第22話
あの日、国連総会の壇上から日米両政府が異世界『アステルガルド』の存在を公にしてから、一ヶ月。
世界は、かつてないほどの熱狂と楽観に包まれていた。
恐怖の対象であったはずの神の力は、今や人類に無限の可能性をもたらす希望の光として、認識されていた。
世界中の科学者たちが日本の富士の地下研究施設に殺到し、異世界からもたらされた未知の元素や植物の共同研究に、その知性の全てを注ぎ込んでいた。
各国の企業は、日米両政府が設立した「超次元フロンティア開発機構」への出資を競い合い、その株価は天文学的な数字にまで高騰した。
かつて神の力を巡って世界を分断しかけた中国とロシアでさえ、この世界的なお祭り騒ぎの前では、沈黙を守るしかなかった。下手に動けば、人類の夢と希望に水を差す悪役として、国際社会から完全に孤立してしまうからだ。
全てが、順調だった。
あまりにも、順調すぎた。
東京、首相官邸。
沢村総理とその側近たちは、この奇跡的な状況を生み出した自らの外交手腕に、密かな自信と満足感を抱き始めていた。
「……世界は、我々を中心に回り始めたな」
官邸の一室で、最新の国際情勢の報告書に目を通しながら、沢村は感慨深げに呟いた。
「まさか、こんな日が来るとはな」
「ええ。全ては、総理のご決断の賜物です」と、隣に立つ九条官房長官が静かに言った。その鉄の仮面のような表情は相変わらずだったが、その声にはわずかな安堵の色が滲んでいた。
彼らは確かに、この狂った世界の操縦桿をその手に握りつつあった。
神という、あまりにも不確定な要素さえコントロール下に置き、世界の秩序を再構築する。その壮大な目標が、現実のものとなりつつあるという手応え。
そのかりそめの万能感が、彼らの心に芽生え始めていた、まさにその時だった。
空気が、揺れた。
沢村と九条は、同時に顔を上げた。
彼らの目の前。執務室の中央の何もない空間が水面のように波打ち、そしてそこから、すぅっとあのゴシック・ロリータ姿の少女が姿を現した。
もはや、彼らは驚かなかった。
ただ静かに、そして深くため息をつくだけだった。
ああ、またか、と。
この平穏な日常が、この気まぐれな神の指先一つでたやすく壊される時間が、またやってきたのだと。
「あら、ご機嫌よう」
少女は、まるで近所の家にでも遊びに来たかのように、軽い口調で言った。
「異世界プロジェクト、順調みたいね。あなたたち、なかなかやるじゃない」
「……お褒めに預かり、光栄です」
沢村は、皮肉を込めてそう答えるのが精一杯だった。
「それでね」と、少女は本題を切り出した。「あのプロジェクトは、あれでいいんだけど。あれはあくまで長期的な投資よ。私の最終目標のためには、もっと効率よく、そして安定的に質の高い対価を確保する必要があるの」
彼女は楽しそうに、そしてとんでもないことを告げた。
「だから、次のプロジェクトに移るわよ」
「……次と、申されますと?」
「今度は、この地球そのものから、もっと効率よく対価をいただくわ」
少女はそう言うと、指先で空中に日本列島の立体的な地図を描き出した。その地図の下には、まるで人体の血管網のように複雑で、そして美しい光の筋が無数に走っている。
「これは、この惑星の**『地脈』**よ。地球内部の膨大な熱エネルギーと地磁気が複雑に絡み合って生まれる、巨大なエネルギーの流れ。あなたたちが異世界で血眼になって探している『魔石』なんて、比べ物にならないくらい高純度で高価値なエネルギー。最高の対価よ」
そのあまりにも壮大な光景に、沢村も九条も、ただ息を呑むしかなかった。
自分たちが暮らすこの星の足元に、そんな神の宝物庫が眠っていたとは。
「これを、これからは私がいただくわ。そのために、地脈を効率よく対価として得るためのワープゲートを、設置することにしたの」
「ワープゲート…?」
「ええ」
少女は、こともなげに頷いた。「地脈の流れが集中する日本各地の主要なポイント…『龍穴』とでも言うのかしらね。そこに空間を直接連結させるゲートを開くわ。そこから、私が直接エネルギーをいただくの」
そして彼女は、まるで些細なおまけでも付け加えるかのように言った。
「ああ、もちろんそのゲートは、エネルギーの抽出だけに使うわけじゃないわ。物の運搬というより、あなたたち人間が日本全国にワープゲートで移動できるようにしてあげるわよ」
「…………なんと」
その言葉の意味を理解した瞬間。
九条の喉から、思わず感嘆の声が漏れた。
日本全国を結ぶ、瞬間移動網。
それが、どれほど革命的なインフラであるか。
リニアモーターカーさえ、陳腐に見える。東京から大阪まで、一秒。いや、ゼロ秒。
物流、交通、経済、そして安全保障。
この国のありとあらゆる社会システムが、根底から覆る。
「ほほう…それは、実にありがたいですね」
九条は、もはやその驚異と、そしてそれがもたらすであろう国益の巨大さを、隠すことができなかった。
「設置場所などは、既に決めているのですか?」
「まだ決めてないわね」
少女は、あっさりと答えた。「別に、どこでもいいのよ。龍穴の上でさえあれば。指定の場所があるなら、そこに設置してあげるけど?」
その、あまりにも寛大な提案。
しかし、九条は即答できなかった。
これは、あまりにも巨大すぎるプロジェクトだ。
どこに設置する?
