第20話
ホワイトハウス、大統領執務室。
その部屋の主であるジョン・トンプソン大統領の顔には、この数週間、常に疲労と苦悩の深い影が刻み込まれていた。
Xデーは、刻一刻と迫っている。
神の力を持つ中国とロシアの巨大な軍隊が、今まさに世界の平和を食い破ろうとしている。
そして、自分はそれをただ見ていることしかできない。
そのあまりにも無力な現実。それが、彼の心身を確実に蝕んでいた。
「……何か手はないのか」
彼は、目の前に立つ腹心の男たちに問いかけた。
国家安全保障担当補佐官、CIA長官、そして国務長官。彼らもまた、同じ絶望を共有していた。
「外交的なルートは全て尽くしました、大統領」と、国務長官が力なく首を振った。「彼らは、聞く耳を持ちません」
「軍事的な介入も不可能です」と、国防長官が続けた。「KAMIとの契約に違反する危険性が高すぎる。我々の兵士たちを、無駄死にさせるわけにはいきません」
八方塞がり。
まさに、その言葉通りだった。
彼らは、神のチェス盤の上で、完全にチェックメイトをかけられていたのだ。
「……いや」
その重苦しい沈黙を破ったのは、これまで黙って窓の外を見つめていたCIA長官、その人だった。
彼はゆっくりと振り返ると、その氷のように冷たい瞳で、大統領をまっすぐに見据えた。
「……まだ一つだけ、手が残されています」
「何だと?」
「我々が戦うべき戦場は、もはや陸でも、海でも、空でもない。そして、神の御前でもない。残された唯一の、そして最大の戦場。それは**『情報』**です」
CIA長官は、静かに、しかし恐るべき提案を口にした。
「我々自身の手で、リークするのです。この忌まわしい神との契約の全てを。そして、その情報の流れを、我々が完全にコントロールする。物語を、我々が望む方向へと書き換えるのです」
「……正気か、君は!」と、国務長官が声を荒らげた。「自らの最高機密を世界に晒すだと!? それは、自爆テロに等しい行為だ! 我々も日本も、中国やロシアと同じように、世界中から非難を浴びることになる!」
「ええ、最初はそうでしょう」と、CIA長官は平然と頷いた。「ですが、炎上にはガソリンが必要です。そして、そのガソリンをどこに集中的に注ぐのか。それを決めるのは、我々です」
彼は、一歩前に進み出た。
「大統領。これは、賭けです。一世一代の、巨大な賭け。ですが、このまま座して世界の終わりを待つよりは、遥かに可能性があると、私は信じます」
トンプソンは、数分間、目を閉じて沈黙していた。
彼の頭の中では、あらゆるリスクとリターンが、高速で計算されていた。
やがて、彼はゆっくりと目を開いた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
腹は、括れた。
「……やれ」
彼は、静かに、しかし力強く命じた。
「ただし、条件がある。一つ、情報の出所が我々であることが絶対に露見しないようにしろ。二つ、日本の沢村総理は共犯者ではなく、我々と同じようにこの事態に苦悩する被害者であるという構図を作り上げろ。彼は、この狂ったゲームの中で、我々が唯一信頼できるパートナーだ」
「……御意に(Yes, Mr. President)」
CIA長官は、その口の端にかすかな笑みを浮かべると、深く頭を下げた。
その瞬間から。
CIAの地下深く、サイバー戦と心理作戦を専門とするエリートチームが、活動を開始した。
彼らの最初の仕事は、リークする「情報パッケージ」の作成だった。
それは、まさに巧妙という言葉がふさわしい作業だった。
彼らは、入手した全ての機密情報の中から、中国とロシアの覇権主義的な野心を明確に示す部分だけを、注意深く切り抜いた。
四カ国会談の音声記録からは、日米の苦悩する発言はそのままに、中露の攻撃的な発言だけを強調して編集した。
そして、何よりも巧妙だったのは、その膨大なデータの中に、彼らが意図的に埋め込んだいくつかの偽の痕跡だった。それらは全て、情報の出所がモスクワのクレムリン内部の反体制派であるかのように示唆していた。
それは、真実の中に巧みに嘘を混ぜ込み、敵の内部に猜疑心を植え付ける、情報戦の基本にして奥義。
そして、Xデーの二十四時間前。
その恐るべき情報爆弾は、『真実の番人』という架空のハクティビスト集団の名を借りて、全世界の報道機関に向けて、同時に放たれた。
最初の数時間は、CIA長官が予測した通り、世界は大混乱に陥った。
四カ国全てが、等しく非難の対象となった。
だが、その混沌の中から、CIAが事前に仕込んでいた第二、第三の矢が、次々と放たれ始めた。
SNSには無数のボットアカウントが投入され、特定の世論へと人々を誘導していく。
『リークされた音声記録を聞け! 中国とロシアは、明らかに侵略を計画している!』
『日米は、むしろそれを止めようとしていたのではないか?』
