第21話
あの日、アメリカ政府とCIAが仕掛けた一世一代の情報戦。
その結果、世界は新たな、そして極めて歪な安定を手に入れていた。
中国とロシアは、国際社会において「神の力を悪用しようとした邪悪な帝国」という不名誉なレッテルを貼られ、外交的に完全に孤立した。彼らが計画していた台湾とウクライナへの侵攻は、全世界の監視の目の中で、無期限の凍結を余儀なくされた。
そして、その悪役の対極として、世界の賞賛と注目を一身に浴びる存在が生まれた。
神の力を持ちながらもその行使には抑制的で、世界の平和と安定のために苦悩する二つの責任ある大国――日本とアメリカ合衆国。
それはもちろん、アメリカの巧みな情報操作によって作り上げられた虚像だった。
だが、恐怖と混乱の中にいた世界は、その分かりやすい物語を熱狂的に受け入れた。
しかし、ワシントンのホワイトハウスと東京の首相官邸の首脳たちは知っていた。
この平和が、あまりにも脆いガラス細工の上で成り立っているということを。
中露という傷ついた虎は、今、牙を隠し、息を潜めているだけだ。彼らが再び世界の脅威となるのは、もはや時間の問題だった。
そして何よりも、世界中の人々の心には、神の力への「恐怖」という負の感情が、深く刻み込まれてしまった。恐怖は、いつか必ず新たな憎しみと対立を生み出すだろう。
「……このままでは駄目だ」
日米首脳による極秘のビデオ会談。その席で、アメリカのトンプソン大統領は断言した。
「我々は、世界に恐怖と猜疑心を与えた。だが、それだけでは真の秩序は生まれない。我々が次に世界に与えるべきは、『希望』だ。恐怖を忘れさせるほどの、巨大で甘美な夢。そして、その夢の主導権を我々が完全に握るのだ」
日本の沢村総理は、静かに頷いた。
彼もまた、同じ結論に達していた。
彼らの手には、世界がまだ知らない、最後にして最大の切り札が残されている。
異世界『アステルガルド』。
その存在。
「……世界を熱狂させる新しいニュースを届ける時が来た、ということだな」
沢村のその言葉で、人類の歴史を再び大きく塗り替える壮大な情報公開作戦の幕が、切って落とされた。
数週間後。
ニューヨーク、国連本部。
緊急の総会が招集され、世界中の加盟国の代表と、そして主要メディアが議場に詰めかけていた。
議題は、ただ一つ。
『超常的存在、及び新たな世界秩序に関する日米両政府による共同声明』。
議場の空気は、期待と緊張に満ちていた。
やがて壇上に、日本の沢村総理とアメリカのトンプソン大統領が、並んで姿を現した。
二人のリーダーが、同じ演台に立つ。その光景自体が、これから語られる内容の重大さを物語っていた。
最初に口を開いたのは、沢村だった。
彼の声は、マイクを通して議場の隅々にまで、そしてこの総会を生中継で見守る世界中の何十億という人々の耳に届けられた。
「代表の皆様。そして、世界の市民の皆様。先月、我々の世界は大きな混乱に見舞われました。人知を超えた存在『KAMI』の実在。そして、そのあまりにも強大な力が白日の下に晒されたことで、世界は恐怖と猜疑心に包まれました。我々日本政府は、その混乱の発端となった最初の当事国として、その責任を深く痛感しております」
彼はそこで一度、深く頭を下げた。
「しかし」と、彼は顔を上げた。「恐怖と対立は、この新しい時代のほんの序章に過ぎなかった。今日、我々は皆様に、この物語の新しいページをお見せするために、この場に参りました。それは、力の脅威ではありません。無限の可能性の、夜明けです」
沢村が演台を下がり、そして入れ替わるように、トンプソン大統領が一歩前に進み出た。
彼の力強い声が、世界に響き渡る。
「我々アメリカ合衆国と日本国は、この数ヶ月、ある極秘の共同プロジェクトを進めてまいりました。それは、神の厳格な監修の元で行われる、平和的な異世界との交易プロジェクトです」
『異世界』。
その一言が発せられた瞬間。
議場は、水を打ったように静まり返った。
誰もが、自分の耳を疑った。
トンプソンは、続けた。
「KAMIは、我々に軍事的な力だけを与えたのではありませんでした。彼女は、我々に全く新しい世界への『扉』を開いてくれたのです。その世界の名を、『アステルガルド』と言います」
彼の背後の巨大なスクリーンに、一枚の映像が映し出された。
紫とオレンジの二つの太陽が輝く空。
見たこともない植物が生い茂る雄大な森。
そして、中世の街並みの中で、人間と獣人、エルフたちが共に暮らす活気ある街の風景。
それは、人類が誰も見たことのない、しかし誰もが心のどこかで夢見ていたファンタジーの世界、そのものだった。
「我々は、この美しい世界と友好関係を築き、平和的な交易を始めています。そして、その成果は、既に我々人類の未来を大きく変える可能性を示し始めています」
トンプソンは、高らかに宣言した。
「本日、その成果の一部を皆様に公開いたします!」
スクリーンが切り替わる。
映し出されたのは、日本の富士の地下にある研究施設の内部映像だった。
一人の科学者が、何か黒光りする小さな金属片をピンセットでつまみ上げている。
