第2話
スキル『念動力』の獲得は、橘栞の日常にささやかな利便性をもたらした。ベッドの中からブラインドを開けたり、キッチンで複数の調理器具を同時に操ったり、宅配便の受け取りサインを空中で済ませたり。しかし、その程度の「便利」に十万円という対価を支払ったことへの割り切れなさは、彼女の中に微かな澱のように残り続けていた。
「コストパフォーマンスが、悪すぎる…」
平日の昼下がり。仕事を一段落させた栞は、自室のソファで腕を組み、空中に浮かべたタブレットを眺めながら呟いた。タブレットには、彼女が独自に作成した『賢者の石』の解析ドキュメントが表示されている。そこには、これまでの実験結果と、そこから導き出される仮説が、箇条書きでびっしりと並んでいた。
彼女が直面している最大の問題は、シンプルだった。対価、すなわちコストの不足である。
このスキルの真価は、リストの果てにある『全能』という究極の目標にある。そこへ至る道筋はまだ見えないが、途方もない量の対価が必要になることだけは確実だ。念動力の獲得に十万円を要したという事実が、その道のりの険しさを物語っている。
手持ちの貯金は、まだそれなりにある。しかし、それらは彼女がフリーランスとして自立するために、身を粉にして働いてきた証だ。全額をこの得体の知れないスキルの解析に注ぎ込むのは、いくら彼女が冷静だとはいえ、躊躇われた。それに、仮に全財産を投じたところで、『全能』のコストには焼け石に水だろう。
銀行強盗や資産家からの窃盗という選択肢も一瞬頭をよぎったが、すぐに棄却した。念動力を使えば不可能ではないかもしれないが、それはあまりにもハイリスクだ。彼女が望むのは、平穏な日常の延長線上にある、静かな探求だ。派手な犯罪行為に手を染めて世間の注目を浴びるなど、彼女の信条に反していた。
「……持続可能で、ローリスク。そして、ハイスケールな対価の調達方法…」
まるで新規事業のビジネスモデルを考えるかのように、栞は眉間にしわを寄せる。理想的なのは、誰のものでもなく、社会的に価値が低いとされ、それでいて物理的な量は膨大に存在する何か。そんな都合のいいものが、果たしてあるのだろうか。
思考の海に沈んでいた栞は、ふと、スキルウィンドウそのものに意識を戻した。これまで、「対価を捧げてリストを見る」という一連の操作は、半ば無意識に行っていた。だが、このウィンドウのインターフェースには、まだ自分が気づいていない機能が隠されているのではないか。ゲームの隠しコマンドを探すように、彼女はウィンドウの隅々まで意識を巡らせた。
設定。ログ。ヘルプ。ありきたりな項目が並ぶ中、彼女の注意を引いたのは、片隅に小さく表示された地図のようなアイコンだった。これまで全く気にしていなかったそのアイコンに、栞は意識を集中させる。
(これを選択)
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
いや、正確には、彼女の知覚が拡張されたのだ。
頭の中に、三人称視点のカメラで捉えたかのような、自室の俯瞰図が広がる。そして、その図の中のいくつかのオブジェクトが、淡い緑色の光でハイライトされていた。
「なに、これ…」
驚きに目を見開く。ハイライトされているのは、ワークデスクの横に置いたゴミ箱の中身、読み終えて放置していた雑誌の束、そしてキッチンのシンクにある生ゴミ用の袋。
共通点は、ただ一つ。
それらは全て、彼女が「不要なもの」として認識し、「捨てる」ことを予定しているものばかりだった。
仮説が閃く。
この機能は、周囲にある「対価として捧げることが可能なオブジェクト」をスキャンし、表示するものではないか。そして、ハイライトされる条件は、「所有権が曖昧、あるいは放棄されたモノ」なのではないか。
栞は、すぐさま実験に取り掛かった。
まず、頭の中の俯瞰図に表示されている、デスク横のゴミ箱に意識を集中させる。
(これを選択し、対価として捧げる)
心の中で命じると、目の前のスキルウィンドウに確認メッセージが表示された。
【対価『雑ゴミ(約450g)』を捧げます。よろしいですか?】
「はい」と念じる。すると、現実のデスク横にあったゴミ箱の中身が、忽然と姿を消した。ビニール袋ごと、綺麗さっぱりと。そして、スキルウィンドウには、ごく僅かな対価がチャージされたことを示す表示が現れた。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
物理的に触れる必要すらない。意識を向けるだけで、対価を捧げることが出来る。これは、革命的な発見だった。
次の実験は、範囲だ。このスキャン機能は、どこまで届くのか。
栞は、頭の中の地図の縮尺を、ぐっと広げるイメージを思い浮かべた。すると、俯瞰図は彼女の部屋から、マンションのフロア全体、そしてマンションの建物全体へとシームレスに広がっていく。
地図上には、他の住人が出したであろうゴミ袋や、集合ポストに溜まった不要なチラシなどが、緑色の光点として煌めいていた。