『情報の出所はロシア内部だという噂だ。プーチン政権の内部で、何かが起きている!』
その巧みな情報操作によって、炎上の火種は、徐々に北京とモスクワの二点に集中させられていった。
大手メディアも、その流れに乗り始める。
最初は「四カ国の陰謀」と報じていた見出しは、いつしか「中露の暴走と日米の苦悩」という論調へとすり替わっていた。
世界は、単純な物語を求めていた。
このあまりにも複雑で恐ろしい新しい現実を理解するために、分かりやすい「善」と「悪」の対立構造を必要としていたのだ。
そして、アメリカは、その物語を世界に提供した。
正義の守護者である日米。
そして、神の力を悪用しようとする邪悪な帝国、中露。
そのあまりにも古典的で、しかし、それゆえに強力な物語。
世論は、だんだんとその方向に流れていった。
侵攻計画は、完全に頓挫した。
中国とロシアは、今や全世界から、「神の力を独占し、世界を戦争に陥れようとした悪の枢軸」というレッテルを貼られていた。
彼らは、弁明の機会さえ与えられず、国際社会から完全に孤立した。
そして、その非難の声が高まれば高まるほど、相対的に日米両政府の立場は強化されていった。
彼らは、混沌の中から、見事に主導権を奪い返したのだ。
リークから、一週間後。
ホワイトハウス、オーバルオフィス。
トンプソン大統領は、夕暮れのワシントンの空を眺めながら、グラスの中の琥珀色の液体を静かに揺らしていた。
彼の目の前のテーブルには、CIAからの最新の報告書が置かれている。
そこには、世界中の世論が、完全にアメリカの描いたシナリオ通りに動いていることを示す、無数のデータとグラフが並んでいた。
「ふー…とりあえず、これで中国とロシアの暴走は止められそうだな」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。その声には、深い、深い安堵の色が滲んでいた。
「ええ。賭けに勝ちましたね、我々は」
部屋の隅に控えていた国家安全保障担当補佐官が、静かに言った。
「一世一代の賭けだったが、なんとか上手くいったな…」
トンプソンは、グラスを一気に呷った。
喉を焼くようなアルコールの感覚。それは、彼がこの数週間忘れていた勝利の味だった。
彼は、確かに勝ったのだ。
核兵器も、超人兵士も使うことなく。
ただ、情報と物語の力だけで、二つの強大な独裁国家を屈服させた。
だが、彼は知っていた。
これは、終わりではない。
むしろ、始まりに過ぎないということを。
世界は今、神の実在と、その力の片鱗を知ってしまった。
人々の心には、恐怖と、そしてかすかな期待が植え付けられている。
この不安定な世界を次にどこへ導くのか。
その責任は今や、完全に彼と、そして日本の沢村総理の双肩にかかっていた。
「……これからどうする」
トンプソンは、静かに尋ねた。
「まずは、秩序の再建です」と、補佐官は答えた。「中露を完全に孤立させるのではなく、我々が主導する新しい枠組みの中に、彼らを組み込むのです。神の力の、平和的かつ限定的な利用に関する国際的な管理体制を構築します」
「新世界秩序か」
トンプソンは、皮肉げに笑った。「この日米に掛かっていると、世界に思わせるわけだな」
「その通りです。そして、そのためには、もう一押し必要です」
補佐官は、続けた。
「人々の関心を、恐怖から希望へと転換させる、新しい物語が」
トンプソンは、頷いた。
彼も、同じことを考えていた。
「ああ。そして、少し落ち着いた所で、異世界の存在で話題を逸らすと完璧だな」
そうだ。
彼らの手にはまだ、世界が誰も知らない最大のカードが残されている。
魔法、モンスター、そして未知の資源。
人々の想像力を掻き立て、冒険心をくすぐる究極のエンターテイメント。
そして、人類の未来を切り拓く新しいフロンティア。
「異世界か…」
トンプソンは、窓の外の星空を見上げた。
「我々は、神だけでなく、悪魔とも、天使とも取引をしてしまったのかもしれんな」
彼はグラスを置くと、決然とした表情で言った。
「よし。準備を始めろ。次のリークのだ。今度は、世界を絶望させるニュースじゃない。世界を熱狂させるニュースを届けてやる」
その瞳は、もはや恐怖に怯える為政者の色ではなかった。
新たな時代の創造主として、その重責と興奮を同時にその身に宿した、真のリーダーの光がそこにはあった。
世界は、まだ知らない。
彼らがこれから見せられる新しい夢と。
その夢の裏側で、静かに進行する神の、そしてその代理人たちの壮大な計画の本当の姿を。
物語は、まだ始まったばかりだった。
そして、その脚本は今、確かにアメリカ合衆国の大統領の手によって書かれようとしていた。
ただ、そのさらに上に、この全てのシナリオを退屈そうに眺めている原作者がいることを、彼はまだ気づいてはいなかった。