東京駅のど真ん中か? 首相官邸の地下か? 全国の主要空港か?
一つの判断が、国家の百年先までを左右する。
軽々に答えられる問いではなかった。
「うーん…」と、九条は唸った。「至急、この国家改造計画を立案するための専門の部署を設置します。申し訳ありませんが、少しお時間をいただけますかな…」
「どうです?」と、沢村も恐る恐る神のご機嫌を窺った。
「そうね。別に急いでないから、いいわよ」
少女は、寛大にも頷いた。
そして彼女は、次なる爆弾を投下した。
「ああ、それと、この話アメリカ政府にも伝えておいて。彼らの国にも当然、地脈は流れているから。同じようにゲートを設置してあげるってね」
「……承知いたしました」
「あなたたち二国が上手くやったら、次は中国とロシアね」
少女は、楽しそうに続けた。
「まあ、あの二国にこのあまりにも便利すぎるインフラを与えるのは、少し危険かしら。だから、そことのお話は全て日本政府に任せるわ。あなたたちが上手く彼らをコントロールして、このシステムを導入させるかどうか決めなさい」
そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも厄介な責任の丸投げ。
沢村と九条は、もはや眩暈を感じていた。
神は、またしても自分たちの頭上に、世界の運命を左右する巨大な爆弾を設置していった。
「じゃあ、そういうことで」
少女は、もう用事は済んだとばかりに、くるりと背を向けた。
「じゃあね。よろしく」
その軽い別れの言葉と共に。
ゴシック・ロリータ姿の神の使者は、すぅっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、二人きりの男たち。
そして、彼らの脳内に叩きつけられた、国家の形を永遠に変えてしまう、あまりにも巨大な宿題。
数秒の沈黙の後。
最初に我に返ったのは、九条だった。
彼の目には、もはや困惑の色はなかった。
あるのは、官僚としての、そしてこの狂った世界の宰相としての、燃え盛るような闘志だけだった。
「やべー…急いで計画を立てなければ…!」
彼は、部下を呼び出すためのインターホンのボタンを、叩きつけるように押した。
「総務省、国土交通省、防衛省、財務省、全ての次官を十分以内にここに集めろ! そして、アメリカのトンプソン大統領に緊急のホットラインを繋げ! 日本の、いや世界の未来を決める新しいゲームが始まったぞ!」
沢村は、その腹心のあまりの切り替えの早さに、ただ苦笑するしかなかった。
そうだ。
驚いている暇も、絶望している暇もないのだ。
神は、常にサイコロを振り続ける。
そして、自分たちは、その無慈悲なゲーム盤の上で最善の手を打ち続けるしかないのだ。
たとえ、その先にどんな未来が待っていようとも。
日本という国家の歴史上、最も巨大で、そして最も困難な国土改造計画が、今まさに始まろうとしていた。
世界がまだ、異世界という新しい夢に浮かれている、そのすぐ足元で。
地球そのものが神の新しい祭壇として作り変えられようとしていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
物語は、待ってはくれない。
ただ、神の気まぐれな速度で、どこまでも加速していく。




