第173話
世界は、四つの色に塗り分けられていた。
日本、アメリカ、中国、ロシア。
『神聖四カ国』、あるいは『ダンジョン保有国』と呼ばれる彼らは、KAMIがもたらした無限の富と力の源泉を独占し、人類史の新たな覇権を握っていた。
だが、世界地図の残りの部分――「持たざる国々(ノン・ホルダー)」が、ただ指をくわえて絶望していたかといえば、そうではない。
彼らは、彼らなりにこの激変する世界に適応し、そして予想外の「おこぼれ」によって、かつてないほどの経済的繁栄を享受していたのである。
その原動力となったのが、『ダンジョン出稼ぎ労働者』と呼ばれる、新たな英雄たちだった。
***
東南アジアの島国、フィリピン。マニラ国際空港。
熱帯の湿った空気を切り裂くように、東京・羽田発の日本航空機が滑走路に降り立った。
タラップから降りてくるのは、仕立ての良いスーツや最新のストリートファッションに身を包んだ、日焼けした若者たちの一団だ。
彼らの腰や背中には、厳重に梱包されたケースが携えられている。
その中身が、F級あるいはE級の『ダンジョン装備』であることを、空港職員の誰もが知っていた。
「――おかえりなさい! 英雄たちよ!」
到着ロビーは、アイドルスターの来日など比較にならないほどの熱狂に包まれていた。
家族、親戚、友人、そして近隣住民までもが横断幕を掲げ、彼らを出迎える。
「マテオ! よくやった!」
「お前の送金のおかげで、妹が大学に行けるぞ!」
「村の教会も修繕できた! お前は神の使いだ!」
マテオと呼ばれた20代の青年は、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに手を振った。
彼は半年前まで、建設現場の日雇い労働で食いつなぐ、しがない若者だった。
だが日本政府が「外国人探索者」の受け入れ枠を拡大した際、全財産をはたいて渡航し、渋谷のダンジョンに潜ったのだ。
そして今、彼は「成功者」として帰国した。
実家での祝宴。
テーブルにはレチョン(豚の丸焼き)や豪華な料理が並ぶ。
マテオは日本の銀行アプリの残高画面を、父親に見せた。
「……見てくれ、父さん。今月の稼ぎだ」
「こ、これは……」
父親が絶句する。
そこに表示された数字は、彼が一生かかっても稼げないような金額だった。
日本円にして数百万円。
フィリピンペソに換算すれば、王侯貴族のような暮らしができる額だ。
「日本では、これくらい普通だよ」
マテオは日本で買った最新のスマートフォンを操作しながら言った。
「俺たちのパーティは、渋谷のF級で効率よく魔石を集めるルートを確立したんだ。
日本のサラリーマン探索者は安全志向だから、危険なエリアにはあまり来ない。
そこが俺たちの狩り場さ」
彼はグラスに注がれたサンミゲル・ビールを飲み干した。
美味い。故郷の味だ。
だが同時に、彼の脳裏には東京で飲んだ、あの冷えた「プレミアム・モルツ」の味と、新宿の高級焼肉の味がよぎっていた。
「……マテオ。これからどうするんだ?
これだけの金があれば、もう働かなくても……」
「いや、戻るよ」
マテオは即答した。
「一週間休んだら、また東京に戻る。
今回の帰国は、ただの骨休めだ。
向こうには仲間も待っているし、何より……」
彼は苦笑した。
「正直言って、向こうの方が暮らしやすいんだ。
エアコンは効いてるし、街は綺麗だし、飯も美味い。
ダンジョン近くの探索者専用ホテルなんて、こっちの高級リゾートより豪華だからな。
風呂も、サウナも、入り放題だ」
それが出稼ぎ勢の偽らざる本音だった。
母国は愛している。家族も大切だ。
だが、神の恩恵を直接受け、文明レベルが数段階引き上げられた「四カ国」の快適さを知ってしまった彼らにとって、母国はもはや「休暇を過ごす場所」であっても、「生活の拠点」にはなり得なかった。
「それに、旅費なんて気にする必要もないしな」
マテオは笑った。
「飛行機代? 往復で十数万円?
