第172話
季節は巡り、日本列島は柔らかな春の陽気に包まれていた。
だが、東京・永田町の首相公邸地下にある危機管理センターの熱量は、季節の移ろいなど関係なく、常に沸点近くで維持されていた。
今日この部屋は、一種の祝祭的な、しかし同時にマラソンを完走した直後のランナーのような極度の疲労と達成感が入り混じった空気に支配されていた。
壁一面を埋め尽くす巨大な日本地図のスクリーン。
そこには、北は北海道から南は沖縄まで、日本列島を網の目のように結ぶ無数の光のラインが表示されている。
そして最後の一つ――島根県の県庁所在地、松江市に設置されたゲートのアイコンが、赤から「稼働中」を示す鮮やかな緑色へと変わった。
「――報告します。島根県松江ゲート、接続確立。空間歪曲率、安定。転移システムの稼働を確認しました」
オペレーターの声が響く。
「これにより、北は北海道・宗谷岬から、南は沖縄・与那国島まで。
本土四十七都道府県の全ての県庁所在地、および有人離島の主要拠点、計三百箇所の『国家空間輸送網』の第一次整備計画、ここに完遂いたしました!」
わぁっ……!
地下司令室に万雷の拍手が巻き起こった。
関係省庁の官僚たちが互いに肩を叩き合い、中には涙を流す者さえいた。
それは日本の歴史が変わった瞬間だった。
明治維新の鉄道敷設。戦後の新幹線網整備。
そして高度経済成長期の高速道路網。
それら過去の偉業の全てを過去のものとする、物理的な「距離」の完全なる消滅。
日本という細長い島国が、実質的に一つの巨大な「都市」として統合された瞬間だった。
「……やったな」
議長席で、その光景を見つめていた沢村総理が、深く、深く息を吐き出した。
彼の四つの身体(本体と分身)は、この半年間、文字通り不眠不休でこの調整に奔走してきた。
用地買収、地元への説明、利権の調整、安全性の確保。
そしてKAMIへの仕様変更のお願い(という名の土下座)。
その全ての苦労が、今、緑色に輝く日本地図となって結実していた。
「ええ、やりましたね、総理」
隣に立つ九条官房長官もまた、いつもの鉄仮面を僅かに緩めていた。
「特に難航した離島エリア……小笠原諸島や、沖縄の先島諸島への全島設置。
KAMI様が『面倒だから島は全部繋いじゃえば?』と仰ってくださったおかげで、一気に進みました」
モニターには、小笠原諸島・父島の様子が映し出されている。
かつては船で片道24時間かかった絶海の孤島。
だが今、島民たちはゲートをくぐり、一瞬で東京・竹芝のターミナルへと移動し、朝採れの野菜を市場に卸し、あるいは急病人を都内の大学病院へと搬送している。
「本土」と「離島」という格差が、物理的に消滅したのだ。
「東京から1000キロ離れた島が、今や新宿から徒歩0分の隣町だ」
麻生ダンジョン大臣が感無量といった様子で呟いた。
「物流コストはゼロ。移動時間もゼロ。
これで地方経済は劇的に活性化する。
限界集落などという言葉は、死語になるかもしれんな」
「……ふぅ」
沢村は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
「これで……これでやっと、一つの区切りがついたな。
もうゴールで良いんじゃないか? 九条君。
我々はやるべきことをやっただろう?」
その言葉には、一国のリーダーとしての達成感と、そして「もうこれ以上は勘弁してくれ」という一人の人間としての切実な願望が込められていた。
全県へのゲート設置。
大都市圏(東京・大阪・名古屋・福岡)には既に複数のハブ・ゲートと、主要駅ごとのサブ・ゲートが整備されている。
地方も県庁所在地には必ず一つ、巨大なゲートがある。
車で一時間も走れば、そこから日本中どこへでも行けるのだ。
これ以上のインフラ整備など必要ないはずだ。
