいるんだろう?」
「ええ、もちろん」
KAMIは嬉しそうに口角を上げた。
彼女はこういう「わきまえない」人間が大好きだった。
「あなたがこれから行く世界はね……そうね、『グラシアス』とでも呼ぶべき場所よ。
地球よりもマナ濃度が高く、魔法文明が発達しているわ。
そこでは今、『魔王』と呼ばれる存在が台頭して、人類種を脅かしている。
典型的なファンタジー戦記の世界ね」
彼女は指をパチンと鳴らした。
ドミトリーの身体が、光に包まれて実体化していく。
失われたはずの肉体が再構築され、愛用していた『氷河のプレートメイル』がその身を包む。
手には、あの戦斧の冷たい感触が戻ってくる。
「あなたのミッションは自由よ。
魔王を倒して英雄になるもよし、魔王軍に寝返って世界を征服するもよし。
あるいは、ただの冒険者としてダンジョンを巡るのもいいわ。
……ただし」
KAMIは、一つの条件を付け加えた。
「私を、楽しませてちょうだい。
あなたの冒険が、最高のエンターテインメントになることを期待しているわ。
その対価として、あなたが『元の世界に帰る』ためのヒントを、いずれ教えてあげるかもしれない」
「……了解した。
スポンサーへのサービスは、プロの義務だからな」
ドミトリーは斧を肩に担ぎ、不敵に笑った。
「地球ではソロは禁止されたらしいが……。
向こうの世界じゃ、ソロで暴れても文句は言われないんだろう?」
「ええ、好きになさい。死んでも自己責任よ」
「上等だ。
今度は死なん。
あの時のようなミスは、二度と犯さん。
……行ってくる」
彼の足元に、転移の魔法陣が展開される。
まばゆい光が溢れ出し、白い空間を染め上げていく。
「じゃあ、いってらっしゃーい」
KAMIは、まるで友達を見送るように軽く手を振った。
「頑張って戻って来るのよ?
……まあ戻ってこれなくても、魂はまた回収してあげるけどね」
シュンッ!
光が弾け、ドミトリーの姿は消えた。
彼は旅立ったのだ。
地球という狭い箱庭を飛び出し、更なる混沌と冒険が待つ、未知なる世界へと。
***
後に残された白い空間。
KAMIは一人、優雅に紅茶をすすった。
「……ふふ。良い駒が手に入ったわ」
彼女は空中に、無数のウィンドウを展開した。
そこには地球だけでなく、数多の並行世界、数多の異世界の光景が映し出されている。
英雄が剣を振るい、魔王が笑い、そして名もなき人々が運命に抗う姿。
「地球の探索者たちは優秀ね。
システムへの適応力が高くて、成長が早い。
ドミトリーだけじゃない。
これからB級、A級と進むにつれて、もっと多くの『強い魂』が私の元へ送られてくるでしょう」
彼女はモニターの一角に映る、地球のニュース映像を見た。
『B級ダンジョン、ソロ禁止令』。
『各国政府、安全対策を強化』。
「人間たちが必死に、死なないように頑張ってるけど……。
でも冒険に死は付き物よ。
どれだけルールを作っても、どれだけ装備を固めても、運命のサイコロが『1』を出せば、人は死ぬ」
彼女は微笑んだ。
「そして死んだ彼らは、私の手駒となって、新しい世界で第二の人生を始める。
無駄がないわね。完璧なリサイクル・システムだわ」
KAMIにとって地球は、ただの「牧場」であり、「選別場」に過ぎないのかもしれない。
そこで育った優秀な魂を収穫し、より高次のゲームへと投入するための。
だが、それは人間たちには関係のない話だ。
彼らは彼らで、今の生を必死に生きるしかないのだから。
「さあ、次は誰が来るかしら?」
彼女は空になったティーカップを置き、次の訪問者を待つように静かに目を閉じた。
神の遊戯は、次元を超えて無限に広がっていく。
一方、地球では。
ドミトリーの死を乗り越え、結束を固めた探索者たちが、今日もB級ダンジョンへと挑んでいた。
彼らは知らない。
死んだ英雄が今頃、別の世界でドラゴン相手に大立ち回りを演じていることを。
そして自分たちもまた、死ねば、その冒険に参加する資格を得られるかもしれないことを。
死は終わりではない。
KAMIの掌の上では、それすらも新たなスタートラインに過ぎないのだった。