(まさか…)
栞は、さらに地図を広域化していく。
マンションの敷地を越え、近所の公園へ。ベンチの下に捨てられた空き缶が光る。自動販売機の横のリサイクルボックスの中身が光る。彼女は試しに、その中の一本の空き缶に意識を集中させ、対価として捧げてみた。手応えがあった。スキルウィンドウの対価残高が、微かに増える。
地図は、区、都、そして関東地方全域へと、まるで衛星画像のように広がっていく。日本地図上に、無数の緑色の光点が生まれては消える。そのほとんどは、人間が生活する上で排出する、ありふれたゴミだった。
「これなら…!」
栞の目に、再びあの輝きが戻っていた。
これこそが、彼女が求めていた「持続可能で、ローリスク、ハイスケールな対価の調達方法」そのものだった。
しかし、まだ問題はある。
一般家庭から出るゴミは、一つ一つの価値があまりにも低い。日本中のゴミを全て集めたところで、焼け石に水だろう。より価値の高い「不要物」を探す必要がある。
彼女は、これまでの実験結果を思い返した。プラスチックや紙くずの価値は低い。だが、金属類は、それらと比較すれば遥かに高い価値として換算されていた。
「価値の高い金属類で、所有権が放棄されていて、一箇所に大量に存在するモノ…」
答えは、すぐに出た。
栞はソファから立ち上がると、ワークデスクに向かった。彼女の本領発揮の時だ。
トリプルモニターに、いくつものブラウザウィンドウと地図情報ソフトを立ち上げる。指が、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き始めた。
検索窓に打ち込むキーワードは、彼女の倫理観と探究心が絶妙に混ざり合ったものだった。
『不法投棄 山林 金属スクラップ』
『産業廃棄物 処分場 問題』
『最終処分場 立地 一覧』
現代社会が目を背ける、負の遺産。それらが、今の彼女にとっては宝の山に他ならなかった。
数十分のリサーチで、関東近郊に点在する、いくつかの悪質な不法投棄スポットの情報を掴んだ。ニュース記事、自治体の警告、近隣住民の悲痛なブログ。写真には、錆びついた自動車の車体、家電製品の残骸、建設廃材などが、山のように積み上げられている。
栞は、その中から、最も規模が大きく、かつ人里離れた山中にある一つのスポットを選び出した。地図情報ソフトに、その場所の経度と緯度を叩き込む。
そして、スキルウィンドウの広域スキャン機能に、その座標をインプットした。
頭の中の地図が、高速でズームしていく。東京のきらびやかな夜景を飛び越え、隣県の深い山中へ。そして、木々が鬱蒼と茂る谷間に、その場所はあった。写真で見た通りの、おびただしい量の廃棄物の山。その全てが、スキルウィンドウの地図上では、眩いばかりの緑色の光を放っていた。
「……よし。これで行きましょう」
栞は、静かに宣言した。
「とりあえず、産業廃棄物を片っ端から対価にしましょう」
彼女はまず、手始めに、錆びて赤茶けた軽トラックの車体に意識を合わせた。
(対価として、捧げる)
スキルウィンドウが、これまで見たこともないほどの価値を弾き出す。一般ゴミの数千倍、数万倍。彼女の対価残高が、意味のある数字で増加していく。
面白いように、対価が溜まっていく。
栞は、夢中になった。一台、また一台と、廃棄された自動車をスキルに吸収させていく。テレビ、冷蔵庫、エアコンの室外機。金属の塊を、次々と。
数時間後、その谷間にあったはずの巨大な廃棄物の山は、その八割が跡形もなく消え去っていた。
その日から、日本各地で、奇妙な現象が報告されるようになった。
とある県の山中に、十年以上にわたって放置され、地域住民を悩ませていた不法投棄の山が、ある朝、忽然と姿を消した。重機の入った形跡も、トラックのタイヤ痕も一切ない。ただ、長年ゴミに覆われていた地面が、久しぶりに太陽の光を浴びているだけだった。
またある港では、輸出される予定だったはずの、巨大な金属スクラップの塊が、密閉された倉庫の中から消え失せた。監視カメラには、何の異常も映っていない。
最初は、単発の奇妙な事件として処理された。しかし、同様の報告が、千葉で、埼玉で、群馬で、そして全国各地で相次ぐようになると、さすがに世間も、そして政府も、これが尋常な事態ではないことに気づき始める。
テレビのワイドショーが、この怪現象を「神隠し」ならぬ「ゴミ隠し」だと面白おかしく報じ始めた頃。
橘栞は、そんな外界の騒ぎをどこか他人事のように眺めながら、自室のソファでコーヒーを飲んでいた。
彼女の目の前のスキルウィンドウには、この数日で貯め込んだ、膨大な対価残高が、誇らしげに表示されている。
「さて、と」
彼女は、満足げに呟いた。
「この対価で、次にどんなスキルが手に入るか、見てみましょうか」
まだ、この時の彼女は知らなかった。
自分の静かな探求が、国家を揺るがす巨大なパニックの引き金になっていたこと。
そして、遠くない未来に、自分が「神」と呼ばれることになる可能性など、微塵も考えてはいなかった。




