第182話
『パッシブスキルツリー・無料リセット期間』。
KAMIが与えたこの10日間のモラトリアムは、世界中の探索者たちにとって、まさに「精神と時の部屋」とも呼べる、濃密な実験期間となっていた。
失敗が許される。何度でもやり直せる。
その安心感が、これまで躊躇していた奇抜なビルドや、理論上最強だがリスクが高すぎる構成への挑戦を、可能にしていた。
渋谷のダンジョンゲート周辺は、さながら巨大な実験場と化していた。
だが、残り期間があと「3日」に迫った、ある昼下がり。
探索者たちの間で、一つの「不満」とも「恐怖」ともつかない声が、共有され始めていた。
「……なあ、ポータルスクロール使いにくくね?」
「それな。鞄から出して、広げて、破く。この3ステップが命取りなんだよ」
「昨日、ゴブリンの群れに囲まれて、焦ってスクロール落としちまってさ……。仲間がカバーしてくれなきゃ、俺、人類初の死者になるところだったわ」
そう。現在のダンジョンにおいて最大の隙は、「逃げる瞬間」に生まれる。
武器をしまって、紙切れを取り出すコンマ数秒。
これまで死者が出ていないのは、探索者たちが過剰なまでに安全マージンを取り、早め早めの撤退を心がけてきたからに過ぎない。
もし、もっとギリギリの戦いになったら?
その「不便さ」が、死に直結する。
そんな空気を読んだのか、あるいは単に見ていてイライラしたのか。
世界中の探索者の視界に、あの通知音が鳴り響いた。
ピンポンパンポーン♪
【システム・アップデート通知】
【パッチノート Ver.2.1:QoL(Quality of Life)向上調整】
『あー、テステス。聞こえてる?
みんな、ビルド構築楽しんでる?
残り3日しかないから、悔いのないようにね』
KAMIの声が響く。
『で、今日はちょっとした「便利機能」を追加したから、そのお知らせよ。
あなたたち見てて思ったんだけど……「逃げる」のが下手すぎない?
いちいち鞄から紙を取り出してモタモタしてるの、見てて危なっかしいし、何よりスマートじゃないわ』
モニターに、新しい仕様が表示される。
【ポータル・システムの変更点】
1. 『精神感応』の実装
2. 『アイテムボックス連携』の実装
『これからはね、アイテムボックスの中にポータルスクロールが入っていれば、いちいち取り出さなくてもいいわ。
ただ、心の中で強く「ポータル!」って念じるだけで、自動的にボックスの中のスクロールが消費されて、あなたの目の前にポータルが開くようにしたわ』
「――は?」
一瞬の静寂。
そして、爆発的な歓声。
「ま、マジかよおおおおおおお!」
「念じるだけで発動!?」
「完全なハンズフリー(手ぶら)帰還じゃねえか!」
「神パッチきたああああああああああ!」
それは、探索者たちにとって革命だった。
武器を構えたまま、盾を構えたまま、あるいは走りながらでも、思考一つで脱出路を開ける。
「死者ゼロ」の記録を更新し続けるために、これほど頼もしい機能はない。
『名付けて、「クイック・ポータル機能」ね。
これでもう「スクロールを落として死にかけました」なんてダサいことは起きないはずよ。
危ないと思ったら、即・念じる。
いのちだいじによ』
***
直後から、SNSと掲示板は祭りと化した。
【朗報】KAMI様有能すぎる【神運営】
1: 名無し探索者
これは神パッチ。
間違いなく神パッチ。
今まで「鞄のどこだっけ!?」って焦ってた俺が、馬鹿みたいじゃないか。
2: 名無し探索者
アイテムボックス連携が地味にデカい。
ポケット探らなくていいのは革命的。
ラグなしで即発動とか、生存率爆上がりだろ。
3: 名無し探索者
早速試してきた。
ゴブリンに囲まれた状態で「ポータル!」って念じたら、一瞬で青い渦が出た。
そのままバックステップでインして帰還。
これもう「無敵の回避スキル」みたいなもんじゃね?
4: 名無し探索者
逃げ得すぎるwww
ヤバくなったら即帰宅。
これで「死者ゼロ」記録、まだまだ伸ばせるな。
5: 名無し探索者
これ、C級の奥地まで特攻して、レア宝箱開けた瞬間にポータルでトンズラとかできるんじゃね?
泥棒プレイが捗るな。
6: 名無し探索者
5
お前天才かよ。
戦闘しなくても稼げる時代の到来か。
やっぱりKAMI様は俺たちに優しいな!
探索者たちは浮かれていた。
「いつでも逃げられる」という絶対的な安心感。
それは、彼らの冒険心を、より大胆に、より無謀なものへと変質させていった。
***
だが。
その熱狂の裏で、冷静に事態を分析する者たちがいた。
東京・六本木。月読ギルド本部・作戦室。
ギルドマスターの月島蓮は、モニターに映るギルド員たちの「即時撤退訓練」の様子を見ながら、腕を組んで考え込んでいた。
「……便利すぎる」
月島が呟く。
「あまりにもプレイヤー側に有利すぎる変更だ。
KAMI様は『ゲームバランス』にうるさい方だ。一方的にプレイヤーを甘やかすような調整を、理由もなく行うとは思えない」
隣に立つ、参謀役の幹部が頷く。
「ええ。これでは緊張感が削がれます。
『いつでも逃げられる』という慢心は、かえって危険かもしれません」
「いや、それだけじゃない」
月島は目を細めた。
「KAMI様は『いのちだいじに』と言った。
そして『逃げるのが下手すぎる』とも。
……裏を返せば、こういうことなんじゃないか?」
彼は、モニターの向こう、まだ見ぬダンジョンの深層を睨みつけた。
「『これからの敵は、手動でポータルを開いているような暇など与えてくれない』……と」
一瞬でも足を止めれば死ぬ。
一瞬でも武器をしまえば殺される。
そんな苛烈で、慈悲のない攻撃が飛び交う戦場が、すぐそこに待っているのではないか。
「……この機能は『優しさ』じゃない」
月島は確信した。
「これは『前提条件』だ。
クイック・ポータルが使えて、初めてスタートラインに立てるような難易度が来る」
彼は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
C級はまだ序の口。
その先に待つ、B級、A級……。
そこで待っているのは、「逃げ遅れたら即死」という、本当の地獄なのかもしれない。
「……あっ」
月島は小さく呟いた。
神の意図を、理解してしまったのだ。
掲示板の片隅にも、似たような書き込みが現れ始めていた。
108: 勘のいい名無し
待てよ。
これってつまり「これ実装するから敵の攻撃もっと激しくしても文句ないよね?」っていうフラグじゃね?
109: 名無し探索者
やめろ。
気づくな。
今は素直に喜んでおけ。
便利すぎる機能の裏に見え隠れする、神の殺意(バランス調整)。
探索者たちは、その予感に少しだけ身震いしながらも、今は手に入れた「逃げ得」の力に酔いしれていた。
残り3日。
リセット期間が終われば、もう後戻りはできない。
世界は、次のステージへと進もうとしていた。




