第188話
『深霧踏破戦線』に続く、KAMIによる次なる大規模イベント『エッセンス・ハンティング』。
その幕開けは、これまでのどのイベントとも異なる奇妙な静けさと、そして爆発的な速度感をもって始まった。
東京・渋谷ダンジョンF級エリア『最初の隘路』。
かつては初心者たちが慎重に足を進め、ゴブリン一匹一匹と命のやり取りを繰り広げていたこの洞窟は、今や全く別の様相を呈していた。
そこは冒険の場ではない。
効率を極限まで追求した、高速周回路と化していたのである。
「――っし、スタート!」
ゲートをくぐり抜けた瞬間、一人の若き探索者が地面を蹴った。
彼が履いているのは、前回のイベントの報酬やオークションで手に入れた、『移動速度上昇』の魔法効果が付与されたブーツだ。
F級ダンジョンの冷たく湿った空気を切り裂き、彼は風のように駆け抜ける。
「ギャッ?」
「ギギィ?」
通路の脇から、日課のように飛び出してくるゴブリンたち。
だが探索者は、彼らに目もくれない。
剣を抜くことさえしない。
ただひたすらに、前へ、奥へと疾走する。
ゴブリンたちが反応して棍棒を振り上げた時には、もう彼の背中は遥か彼方にあった。
敵を倒しても経験値は入るし、魔石も落ちる。だが今の彼にとって、それらは「時間の無駄」でしかなかった。
今のトレンドは「雑魚無視」。
全ての無駄を削ぎ落とし、ただ一点、イベントの標的である『エッセンス』を目指すことだけに特化した、究極のタイムアタック。
「……あった!」
走り始めて数分。
洞窟の開けた空間の中央に、それは鎮座していた。
周囲の薄暗い岩肌とは対照的に、冷たく、そして鮮烈な青白い輝きを放つ巨大な結晶体。
高さは二メートルほどだろうか。水晶の柱のようにも見えるその内部には、数体のモンスターが氷漬けにされたかのように封印され、静止している。
その結晶から伸びる数本の魔力の鎖が、彼らを現世という座標に縛り付けているかのように脈動していた。
これこそが『エッセンス・モノリス』。
今回のイベントの主役であり、富の源泉である。
探索者はスピードを落とすことなく、その結晶体へと肉薄する。
彼は懐から取り出したF級の片手剣を、走りながら逆手に構えた。
ブレーキをかける必要はない。
この結晶に触れ、封印を解くことこそが戦闘開始の合図なのだから。
「――開放ッ!!」
彼はすれ違いざまに結晶体に向かって手をかざした。
システムが接触を認識する。
パリーンッ!!
甲高いガラスが割れるような音が、洞窟内に響き渡る。
青白い結晶が弾け飛び、光の粒子となって霧散する。
その中から、封印されていたモンスターたちが、解き放たれた獣の勢いで実体化する。
「グォオオオオオッ!!」
現れたのは、通常のゴブリンよりも一回り大きく、そして全身が青いエネルギーでコーティングされた『エッセンス・ゴブリン』の群れだ。
彼らは通常の個体よりも攻撃力が高く、体力も強化されている。
だがF級は、しょせんF級。
歴戦の、あるいは装備を整えた現代の探索者にとっては、恐るるに足らない相手だった。
「遅いんだよ!」
探索者は、実体化した瞬間の硬直を見逃さなかった。
流れるような動作で剣を振るう。
スキル『範囲斬り(クリーヴ)』。
横薙ぎの一閃が、密集して出現したエッセンス・モンスターたちをまとめて捉える。
ズバァァン!!