これ以上、何を望むというのか。
だが。
その沢村のささやかな「ゴールの夢」を、現実は無慈悲に打ち砕いた。
「……総理。お気持ちは痛いほど分かります」
九条が手元の端末を操作しながら、冷徹な声で言った。
その画面には、先ほどから点滅し続けている無数の通知アイコンが表示されている。
「ですが残念ながら、これはゴールではありません。
むしろスタートラインに立ったに過ぎないのです」
「……なんだと?」
沢村が顔をしかめる。
「ご覧ください。全国知事会、および全国市長会からの緊急要望書の山を」
九条がメインスクリーンに新たなデータを投影した。
そこには緑色に染まったはずの日本地図の上に、無数の「要望地点」を示す赤いピンが、まるでウイルスのように増殖していく様が映し出されていた。
「……な、なんだこれは」
麻生大臣が絶句する。
「追加設置の要望です」
九条が淡々と説明する。
「『県庁所在地だけでは不便だ』『我が市にもゲートをよこせ』『隣の町にあってウチにないのは不公平だ』……。
ゲートが開通し、その利便性が証明された瞬間から、要望は爆発的に増加しています」
人間とは、一度便利さを知ってしまえば、決して後戻りできない生き物だ。
かつては「県に一つあれば御の字」だと思っていた人々も、いざ県庁所在地にゲートができると、今度は「そこまで行くのが面倒だ」「家の近所に欲しい」と言い出す。
欲望には際限がない。
「特に……」
九条は地図の北端――北海道を拡大表示した。
そこは他の都府県とは比較にならないほど広大な大地だ。
札幌、旭川、函館、釧路……。主要都市には既にゲートが設置されている。
だが画面上の北海道は、真っ赤な要望ピンで埋め尽くされていた。
「北海道知事からの直訴状が届いております」
九条がその内容を読み上げる。
『――国におかれましては、本道の広大さを真にご理解いただきたい。
札幌にゲートがあっても、稚内や根室の住民にとっては、それは数百キロ彼方の出来事であり、何の恩恵もありません。
東京から名古屋までの距離を、我々は「道内移動」として強いられているのです。
つきましては、道内179市町村、その“全て”にゲートを設置することを強く要望いたします。
スローガンは「一家に一台」ならぬ「一市町村に一ゲート」。
これが実現されなければ、北海道の真の地方創生はありえません』
「……ひゃ、179市町村すべてにだと!?」
沢村が悲鳴を上げた。
「馬鹿な! そんなことをすれば、北海道だけで日本のゲート総数の半分を持っていくことになるぞ!
予算はどうするんだ! 警備の人員は! メンテナンスは!」
「知事の言い分はこうです」
九条は続ける。
「『離島は全島設置されたではないか。北海道の僻地は実質的に離島と同じようなものだ。
なぜ沖縄の小さな島にゲートがあって、我々の町にはないのだ』と。
……論理的には反論しづらい、正論です」
確かにその通りだ。
小笠原諸島の母島(人口数百人)にゲートがあるのに、北海道の人口数千人の町にゲートがないのは不公平だと言われれば、返す言葉がない。
KAMIが「島は面倒だから全部繋ぐ」と言った気まぐれが、ここに来て巨大なブーメランとなって政府を襲っていた。
「いやいやいや!」
麻生大臣が机を叩いた。
「それは流石にやり過ぎでしょう!
各市町村に一つ? コンビニじゃないんですよ!?
ゲート一つ設置するのに、土地の買収、基盤工事、セキュリティシステムの構築、そしてD-POLの常駐……。
イニシャルコストだけで数十億、ランニングコストも馬鹿にならん!
それを過疎地の村にまで全部置けと? 費用対効果が悪すぎる!」
麻生は財務大臣としての顔で吠えた。
「大都市圏はいい。利用者が多いから黒字になる。
だが地方の、それも限界集落に近い村にゲートを置いて、一日に何人が使うんですか?
