第19話
世界は、その日、偽りの平和の薄氷の上を歩いていた。
日本の首相、沢村も。アメリカの大統領、トンプソンも。そして、中国の王将軍も、ロシアのヴォルコフ将軍も。
神と契約を交わした四人の、地球上で最も力を持つ男たちは、互いに腹の底に刃を隠し持ちながら、その冷たい氷の上で、静かに次の一手を探り合っていた。
水面下では、全てが動いていた。
台湾海峡とウクライナ国境には、今まさに歴史を力ずくで塗り替えんとする膨大な軍事力が集結し、その牙を研ぎ澄ませていた。
その侵略のXデーは、刻一刻と迫っている。
それを知る者は、まだ世界のごく一握り。
彼らは固唾を飲んで見守っていた。人類が神の力を手に入れたその最初の結末が、どのような血塗られた悲劇となるのかを。
だが、歴史とは常に予測不能なサイコロの出目によって、その進路を変える。
その運命のサイコロが投げられたのは、Xデーを二日後に控えた、ある晴れた秋の日の午後だった。
投じたのは、神でも為政者でもない。
まだ誰もその正体を知らない、名もなき誰かだった。
それは、一本の暗号化されたEメールから始まった。
ニューヨーク・タイムズの編集局長室。ロンドンのガーディアン。ベルリンのデア・シュピーゲル。そして、東京の朝日新聞。
世界を代表する報道機関の、最高レベルの編集責任者たちの元へ。
ほぼ同時に、そのEメールは届けられた。
差出人は、『真実の番人』。
本文には、ただ一言。
『――世界は、偽りの神々に騙されている』
そして、その下には、テラバイト級の膨大なデータファイルへのダウンロードリンクが貼られていた。
最初は誰もが、それを手の込んだ悪戯か、あるいはどこかの陰謀論者からの戯言だと思った。
だが、各社の情報セキュリティ部門がそのファイルの中身を解析し始めた数時間後。
世界中の報道機関の中枢は、かつてないほどの激震に見舞われることになる。
そこにあったのは、悪戯などではなかった。
それは、この数ヶ月、世界を裏で操ってきた日米中露四カ国政府の、最高レベルの国家機密。
パンドラの箱。
そのものだった。
ファイルの中には、あらゆるものが含まれていた。
あの日、日本の首相官邸の地下で記録された、ゴシック・ロリータ姿の少女の出現から交渉までの一部始終を記録した、完全な監視カメラの映像データ。
太平洋上の無人島で行われた、四カ国合同演習の、非公開だった超人兵士たちの戦闘記録の全て。
アメリカのCIAとDIAが、神の力『限定的未来予知』によって未然に防いできた、テロや事故に関する詳細な内部報告書。
そして、何よりも決定的だったのは。
先日行われた、四カ国首脳による極秘会談の完全な音声記録だった。
そこには、中国とロシアが台湾とウクライナへの侵攻を計画していること。
そして、日米両政府がそれを神との契約を理由に事実上黙認しようとしている、その生々しいやり取りが、一言一句違わぬ形で記録されていた。
それは、もはやスクープなどという生易しいものではなかった。
人類史をひっくり返す、黙示録だった。
その日の夕方。
最初に動いたのは、アメリカのニューヨーク・タイムズだった。
電子版のトップページに、史上最大級の見出しが躍った。
『神との契約――四カ国政府、超常的能力の独占と世界再編計画の全貌』
その一本の記事を皮切りに。
世界は、情報の洪水に飲み込まれた。
リークされたデータは、瞬く間に世界中のニュースサイト、SNS、動画サイトで拡散され、増殖し、そして炎上した。
『アメリカ、日本、ロシア、中国は超人兵士と限定的未来予知を手に入れた!?』
『四カ国での武力衝突を避けて、それ以外の他国に攻め入る計画が遂行中!?』
『KAMIと呼ばれる謎の存在の正体は、ゴスロリ姿の少女!? 映像公開!』
『台湾とウクライナは、見捨てられるのか? 日米の密約暴露!』
見出しが見出しを呼び、憶測が憶測を呼んだ。
最初は半信半疑だった人々も、次々と公開されるあまりにも具体的で動かぬ証拠の数々を前に、これが紛れもない事実であることを認めざるを得なかった。
そして、その理解は、やがて全世界的な巨大な感情のうねりへと変わっていった。
恐怖。
怒り。
裏切り。
そして、絶望。
「許されていいのか、そんなこと!?」
その一言が、世界の世論の全てだった。
自分たちの運命が。
自分たちの国家の未来が。
たった四つの大国の、そしてその背後にいる正体不明の神の都合によって、勝手に決められていた。