そんなの、ダンジョンに潜ってゴブリンを数匹狩れば、一日でお釣りが来るさ」
距離のコストは、圧倒的な稼ぎの前には誤差でしかなかった。
彼らは「通勤」する感覚で海を渡り、外貨を稼ぎ、そして母国に送金する。
フィリピンだけでなく、ベトナム、タイ、インドネシア……。
日本と親密な関係にあるアジア諸国は、この「ダンジョン送金」によって、かつてない好景気に沸いていた。
国家予算の数割が、彼ら出稼ぎ探索者からの送金で賄われる国さえ出てきていた。
政府もそれを推奨した。
大統領自らが空港で出迎え、
「君たちは国の宝だ! もっと稼いでこい! そしてまた帰ってきてくれ!」
と激励する。
彼らにとって日本は、もはや単なる隣国ではなく、無限の富が湧き出る「約束の地」だったのだ。
***
一方、ヨーロッパ。
かつて世界の中心を自負していたこの地域もまた、新たな秩序の中で「出稼ぎ」の現実に直面していた。
だが、アジア諸国のような手放しの歓迎ムードとは異なり、そこには複雑な屈折と、プライドの痛みが混じっていた。
フランス、パリ。
シャンゼリゼ通りのカフェで、二人の男がエスプレッソを飲んでいた。
一人はフランス政府の高級官僚。
もう一人は、アメリカ・ワシントンD.C.のダンジョンを拠点とする、フランス人探索者ギルドのリーダー、ジャンだった。
「……ジャン。君たちが稼ぎ出すドルは、確かに我が国の経済を救っている。
だが、その装備……」
官僚が、ジャンの腰にある剣を指さした。
アメリカのオークションで競り落とされた『E級・ロングソード(雷属性)』。
その刀身には『Made in USA(Dungeon)』の刻印がある。
「ああ、いい剣だろう?」
ジャンは言った。
「トンプソン大統領の肝煎りで放出された、軍の放出品だ。
性能は折り紙付きだよ」
「……嘆かわしいことだ」
官僚はため息をついた。
「かつて文化と芸術の都であったパリの若者が、アメリカの地下で泥にまみれ、アメリカの武器を使って金を稼ぐ。
我々は、いつから彼らの下請けになったのだ」
「時代が変わったんだよ、アンリ」
ジャンは肩をすくめた。
「EUにはダンジョンがない。KAMIは我々を選ばなかった。
それが現実だ。
プライドで腹は膨れない。
我々がアメリカに渡り、稼ぎ、そしてその金でフランスワインを飲む。
それでいいじゃないか」
ヨーロッパ諸国は、その外交関係から主に「アメリカ」を選んで渡航していた。
ニューヨークやワシントンのダンジョンは、英語を解する彼らにとって比較的ハードルが低く、また文化的な親和性も高かったからだ。
「それに、向こうの待遇は悪くないぞ」
ジャンは言った。
「アメリカ人は実力主義だ。強ければ認める。
稼いだ金で泊まるホテルのスイートも、カジノでの遊びも最高だ。
……正直、パリの狭いアパートに帰るのが億劫になるくらいにな」
「……帰ってきてくれよ」
アンリは弱々しく言った。
「君たちが持ち帰る魔石とドルがなければ、この国の社会保障は破綻する。
政府は君たちを『現代の銃士隊』として称えているんだ」
「分かってるさ」
ジャンは残りのコーヒーを飲み干した。
「稼げるだけ稼ぐよ。
アメリカ様のおこぼれだろうが、何だろうが、金は金だ。
……KAMIがいつか気まぐれを起こして、凱旋門の下にゲートを開いてくれる、その日までな」
彼らは羨んでいた。
圧倒的な力を持つ四カ国を。
そして心の底から願っていた。
「KAMIの恩恵があればなぁ」と。
だが、その願いが叶わない今、彼らはプライドをポケットにしまい、出稼ぎ労働者として海を渡るしかなかった。