十人? 二十人?
そのために国家予算を投じるなど、財政規律上、絶対に認められん!」
「ですが大臣」
九条が冷静に反論の予想図を示す。
「それを言えば『地方切り捨て』『居住の自由の侵害』と叩かれます。
彼らは言うでしょう。『ゲートさえあれば人は戻ってくる』と。
『東京まで0秒で行けるなら、空気のきれいな田舎に住みたいという需要はあるはずだ』と。
ゲートは過疎を食い止める最後の切り札なのです。
それを否定することは、地方の死を宣告することに等しい」
「ぐぬぬ……」
麻生が言葉に詰まる。
政治的には地方の声は無視できない。
彼らは貴重な票田であり、そして国土保全の要でもあるのだから。
「北海道だけではありません」
九条は地図を全国に広げた。
「長野県の山間部、四国の山奥、紀伊半島の僻地……。
『ウチは陸の孤島だ』と主張する自治体から、同様の要望が殺到しています。
彼らは皆、離島と同じ扱いを求めているのです」
「……『一県一ゲート』という当初の理念は、どこへ行ったのだ」
沢村が頭を抱えた。
「我々は県庁所在地にハブを作ることで、そこを中心としたコンパクトシティ化を目指していたはずだ。
それがまさか『全集落へのゲート設置』まで話が膨らむとは……」
日本政府の本音はこうだった。
(北海道と離島はしょうがない。地理的にどうしようもないからな。
だが、それ以外は……大都市以外は、県に一つ、あるいは主要都市に数個で十分じゃないか!
車で一時間くらい走ってゲートまで行けばいいだろう!
贅沢を言うな!)
だが、それを口に出すことは許されない。
「国民の利便性向上」「地方創生」「国土の均衡ある発展」。
そういった美辞麗句を掲げてゲート構想を推進してきた手前、
「お前らの町には採算が合わないから置かない」とは口が裂けても言えないのだ。
「……KAMI様は何と?」
沢村が最後の望みを託して尋ねた。
「技術的に、あるいはリソース的に、これ以上の増設は不可能だと言ってはくれないか?」
九条が無慈悲に首を横に振った。
「確認しました。
彼女はポテチを食べながら、こう仰いました。
『ん? 別にいいわよ? 数千個でも数万個でも。
座標指定してくれれば、ポンポンって置くだけだし。
私の魔力的には、誤差みたいなものよ』と」
「……誤差か」
沢村がガクリと項垂れる。
神にとってはゲート一つ作るのも、石ころ一つ作るのも変わらない。
技術的な制約がない以上、「できない」という言い訳は通用しない。
あるのは「やるか、やらないか」という、人間側の政治的決断だけだ。
「それにKAMI様は、こうも仰いました」
九条が付け加える。
「『便利になればなるほど、人間はもっと欲張りになるわね。
次は“各家庭に一台”とか言い出すんじゃない? 家電みたいに。
ま、それも面白そうだけど』……と」
「各家庭にゲート……!?」
麻生が戦慄した。
「ドラえもんの『どこでもドア』じゃないんだぞ!
そんなことになったらプライバシーもセキュリティも崩壊する!