そして、自分たちは、その新しい世界のルールブックにおいて、明らかに「二級市民」として扱われている。
その屈辱的な事実。
それが、世界中の人々の心に火をつけた。
ロンドン、パリ、ベルリン、ニューデリー、ソウル、カイロ。
世界中の主要都市で、大規模な抗議デモが発生した。
人々は、自国の政府に、そして四カ国の大使館に殺到し、怒りの声を上げた。
「我々は、神の家畜じゃない!」
「四カ国の傲慢を許すな!」
「世界の運命を、我々の手に取り戻せ!」
ニューヨークの国連本部ビルでは、四カ国以外の全ての加盟国の代表たちによる、緊急の総会が開かれた。
議場は、怒号と罵声に包まれた。
フランスの国連大使が、壇上でマイクを叩きつけるように叫んだ。
「これは、全人類に対する裏切りだ! 我々は断固として、この新たな帝国主義に抵抗する!」
ブラジルの大統領は、テレビ演説で涙ながらに訴えた。
「我々の主権は、神の前でさえ侵されてはならない!」
台湾とウクライナでは、人々が絶望と、そしてかすかな希望の間で揺れ動いていた。
自分たちが、大国の取引の道具として切り捨てられようとしていた、その恐ろしい事実。
だが、その計画が白日の下に晒されたことで、侵攻はもはや不可能になったのではないか。
世界が、自分たちを見捨ててはいない。
その淡い期待。
そして、その混乱の渦中にいる四カ国政府は、完全に機能を停止していた。
東京、首相官邸。
沢村総理と九条官房長官は、モニターに次々と映し出される世界中の暴動と抗議デモの映像を、ただ呆然と見つめていた。
「……漏れたか」
沢村が、呻くように言った。「どこからだ。一体、誰が…」
「分かりません」と、九条は唇を噛み締めた。「これほどの規模のリークだ。内部に、極めて高度な技術を持つ裏切り者がいるか。あるいは…あるいは、我々四カ国のいずれかが、他の三国を出し抜くために、意図的に情報を流したという可能性も…」
疑心暗鬼。
あの日、神の力で結ばれたはずの歪な同盟は、今や互いを食い合う狼たちの群れへと変わろうとしていた。
ホワイトハウスも、クレムリンも、そして北京の中南海も、同じパニックに陥っていた。
彼らは一斉に、犯人捜しを始めた。
互いに互いを罵り、そして疑った。
脆弱な信頼関係は、この一日で完全に崩壊した。
そして、彼らが必死に進めていた台湾とウクライナへの侵攻計画も、世界中の監視の目が注がれる中で、事実上、無期限の凍結を余儀なくされた。
世界は、確かに最悪の戦争の危機を回避した。
だが、その代わりに手に入れたのは、平和ではなかった。
それは、誰もが誰もを信じられない、猜疑心と憎悪に満ちた、より深刻で、そして終わりの見えない混沌の時代の始まりだった。
全ての元凶。
全ての引き金。
その全ての中心にいる橘栞は。
その頃、自室のマンションで、いつものようにWebデザインの仕事をしていた。
彼女のトリプルモニターの片隅には、ニュースサイトの画面が表示されている。
そこには、世界中が今まさに震撼している大事件の見出しが、無数に並んでいた。
彼女は、その見出しを時折ちらりと眺めてはいた。
だが、その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
それは彼女にとって、まるで遠い外国のゴシップ記事でも読むかのような感覚だった。
「……ふぅん。情報漏洩ねぇ」
彼女は、誰に聞かせるともなく、小さく呟いた。
「セキュリティが、なってないわね。どこの国も」
彼女は興味なさそうに、ニュースサイトのウィンドウを閉じると、再び目の前のソースコードに意識を集中させた。
世界の混乱も、人々の怒りも、国家の威信も。
その全てが、彼女にとってはどうでもよかった。
彼女の関心は、ただ一つ。
自らの究極の目標である、『全能』へと至るための、効率的な『対価』の収集。
ただ、それだけ。
このリークという予期せぬイベントが、その彼女の壮大な計画にどのような影響を与えるのか。
彼女は、ただそれを新しい観測対象として冷静に分析し、そして見極めようとしていた。
世界は、叫んでいる。
答えを求めて。
説明を求めて。
救済を求めて。
四カ国の、沈黙する為政者たちに。
そして、そのさらに背後にいる、沈黙する神に。
だが、神は答えない。
この愚かで、哀れで、そしてどこまでも面白い人間たちの壮大な茶番劇を、ただ静かに観測しているだけだった。
世界が、次にどの方向へ転がり落ちていくのか。
そのサイコロは今や、誰の手にも握られてはいなかった。