強化された皮膚も、F級武器の前では紙同然だ。
三体のゴブリンが同時に光となって消滅する。
残った一体が棍棒を振り上げるが、探索者は冷静にバックステップで躱し、カウンターの突きを心臓にねじ込んだ。
戦闘時間、わずか十秒。
最後のモンスターが消滅すると同時に、カランという硬質な音が足元で鳴った。
そこには、いつもの魔石とは違う、試験管のような形状をしたガラスの小瓶が転がっていた。
中にはモンスターたちが纏っていたのと同じ、青白い液体が揺らめいている。
「……よし、ドロップ確定」
彼は慣れた手つきでそれを拾い上げ、鑑定スキルを発動させる。
【アイテム名:悲哀のエッセンス(Wailing Essence)】
【ティア:7(Whispering)】
【効果:ノーマルアイテムをレアアイテムにアップグレードし、以下のプロパティを確定で付与する】
・武器:魔法ダメージ追加(極小)
・鎧:マナ最大値 +(極小)
「『悲哀』のティア7か……。まあ最低ランクだけど、こんなもんか」
彼は一瞬だけ値踏みするような目をしたが、すぐにそれをアイテムボックスへと放り込んだ。
これで終わりではない。むしろここからが「作業」の肝だ。
彼は周囲を見渡し、他にめぼしいドロップがないことを確認すると、即座にウィンドウを開いた。
【ダンジョンメニュー】
> インスタンス管理
> 現在のインスタンスをリセットする
迷うことなく「YES」を選択する。
視界が歪み、転移の光が彼を包む。
次の瞬間、彼は再び渋谷ダンジョンの入り口ゲートホールの喧騒の中に戻っていた。
だが彼は休まない。
水を一口飲むこともなく、汗を拭うこともなく、即座に再びゲートの渦へと身を投じる。
「次! リセット完了! スタート!」
再び生成された新品のダンジョン。
敵の配置も、マップの形状もリセットされている。
だが彼がやることは変わらない。
走る。
雑魚を無視する。
エッセンスを見つける。
倒す。
リセットする。
所要時間、一本あたり約5分。
この単純作業を、彼は機械のように、しかし眼を血走らせた欲望の権化となって繰り返す。
なぜなら彼が拾ったあの小さな小瓶一つが、現在のオークション相場で「3万円」の値がついているからだ。
たった5分で3万円。
時給に換算すれば36万円。
F級ダンジョンにおける、かつてない高効率の「錬金術」がここに完成していた。
***
ダンジョンゲートの外。
代々木公園の一角に設けられた探索者たちの休憩エリアは、独特の熱気と紫煙に包まれていた。
そこは戦いを終えた者、あるいは次の周回への英気を養う者たちがたむろする、現代のルイーダの酒場のような空間となっていた。
簡易ベンチに座り、缶コーヒーとタバコを手にした二人の男が、終わったばかりの探索の成果を語り合っている。
一人は軽装の鎧をまとった若者。もう一人は少し年季の入った作業着風の装備を着た中年男性だ。
「……ふぅ。いやー今回のイベント、マジで美味しいっすね」
若者がタバコの煙を空に吐き出しながら、しみじみと言った。
その顔には疲労の色も濃いが、それ以上に充実感と、懐が潤ったことによる余裕が浮かんでいる。
「エッセンス・ハンティングって名前聞いた時は、また面倒なボス戦かと思いましたけど。
蓋を開けてみれば、ただ走って殴ってリセットするだけの、簡単なお仕事じゃないですか」
「全くだな」
中年の男が破顔一笑して同意した。
彼の足元には、パンパンに膨れ上がったバックパックが置かれている。
おそらく中身は、今日一日で稼いだ魔石とエッセンスだろう。
「F級なら敵も弱いし、エッセンスモンスターっつっても、所詮は毛が生えた程度の強化個体だ。
ソロで十分回せるのがありがたいよ。
前回の霧イベントみたいに、時間制限に追われて焦る必要もないしな」
「そうなんすよ! そこがデカいっす!」
若者が身を乗り出した。
「霧イベの時は、ソロだと処理が追いつかなくて、結局パーティ組まないと効率出なかったじゃないですか。
でも今回は、エッセンスの場所までダッシュして、そこだけ一点突破すればいい。
むしろパーティ組むと、移動速度の遅い奴に合わせなきゃいけないし、ドロップの分配で揉めるし、足手まといになるだけっすよ」
「ああ。F級に限って言えば、完全に『ソロゲー』だな」
男は頷いた。
今回のイベントの仕様は、孤独なソロ探索者たちにとって、まさに福音だった。
面倒な人間関係も、報酬の山分けも必要ない。
自分の足の速さと、自分の剣の腕だけが、そのままダイレクトに収入に直結する。
そのシンプルさが、多くの探索者を熱狂させていた。