***
中東・アフリカ地域。
ここでは事情が少し異なっていた。
彼らの多くは、地理的・政治的な理由から「中国」あるいは「ロシア」を選んでいた。
中国・西安のダンジョンゲート前。
アフリカ諸国から来た探索者たちが、中国語の通訳を介して『青龍』ギルドの職員と交渉している。
「我々は働き者だ! 危険な最前線でも構わない!」
「うむ。歓迎するアル。
我が国のダンジョンは広い。人手はいくらあっても足りない。
宿舎も食事も、党が用意した専用施設を使っていい」
中国は、広大な内陸部ダンジョンの開発に、安価でタフな労働力を求めていた。
アフリカの若者たちにとって、中国の提供するインフラと食事は、母国のそれとは比べ物にならないほど快適だった。
彼らは魔石を掘り、中国製品を買い込み、そして母国へと送る。
「一帯一路」ならぬ「ダンジョン一路」。
新たな経済圏が、地下迷宮を通じて形成されていた。
一方、シベリアのロシア領ダンジョン。
ここには中東や中央アジアからの猛者たちが集まっていた。
寒さに強く、戦闘慣れした彼らは、ロシアの「労働大隊」とは異なる独立した傭兵部隊として重宝されていた。
「ハラショー! いい動きだ!」
ヴォルコフ将軍の部下が、イランからの出稼ぎチームを称賛する。
「ロシアの武器は馴染むか?」
「ああ。頑丈で壊れない。
俺たちの国の砂漠でも、ここの氷原でも、頼りになる相棒だ」
彼らは稼いだルーブルと魔石を持ち帰り、それぞれの国の紛争や復興に役立てていた。
ロシアは彼らに武器と場を与え、彼らはロシアに忠誠(と魔石)を返す。
血と鉄の同盟が、ダンジョンを介してより強固なものとなっていた。
***
世界は、四つの巨大な重力圏に再編されていた。
日本圏、アメリカ圏、中国圏、ロシア圏。
その他の国々は、いずれかの重力に引かれ、その衛星として回ることで繁栄を享受していた。
それは歪だが、奇妙に安定したエコシステムだった。
だが。
その安定を根底から揺るがす「事件」が起きた。
先日終了したイベント『深霧踏破戦線』。
そこで配布された二つのユニークアイテム。
『霧払いの手甲』と、『霧渡りの長靴』。
その性能――特に「長靴」の持つ意味に気づいた時、持たざる国々の指導者たちは、羨望を超えた「恐怖」に震え上がった。
某国の大統領官邸。
大統領は諜報部から上がってきた極秘レポートを読み、顔面蒼白になっていた。
「……なんだこれは。
壁をすり抜ける靴だと? 物理的な障害物を無視して移動できる?」
諜報局長が脂汗を拭いながら頷いた。
「はい。KAMI自身が認めた『仕様』です。
現在、世界に約2万5千足が存在し、その多くは四カ国の軍や組織に回収されましたが……。
数千足は個人の探索者、それも我々のような『出稼ぎ勢』の手元にあると推測されます」
「……!!」
大統領が立ち上がった。
「我が国の国民が、それを持って帰国した可能性があるというのか!?」
「否定できません。
日本やアメリカのオークションで一攫千金を夢見て参加した、我が国の若者が運良く、あるいは全財産をはたいて、その靴を手に入れていたら……」
大統領は窓の外を見た。
高い塀に囲まれ、厳重な警備兵に守られた官邸。
だが、もし「壁をすり抜ける靴」を履いた暗殺者が現れたら?
壁も扉も、防弾ガラスも、警備員の肉体さえもすり抜けて、自分の寝室に音もなく忍び寄ってきたら?
「……防げない」
彼は戦慄した。
「核兵器どころではない。
これは個人のテロリストが、国家元首を確実に殺害できる究極の暗殺兵器だ」
彼は心の中で叫んだ。
(KAMIよ! 加減しろ!! あまりにも危険すぎる!!)
