第23話
あの日、橘栞の分身であるゴシック・ロリータ姿の少女が首相官邸を再び訪れ、そして去っていってから、わずか三十分後。
官邸の地下深く。危機管理センターの一室に、日本の行政を実質的に動かしている四人の男たちが、緊急招集されていた。
内閣官房副長官の呼び出しという、最高レベルの命令。彼らは、それぞれが担当していた重要閣議や省内会議を、文字通り放り出してここに駆けつけたのだ。
一人は、財務省の事務次官。日本の財政を一手に握る、最強官庁のトップ。
一人は、国土交通省の事務次官。国のインフラと未来の形をデザインする、巨大官庁のトップ。
一人は、総務省の事務次官。全国の地方自治体との関係を調整する、官僚機構の要。
そして一人は、防衛省の事務次官。国の安全保障を担う、実力組織のトップ。
彼らこそ、選挙で選ばれる政治家とは異なり、その専門知識と行政手腕でこの国を日々動かしている、官僚機構の頂点に立つ男たちだった。
「……お集まりいただき、感謝する」
部屋の主である官房長官の九条が、その鉄の仮面のような無表情で一同を見渡した。
部屋の空気は、異様な緊張感に包まれていた。この四人が同時に呼び出されるなど、東日本大震災の時以来の異常事態だったからだ。
「単刀直入に、本題に入る。先ほど、我々の協力者…コードネーム『KAMI』が、我々に新たな国家プロジェクトを提示してきた」
九条はそう切り出すと、目の前のモニターに一枚の地図を映し出した。
それは、日本列島の地下に無数の光の筋が走る、『地脈』の概念図だった。
そして彼は、神が語ったあまりにも壮大な計画の概要を、淡々と、しかし一言一句違わぬように説明し始めた。
地脈エネルギーの、対価としての抽出。
そして、そのための副産物として、日本全国を結ぶワープゲート網の建設。
その説明が終わった時。
数秒の沈黙の後、会議室は爆発した。
「ちょ、ちょっと待て、待て、待て!」
最初に叫んだのは、国土交通省の次官だった。彼は、普段の冷静沈着なエリート官僚の姿からは想像もつかないほど、狼狽していた。
「日本全国をワープゲートで繋ぐ? 馬鹿な! そんな事が本当に可能なのか!? いや、可能だとして、そんなことをすればこの国の交通網も物流も経済も、全てが一瞬で崩壊するぞ! やばすぎるだろ、それは!」
「経済への影響も計り知れない」と、財務省の次官も苦虫を噛み潰したような顔で続けた。「全国の不動産価値は、完全にリセットされる。高速道路も、新幹線も、空港も、その価値の大半を失う。我々がこれまで何十年もかけて築き上げてきた国家のインフラ資産が、一夜にして無価値になるかもしれんのだぞ!」
「問題は、それだけではありませんな」
一番深刻な顔をしていたのは、総務省の次官だった。彼は、地方自治の守護者としての立場から、この計画の最も厄介な問題点を指摘した。
「そのゲートとやらを、どこに設置するのですか? もし我々中央政府がそれを勝手に決めたら、一生恨まれるぞ。選ばれた都市と、選ばれなかった都市。その間に生まれる格差は、もはや取り返しのつかないレベルになる。全国の知事や市町村長から、どれほどの突き上げを食らうか。考えただけで頭が痛い。各都道府県の担当者を全員集めて、巨大な調整会議を開くしかないぞ!」
そのあまりにも官僚的な、しかしあまりにも現実的な意見。
それに噛み付いたのは、財務省の次官だった。彼は、根っからの中央集権主義者だった。
「馬鹿を言え! はー、そんな会議をしていたら一年掛かるでしょ! 下手をすれば、数年だ! その間、神を待たせるとでも言うのか? 所詮、県の言うことなど聞いていたら、永久に決まりませんよ! これは国家百年の計だ。細かい地方のエゴなど無視して、我々霞が関がトップダウンで全て決めて実行すれば良いじゃないですか!」
「君は、地方の現実というものを分かっていない!」と、総務省の次官が激昂する。「いやー、仲間外れにして後で恨まれるのは、我々日本政府なんだよ? 地方の協力なくして、国家プロジェクトなど進められるものか! 最初からそこは、しっかりと決めなければ後で必ず禍根を残す!」
「そもそもだ」と、防衛省の次官が冷静に口を挟んだ。「そのゲートの安全保障は、どうなっている? テロリストがゲートを一つ占拠すれば、一瞬で日本のどこへでも移動できるということになる。全てのゲートの警備を、誰がどう担当するのか。警察か? 自衛隊か? それだけでも、膨大な人員と予算が必要になる」
議論は、完全に紛糾した。
神がもたらした、一つのあまりにも巨大なテクノロジー。
それが、日本の官僚機構の縦割りの壁と、それぞれの省益、そして政治的な思惑と衝突し、大混乱を引き起こしていた。
「……まあ、落ち着け」と、国土交通省の次官が少し冷静さを取り戻して言った。「KAMIの話では、ゲートは地脈のエネルギーを抽出するためのものだ。交通網は、あくまで副産物。ならば、彼女にお願いすれば、あとから付け足したり修正したりできるだろうし、そこまで深刻に考える必要はないのでは?」