「EDC級は……まあ、まだ分からんけどな」
男は少し声を低くした。
「掲示板の情報じゃ、D級のエッセンスモンスターはかなり凶悪らしいぞ。
『3倍強化』とか『4倍強化』の個体が平気で出てくるって話だ。
しかもエッセンスの周りに取り巻きが大量に湧くから、ソロだと囲まれてタコ殴りにされる危険性が高いとか」
「うわぁ……やっぱ上はキツイっすね」
「C級に至っては、エッセンスモンスターが実質的な『中ボス』クラスの強さになってるらしい。
あそこまで行くと、さすがにタンクとヒーラーを入れたフルパーティじゃないと、安定周回は無理だろうな。
ソロで突っ込んで死にかけた奴の動画見たか?」
「見ました見ました。
『貪欲のエッセンス』に取り憑かれたオークにワンパンされて、HP1割まで減らされて、泣きながらポータルで逃げてるやつですよね。
あれ見て俺は、一生F級でいいやって思いましたよ」
「賢明な判断だ。
俺たちみたいな一般人は、安全第一・効率重視が一番だよ」
男は手元のスマホを操作して、現在のオークション相場をチェックした。
「ほら見ろ。
一番下のランクの『ティア7』のエッセンスでも、安定して3万円で売れてる。
1時間に5回周回できれば、それだけで時給15万だ。
リスク冒して上の階層に行く必要なんて、どこにもないね」
「ですねぇ……。
ところで先輩、今回のイベントのポイント報酬、何狙ってます?」
若者が話題を変えた。
今回のイベントでも、モンスター討伐に応じてポイントが貯まり、豪華景品と交換できるシステムは健在だ。
その目玉はもちろん、あの『怪我治癒ポーション・改』である。
「ポーション? いやー無理でしょ」
男は即答した。
その声には諦めというよりは、はなから選択肢に入っていないという潔さがあった。
「交換レート見ただろ?
F級周回だけであのポイントを稼ごうと思ったら、2ヶ月間、寝ずに走り続けても届くかどうか……。
廃人か、あるいはC級を高速周回できるトップ層向けの報酬だよ、あれは」
「やっぱりそうっすよねぇ」
若者も苦笑する。
世界中で1万本限定。その枠を巡る争いは、一般の探索者にとっては雲の上の出来事だった。
「俺は大人しく『魔石セット(大)』にするよ。
あれなら現実的なポイントで交換できるし、即金で100万円くらいにはなる。
確実なボーナスだ」
「俺もそうしようかなぁ。
あ、でも『ガチャ箱』も捨てがたいんですよね。
イベント限定ユニークが出るかもしれないっていう……」
「やめとけやめとけ。どうせ中身はゴミレアだぞ。
堅実に現金化するのが一番だ。
その金で美味いもん食って、新しい装備買ったほうが、よっぽど強くなれる」
彼らの会話は、極めて現実的で、そして地に足のついたものだった。
夢を見るのは楽しいが、生活を支えるのは現金だ。
ダンジョンという非日常が、彼らにとって完全に「日常の労働」として定着していることの証左でもあった。
ふと若者が、思い出したように言った。
「そういえば先輩。
拾ったエッセンス、クラフトに使ったりしました?」
「ん? いや、全部売ってるよ」
「えー、もったいなくないっすか?
『確定で効果が付く』んですよ?
自分の装備に使えば、もっと強くなれるかもしれないのに」
今回の目玉であるエッセンス・クラフト。
特定の効果を確定で付与できるという特性は、装備強化のギャンブル性を大幅に低減させる画期的なシステムだ。
だが男は、首を横に振った。
「甘いな若いの。
お前『売るほうが丸い(賢い)』って言葉を知らんのか?」
「丸い?」
「ああ。計算してみろ。
エッセンス一つ3万円だ。
それを使ってクラフトしても、付く効果は『一つだけ』確定するだけだ。
残りの効果はランダムだぞ?
もし残りの枠にゴミみたいな効果がついたらどうする?
3万円の素材とベースの装備が無駄になるんだ」
男はスマホの電卓を叩いてみせた。
「良い装備を作ろうと思ったら、何個のエッセンスが必要になると思う?
10個? 20個?
試行回数を重ねれば、すぐに数十万、数百万が溶けていく。
俺たちみたいなF級探索者の稼ぎじゃ、そんなギャンブルは割に合わんよ」
「うーん、確かに……」
「それにだ。
俺たちが必死こいて作った『そこそこの装備』なんて、トップ層が使う『神装備』に比べたらゴミみたいなもんだ。
だったら素材をそのまま売って、その金でトップ層が放出した『お下がり』を買ったほうが、よっぽどコスパがいい」
「なるほど……。
素材屋に徹するってことですね」
「そういうことだ。
ゴールドラッシュで一番儲かったのは金を掘った奴じゃない。
スコップとツルハシを売った奴だっていうだろ?
