第201話
光のグリッドが無限に広がる、電子の虚空。
上下左右の概念さえ曖昧なその空間で、多国籍調査団の精鋭たちは、自らの存在の輪郭を必死に保ちながら、前方の輝点へと泳ぐように進んでいた。
肉体を持たない、魂だけの存在。
思考がダイレクトに空間に反映され、少しでも気を抜けば、自我が情報の波に溶け出してしまいそうな、甘美で危険な浮遊感。
「――いたぞ! あそこだ!」
先頭を進んでいたバーンズ大佐が、意識の波動で叫んだ。
彼が指し示した先、膨大なデータの奔流が渦巻く中心に、一人の男が漂っていた。
フランスの考古学者、デュポン博士だ。
彼は周囲を取り囲む無数のホログラム・ウィンドウ――いや、歴史の断片そのものに埋もれ、恍惚とした表情を浮かべていた。
「デュポン博士!」
バーンズが加速し、博士の元へと肉薄する。
その背後にはロシアのスペツナズ、中国の魔導師、そして日本の自衛官たちが、警戒態勢を取りながら続く。
ここが敵地であるのか、それとも単なる図書館であるのかさえ判然としない。
だが彼らの戦士としての本能は、最大級の警鐘を鳴らし続けていた。
近づくにつれて博士が見ている「映像」が、バーンズたちの脳裏にも流れ込んでくる。
それは石畳の街並み、馬車の音、民衆の怒号。
そして、ギロチンの刃が落ちる鋭い音。
18世紀のフランス。革命の狂騒。
教科書や絵画でしか知らなかった光景が、まるでその場にいるかのような圧倒的な解像度と臨場感で、全方位から迫ってくる。
「……素晴らしい。なんという……なんという……!」
デュポン博士は、バーンズたちが近づいてきたことにさえ気づいていない様子だった。
彼は虚空に浮かぶ映像の一つ一つを、まるで愛しい恋人の肌を撫でるかのように、震える手で触れようとしていた。
「博士! デュポン博士!」
バーンズが博士の半透明な肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
物理的な接触感はない。
だが意思の力が干渉し合い、博士の意識が強制的に現実へ引き戻される。
「……あ? ああ……?」
博士の焦点の定まらない目がバーンズを捉える。
一瞬の困惑。
そして、すぐに彼の目は再び、狂気じみた歓喜の色に染まった。
「おお! 大佐! 君たちも来たのか!?」
博士はバーンズの手を握り返し(という概念的な動作をし)、叫んだ。
「見たまえ! これを見てくれ!
素晴らしいよ、このアーカイブは!!!
ここには全てがある!
失われたはずの歴史が、嘘偽りのない真実が、全て記録されているんだ!」
彼は周囲の光の渦を指し示した。
「あれはバスティーユ襲撃の真実だ!
歴史書に書かれていない、民衆の熱気、指導者たちの密談、裏切りの瞬間……全てがここにある!
いや、フランスだけではない!
あっちを見ろ!
あれはローマ帝国のカエサルの最期だ! ブルータスの短剣が光るのが見える!
その向こうには、秦の始皇帝の即位式が!
ここは……ここは地球の全てを記憶している、まさに『アカシックレコード』だ!!!」
アカシックレコード。
宇宙の全ての事象、過去・現在・未来の全ての記憶が記されているとされる、神秘学上の概念。
三神編集長が推測した通り、このピラミッドの中枢は、地球上のあらゆる情報を記録・保存する、超次元の巨大サーバーだったのだ。
その光景に、同行していた佐伯(月読研究所のプログラマー)もまた、魅入られたように呟いた。
「……信じられない。
これほどのデータ量、これほどの保存期間……。
一体どんなストレージを使えば……いや、そもそもどうやって記録したんだ?