「いや、それは違う!」と、総務省の次官が即座に否定した。「最初の設置場所が、肝心なのだ! 一度決めてしまえば、それが既成事実となる! 後から追加すると言ったところで、最初の選定から漏れた自治体の不満は、決して消えんよ!」
「では、どうするのだ!?」
「だから、会議を開くしか…」
「その会議が、一年かかると言っている!」
堂々巡り。
まさに、不毛。
九条は、そのあまりにも人間臭く、そしてあまりにも非効率な議論を、ただ黙って聞いていた。
彼は、理解していた。
これが、民主主義国家の限界であり、そして美点でもあるということを。
神のように、独裁的に物事を決めることはできない。
だが、その面倒なプロセスこそが、国家の分裂を防ぐ唯一の安全装置なのだと。
「……一つ、よろしいかな」
九条は、白熱する議論に静かに水を差した。
「皆様、先ほどから根本的な勘違いをされているように思える」
「勘違い、ですと?」
「ええ」と、九条は頷いた。「まてまて。お前ら、各県に一つだけゲートが設置されると、勝手な想像をして話してはいないかね?」
その一言に、四人の次官たちは、はっとしたように顔を見合わせた。
確かに、そうだ。
彼らは無意識のうちに、「一県=一ゲート」という前提で話を進めていた。
「KAMIが提示した設置の最低条件は、何かね?」と、九条は続けた。「それは、『龍脈のある場所』。ただ、それだけだ。それはつまり、こう解釈できる」
彼は、モニターの地図を指さした。
「龍脈が集中している都道府県には、県内に複数箇所、ゲートが設置して貰えるかもしれんぞ? 逆に、龍脈が通っていない不運な県には、一つも設置されないという可能性さえある」
「あー…それは、そうですね…」
総務省の次官が、呻いた。
その可能性に、全く思い至らなかった。
そうなれば、事態はさらに複雑化する。
都道府県単位での争いでは、なくなる。
市町村単位での、血で血を洗う誘致合戦が始まるだろう。
それは、もはや地獄だった。
「……こうなれば」と、国土交通省の次官が弱々しく言った。「まず神を呼んで、そこら辺を詳しく聞かないと、計画の立てようがありませんな。その『龍脈』とやらが、具体的にどこを通っているのか。その地図を提供していただかないと」
「駄目だ」
九条は、その甘い提案を即座に否定した。
「まてまて。神は忙しい。そう簡単にお会いできる御方ではないぞ。それに、地脈の正確な位置情報は、国家の最高レベルの機密事項になり得る。それを我々が安易に、『教えてくれ』とねだってどうする。彼女は、我々に『場所の指定があるなら聞く』と言ったのだ。それは、我々の主体性を試しているのだ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
彼らは、試されているのだ。
神から与えられたあまりにも巨大な力を、自分たち人間の叡智で使いこなせるのかどうかを。
「……では、どうすれば…」
「とりあえず」と、九条は結論を下した。「我々が前提として設置する場所を決める必要があるという、この一点に変わりはない。そして、その合意形成が今この場で無理なのであれば。残された道は、一つしかあるまい」
彼は、総務省の次官の顔をまっすぐに見据えた。
「各都道府県の担当者を全員集めて、大規模な調整会議を開くしかあるまい」
それは結局、議論の振り出しに戻っただけだった。
しかし、その意味合いは全く異なっていた。
彼らは今、自分たちがこれから足を踏み入れようとしているのが、神の力を巡る日本全国の欲望が渦巻く、泥沼の政治闘争であることを、明確に自覚したのだ。
会議が終わった。
四人の次官たちは皆、部屋に入ってきた時よりも遥かに深い疲労と絶望をその顔に浮かべて、それぞれの省庁へと戻っていった。
後に残された九条は、一人、執務室で巨大な日本地図を広げた。
「……やれやれ。面倒なことになったな」
彼は、珍しく人間臭いため息を、一つついた。
これから始まるのだ。
全国の知事たちとの、終わりの見えない交渉。
各省庁の利権を巡る、醜い縄張り争い。
そして、その全てを背後で操るアメリカとの、水面下の駆け引き。
その全ての中心に、彼一人が立たなければならない。
神の代理人として。
彼は、地図の上の東京を指でなぞった。
この国の未来は、どうなるのか。
神のワープゲートは、この国をユートピアへと導くのか。
それとも、新たな格差と対立を生み出すだけの、パンドラの箱となるのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
物語は今、神の視点から離れ、その神の力に振り回される人間たちの、滑稽で、そして必死な、泥臭いドラマへとその焦点を移そうとしていた。
そして、その最初の幕が、今まさに上がろうとしていた。
日本中が、神の気まぐれな贈り物に狂喜し、そして嫉妬する新しい時代の始まり。
九条は、その混沌の始まりを、ただ静かに見つめていた。