俺たちはそのツルハシ(エッセンス)を供給する側になればいいんだよ」
男はタバコの煙を長く吐き出した。
その視線は、スマホの画面に表示されているオークションサイトの相場表に向けられている。
そこには信じがたい数字が並んでいた。
【エッセンス合成・取引相場】
Tier 7(囁く) = 30,000円
Tier 6(呟く) = 90,000円
Tier 5(咽ぶ) = 270,000円
Tier 4(叫ぶ) = 810,000円
Tier 3(喚く) = 2,430,000円
Tier 2(絶叫する)= 7,290,000円
Tier 1(悲鳴する)= 21,870,000円
「見ろよこれ」
男が画面を指差した。
「最上位の『ティア1』エッセンス。
一個2000万円を超えてるぞ」
「うわぁ……。桁が違いすぎますね……。
ティア7のエッセンスを3個合成してティア6にして……って繰り返していくと、ティア1を作るのにティア7が……えーと、729個必要なんですか?」
「計算上はそうなるな。
3万×729個で、原価だけでも2000万オーバーだ。
合成の手間賃を含めれば、この相場は決してボッタクリじゃない。
純粋な『数の暴力』が価格に反映されてるだけだ」
「装備一つのクラフトチャレンジに一発2000万円……。
F級の俺らからしたら、めまいがするような世界っすね。
家が買えますよ、家が」
若者が信じられないという顔で首を振る。
一回の合成に2000万。
失敗すれば、それが一瞬でゴミになる。
そんな狂ったギャンブルを、平然と行える人間がこの世にいるという事実が、彼には実感として湧かなかった。
「でも売れてるんですよね? これ」
「ああ、飛ぶように売れてるよ」
男は冷ややかに言った。
「誰が買ってると思う?
『企業勢』だよ」
「企業……!」
「五菱商事、三井物産、トヨタ……。
あいつらは金を持ってる。桁違いにな。
彼らにとっての2000万なんて、俺たちの2000円くらいの感覚だろうさ」
男は遠くに見える五菱商事の巨大なビルを見上げた。
「前回のイベントで、あいつらは莫大な利益を上げた。
そして今、その金を惜しげもなく投入して、最強の装備を作ろうとしている。
『ティア1エッセンス』を使えば、最高ランクの能力が確定で付くからな。
彼らはそれで社員を武装させ、C級B級の深層を攻略し、さらに大きな富を得るつもりだ」
「金が金を呼ぶってやつですか……」
「そう。金持ちはより強く、より豊かになる。
俺たちはそのための燃料を、せっせと運ぶ働きアリってわけだ」
男の言葉には少しの自嘲と、しかしそれ以上の納得が含まれていた。
格差はある。理不尽なほどに。
だが、そのおこぼれに預かるだけでも、今の生活は劇的に向上しているのだ。
働きアリにも、それなりの幸せはある。
「ま、悪いことばかりじゃないさ」
男はタバコを携帯灰皿に押し付けた。
「企業が金をばら撒いてくれるおかげで、俺たちの拾ったエッセンスが高く売れるんだ。
Win-Winってやつだよ。
俺たちはリスクを冒さず、安全なF級で小銭を稼ぐ。
危険な深層の攻略と狂ったギャンブルは、金持ちに任せておけばいい」
「そうっすね……。
安いと言えば安いのかも?
俺たちにとっても、彼らにとっても」
若者も納得したように頷いた。
自分の身の丈に合った稼ぎ方。
それを見つけることこそが、この過酷なダンジョン時代を生き抜く知恵なのだ。
「よし、休憩終わり!」
男が立ち上がり、バックパックを背負い直した。
「もう一走りしてくるか。
あと5個拾えば、今日は焼肉だぞ」
「いいっすね! 俺も行きます!
今度はタイムアタックしましょうよ、先輩!」
「おう、負けねえぞ!」
二人の探索者は、再び活気に満ちたゲートの方へと歩き出した。
その背中は英雄のそれではない。
だが、この新しい日常を逞しく生きる生活者の力強さに満ちていた。
彼らの頭上には、今日も変わらず青い空が広がっている。
そしてその地下深くでは、無数の欲望と計算、そして一攫千金の夢が、青白いエッセンスの輝きと共に渦を巻いているのだった。
エッセンス・ハンティング。
それは世界中の「持てる者」と「持たざる者」を、経済という見えない糸で結びつける巨大な循環システムの始まりに過ぎなかった。
その循環の果てに何が待っているのか。
今はまだ誰も知らない。
ただ目の前のエッセンスを追いかけることだけが、彼らにとっての真実だった。