全人類の視覚・聴覚を、ハッキングでもしていたのか……?」
「感動している場合か!」
バーンズが一喝した。
彼はこの空間の危険性を、肌で感じ取っていた。
ここに長居すればするほど、自分の「個」という輪郭が希薄になっていく。
膨大な情報の海に、一滴の水として溶け込んでしまいそうな、抗いがたい引力。
「博士、分かりましたから! 一旦キャンプに戻りましょう!
我々はそのために来ました! 救助任務です!」
バーンズは博士の腕を引き、出口――彼らが入ってきたゲートの方向へと引っ張ろうとする。
「ま、待ってくれ!」
デュポン博士が、子供のように抵抗した。
「まだ来たばかりだ! まだ何も見ていない!
フランスの歴史を、まだ見たいんだ!
マリー・アントワネットの最期の言葉を、この耳で聞きたいんだ!
ジャンヌ・ダルクの神託が本物だったのか、確かめねばならんのだ!
これを置いて帰るなんて、学者としてできるわけがない!」
「博士! 時間など、いくらでもあります!」
バーンズは必死に説得する。
「ここは逃げません!
調査団が拠点を確保すれば、また改めて調査に来れます!
ですが今は、貴方の安全を確保するのが最優先だ!
肉体を放置したまま、魂だけで長時間は持ちません!
戻れなくなるぞ!」
「嫌だ! 離せ! 私はここに残る!」
「ええい、面倒な!」
バーンズはロシアのスペツナズ隊員に目配せをした。
屈強なロシア兵二人が、左右から博士の精神体を拘束する。
「し、失礼します博士。強制連行です」
「な、なにをする! 離せ!
これは人類の至宝だぞ! 暴力反対!」
「ここは一旦帰りましょう! 総員、撤収!」
バーンズの号令と共に、調査隊は、もがく博士を引きずりながら光のグリッドを逆走し始めた。
後ろ髪を引かれる思いは、佐伯や三神にもあった。
目の前に広がる無限の知識。
それを置いていくのは、砂漠でオアシスを見つけて、水を飲まずに去るようなものだ。
だが彼らはプロフェッショナルだった。
指揮官の命令は絶対であり、生きて帰ることが最優先事項であると知っていた。
「……わ、わかった。わかったから、乱暴にするな!」
ゲートの出口が見えてきた頃、ようやくデュポン博士も観念したようだった。
「名残惜しいが……仕方がない。
だが約束してくれ、大佐!
必ず、必ず、またここに戻ってくると!」
「約束します! だから足を動かしてください!」
彼らは光の渦へと飛び込んだ。
電子の海から、肉の檻へ。
強烈な圧縮感とめまいが、彼らを襲う。
シュンッ!
ピラミッドの前庭。
設営されたばかりのベースキャンプに、調査隊の姿が実体化した。
「……ぐッ……!」
「うっ……」
隊員たちが一斉に膝をつき、激しい嘔吐感に襲われる。
魂と肉体の再結合に伴う、強烈な拒絶反応。
三神もサングラスをずらし、額の汗を拭いながら、荒い息を吐いた。
「……はぁ、はぁ。
キツいですね、これは……。
幽体離脱から戻った時のような……いや、それ以上の負荷だ」
「全員、無事か!?」
バーンズが、よろめきながらも立ち上がり、点呼を取る。
「……怪我人は? 意識の混濁は?」
「全員、帰還確認! 生体反応、正常です!」
メディックが駆け寄り、バイタルをチェックする。
「ふー……。どうなるかと思いましたが、なんとか戻ってこれましたな……」
小此木がへたり込みながら、安堵の声を漏らした。
彼のスーツは、冷や汗でぐっしょりと濡れている。
だが、その中で一人だけ、疲労よりも興奮が勝っている人物がいた。
デュポン博士だ。
彼は地面に這いつくばったまま、駆け寄ってきた各国の学者チームに向かって、憑かれたように叫び出した。
「見たか!? 君たち、今のを見たか!?」
彼の目は血走り、その顔には狂気じみた歓喜が張り付いていた。
「あの中には全てがあった!