『――これは、アステルガルドから持ち帰られた、ただの石ころです。ですが、そのスペクトル分析の結果、我々の周期表には存在しない未知の安定元素が含まれていることが判明しました。我々はこれを、『アステルニウム』と仮に名付けました。この元素が秘めるエネルギーポテンシャルは、ウランの数百倍に達する可能性があります!』
議場が、どよめいた。
新しいエネルギー。それは、人類が抱えるあらゆる問題を解決しうる、魔法の言葉だった。
映像は続く。
今度は、アメリカのCDC(疾病対策センター)の、ものものしい研究室。
一匹のマウスの背中には、メスでつけられた生々しい傷跡がある。
研究者が、その傷口に緑色に輝く液体を一滴垂らす。
『――これは、アステルガルドの民から譲り受けた**『怪我治癒ポーション』**です。その驚異的な治癒効果をご覧ください』
映像が、タイムラプスで早送りされる。
すると、マウスの背中の傷が、まるで逆再生のようにみるみるうちに塞がっていく。数分後には、そこには傷跡一つない綺麗な皮膚が再生されていた。
『軽い怪我や病を治す。その原始的なポーションでさえ、この効果です。我々は今、この成分の解析を進めています。いずれ人類は、あらゆる病と怪我を克服する日を迎えることになるでしょう』
どよめきは、もはや熱狂へと変わっていた。
新しいエネルギー。
不老不死さえ夢ではない、新しい医療。
それは、人類が長年追い求めてきた夢、そのものだった。
そして、トンプソンはとどめを刺した。
「ですが皆様。驚くのは、まだ早い」
彼の声が、議場を支配する。
「KAMIは、我々に示唆しています。もちろん、異世界は一つだけではないと。このアステルガルドとの平和的な交流プロジェクト。この結果次第では、我々の目の前に、さらに多くの未知なるフロンティアへの扉が開かれると」
希望。
それは、恐怖よりも遥かに強力な麻薬だった。
人々の瞳が、欲望と興奮に輝き始める。
「夢のフロンティアは、我々の目の前にあるのです!」
トンプソンは、両腕を大きく広げた。
「この偉大な冒険は、特定の国家が独占すべきではありません。全人類が手を取り合って進めるべきプロジェクトです。本日、我々はここに宣言します。我々日本政府とアメリカ政府に協力し、この新しい大航海時代を、共に歩もうではありませんか!」
それは、あまりにも巧みなアピールだった。
彼らは、自分たちが神との唯一の窓口であり、異世界への唯一のゲートキーパーであることを、改めて世界に宣言した。
そして、その特権的な立場を、独占ではなく「全人類のための貢献」という美しい言葉でコーティングしてみせたのだ。
世界は、もはや彼らを非難することはできない。
むしろ、彼らに協力を懇願し、そのおこぼれにあずかろうと殺到するだろう。
中国もロシアでさえも、この人類史的なビッグウェーブから取り残されれば、未来はない。彼らもまた、日米が主導するこの新しいゲームのルールに、従うしかなくなるのだ。
演説が終わった。
議場は、数秒の沈黙の後、割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
世界の空気は、この一時間で完全に変わった。
恐怖と猜疑の時代は終わり、希望とフロンティアへの熱狂の時代が始まったのだ。
その歴史的な一日。
官邸の執務室で、その国連総会の生中継を見終えた沢村総理は、隣に立つ九条に静かに語りかけた。
「……我々はまた、とんでもない嘘を世界についてしまったな」
「いいえ、総理」と、九条は表情を変えずに答えた。「これは、嘘ではありません。より大きな真実のための、物語です」
その頃。
全ての発端である橘栞は。
自室のマンションで、この世界中が熱狂する国連総会の様子を、ネットのニュースで眺めていた。
彼女の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
(……ふぅん。上手くやったじゃない)
彼女は、内心でそう呟いた。
トンプソンと沢村の壮大な茶番劇。
それは、彼女にとってどうでもいいことだった。
だが、その結果として世界が安定し、そして人類が一丸となって異世界の資源開発に熱狂してくれるというこの状況。
それは、彼女の究極の目的である「対価」の、安定的かつ効率的な収集にとって、極めて好都合な展開だった。
(これでよし)
彼女は満足げに頷くと、ニュースのウィンドウを閉じた。
そして、スキルウィンドウを開く。
そこには、この数ヶ月で蓄積された膨大な対価によって新たに解放された、いくつかの途方もないスキルが、彼女の選択を待っていた。
世界は今、希望に満ちている。
だが、その希望の行き着く先がどこなのか。
その夢のフロンティアの本当の意味が、何なのか。
それを知る者は、誰もいない。
人類という勤勉な働き蜂たちが、自分自身のためにせっせと蜜を集めてくるその様子を、冷徹な瞳で観察している一人の女王を除いては。
物語は、新たなステージの幕を、静かに開けた。