だが、その声を口に出すことはできない。
もしKAMIの機嫌を損ねれば、ダンジョンへのアクセス権を剥奪されるかもしれない。
そうなれば国は経済的に死ぬ。
「……どうする? 帰国した探索者の荷物を全て検査するか?」
「不可能です」
局長が首を振った。
「彼らは『アイテムボックス』を持っています。
亜空間に収納された靴を、税関で見つける術はありません。
彼らがその気になれば、いつでも、どこにでも持ち込めるのです」
「……詰みか」
大統領は椅子に崩れ落ちた。
四カ国の指導者たちはまだいい。
彼らはKAMIと直接対話し、ある程度のコントロール権を持っている(と思っている)。
だが我々のような小国の指導者は、ただ嵐に怯える小舟のようなものだ。
「……日本政府はどうしているのだ? 規制は?」
「日本では『GPS装着による管理』という、緩やかな規制に留まっています。
アメリカは『国家収用』を進めていますが、地下に潜った個体も多いとか。
……要するに、野放しです」
「こんな装備を持った人間が、国内にいるかもしれない……」
その疑心暗鬼は、世界中の指導者たちの夜を眠れぬものにした。
独裁国家の将軍も、民主国家の首相も、王政の君主も。
誰もが自分の足元にある影に怯え始めた。
もしかしたら、昨日のパレードで歓声を上げていたあの若者が。
あるいは、経済界のホープとして持て囃されているあの帰国者が。
その懐に、世界をひっくり返す「靴」を隠し持っているのではないか。
「……優遇しよう」
大統領は苦渋の決断を下した。
「帰国した探索者たちを、徹底的に優遇しろ。
税金を免除し、勲章を与え、英雄として称えよ。
彼らに『この国に不満を持たせない』こと。
それしか我々の命を守る方法はない」
世界中で、奇妙な現象が起きた。
各国政府が帰国した探索者たちに対し、異常なまでの厚遇を始めたのだ。
それは感謝ではない。
「どうか、その力で我々に牙を剥かないでくれ」という、権力者たちの必死の媚びへつらいだった。
***
その頃。
東京のマンションの一室。
KAMIは世界中のニュースフィードを眺めながら、ポップコーンを食べていた。
『小国の独裁者が探索者代表を大臣に任命』
『王室、帰国した英雄に爵位を授与』
『全世界で探索者の社会的地位が爆上がり中』
「あはは! みんなビビりすぎ!」
彼女は楽しそうに笑った。
「たかが靴一足で、国の法律が変わっちゃうんだから。
人間って本当に『力』に弱いのね」
本体の栞がコーヒーを飲みながら言った。
「まあ、一種の抑止力にはなってるわね。
権力者たちが探索者を虐げられなくなった。
彼らの機嫌を損ねれば、壁をすり抜けて寝首をかかれるかもしれないんだもの」
「そうそう」
KAMIは頷いた。
「これで『不当な搾取』も減るでしょうし。
結果、オーライじゃない?」
彼女はモニターの中の不安げな顔をした各国の指導者たちに手を振った。
「安心なさい。
あなたたちが良い王様でいる限り、その靴はただの便利な移動手段よ。
でも……もし悪いことをしたら?」
彼女は悪戯っぽく、しかし冷徹に微笑んだ。
「その時は神罰が下るかもしれないわね。
壁の向こうから、音もなく」
世界は新しい緊張関係の中にあった。
四カ国の圧倒的な力と、それ以外の国々の従属。
だがその従属の下には、いつ爆発するか分からない「個の力」という地雷が埋まっている。
ダンジョン・エイジ。
それは国家という巨大なシステムが、たった一人の「装備を持った個人」に脅かされる、脆く、そしてスリリングな時代の幕開けでもあった。
「……さて、次はどんなアイテムをばら撒こうかしら」
神はまだ遊び足りないようだった。
その無邪気な指先が、次の混沌の種を選んでいる。
世界中の指導者たちの胃痛は、まだまだ治まりそうになかった。