歴史のミッシングリンク!
失われた古代文明の技術!
真実の全てが!
アカシックレコードだ!
あれこそが人類が追い求め続けてきた『知の究極』だ!」
デュポン博士は興奮した様子で、学者チームにアカシックレコードを説明し始めた。
「文字ではない! 映像だ! 体験だ!
過去の出来事を、まるでその場にいるかのように追体験できる!
私は見たんだ!
ルイ16世の処刑を!
ナポレオンの戴冠式を!
教科書が間違っていたことまで、全て分かった!」
その言葉に、待機していた各国の学者たちが色めき立った。
歴史学者、考古学者、物理学者。
彼らにとって、それは「賢者の石」以上の価値を持つ情報だった。
「本当ですか、博士!?」
「失われたアレクサンドリア図書館の蔵書もあるのですか!?」
「物理法則の未解明な事象についての記録は!?」
「宇宙の誕生の瞬間は見れるのか!?」
質問攻めにする学者たち。
その熱気は、キャンプの空気を一瞬にして変えてしまった。
「ぜひ、みんなで行くべきです!」
一人の若い歴史学者が叫んだ。
「こんなところで待っている場合じゃない!
今すぐ、あの中に入ってデータの解析を始めないと!
人類史が、ひっくり返るぞ!」
「そうだ! 行こう!」
「我々も連れて行ってくれ!」
学者チームが、ピラミッドの入り口に向かって殺到しようとする。
暴走し始めている学者チーム。
知識欲という名の業火に焼かれた彼らは、もはや軍の命令など耳に入らないようだった。
「――待てッ!!!」
バーンズ大佐の怒声が、夜のピラミッド前に響き渡った。
警備の兵士たちが銃を構え、学者たちの前に立ちはだかる。
「一歩も動くな! これは命令だ!」
「なんで止めるんだ、大佐!」
「我々は調査のために来たんだぞ!」
「調査と自殺は違う!」
バーンズが吠えた。
「あの中が安全だという保証は、まだない!
精神汚染の可能性、取り込まれて帰還不能になるリスク、そして防衛システムによる攻撃。
何も分かっていないんだぞ!
デュポン博士が無事だったのは、単なる幸運かもしれんのだ!」
彼は冷徹な軍人としての判断を下した。
「本日の調査は、ここまでだ!
全員、宿舎に戻れ!
興奮して正常な判断ができなくなっている。頭を冷やせ!
ピラミッドへの接近は、半径50メートル以内を禁止区域とする!
違反者は拘束し、即時、強制送還する!」
強制送還。
その言葉が、学者たちの足にブレーキをかけた。
ここで帰されたら、二度とこの奇跡に触れることはできない。
「……くっ」
「……分かりました、大佐」
学者たちは渋々といった体で引き下がった。
だがその瞳の奥には、まだ諦めきれない欲望の火が、くすぶり続けていた。
デュポン博士もまた、名残惜しそうにピラミッドを振り返りながら、兵士に支えられてテントへと連行されていった。
***
深夜。
調査団の指揮テント。
外の喧騒が嘘のように、そこには重苦しい静寂が漂っていた。
テーブルを囲むのは、総指揮官のバーンズ大佐、日本代表の小此木、中国とロシアの部隊長、そして三神編集長。
彼らはコーヒーを片手に、緊急の作戦会議を開いていた。
「……少し危険ですね」
三神がポツリと言った。
彼はサングラスを外し、疲れた目をこすった。
「何がだ?」
バーンズが問う。
「あの『アカシックレコード』のことです。
あれは単なるデータベースではありません。
言うなれば……『知の麻薬』です」
三神は真剣な表情で語った。
「知識ばかり追ってると罠にハマる。
人間は『知りたい』という欲求には抗えません。
特に、あそこにいるような優秀な学者たちにとっては、食欲や性欲以上の根源的な欲望です。
あの空間はその欲望を無限に満たし、そして魂をあの場所に縛り付ける。
デュポン博士の様子を見ましたか?