泥棒がワープして入ってくるし、不倫相手が寝室に直結するぞ!」
「ですが技術的には可能だと言われてしまった以上、いずれ世論はその方向へ向かうかもしれません」
九条が警告する。
「『なぜ公共施設に行かなければならないんだ』
『家にゲートがあれば、雨に濡れずに東京のオフィスに行けるのに』
……人間の怠惰への欲求は無限大です」
執務室は重苦しい沈黙に包まれた。
彼らは理解していた。
自分たちは「ゲート」という箱を開けてしまった。
それは単なる移動手段ではない。
「距離」という人間社会を縛り、そして守っていた物理的な防壁を完全に取り払ってしまったのだ。
その結果、溢れ出したのは無限の利便性と、そして無限の「もっと」という欲望だった。
「……どうする、総理」
麻生が葉巻(禁煙だが精神安定のために噛んでいるだけだ)を噛み締めながら言った。
「北海道の要求を飲めば、全国に波及する。
拒否すれば政権が揺らぐ。
……落とし所はどこだ?」
沢村は目を閉じて思考を巡らせた。
四つの身体の脳をフル回転させ、最適解を探る。
「……順次だ」
彼は苦渋の決断を下した。
「『全市町村への設置を目指す』という理念、そのものは否定しない。
将来的な目標としては掲げる。
だが現時点では『優先順位』をつけるしかない」
彼は具体的な選定基準を指示した。
「人口、経済効果、そして何より『緊急性』だ。
医療過疎地、豪雪地帯、災害時の孤立リスクが高い地域。
そういった『命に関わる場所』から、優先的に設置していく。
北海道の僻地や山間部は、その観点から優先度を高く設定する。
……それ以外の『単に不便なだけ』の地域は、申し訳ないが待ってもらうしかない」
「『命を守るためのゲート』という大義名分ですか」
九条が頷く。
「それならば国民も納得せざるを得ないでしょう。
不便より、命の方が重い」
「ああ。そして、麻生大臣」
沢村は財務大臣に向き直った。
「設置費用と維持費についてだが……。
『地元負担』の割合を増やす方向で調整してくれ」
「ほう?」
「『国はゲートそのもの(KAMI様の技術)は無償で提供する。
だが、その周辺施設(駅舎、駐車場、警備システム)の建設と維持管理は、受益者である地元自治体が負担せよ』と。
……『欲しがりません勝つまでは』ではないが、『欲しがるなら金を出せ』だ。
それだけの覚悟と財政力がある自治体にのみ、設置を許可する」
「……なるほど、ふるいにかけるわけですか」
麻生がニヤリと笑った。
「『タダなら欲しい』という連中は、それで脱落するでしょうな。
維持費の重さを知れば、安易な誘致論も沈静化するはずだ。
……悪くない。財政健全化の観点からも筋が通っている」
彼らは再び「政治」という武器を使って、神の奇跡をコントロールしようとしていた。
欲望に枠をはめ、現実に即した形へと整形する。
それが神を持たぬ人間たちの唯一の知恵だった。
「……だが、それでも北海道は引かないだろうな」
沢村は窓の外の北の空を思った。
「彼らは本気だ。試される大地は、今、国を試しているのだ」
「交渉しましょう」
九条が言った。
「北海道には『特区』としての権限をさらに移譲し、ダンジョン収益の一部をゲート整備費に直接充当できるようなスキームを作る。
自分たちで稼いで、自分たちで道を作る。
それならば文句はあるまい」
「……ああ。頼む」
方針は決まった。
だが、それは問題の解決ではない。
「どの町が生き残り、どの町が消えるか」という残酷な選別の始まりに過ぎなかった。
ゲートが来る町は栄え、来ない町は衰退する。
その格差はこれまで以上に可視化され、残酷なまでに広がっていくだろう。
「……罪作りなものだな、文明の利器というのは」
沢村は呟いた。
「便利になればなるほど、人は不便を許せなくなる。
0秒で移動できる世界を知ってしまった我々は、もう1時間の移動さえ苦痛に感じるようになってしまった」
「進化の代償です」
九条が淡々と応じた。
「ですが我々は前に進むしかありません。
……次の陳情団が待っています。次は東北の知事会です」
「……ああ、行こうか」
沢村の四つの身体が再び動き出した。
ゴールだと思った場所は、単なる中継地点に過ぎなかった。
日本列島改造論・ダンジョン編。
その終わりのない工事は、今日もまた政治家たちの胃袋を削りながら続いていく。
「……休みてえなぁ」
誰にも聞こえない声で、総理大臣が本音を漏らした。
その願いだけは、KAMIのどんな奇跡をもってしても叶えられそうになかった。