彼は現実世界に戻ってくることを拒んでいました。
もし我々があの時、強引に連れ戻さなければ、彼は餓死するまで、あるいは精神が崩壊するまで、あそこで情報を貪り続けていたでしょう」
「……『ロトス食い』の島か」
バーンズが、ギリシャ神話の逸話を引いた。
快楽に耽り、故郷を忘れる人々。
「それに」
三神は続けた。
「あそこはムー文明の中枢です。
我々に見せているのは『歴史』という無害なデータだけかもしれませんが、その裏には都市の防衛システムや攻撃兵器の制御コードが眠っている可能性が高い。
学者が無邪気にアクセスした結果、うっかり『自爆スイッチ』や『殲滅モード』を起動させてしまうリスクも、否定できません」
「確かに……」
中国の隊長が頷いた。
「無知な子供に、核ミサイルの発射コードを触らせるようなものか。
少し危険な傾向だな」
「ええ」
ロシアの隊長も同意した。
「我々はまだ、この大陸の『出口』さえ確保していない。
通信は途絶したまま。KAMIの助けもない。
この状況で内部でトラブルが起これば、全滅だ」
現状認識は一致した。
宝の山に見えるあのピラミッドは、一歩間違えれば彼らを飲み込む蟻地獄なのだ。
「……方針を決めよう」
バーンズが決断した。
「明日の優先順位を変更する。
ピラミッドの内部調査は一時凍結。
最優先事項は……『脱出ルートの確保』だ」
「退路ですか」
小此木が確認する。
「そうだ。
まず退路を見つけることを、優先させるべきだ。
転送魔法陣は一方通行だった。
帰り方が分からない以上、我々は袋のネズミだ。
もし中の文明が敵対的になった時、あるいはシステムが暴走した時、即座に撤退できる手段がなければ、交渉も調査も成り立たん」
バーンズは地図を広げた。
「ピラミッドには『転送装置』としての機能があると言っていたな、三神」
「はい。壁面の記述によれば」
「ならば、まずはその機能の解析を急がせろ。
ただし内部に入るのではなく、外壁のコンソールや、ドローンによる外部スキャンでだ。
『地球への帰還ゲート』を開く方法、あるいは他の拠点への移動方法。
それを確立するまでは、内部への有人突入は禁止とする」
「学者たちが反発しますが……」
「させとけ。
命あっての物種だ。
不満があるなら、私が直接ねじ伏せる」
バーンズの目は、歴戦の指揮官のそれだった。
未知の恐怖と欲望が渦巻くこの孤島で、200名の命を預かる重圧。
彼はロマンよりもリアリズムを選んだのだ。
「それと、周辺の偵察も強化する。
あの機械たちが去っていった方向……草原の彼方に何があるのか。
都市か? 工場か? それとも住居区か?
ドローンと少数の斥候を出して確認させる」
「了解しました」
会議は終わった。
方針は「安全第一」「退路確保」へと大きく舵を切った。
テントを出ると、夜風が冷たかった。
見上げれば黄金に輝くピラミッドが、不気味なほどの存在感で彼らを見下ろしている。
その内部に眠る無限の知識と、そして破滅の可能性を秘めて。
三神はペンダントを握りしめながら、ピラミッドに問いかけた。
「……ムーよ。
お前は我々を歓迎しているのか?
それとも、試しているのか?」
答えはない。
ただピラミッドの回路を走る光の脈動が、心臓の鼓動のようにドクンドクンと静かに夜の闇を震わせているだけだった。
調査団の夜は更けていく。
だが誰もが予感していた。
明日、また何かが起こることを。
この大陸はまだ、その秘密のほんの一端しか見せていないのだから。




